漆黒の王女は故郷を乞う 〜帰る場所を探すTS王女と侍女の冒険譚〜 作:a-ru
剣術の過酷な稽古を終えて自室へ戻った頃には、陽はすっかり西へ傾き、窓枠が夕焼けの朱色に染まっていた。
「……っ、疲れたあああ」
部屋へ入った瞬間、王女らしい優雅な立ち居振る舞いも何もかも放り出し、私はふかふかの長ソファへ無様に倒れ込んだ。
全身が鉛のように重い。特に脚がひどい。最後の数時間、ハインリヒ騎士団長によって延々と足運びだけをやらされたせいだ。
魔力による身体強化を使っていたとはいえ、肉体そのものが疲労しないわけではない。むしろ普段より強く、速く動けてしまうせいで、強化を解いたあとになって、それまで誤魔化されていた疲労がまとめて押し寄せてくるのだ。
「姫様」
「……なに」
「お行儀が悪うございます」
「今日くらい、いいでしょう……」
クッションに顔を埋めたまま横へ視線を向けると、エルミナが訓練着姿の私を静かに見下ろしていた。いつもの、一切の感情を排したような澄ました顔だ。この完璧な侍女は、私がどれほど疲れていようと礼儀作法に関しては容赦がない。
「ソファの豪奢な生地が、汗と砂埃で汚れてしまいます」
「心配するところ、私じゃなくてソファなんだ」
「姫様がご無事なのは、すでに確認しておりますので」
「そう……」
それなら仕方ない。私は最後の気力を振り絞り、這い上がるようにして身体を起こした。騎士団長との一瞬の一戦どころか、その後の地味な足運びの方がよほど身体に堪えている気がする。今はまだ単純に重いだけだが、明日の朝にはきっと酷い筋肉痛になるだろう。
「身体強化って、便利だけど無敵じゃないのね」
汗で体に張り付く訓練着の袖をつまみながら、私はぼやいた。
「当然でございます」
エルミナは私の背後に回り、手際よく革の胸当ての紐を解きながら答えた。
「魔力によって筋力や反応を補助することはできますが、姫様のお身体そのものが八歳の未発達な状態であることに変わりはございません。器の限界を超えることはできないのです」
「でも、稽古中は全然平気だったわよ?」
「ですから、余計に危険なのです。痛みを誤魔化して動けてしまう分、ご自身の限界を見誤りやすく、取り返しのつかない怪我へ繋がりますので」
「……ハインリヒ団長と、全く同じこと言う」
「であれば、尚更きちんとお聞きになるべきかと」
「はいはい」
「姫様。お返事は」
「……はい」
朝から何度、このやり取りをしているのだろう。ともあれ、このまま夕食へ行くわけにはいかない。髪も肌も汗と砂埃まみれで、訓練着など絞れば何か出てきそうなくらい湿っている。つまり。
「お風呂?」
「すでにご用意しております。いつでもどうぞ」
さすが、うちの侍女は仕事が早い。
◇ ◇ ◇
王族専用の浴室は、前世の一般家庭の風呂とは比べ物にならないほど広い。白い大理石を敷き詰めた床。壁には淡い金色の装飾が施され、奥には大人が数人、両手足を伸ばして入っても余裕がありそうな、巨大な浴槽が鎮座している。
もっとも、豪華なのは広さや装飾だけではない。この世界には、魔学がある。
壁の一角へ埋め込まれた魔導器へ設定を入力すれば、水路から引かれた水が適温まで加熱され、そのまま浴槽へ注がれる。温度も魔力によってほぼ一定に保たれるので、薪を焚いて湯を沸かす必要もない。
前世のデジタル給湯器ほど細かな機能はないが、似たようなことを魔法で実現しているわけだ。こういう生活水準の高さだけ見れば、本当に便利な世界である。
「それでは、お脱がせいたします」
言うが早いか、エルミナが息をするように自然な動作で、私の訓練着へ手を伸ばしてきた。
「自分で脱げるわよ」
私は飛んできた手をペシッと軽く払い、半歩後ずさる。
「存じております」
「なら自分でやる」
「いいえ」
エルミナは歩みを止めない。逃げようとする私の腕を、冷たく滑らかな指先が蛇のようにするりと、しかし容赦なく捕らえた。毎日繰り返されるこの攻防、私に勝ち目はない。
「……なんで?」
「私のお仕事ですので」
にっこり。有無を言わさぬ、完璧なメイドの微笑みだった。
……出た。
私は完全に包囲された状態で半眼になり、脱衣所に立つエルミナをじっと睨み上げた。
「……ねえ。その『私のお仕事ですので』っていう言い訳、今日ずっと使うつもり?」
「何のことでございましょう」
絶対分かっている。朝食後、私が侍女の皿拾いを手伝おうとして「仕事を奪うな」と叱られたばかりだ。それを今度は逆手に取られている。有無を言わさぬ圧に負け、結局私は訓練着を脱ぐのを手伝われ、素っ裸の状態で浴室へ入った。
服を脱いで浴室へ入ること自体は、もう完全に日常だった。八年もこの身体で生きているのだから、今さら自分の姿を見て驚くようなこともない。
ただ――たまに、妙な瞬間がある。何の気なしに自分の身体へ視線を落とした時、前世の記憶だけがふっと顔を出すのだ。
――ああ、そういえば俺、前は男だったんだよな。という、そんな今さら過ぎる感覚が。
それでも、前世で十六年間を男子として過ごした感覚まで、完全に消えてしまったわけではない。そうやって一度意識してしまうと、――これ、俺がじろじろ見てていいんだっけ? などという、我ながら意味の分からない感覚まで湧いてくる。
いや、自分の身体なのだ。見なければ洗えないし、誰に咎められることでもない。分かっている。分かっているのに、前世の常識だけが「女の子の裸を凝視するな」と警告を鳴らしてくる。
……深く考えるのはやめよう。考えれば考えるほど、何に罪悪感を覚えているのか自分でも分からなくなる。
「姫様?」
「……何でもない」
「また難しいお顔をなさっておりますが。どこかお痛みでも?」
「本当に何でもないから」
こればかりは、絶対に説明できない。私は逃げるように洗い場へ向かい、用意されていた柔らかな布を手に取った。
「さて、と」
まずは汗を流して――。
ひょい。
「……あれ?」
手の中から、布がふっと消えた。振り返る。当然のように、エルミナがそれを持っている。
「ちょっと、何するの?」
「何を、と申されましても」
エルミナは奪い取った布を丁寧に絞りながら、さも不思議そうな顔をした。
「姫様のお身体をお清めいたします」
「だから、自分で洗えるわよ。返して」
私が濡れた手を伸ばすと、エルミナは布を持った手をすっと後ろへ引いて躱した。
「いいえ」
「なんでよ! 着替えは百歩譲ったとして、洗うのくらい自分でできるから!」
思わず声が大きくなった。大理石の浴室なので、無駄によく響く。――毎日のこととはいえ、お風呂の時間になると、どうしても内心のお姫様口調が崩れそうになるくらいテンパってしまう。
無理もない。外見こそ八歳の幼女だが、私の中身は元・男子高校生なのだ。
もちろん、これだって八年も続いている。エルミナに着替えを手伝われることも、髪を洗われることも、今では日常の一部だ。
……なのに、たまに前世の感覚へ置き換えて考えてしまう。高校一年生の男子が、年上の綺麗なお姉さんに付きっきりで世話を焼かれている。そう考えた瞬間だけ、妙に落ち着かなくなる。
――いや、八年経って今さら何を意識してるんだ、私。
だが、エルミナは私の必死の抗議にもまるで動じず、むしろ諭すように僅かに口元を上げた。
「姫様。脱衣所でも申し上げたはずです。使用人の職務を、みだりにお奪いになってはいけないと」
「それとこれとは話が違うでしょう!?」
やっぱり。脱衣所の時と同じ建前を平然と盾にしてきた。
「どこが違うのでございましょうか。姫様の身支度からご入浴までお世話するのは、私の大切な職務の一つで――」
「これは自分の身体! 私のプライバシー!」
「王宮における正式な職務分掌でございます」
「絶対楽しんでるでしょう!」
「まさか」
そう答えながら、涼しい顔で笑っている。楽しんでる。絶対に楽しんでいる。
「もう八歳なんだから、自分でできるの」
「もう八歳だからこそ、きちんとお身体をお休めくださいませ。本日は随分と限界まで酷使されたご様子ですから」
「う……」
そこを突かれると弱い。実際、腕を上げ続けるだけでも少し億劫だった。私が反論に詰まった隙を見逃さず、エルミナは手際よく私の背中から汗と砂埃を落としていく。動きに一切の無駄がない。力加減も絶妙だ。これも毎日の仕事だからなのだろう。
……というか、十八歳なのに本当に何でもできるな、この侍女。
「エルミナ」
「はい?」
「あなたって、疲れないの?」
「疲れますよ。人間ですから」
「嘘」
「なぜでございますか」
「だって朝からずっと私の後ろにいるでしょう。着替えを手伝って、授業に付き添って、剣術の稽古を見て、今度はお風呂まで」
「それが、私の職務ですので」
「それだけ?」
何となく聞いた。私の背中を滑っていたエルミナの手が、一瞬だけ止まる。けれど次には、何事もなかったように、再び優しいリズムで動き始めた。
「……それだけでは、少々足りませんね」
「え?」
「私が、そうしたいのでございます」
あまりにも自然な、普通の声で言われたものだから、すぐには意味を飲み込めなかった。
「姫様のお傍にいて、お世話をする。それは誰に強制されたわけでもなく、私が選び、私が望んでいることでもございます」
「……そう」
なんとなく気恥ずかしくなり、私は前を向いたまま膝を抱えた。こういうことを、さらっと真顔で言える大人はずるいと思う。
「では、次は御髪を」
「そっちが本命でしょう?」
「もちろんでございます」
「そこは否定してよ」
やはり、全く否定しなかった。
◇ ◇ ◇
私の髪を洗う時間は、ひどく長い。何しろ、腰どころか背中を大きく越える長さがあるのだ。濡れれば当然、水を吸ってさらに重くなる。私は低い椅子へ腰掛け、エルミナのテクニックに全てを任せて目を閉じた。
温かい湯が頭皮を滑り落ちていく。香草を使った洗髪剤の甘くすっきりとした香りが、湯気に混ざって鼻腔をくすぐった。
「痛くございませんか?」
「大丈夫。気持ちいい」
エルミナの細い指が、髪を傷めないよう丁寧に、魔法のような手つきで汚れを落としていく。朝にも同じように時間をかけて髪を梳かれているというのに、どうしてこの侍女は飽きないのだろう。手元は見えないが、気配だけで彼女が心底幸せそうにしているのが分かる。
「今日ね」
「はい」
「ハインリヒ団長に、一瞬で負けた」
「ええ。あれほど見事に木剣を弾き飛ばされた姫様は、久しぶりに拝見いたしました」
「慰める気ある?」
「ございますとも」
絶対ない。
「でもね、団長よりもっと強い人がいるんですって」
「英雄、と呼ばれる方々ですね」
「エルミナも知ってるの?」
「名前程度でしたら」
私は湯気の立つ浴室で、少し考える。
「……一人で、騎士の部隊に勝てるんだって」
「そのようですね」
「怖くない?」
「恐ろしいと思いますよ。戦場で出会えば、ですが」
エルミナの返答は意外にあっさりしていた。
「でも私、それを聞いて、ちょっとだけ……わくわくしたの」
口にしてから、自分でも妙なことを言っていると思った。普通なら怖がるところだろう。一人で何十人もの騎士を薙ぎ払える人間が、本当にいる。前世なら完全に物語の中だけの存在だ。
「自分がもっと強くなったら、その景色はどんな感じなんだろうって」
「なるほど」
「変?」
「いいえ」
エルミナは否定しなかった。
「姫様が何かをお好きになるのは、良いことだと思います」
「王女に剣なんて必要?」
「必要になるかどうかは、今の私には分かりません」
率直だ。
「ですが、必要だから好きにならなければならない、というわけでもございませんでしょう?」
「……そういうもの?」
「姫様は、王女である前に『お一人の人間』でございますから」
頭へかけられていた心地よい湯が、ふっと止まった。私は目を開く。背後にいるエルミナの顔は見えない。けれど、その声はいつも通り穏やかで、静かな温かさを持っていた。
「王族として学ぶべきことは学んでいただきますし、果たすべき責務も当然ございます。ですが、それとは別に、姫様ご自身が純粋にお好きになれるものがあってもよろしいかと」
「……それが、剣でも?」
「ええ。剣でも」
少しだけ、嬉しかった。
前世で、何か特別な夢があったわけではない。将来何になりたいのかと聞かれても、「まだ分からない」と答えるような、どこにでもいる高校生だった。
こちらへ生まれ変わってからは、もっと分かりやすい。私は王女として生まれた。ただそれだけで、あらかじめ決められていることが多すぎる。
勉強も、礼儀も、魔学も、政治も。どれも立場上必要だから学んでいるもので、地球へ帰る方法を探すことだけが、これまでずっと私自身の個人的な望みだった。
でも今日、そこへ一つ増えた。強くなってみたい。たったそれだけの、小さな望み。それが妙に嬉しかった。
「……ねえ、エルミナ」
「はい」
「あなたは強いの?」
今度は、少し間があった。
背後で、エルミナの気配が僅かに変わった気がした。侍女としての穏やかな空気の中に、ふっと、研ぎ澄まされた刃物のような冷たさが混ざったような。
「……姫様をお守りするための訓練は、受けております」
「それは知ってる。どれくらい強いの?」
「さて」
「ハインリヒ団長といい、どうして大人ってそうやって誤魔化すの?」
後ろから、くすりと笑う声が聞こえ、先ほどの冷たさは幻のように消えた。
「いずれ、お見せする機会もございましょう」
「今見せて」
「浴室で、素っ裸で何をなさるおつもりですか」
「……それもそうね」
さすがにここで戦われても困る。
「さあ、流しますよ。目を閉じてくださいませ」
「はいはーい」
「お返事は一度」
「……はい」
今日何度目だろう、このやり取り。
◇ ◇ ◇
「ふぁぁ……」
肩まで広い湯船に浸かった途端、情けない声が出た。温かい。身体中の強張った力が、湯に溶け出すように一気に抜けていく。
「生き返る……」
「八歳のお子様がなさる発言ではございませんね」
「中身まで八歳じゃないもの」
「何か?」
「何でもない」
危ない危ない。私は湯船の縁へ後頭部を預けようとして――髪を重くまとめられていることを思い出し、慌てて姿勢を戻した。
「姫様」
「今のはセーフでしょう?」
「何がでございますか?」
エルミナはとぼけながら、浴槽の脇へ新しい布を準備している。この人にはたぶん、一生勝てない気がする。剣ではハインリヒ団長。生活ではエルミナ。私の周り、強敵が多すぎないだろうか。
「ねえ、エルミナ」
「はい」
「私、本当に強くなれるかな」
何となく聞いてみた。エルミナは手を止め、こちらを見る。
「ハインリヒ様がおっしゃったのでしょう?」
「『強くなれるだけ』って」
「でしたら、あとは姫様次第ではございませんか」
なんとも身も蓋もない。けれど、不思議と嫌ではなかった。
「そっか」
「ええ」
私は湯の中で、自分の小さな手を開いたり握ったりしてみる。
まだ八歳。ハインリヒ団長には何もできなかった。その団長ですら届かない相手がいる。今の私は、まだ何者でもない。だったら。これから自分が何者になれるのかを、少しくらい楽しみにしてもいいのかもしれない。
「よし」
「何が『よし』なのでございますか?」
「明日も剣術やる」
「明日は午前中から歴史と外国語、その後は舞踏のお稽古でございます」
「……王女って本当に面倒くさい」
「今さらでございますね」
「剣だけやって暮らせない?」
「なりません」
「即答」
私が唇を尖らせると、エルミナは呆れたように、けれどどこか嬉しそうに告げた。
「王女でございますので」
湯気の向こうで、エルミナが上品に微笑んだ。その顔を見ながら、私は肩まで湯へ沈む。剣もやりたい。地球へ帰る方法も探したい。王女として勉強もしなければならない。やりたいことも、やらなければならないことも、少しずつ増えていく。八歳の一日は、前世で思っていたよりずっと忙しい。
「ところで姫様」
「なに?」
「お湯から上がりましたら、御髪を乾かしますので」
「……まだ髪の手入れするの?」
「当然でございます」
「今日はもう十分触ったでしょう。洗うのにあんなに時間かけたのに」
「何をおっしゃいます。ここからが『本番』でございます」
「嘘でしょう……」
どうやら今日一番長い戦いは、まだ終わっていなかったらしい。私は湯船の中で、深々と溜息をついた。