盲目剣士と盲信少女 作:むき
子供の頃の記憶。その中に幸福を感じる瞬間などどこにもなく、私はありふれた悲劇の主人公であった。
泥水で喉を潤し、残飯で腹を満たした。親も友人もいない。私の人生には何もなかった。
ある日、大通りを覗いたことがあった。たくさんの人がいた。笑い声が響き渡る。幸せが溢れていた。私は夜光虫のようにふらふらと惹かれ、路地裏から飛び出した。
人々は私に気がつくと、嫌なものでも見たかのように途端に顔をしかめて遠ざかっていった。ショーウィンドウに映った自分の姿を見て理由がわかった。
無造作に伸びた髪の隙間からは爛れた皮膚が覗いていた。蝋が溶けて固まったような酷く醜い痕は、顔面の右上部から頬にかけて広がっていて、私は腑に落ちてしまった。この境遇も、街の人々の態度も、全て私が招いたことなのだ。
この醜い傷が、私を孤独に追いやっているのだ。
その出会いは偶然だった。月明かりが差し込む夜のこと。残飯を漁る私の背中に話しかける奴がいた。
「すまない。冒険者ギルドにはどうすれば行けるだろうか」
落ち着いた女の声だった。私は顔を見られぬよう、振り向かずに答えた。
「わからない」
路地裏に潜む孤児が冒険者ギルドなど行ったことがあるわけもない。何故私に聞いたのか不思議なくらいだ。
「そうか……」
しかし、あんまりにも悲しそうな声で落ち込むものだから私はもう少しだけ口を開くことにした。
「……少なくとも路地裏にはないと思う」
「ああ、ここは路地裏だったか。道理で入り組んでいるわけだ」
何を言っているんだこの女は。そう思ったのも束の間、わしゃわしゃと髪を乱すように乱雑な手つきで頭を撫でられた。
「ありがとう」
そう言って女は歩いて行った。
私は呆然と頭に手を当てた。ぬちゃりとした感触が広がる。私の手は頭皮の脂と泥に塗れた。こんな頭を撫でたのか。こんな薄汚い私の頭を。
頭を撫でられたのは初めてであった。あのように接して貰えたのは初めてであった。会話を交わし、触れ合った。言葉にしてみればただそれだけのことなのに、私の脳を占めるのは残飯のことではなく、女のことばかりであった。
誰なのか。何故私の頭を撫でたのか。どんな顔をしているのか。どんな気持ちで私の頭を撫でたのか。
──また会えるのか。
考えればきりがなかった。いっそ私から会いに行こうとも思った。追いかけて一緒にギルドとやらを探してやろうと思った。
立ち上がる。しかし、私の足は石像のように固まった。脳裏に浮かぶのは街の人々の顔。あの私を嫌悪する目が私の足を掴んで離さない。
私は髪を必死に寄せて、醜い傷を隠した。泥水を覗く。
「はは……」
無駄な足掻きであった。私の傷はとても隠しきれるものではない。そんなこと、とうの昔に分かりきったことだ。隠しきれたとしてそこからどうするのか。もう一度頭でも撫でてもらうのか。
くだらない、醜い精神。まるで寄生虫のようだ。
私は追いかけることを諦めた。残飯を探す気力もない。そのまま包まるように横になり、目を閉じた。
鈍い金属音で目が覚めた。男の怒号と微かな血の匂い。この辺りでは何かを巡って争うことは大して珍しいことではない。食料、酒、金、女の死体、他には何があるだろうか。
どうせ私には関係のないことだ。関われば巻き込まれる。巻き込まれれば痛い目を見る。痛い目を見ている人間を助けたところで、私が何かを得られるわけでもない。だから、もう一度眠ろうと思った。
そのときだった。
男の怒鳴り声に混じって、聞き覚えのある女の声が聞こえた。
「……まさか」
自分でも驚くほど小さな声が漏れた。足が勝手に動いていた。路地の角から顔だけを出す。
月明かりの下、女がいた。黒い髪を後ろで一つに纏めた女だ。その足元には男が伸びており、女を取り囲むように男が数人立っていた。仲間の仇討ちといったところか。
「話をしよう」
女は刀の切先を適当にぶら下げながら言った。間違いない。あの時の女の声だ。
「うるせぇぇええええああああ!」
あり得ない声量に思わず耳を塞ぐ。怒りと劣情が浮かぶ視線はあやふやで、足取りは足の足りない昆虫のように心許ない。私でも勝てそうなくらいだ。酒か薬を嗜んでいたのだろう。
女はため息を一つ吐くと、走り寄る男達の首を刀の峰で打った。
その顔は、こちらからではよく見えなかった。
ただ一つだけ分かった。
女は、目を閉じていた。
刀が振るわれていた間、その瞼は一度も開かれなかったのだ。
馬鹿な、と思った。見なくてもわかるほど動きに迷いがなかった。刀はまるで最初から答えを知っているかのようだった。見惚れるような太刀筋だった。
最後の一人が地に伏せたところで、女はようやく瞼を開いた。
見られる。そう思った私は咄嗟に顔を腕で覆い隠した。遅かった。間違いなく。心臓が強く跳ねる。
女の反応が怖かった。いや、反応などわかりきっている。確認するまでもない。ただ私は知りたくなかった。事実にしたくなかったのだ。
私は踵を返して逃げ出した。
「待ってくれ」
女の声が耳に届く。澄んだ声だった。
風が止んでいるはずなのに、その声だけが夜気を揺らして届いた気がした。恐怖にも嫌悪にも塗れていない、乾いた土のようにまっすぐな声。ずっと聞き慣れてきた、悲鳴や息を呑む音とはまるで違う響きだった。
呼吸が浅くなる。喉の奥が、勝手に震えた。
もしかしたら──そんな都合のいい想像が、頭の中で消えてくれなかった。追い払おうとするほど、それは根を張るように広がっていく。
この傷を、そのまま受け入れてくれる人がいるのかもしれない。
足が止まった。動かしたわけではなく、勝手に止まっていた。
振り返るまでに、いくつもの躊躇いを飲み込んだ。腕を伝う自分の鼓動がうるさい。それでも意を決して、腕の隙間を少しだけひろげる。ほんの数センチ。世界に自分をさらけ出すには、それで十分すぎるくらいだった。
隙間から、女を見た。
月明かりが、彼女の顔をなぞるように白く浮かび上がらせていた。そしてその瞳──白く濁った瞳が、こちらを、いや、こちらのどこも見ていなかった。
ああ、と声にならない声が漏れる。
彼女には、最初から何も見えていなかったのだ。
合点がいった。だから私に道を聞いた。だから頭を撫でるとき、あんなに乱雑だったのだ。顔の傷になど端から気づいてすらいなかった。
安堵に似た、それでいて何か違うものが胸を満たした。私を見て顔をしかめなかったのは、優しさでも寛容さでもなく、ただ見えていなかっただけ。そう思うと惨めさが込み上げてくるはずなのに、何故か息がしやすかった。
女は倒れた男たちを一瞥もせず、刀を鞘へと戻す。そうして、迷いのない足取りでこちらへ、路地の暗がりへと歩いてきた。
「そこにいるのは、さっきの子か」
声も出せず、後ずさる。足が瓦礫にあたり、みっともない音を立てた。
「大丈夫。何もしない」
女は両手を軽く上げてみせる。降参のポーズだ。見えていないくせに、こちらの位置を正確に捉えている。耳で聞いているのだろうか、それとも他の何かで。
「……なんで、わかった」
やっとの思いで絞り出した声は、掠れて情けなかった。
「足音。それと、同じ魔力と気配がした」
覚えている。そのことに、また胸の奥が疼いた。誰かに覚えられているという事実が、こんなにも重みを持つとは知らなかった。
「冒険者ギルドは、見つかったのか」
精一杯の強がりで尋ねる。優しくされた礼のつもりだった。女は小さく笑ったようだった。
「いや。おかげで道に迷って、面倒事に巻き込まれた」
「……それは、私のせいじゃない」
「そうだな。だが、お前が教えてくれたおかげで路地裏だとはわかった。礼を言う」
礼を言われる謂れなどない。何一つ教えていない。それなのに女は当然のようにそう言った。
沈黙が落ちる。女はじっとこちらに顔を向けたままだ。見えていないはずなのに、見透かされているような錯覚に陥る。
「なあ」
女が口を開いた。
「お前、名前は」
名前。そんなものは呼ばれたことがなかった。誰も私を呼ばない。呼ぶ必要がないからだ。
「……ない」
「そうか」
あっさりとした口調だった。まるで、そんなことは大した問題ではないとでも言うように。
「今夜はもう遅いし、長旅で疲れている。ここで夜を明かすつもりだったが、お前さえよければ、話し相手になってくれないか」
断る理由を探した。街の人々の顔が、こびりついた恐怖が、脳裏をよぎる。けれど、この女には関係のないことだ。見えていないのだから。
私の傷を見て顔をしかめることは、決してないのだから。
「……いいけど」
声は自分でも驚くほど小さかった。それでも、女には十分に届いたらしい。彼女はまた、あの乱雑な手つきで私の頭を撫でた。
「よろしく」
そのひとことに、凍りついていた何かが、ゆっくりと溶けていくのを感じた。
その夜、私たちは路地裏の片隅で、少し距離を置いて隣り合った。月明かりが彼女の横顔を照らした。白く濁った瞳も、その光の中では不思議と穏やかに見えた。
「話し相手、と言ったが」
私は膝を抱えたまま尋ねた。
「何を話せばいい」
「何でもいい。お前のことでも、この街のことでも」
「私のことなど、話すほどのものはない」
「そうか」
女はそれ以上追及しなかった。ただ静かに夜空を眺めている──いや、眺めているように見えるだけで、実際には何も見えていないのだと思うと、不思議な気分になった。
「……あなたは、どこから来た」
沈黙が気まずくて、代わりに私から尋ねた。
「東の方だ。もう随分と前に離れた」
「一人なのか」
「仲間がいたときもあったな。今はいないが」
短い返事だった。それ以上聞くなという合図のようにも思えたが、女の声に暗さはなかった。ただ事実を述べているだけの、乾いた声音だった。
「あの男達は……」
「私は道を聞いただけだ」
女は肩を竦めた。まるで他人事のような口ぶりだった。
「怖くなかったのか。目も見えないのに、あんな大勢に囲まれて」
「怖い、か」
女は少し考えるように黙った。
「昔は怖かった。目を失ったばかりの頃は、足音一つに怯えていた。だが、慣れというのは恐ろしいものでな。今は音と気配だけで、大体のことは分かる」
「大体」
「ああ。だから今も、お前がずっと腕で顔を隠しているのは分かっているが、理由までは分からない」
心臓が跳ねた。熱が頬に上る。
「……見ないでくれ、と言ったら」
「見えていないんだから、安心しろ」
冗談めかした言葉だったが、笑えなかった。代わりに、腕を少しだけ下ろした。女には見えていない。それが分かっていても、勇気のいることだった。
「……いつから、見えないんだ」
踏み込みすぎた質問かもしれないと思ったが、口を突いて出ていた。
女の手が止まった。しまった、と思ったときにはもう遅かった。
「五年前だ」
だが女はあっさりと答えた。
「ある魔物と相討ちになった。命は拾ったが、目はこの有様だ。おかげで、随分と遠回りな旅をしている」
道理で、冒険者ギルドの場所も知らず、路地裏に迷い込むわけだ。刀の腕は確かなのに、進む方角ひとつ定まらない。
「旅、というのは」
「エリクサーを探している」
「えりくさー……」
聞き慣れない響きだった。
「あらゆる傷、あらゆる病を癒すという秘薬だ。おとぎ話の類だと笑う奴も多いが、この目を治す手立てが他にないなら、笑い話でも縋るしかないだろう」
女は静かに続けた。
「私には道案内が要る。目の代わりだ」
「……正気か?」
「ああ。それに冒険者連中は私の夢物語に付き合うほど暇ではなくてな。無論、断ってもらっても構わない」
行かないといえば、それまでだった。
「エリクサーは、あらゆる傷を癒すと言ったな」
「言った」
「私の……この傷も、治るのか」
声が震えた。縋るような響きが自分でも嫌になったが、止められなかった。
「さあな。伝説の薬だ、確証はない。それにおまえの傷とやらがどんなものか分からないしな。だが、傷なら傷、病なら病、区別する道理もないだろう」
女はあっさりと言ってのける。無責任にも聞こえるその言葉が、何故か今の私には眩しかった。確証などなくてもいい。探す理由が、行き先が、私にもできるということが、ただ嬉しかった。
「ついていく」
気づけば、そう口にしていた。
「私も、探す。エリクサーを。この傷を、治すために」
女は目を細めた。見えていないはずのその表情は、確かに笑っているように見えた。
「決まりだな。……お前、名は」
「ない、と言ったはずだが」
「そうだったな。名なしのままというのも味気ない」
女は少し考える素振りを見せてから、こう言った。
「陽、というのはどうだ」
「ハル?」
「日向のような気配がする。理由はうまく言えないが」
見えないくせに。そう思ったが、口には出さなかった。代わりに、その名を一度、小さく呟いてみた。
「ハル……」
悪くない響きだった。誰かに呼ばれるための名前が、初めて自分のものになった瞬間だった。
「私は灯だ。よろしく頼む、陽」
差し出された手を、私はおずおずと握り返した。薄汚れた私の手と、剣だこだらけの女の手。二つの手が、確かに繋がった瞬間だった。
「明日は冒険者ギルドに行く。今夜はもう休んでおけ」
灯はそう言うと、壁に寄りかかるようにして目を閉じた。私はその寝顔を、しばらくじっと見つめていた。傷一つない、けれど笑っているような、優しい寝顔だった。
──この人についていけば。
根拠のない予感が、胸の奥で静かに灯っていた。
誰かと言葉を交わすことが、こんなにも時間を溶かすものだとは知らなかった。気づけば夜は更け、灯の呼吸が規則正しいものに変わっていた。私も久方ぶりに深い眠りに落ちた。
翌朝、目を覚ますと、灯は既に起きていて、懐から乾パンを取り出しているところだった。眩しい朝日に思わず腕で目を覆う。
「食え。今日から世話になるんだ、腹が減っていては話にならない」
差し出された乾パンを受け取る手が震えた。誰かから何かを分け与えられるということが、こんなにも不慣れなことだとは思わなかった。恐る恐る口に運ぶ。硬く、味気ないそれが、今まで口にしたどんな残飯よりも美味かった。
「……どうして、私なんだ?」
私はふと疑問をぶつけた。
「深い理由はない」
灯はなんてことないように、乾パンを齧りながら答えた。
言葉に詰まった。見えていないから知らないだけだ。そう分かっているはずなのに、それでも今は、その言葉が不思議と優しく響いた。
乾パンを食べ終えると、灯は迷いのない足取りで路地裏を出た。私はその後ろに、少しの距離を置いてついていく。
「……そっちは大通りと逆だ」
「そうなのか」
こうして、名もなき孤児──いや、今はハルと呼ばれる私と、目の見えない剣士の旅が始まった。行く先はどこか分からない。エリクサーが本当に存在するのかも分からない。それでも、確かなことが一つだけあった。
私はもう、独りではないということだ。
*
──ここまでが、私の物語の始まりだ。
随分と昔のことのように思う。今、こうして頬に触れる傷跡は、あの頃と変わらずそこにある。だが、あの頃とは違うものが一つだけあった。
黒革の眼帯。眼帯というには大きすぎるそれは灯がくれたものだ。簡素なものだが、たったそれだけで私の世界は変わった。人前で傷を隠すために俯くことはなくなった。
窓の外には、見知らぬ街の灯りが広がっている。隣の寝台では、灯が寝息を立てていた。五年前と変わらぬ、乱雑な寝相で。
彼女の隣で、私はどれほどの夜を越えてきただろうか。まだ旅は終わっていない。エリクサーは、まだ見つかっていないのだから。