魏無羨の落書きを見てあることを考える藍忘機
ある日、ふと気付いた。
藍忘機は手元にある魏無羨の覚え書きを見、ちょっとした違和感を覚えた。
これほど身近にいながら、どうして今まで気付かずにいたのだろう。
魏無羨の筆跡にはどこか懐かしい、しかし、やはり藍忘機の記憶の中にあるあの独特の癖とはいささか違いのある現在の彼による文字があった。
座学時代、魏無羨は年中、その辺にある紙を破っては落書きし、くだらないことばかり書いて笑っていた。
その殆どは見るに値しないものばかりだったが、当時から魏無羨のことを見過ごせなかった藍忘機は、幾度かその落書きを拾い上げてじっくり観察したことがあった。
お世辞にも達筆と言える文字ではないが、魏無羨らしく、伸び伸びと奔放で、陽気な性格が想像つくようなくせ字だった。
藍啓仁なら「悪筆」の一言で簡単に切り捨てただろう。だが藍忘機は魏無羨の文字の中に、自分は決して到達出来ない境地を感じ、ひそかに羨望すら抱いていた。
もしかしたら藍忘機の中にも、魏無羨の様に自由奔放に自らをさらけ出し、伸び伸びと生きたい。そんな願望があったのかもしれない。
しかし今、手元にある覚え書きの文字は、どこか洒脱で洗練された粋ささえ感じさせた。
これはかつての魏無羨とは別の者が書いた文字だ。
そうなってしまうのも致し方ないのかも知れない。
今の魏無羨の中身は紛れもなく彼であっても、本来、その肉体は別の者が所有していた。
莫玄羽は何歳の頃に献舎を行い、彼の身体を魏無羨へと引き渡したのだろうか。
現在の魏無羨の見た目は二十歳前後に見える。
だとすれば莫玄羽もその年齢までは彼自身としてあの身体で存在していた筈だ。
突然、中身が入れ替わったとしても、幼少期に受けた教育はそう簡単には変わらない。
魏無羨の思考が記されたこの覚え書きも、腕から手へと伝え、紙に写し取ったのは莫玄羽の肉体であって、文字に残る癖の痕跡は、彼がたしかに生きていた証に他ならない。
藍忘機は手の中の紙から視線を外し、天井を見上げ、自身の考えを整理した。
肉体が誰のものであれ、魏無羨は魏無羨である。
それと同時に、懐かしい本来の姿の彼が脳裏に浮かび、藍忘機の目頭は熱くなった。
清々しい風の様に笑い、魏無羨の陽気さは周囲の者まで笑顔に変えた。
藍忘機がその笑いの輪の中に入ることはなかったとしても、いつも遠くからその姿を見、魏無羨の笑い声に魅せられ、その場を離れがたい心境にさせられた。
今思えば、あれが恋慕というものなのだろう。
初めて恋しいと思った相手をそう簡単に忘れられるだろうか。
「あれ、藍湛、何してるんだ?」
静室に戻った魏無羨に背後から声を掛けられ、藍忘機はさっと手元の紙を袖の中にしまい込み、表情を取り繕った。
「なーんか、におうなぁ」
藍忘機の焦りを見て取ったのか、魏無羨はいたずらげに笑い、下から彼を覗き込む。
笑顔の奥にいる魏無羨は昔と何ら変わりなく存在していることが、藍忘機の胸を一層締め付けた。
心の中のもやもやを抱えたまま、それをごまかして魏無羨といることが出来ず、藍忘機は「兄に用がある」とごまかして静室を出た。
「あいよ、行っといでー」
と呑気に送り出してくれるいつもの魏無羨の様子に申し訳なさが込み上げる。
今更、過去のことを掘り起こすなんてどうかしている。
ただ一度気付いてしまった違和感を拭い去るには心の整理が必要だった。
藍忘機が普段人に見せない心情を打ち明けられる相手と言えば、この世に一人しか存在しない。
その相手は魏無羨以上に藍忘機のことを理解しており、どんな時でも弟の彼を温かく見守ってくれていた。
「どうしたのだ、忘機」
案の定、兄の藍曦臣は、私室に入って来た藍忘機の表情を見て、彼の鬱々とした心情を見抜いてしまった。
藍忘機の表情なんてそうそう簡単に変わらない。
魏無羨にさえ、「お前、たまには笑ったり、怒ったりしてみせろよ」と言われるぐらいなのに、兄はどんな些細な変化さえ、見逃すことなく気付いてくれる。
「こちらへ来て座りなさい。今、茶を淹れてあげよう」
懐の広い気遣いに、藍忘機は感謝をして頭を下げ、そして藍曦臣の向かいの席へと腰を下ろした。
「それで。今回は何が問題なのだ」
と気さくに尋ねてくれる兄に乗せられる様に、藍忘機はさっき気がついた魏無羨の文字の変化についてぽつりぽつりと言葉少なに説明した。
他の人間にはなかなか伝わらない説明でも、藍曦臣なら藍忘機の言いたいことを機敏に察し、理解してくれる。
「なるほど、魏公子の筆跡か。それについては私も思い当たったことがなかったな」
藍忘機は生前の莫玄羽のことは殆ど知らない。
莫玄羽どころか、他人にまるで関心がなかったし、身内のことならまだしも他家の、それも金光善の女癖の悪さの上に出来てしまった数多の私生児などいちいち覚えていなかった。
しかし藍曦臣は斂芳尊、金光瑶と非常に親しくしていた為、蘭陵金氏の金鱗台には度々足を向けていた。
「兄上は生前の莫玄羽と面識がありましたか?」
「莫公子か。いや、まったく覚えがないに等しいな」
人一倍誠実な兄は藍忘機の問いに真剣に考えてくれたが、この兄も藍忘機と同様、藍氏の教育を受けている。
他家の醜聞に無闇に首を突っ込むのは君子の取るべき行動ではなく、その類いの噂を耳にしても、聞こえぬふりでその場を離れるのが彼らの常識だった。
「秦夫人の面前で破廉恥な真似をしたとは聞いていたが、それ以上のことは知らぬ。役に立てずにすまぬな、忘機」
「いえ。莫玄羽のことは正直、大して関心もないのです。ただ、彼と魏嬰にどこか共通点があったのか。そのことが気になっただけです」
「それを知ってどうする」
「……」
藍曦臣が暗に言いたいことは藍忘機にも分かっていた。
魏無羨と莫玄羽の共通点を知ったところで、お前と何の関係がある、と兄はそう尋ねたのだ。
「忘機や。過去を振り返ったところで、魏公子の亡骸は今はなく、彼が献舎によって莫玄羽の身体で蘇った事実は変わらないのだ。確かに今の魏公子はかつての彼とまったく同じとは言えないかも知れないが、お前は莫玄羽の体で蘇った彼を受け入れ、生涯の伴侶と決めたのだろう。まさかそのことに迷いが生じたのか?」
「違います」
この問いへの藍忘機の返事は早かった。
きっぱりと、そしてはっきり違うと断言し、口にせずとも魏無羨への愛情は変わらないと断言したも同然だった。
「ただ、かつての彼が恋しいのです。魏嬰のせいではありません。しかし私が愛したのはあの時の彼で……。気持ちの整理がつかぬのです」
藍忘機の正直な気持ちを受け止めた藍曦臣は責めるでもなく、ただ優しく目元を緩めた。
お茶が冷めてしまったね、と、手際よく新しい茶を淹れ直す。
湯呑みから立ち上がる白い湯気が、白檀が香る部屋にゆるやかに広がった。
「……忘機。お前がかつての彼を慈しみ、忘れがたいと思っていたとしても、誰もお前を不実だと責めたりしない。当時の魏公子は確かに他のどの若者より秀でて、輝いていた。あの眩さがお前の心に深く刻まれたのも当然と思う」
藍曦臣は茶碗を忘機の前に置き、自身も静かに一口含んだ。
「だが、こう考えたことはないか? 莫公子がなぜ自らの命を犠牲にしてまで『献舎』を行い、魏公子を呼び戻したのかを」
藍忘機は質問の意図が掴めず、兄の顔を見つめる。
口を開き掛けたが兄に片手で制止された。
「莫公子──、彼はお前も知るとおり、不義理の上で生まれた私生児だ。前宗主が認知し、蘭陵金氏に迎え入れられたものの、彼が辿った運命は想像に難くない。自身の中で恨みを募らせ、彼が救いを求めて呼び寄せたのは、かつて世を震撼させつつも、自らの信念を突き通した夷陵老祖……、魏無羨だ。莫公子は自らの肉体と引き換えに、自らの人生、そして恨みのすべてを魏公子に託したのだとも言える」
藍曦臣は忘機の前に置かれた、あの覚え書きにそっと目をやった。
「魏公子は今、莫公子の身体を借りて生きている。莫公子の残した筆跡の癖や身体の記憶は、彼が確かにこの世に存在していた証だ。魏公子はその身体を大切に扱い、莫公子の分まで今を伸び伸びと生きている……。あの洒脱な文字の中には、魏公子の魂と、莫公子の生きた軌跡が確かに重なり合っている。お前としては複雑な気持ちだろうが、莫公子がこの世に存在していた証を受け入れてやっても良いのではないだろうか。彼はお前に再び愛する対象をこの世に呼び覚ましてくれた恩人でもあるのだし」
「……魂と、軌跡……」
「そうだ。お前が愛したのは座学の頃の魏公子の魂だ。そして今、目の前にいる魏公子もまた、同じ魂を持って笑っている。彼が莫公子の手を使って書く文字さえも、今の彼らが共に生きている証なのだと思えば……、愛おしく感じられはしないか?」
兄の言葉が忘機の迷いを溶かし、じんわりと広がって行く。
かつての魏無羨を求める気持ちは現在の魏無羨を否定することではない。
過去の思いも、莫玄羽の残した肉体も、そして今隣にいる魏無羨のすべてを受け入れ、愛すること――。
それこそが藍忘機にできることなのだ。
そう彼は深く悟った。
「兄上のお言葉に感謝いたします。つまらぬ葛藤でお手を煩わせました」
藍忘機は静かに深々と頭を下げる。胸の中を渦巻いていた
「お前に頼られることなどめったにないのだ。少しでも役に立てたこと、嬉しく思うよ」
藍曦臣にはいつだって見透かされてしまう。
幾つになってもそれは変わらず、藍忘機が兄に追い着くことはこの先もなさそうだが、それはそれで喜ばしいことだった。
いつまでも彼らの関係は変わらずにいて欲しい。
魏無羨との関係も───。
静室の扉を開けるとほのかな香炉の香りと共に、聞き慣れた明るく、呑気な声が聞こえてきた。
「おかえり、藍湛! 澤蕪君と何話してたんだ?」
魏無羨は文机に向かい、暇つぶしに何かを夢中で書き殴っていたところだったらしい。
筆を置き、パッと顔を輝かせて振り返る。
「遅いからさ。暇つぶしがてら、新しい呪符の案を書き留めてたんだよ。見てくれよ、これ」
忘機は静かに歩み寄り、魏無羨の隣に腰を下ろした。
示された紙にはやはり莫玄羽特有の、どこか洗練された洒脱な文字で、びっしりと呪が記されていた。
しかし、その呪の知識と解釈は魏無羨独自のものであり、ところどころ不格好な丸やいたずら描きのような可愛らしい注釈も彼自身のものだった。
紙全体から滲み出ている奔放で伸びやかな空気は、紛れもなく座学時代から忘機の心を奪って離さない「魏無羨」そのものだった。
「良い案だ」
胸の奥から押し寄せる愛おしさに喉が詰まり、かろうじて絞り出せたのはその一言だけだった。
魏無羨はそんなことは露にも思わず、
「だろ? さすがは俺の相棒、分かってるな」
と満足そうに笑っている。
藍忘機はそんな彼の手をそっと包み込み、握りしめた。
かつてはこの手も巧みに剣を繰る無骨な武人の手だった。
握ったことはなかったが、今のこの手のひらとは違う、力強さがあった。
しかし肉体が持つ温もりは同じだろう。
魏無羨は、ここにいる。
過去の記憶も。
この手を通して伝わる温もりも。
すべてが愛おしい。
唐突に手を握られ、魏無羨は少し驚いて目を丸くしたが、すぐに目を細め、藍忘機の手に頬をすり寄せて来た。
「なんだよ、藍湛。ひょっとしたらこの魏哥哥に甘えたくなっちゃったのか?」
茶化す魏無羨に
「そうだ」
と素直に応じると、魏無羨はまたもや仰天しながらも「しかたないな」と藍忘機の肩を引き寄せてくれた。
いつもと立場は逆転してしまったが、それはそれで悪くない。
「はいはい、今日の藍湛は甘えん坊さんなんだな」
悪戯っぽく笑う彼の声を聴きながら、藍忘機は静かに目を閉じ、魏無羨の温もりを噛み締める。
彼が生きていてくれて本当に良かった。
終わり
20260927