漆黒の王女は故郷を乞う 〜帰る場所を探すTS王女と侍女の冒険譚〜 作:姫と侍女っていいよね
午後の陽射しが石造りの回廊へ差し込み、窓枠の影を長く床へ落としていた。
午前中いっぱい続いた魔学の授業を終え、昼食を挟んだ私は、エルミナとともに王宮の西側へ向かって歩いていた。目的地は、王国騎士団が普段訓練に使用している鍛練場である。
「……ねえ、エルミナ」
「はい」
「父上、絶対に何か企んでると思わない?」
「国王陛下が、でございますか?」
すっとぼける侍女にジト目を向けつつ、私は歩きながら自分の格好を見下ろした。
朝に着ていた重いドレスは当然脱いでいる。今は動きやすい白い訓練着に、膝まである濃紺のズボン。それに革製の軽い胸当てと籠手を身につけていた。長い黒髪も稽古の邪魔にならないよう、エルミナによって一本の太い三つ編みにまとめられている。
前世の感覚でいえば、八歳児がこれから剣道教室へ向かうようなものなのだろう。もっとも、これから握るのはただの竹刀ではない。
「だって、普段の稽古に騎士団長がわざわざ来るのよ?」
「ハインリヒ様がお見えになるのは、姫様の上達が著しいからでは?」
「それが嫌なのよ」
「お褒めいただけることかと」
「絶対、普通に見るだけじゃ終わらないもの」
私がため息をつくと、エルミナは歩幅を変えないまま涼しい顔で答えた。
「以前お相手いただいた時も、大層優しくしてくださいましたでしょう?」
「木剣で頭を三回叩かれたわ。全然優しくない」
「正確には四度でございましたね」
「数まで覚えてるの?」
「姫様のことですので」
意味が分からない。私が恨めしげに睨んでも、この完璧な侍女はどこ吹く風だった。
やがて回廊を抜ける。同時に、乾いた音が容赦なく耳へ届いた。木剣と木剣が激しくぶつかり合う音。腹の底から響く号令。靴底が地面を強く踏み込む、重たい響き。騎士団の鍛練場では、すでに何十人もの騎士たちが熱気に包まれながら訓練を行っていた。
前世で想像していた騎士のイメージより、ずっと地味でむさ苦しい。きらびやかな鎧を着て白馬に乗っているわけではない。汗まみれの訓練着で走り込みをする者もいれば、二人一組で延々と同じ剣の軌道を繰り返す者もいる。
隅では重そうな鎧を着たまま、大きな盾を構えて突進を繰り返している集団までいた。
ただ立って剣を振れば強くなれるわけではない。それはどこの世界も同じらしい。
「姫殿下」
ふいに、地を這うような低い声に呼ばれ、私は視線を向けた。鍛練場の中央。周囲の屈強な騎士たちより、さらに頭一つ大きな男が立っている。
ハインリヒ・グラーツ。ルヴェルティア王国騎士団長。
齢は四十を少し過ぎたくらいだったと思う。大柄で、無駄な肉がほとんどない。剣を握らずただ黙って立っているだけでも、八歳の私にとっては、巨大な城壁が目の前にそびえ立っているようなすさまじい圧迫感がある。しかも、強い。私がこれまで見てきた騎士の中では、間違いなく桁違いの化け物だ。
「ハインリヒ騎士団長」
「本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
「こちらこそ、ご指導よろしくお願いいたします」
私は背筋を伸ばし、王女として完璧な礼を取った。するとハインリヒは、いかつい顔の眉をほんの少しだけ動かし、
「朝よりは、随分と姫らしい口調ですな」
と、平然と言い放った。
「……父上から、朝食での態度について何か聞きました?」
「さて」
「その返し方、今日二人目です」
絶対聞いている。恨みがましく後ろを振り返ると、エルミナが「私は何も存じません」と言わんばかりの何食わぬ顔で控えている。敵しかいない。
「では、始めましょう」
ハインリヒが軽く手を叩くと、一人の騎士が木剣を二本持って小走りでやってきた。そのうち一本を受け取る。子供用ではない。成人した騎士が訓練に使う、樫の木を削り出したごく普通の重い木剣だった。私はそれを両手でしっかりと握り、軽く振って感触を確かめる。
「重くは?」
「大丈夫です」
「ほう。そうですか」
ハインリヒの目が細くなる。八歳児が扱うには当然重い。素の身体の筋力なら、何度か振っただけで腕が上がらなくなるだろう。だから。私は、身体の内側へ意識を向けた。
胸の奥――正確にはそこに臓器としてあるわけではないらしいが、感覚としてはその辺りに存在する『魔力の塊』へ触れる。そこから、ごく少量の魔力を汲み上げる。
腕へ。肩へ。腰へ。脚へ。血液のように、身体中へ薄く、均一に広げていく。途端に、腕にのしかかっていた木剣の重さがふっと消えた。
「……相変わらず、無駄のない綺麗な強化ですな」
魔力の流れを感じ取ったのか、ハインリヒが感心したように呟く。
「そうですか?」
「ええ。『八歳児にしては』という注釈をつけるのが馬鹿らしくなる程度には」
褒められているのだろうか。首を傾げる私に、ハインリヒは軽く顎をしゃくった。
「まず、いつもの型を」
「はい」
言われるままに木剣を構える。強く踏み込み。袈裟斬り。鋭い切り返し。そして、突き。身体をひねり、重心を落とし、流れるように再び振る。
剣術を始めた頃は、何度やっても身体が思った通りについてこなかった。前世で運動部だったわけでもない。剣なんてゲームや漫画の中でしか知らなかったのだ。
だが、この身体はおかしいほどによく動いた。一度教わった動きを覚えるのが恐ろしく早い。魔力を流せば、筋力も反応速度も大人のそれを容易に凌駕する。
なにより――。
楽しい。自分が昨日よりできることが増えているという実感。自分の意思と肉体が完全に連動していく感覚は、魔学の複雑な数式を解くよりずっと分かりやすかった。
「そこまで」
声に合わせて、ぴたりと木剣を止める。息は全く上がっていない。
「どうでしょう?」
「普通なら、手放しで褒めます」
「普通なら?」
「八歳でその踏み込みと魔力制御。百年に一人の天才だと」
「……私、八歳なんですけど」
ハインリヒは太い腕を組み、本当に困ったような顔をした。
「だから困っているのです」
「何がですか?」
「貴女を、守るべき子供として扱うべきか。それとも、恐るべき才能を持った『剣士』として扱うべきか」
その言葉に、私は知らず知らずのうちに背筋を伸ばしていた。
「……剣士としてお願いします」
迷う理由はなかった。子供だからと手加減されたままでは、自分がどこまで通用するのか分からない。
「姫様」
案の定、背後からエルミナの冷ややかな声が飛んできた。
「大丈夫よ」
「姫様のように、その台詞をおっしゃる方ほど大丈夫であった試しがございません」
「私の信用ないなあ」
「日頃の行いでございます」
即答されてしまった。ぐうの音も出ない。私たちのやり取りを見て、ハインリヒが口元を緩めて小さく笑った。
「では、少し試しましょう」
そう言って、近くで訓練をしていた若い騎士を手招きする。
「ローデン」
「はっ!」
二十代前半ほどだろうか。精悍な顔立ちをした、体格の良い騎士が進み出た。
「殿下のお相手をしろ」
「……私が、ですか?」
ローデンは一瞬だけ、露骨に困惑した顔をした。気持ちは痛いほど分かる。相手は八歳の幼女だ。本気で打ち合えば勝って当然。もし怪我でもさせれば大問題どころか首が飛ぶ。かといって、万が一にも負ければ騎士としての面目丸潰れだ。罰ゲームでしかない。
「全力でなくて構わん。ただし――絶対に子供と思って油断するなよ」
「……はっ」
団長の凄みに押され、ローデンと呼ばれた騎士が木剣を構える。私も彼と向かい合い、腰を落とした。
「よろしくお願いいたします」
「こちらこそ、殿下。お怪我のないよう――」
距離が開く。ハインリヒが片手を高く上げた。
「始め!」
合図の瞬間、私は地面を爆発的に蹴った。
「っ!?」
ローデンの目が見開かれる。無詠唱の身体強化。魔力による脚力の爆発。八歳の小さな身体が、大人との間合いを一瞬にして食い潰す。私は飛び上がるようにして、木剣を右上からローデンの肩口へ振り下ろした。
甲高い、木と木がぶつかる激しい音。受け止められた。だが、攻撃を受けたローデンの身体が、衝撃で僅かに沈み込む。
「重っ……!?」
騎士の口から、信じられないものを受けたような声が漏れる。大人が、八歳の少女の一撃を支えきれずに体勢を崩しかけていた。
そこへ二撃目。下から跳ね上げる。これも辛うじて防がれる。三撃目。手首を返し、剣の軌道を強引に変えて脇腹へ。今度はローデンが、冷や汗を浮かべて一歩後ろへ飛んだ。
後ろへ跳んだローデンを、そのまま逃がすつもりはない。私はさらに地面を蹴り、間合いを詰めた。
「待て待て待てっ!」
先ほどまで余裕のあった騎士の口調が完全に崩れる。知ったことではない。逃げる相手を追い、避けられればさらに踏み込み、息つく暇も与えず木剣を振るう。気づけば、ローデンはすっかり防御へ回っていた。
――いける。勝てる!
私が最後の一撃を見舞おうと、大きく振りかぶった瞬間だった。
「甘いです」
「え?」
防戦一方だったローデンの身体が、ふっと下へ沈んだ。次の瞬間、下段から跳ね上がってきた木剣が、私の剣の『根元』を正確に叩き上げた。
「あっ」
握力で負けたわけではない。てこの原理。最も力の入りにくい場所を的確に弾かれた衝撃で、手から剣がすっぽりと抜け落ちた。くるくると木剣が宙を舞い、乾いた音を立てて地面へ転がる。
「……」
「……っ、ふうう」
沈黙。ローデンは荒く息を吐きながら、額に浮かんだ滝のような汗を乱暴に拭った。
「あ、危なかった……マジで……」
「負けた……」
地面に転がった木剣を見つめて呟くと、ローデンは肩で息をしながら乾いた笑いを漏らした。
「いや、殿下。普通、大人の騎士が八歳相手に負けかける状況などあり得ないので。寿命が縮みましたよ」
「……それ、慰め?」
「偽らざる本音です」
心底疲れ切った顔で言われると、どうやら本当に褒められているらしい。それでも、負けたものは負けた。悔しい。
「今のが、姫殿下の『現状』です」
「現状?」
「力、速さ、魔力による強化。その三つだけを見れば、殿下はすでに一般の兵士や並の冒険者では相手にならない領域に片足を踏み入れています」
ローデンが苦笑する。
「団長。私、一応、若手の中では腕が立つ方なんですが」
「だから最後は技術で勝てただろう」
「扱いやけにひどくないですか?」
どうやらこの若手騎士、団長相手だと不憫な立ち回りらしい。
「ですが」
ハインリヒは私へ凄みのある視線を戻した。
「圧倒的に『実戦の経験』が足りません」
「……はい」
「間合いの管理も甘い。相手が下がれば考えなしに追う。隙が見えれば飛び込む。先ほどの最後も、ローデンがわざと隙を見せて貴女を『誘って』いたことに気づかれなかった」
「誘ってたの?」
「ええ」
ローデンが申し訳なさそうに頷いた。
「殿下は速いうえに一撃が重すぎるので。まともに正面から打ち合うより、あえて攻めさせてバランスを崩した方が確実だと思いまして」
「……大人げない。ずるい」
「それが、命を奪い合う『剣術』です」
ハインリヒに即座に切り捨てられた。正論ばかりで嫌になる。
「姫殿下は強い」
不意に、ハインリヒが言った。
「ですが、それは『八歳児として』という意味ではありません。すでに大人の一般兵と比較しても十分に強い」
少しだけ、胸が高鳴る。
「では――」
「しかし」
続く冷徹な言葉で止められた。
「まだ、『強者』ではありません」
私は瞬きをした。
「……強者?」
「世の中にはおります。血を吐くような鍛錬を積み、何十年と剣を握り、幾度も死線を越えて戦場を生き残ってきた本物が」
ハインリヒは、近くに置かれていた木剣を一本、無造作に取った。
「私も、その端くれです」
「団長も?」
「一応は」
周囲で見ていた騎士たちが「一応ってなんだよ」「化け物だろ」と言わんばかりの微妙な顔をした。謙遜らしい。
「では」
私は落ちた木剣を拾い上げ、両手で握り直した。
「今度は団長が、私の相手をしてくれますか?」
「姫様……」
背後でエルミナが額へ手を当てて頭を抱えた気配がしたが、無視する。
「一度、やってみたいんです」
ハインリヒを真っ直ぐに見上げる。
「だめですか?」
しばらく。男は黙って、八歳の私を見下ろした。やがて。
「よろしい」
分厚い肩に、軽く木剣を担いだ。
「一度だけ、お相手しましょう」
◇ ◇ ◇
結論から言えば。私は何もできなかった。
「始め」
ハインリヒ自身の低い声が響き、私が魔力を込めて踏み込んだ瞬間。目の前にいたはずの巨体が、視界からブレて消えていた。
「え?」
違う。消えたのではない。横へ動いただけだ。練り上げられた、一切の無駄がない恐ろしいほど静かな足運び。頭では分かっている。分かっているのに。私の目と身体が、その速度に全く追いつかない。
右。慌てて振り向く。いない。
「後ろです」
「っ!」
背後からの声に、心臓が跳ね上がる。反射的に振り返りながら剣を返そうとした。
カン、と。ひどく軽い音が響く。次の瞬間、私の両手から抵抗すらなく木剣が消えていた。
「……え?」
地面を見る。自分の木剣が、数メートル先へ力なく転がっている。そして、私の額へ、こつんと冷たい何かが触れた。ハインリヒの持つ木剣の切っ先だった。
「一本」
「…………」
三秒。いや、彼が動いてから二秒も経っていなかった。
「……もう一回」
「一度だけと申し上げました」
「今のはなし」
「なぜです」
「速すぎて、何が起きたか全然分からなかったから」
「だから、実戦であれば貴女は死んでいるのです」
ぐぬぬ。返す言葉もない。後ろで誰かが「ぷっ」と笑いを堪えた。
「誰が笑ったの?」
私が振り返ると、周囲の騎士たちが一斉に視線を明後日の方向へ逸らした。覚えていなさい。
「姫殿下」
ハインリヒが、落ちていた木剣を拾って私へ差し出す。
「悔しいですか?」
「……はい。すごく」
「それでよろしい」
私は受け取った。
「団長は、どれくらい強いんですか?」
「私ですか」
ハインリヒは無精髭の生えた顎へ手をやった。
「この国の騎士の中では、まあ、多少は腕が立つ方かと」
「またそうやって誤魔化す」
「では率直に申し上げましょう。私なら、殿下が圧倒した一般の兵士が数人程度であれば、同時に相手取っても何の問題にもなりません。十人を超えれば状況次第。訓練を積んだ精鋭騎士が複数となれば、私とて無傷では済まないでしょうな」
「……十分に化け物じゃないですか」
「姫様。お言葉が」
エルミナに注意された。「失礼」と謝るが、でも絶対に化け物だと思う。
「では、そんな団長より強い人もいるんですか?」
「当然おります」
その瞬間、ハインリヒの表情が変わった。少しだけ。本当に僅かな変化だったが。それまで子供へ剣を教えていた厳格な教師の顔から、血生臭い『戦場』を知る男の顔へ。
「世の中には、『英雄』と呼ばれる者たちがおります」
「英雄」
「私のような、ただ剣を振るうだけの熟練の剣士とは、また次元の異なる領域の者たちです」
ハインリヒは鍛練場をぐるりと見渡した。そこには何十人もの屈強な騎士がいる。
「例えば、ここにいる騎士たちが部隊を組み、陣を敷き、互いを守りながら戦ったとしましょう。私なら、その正面へ一人で突っ込もうなどとは絶対に思いません」
「普通はそうでしょう?」
「ええ。ですが――英雄は、それをします」
「……え?」
思わず、私は鍛練場を見回した。汗だくになって剣を振るう騎士たちは、誰もが私などよりずっと大きい。その何十人もの集団へ、たった一人で?
「そして、数十人からなる一個部隊を、たった一人で正面から蹂躙する。それを可能にする者たちを、我々は『英雄』と呼ぶのです」
一瞬。言われている意味が分からなかった。
「この人数の、プロの騎士たちを相手に? 一人で?」
「そういう規格外の者を、国家は『英雄』と呼ぶのです」
ハインリヒの顔に、冗談を言っている色は微塵もない。
「一人の武人でありながら、軍隊が戦略として対策を練らねばならない。兵の数で囲めばどうにかなる、という私たちの常識が一切通用しなくなる。そういう超越した存在が、この世界にはごく少数ですが、確かに存在しております」
ぞくり、と背筋が震えた。怖い。同時に。胸の奥で、ドクンと心臓が大きく跳ねた。
「……いつか、会ってみたい」
私が無意識のうちに呟くと、ハインリヒが呆れたように苦笑した。
「姫殿下なら、そうおっしゃると思いました」
「団長は、その『英雄』じゃないんですか?」
「違います」
間髪入れずの即答だった。
「少なくとも、私には越えられぬ壁があります」
あれだけ圧倒的で、何もできなかった相手が。さらに上の存在を、迷うことなく認めている。世界は広い。私がまだ知らない強さが、この世界のどこかにある。
「姫殿下」
呼ばれて顔を上げると、ハインリヒは先ほどまでとは違う真剣な目で、真正面から私を見据えていた。
「貴女には才能があります。それも、尋常ではないほどの。魔力量だけを見れば、私など比較にもならない。身体強化の習得も早い。剣筋も悪くない。そして何より、学ぶのが速い」
そこまで真っ直ぐに褒められると、さすがの私も照れてしまう。
「ですが」
また来た。
「才能と強さを、決して混同なされぬよう」
ハインリヒは分厚い自分の胸を指した。
「今の殿下は、まだ強いのではありません」
次に、木剣を握る私を指す。
「これから、『強くなれるだけ』です」
「……」
「それをお忘れにならぬことです」
悔しい。けれど。その言葉は、不思議と嫌ではなかった。
「では」
私はもう一度、木剣を構え直した。
「私が本気で強くなるまで、教えてください」
ハインリヒが僅かに目を丸くする。それから、天を仰いで大きく笑った。
「はははっ!」
「何で笑うんですか」
「いえ。陛下から聞いていた通りのお方だと思いまして」
「やっぱり父上が何か言ってた!」
「さて、何のことでしょうかな」
「さっき自分で言ったでしょう!」
周囲の騎士たちから、今度こそはっきりとした笑い声が上がった。私が頬を膨らませると、ハインリヒはまだ笑いながら己の木剣を構える。
「よろしい。では本日は、まず『足運び』からやり直しましょう」
「えっ」
「先ほど、殿下は魔力による速さに頼りすぎております。ゆえに、簡単に誘いに乗る」
「また基礎から?」
「基礎ができぬ者ほど、派手な技を欲しがるものです。さあ、構えて」
「……はい」
その日、結局私は夕刻近くまで延々と足運びだけをやらされた。前へ。後ろへ。横へ。また前へ。ひたすら。地味。死ぬほど地味。それでも終わる頃には、自分の踏み込みや重心の移動が、朝とは少しだけ違うことに気づいていた。
「……悔しいけど、分かりやすい」
「何かおっしゃいましたか?」
「何でもないです」
差し出されたタオルで汗を拭きながら、遠くで別の若手騎士へ厳しい指示を飛ばしているハインリヒを見る。今日の私は、並の大人より少しだけ強いらしい。
だけど、この世界にはあの団長のように遥かに強い人間がいて。そのさらに上には、一人で部隊を打ち破るような『英雄』という怪物までいる。
なら――私は、どこまで強くなれるのだろう。
そう考えた途端、胸の奥に不思議な熱が灯った。地球へ帰ることとは何の関係もない。この力が王女として必要なのかどうかも、まだ分からない。
ただ純粋に、もっと上手くなりたい。もっと強くなってみたい。この世界へ生まれて八年。この日初めて私は、自分自身の意思で、剣というものを好きになり始めていた。