漆黒の王女は故郷を乞う 〜帰る場所を探すTS王女と侍女の冒険譚〜 作:a-ru
それから数日。私の日々は、驚くほど代わり映えなく、けれど充実して過ぎていった。
朝は礼儀作法と外国語。午前中いっぱい魔学の講義を受け、昼食を挟めば歴史や地理。日によっては舞踏や音楽が入り、空いた時間には剣術の稽古。もちろん、剣術についてはハインリヒ騎士団長に相手をしてもらって以降、少しだけ事情が変わった。
「腰が高いですぞ、姫殿下」
「分かってます!」
「分かっておられる方は、同じ失敗を三度も繰り返しません」
「ぐぬぬ……」
騎士団長直々に目をつけられた私は、以前にも増して基礎を徹底的に叩き込まれるようになっていた。派手な剣技や、魔力を使った大技など一切教えてもらえない。踏み込み。重心移動。構え。間合い。受け。崩し。ひたすら地味だ。死ぬほど地味だ。けれど、悔しいことに目に見える効果はあった。
以前なら身体強化の勢いに任せて無理に踏み込んでいたところを、今では一歩目を踏み出した時点で、その次にどう動くべきかを考えられるようになってきた。ほんの数日程度で劇的に強くなるわけではないが、それでも自分の身体の動かし方が少しずつ洗練されていく感覚は楽しい。
そして、その日もまた。午前中の歴史の授業を終えた私は、いつものように昼食へ向かうつもりでいた。ところが。
「セレフィーナ」
「はい、父上」
王族用の小さな食堂へ入ったところで、先に席についていた父上から静かに声をかけられた。その声色に、私はピクリと眉を寄せ、嫌な予感を覚える。最近、私は学んでいる。父上が私の名前を呼ぶ時、妙に穏やかな声を出している場合、大抵ろくなことがない。
「本日の午後だが、そなたの予定を変更する」
「……何をするんですか?」
「城下を見てこい」
「城下?」
思わず聞き返した。父上は平然とスープを口へ運びながら頷く。
「市街地の視察だ」
「私が、ですか?」
「他に誰がいる」
「いえ、でも……」
私はすかさず背後のエルミナを見た。控えていた彼女は、すでに知っていたらしい。何食わぬ顔でこちらを見返している。また私だけ知らされていない。
「市街地の視察って、もっと大人になってから公務としてするものでは?」
「王位を継ぐ者が己の国を知るのに、早すぎるということはない」
父上はナイフで肉を切り分けながら、淡々と続けた。
「そなたは書物で、地理も人口も税収も学んでいるな」
「はい」
「では、この王都の人口は?」
「城壁内だけなら、およそ七万人。周辺集落まで含めれば十万人前後です」
「主要な交易品は」
「北部から木材と鉄鉱石。西部から穀物。南部では薬草と葡萄酒が多く、王都からは加工された魔導具や織物を――」
「結構」
父上は軽く手を上げて私の言葉を遮った。
「では聞く。その七万人が、どのような顔をして暮らしているか知っているか?」
「……」
答えられなかった。父上はそれを見て、僅かに口元を緩めた。
「数字だけで国を知ったつもりになるな。報告書に書かれている『人口七万』の一人一人には、生活がある」
「生活……」
「見てこい。食べている物も、売られている物も、道の状態も、民の顔も」
そこで父上はナイフを置き、私を真っ直ぐに見た。
「王宮の窓から眺める王都と、実際に己の足で歩く王都は違う」
その言葉に、私は先日エルミナから言われたことを思い出した。王女にしかできないこと。人が安心して働ける仕組みを作ること。そのためには、まず『国』を知らなければならない。
「……分かりました」
「よろしい」
父上は満足そうに頷き、それ以上は何も言わなかった。ただ、その隣で母上が紅茶を口へ運びながら、ふと口を開く。
「セレフィーナ」
「はい?」
「今日は歩きやすい靴にしておきなさい。石畳で転ぶと危ないですからね」
「はい」
「それから、今日の髪飾りは白い方がよろしいでしょうね。市井の景色によく映えますから」
「……はい」
どうやら母上にとっては、教育的な視察であろうと娘の装いは妥協できないらしい。
◇ ◇ ◇
「……人、多い」
王宮の正門を抜け、城下町の大通りへ足を踏み入れて最初に出た感想がそれだった。
「驚かれましたか?」
隣を歩くエルミナが、日傘を差しながら涼しい顔で問い返した。
「少し。窓から見るのと全然違う」
「ルヴェルティアの王都でも、この賑わいでございます。西方の大国ともなれば、これより遥かに多くの人々が暮らしていると聞きますよ」
「……これ以上?」
「はい」
知識としては知っている。けれど、実際に目の前で人の波を見たあとにそう言われると、途端に実感が湧いた。広い大通りは、人でいっぱいだった。
荷車を引く商人。籠を抱えた主婦。腰に剣を提げた冒険者らしき男女。制服姿の衛兵。冷却庫用の氷魔石を運ぶ業者。子供の手を引く父親。店先で客を呼び込む声。
道の両側には石造りや木組みの建物が隙間なく並び、その一階部分には様々な店が軒を連ねている。パン屋、肉屋、仕立て屋。日用品の魔導具店に、薬屋、そして食堂。
さらに大通りの中央寄りには、簡素な屋台まで並んでいた。焼いた肉の匂い。香辛料のツンとする匂い。焼きたてのパン。果物の甘さ。油の匂いに、馬と土埃の匂い。王宮の中にはない、強烈な生活の匂いが全部混ざっている。
「王宮から見てる時とは、全然違う……」
王宮の高い窓から眺める王都は、整然と並んだ建物の集合体にしか見えなかった。けれど、ここにはちゃんと人がいる。歩き、喋り、笑い、時には声を荒らげながら、それぞれの日常を生きている。
「姫様」
「なに?」
「随分と楽しそうでございますね」
「……そう見える?」
「はい。先ほどから右へ左へと、ずっとお忙しそうに」
言われて初めて、自分が子供のように視線をあちこちへ動かしていたことに気づいた。
「だって、全部初めて見るみたいなんだもの」
「八年間お住まいの王都でございますが」
「上から見るのと、実際に歩くのは別よ」
今日は視察用ということで、普段の王宮内ほど華美なドレスではない。淡い白と紫を基調にした比較的動きやすい服に、母上が選んだ白い花の髪飾り。長い漆黒の髪も、邪魔にならないよう背中で丁寧にまとめられている。
とはいえ、あくまで正式な視察だ。私とエルミナの少し後ろには甲冑姿の護衛騎士が四人付き、さらに前方や周囲の人混みの中にも私服の護衛が紛れているらしい。
……私一人が街へ出るだけで、何人動いているんだろう。
「……これ、視察っていうより大名行列じゃない?」
「だいみょう?」
「あー、何でもない。えっと、護衛が大げさすぎるって意味」
日本の歴史の話をしても仕方がないので誤魔化したその時だった。
「あっ!」
甲高い声が聞こえた。見ると、道端にいた小さな女の子が、こちらを指差して目を丸くしている。
「お母さん! 王女様!」
周囲の空気が、一瞬だけ止まった。次の瞬間。
「え?」
「姫殿下?」
「本当だ……」
「黒髪に紫の瞳……本当に姫殿下だ……!」
ざわざわ、と波が広がるようにどよめきが起きた。
なるほど。髪を見ただけで分かったらしい。黒に近い髪なら、この国にもごく稀にいる。けれど、私のような混じり気のない漆黒となれば別だ。少なくとも王家に残る記録や、私がこれまで学んだ範囲では、同じ色を持つ者はいない。王都の人々にとっては、それだけで十分すぎるほど王女の目印になるらしい。
「ひ、姫殿下、ご機嫌麗しゅうございます!」
一人の商人が慌てて平伏するように頭を下げた。それにつられるように、周囲の人々も次々と頭を下げていくのを見て、私は思わず固まってしまった。
王宮なら慣れている。使用人も騎士も教師も、私を見るたび礼をするからだ。でも、知らない人たちが私のことを知っている事が妙に落ち着かなかった。
「エルミナ、どうしたらいい?」
「お手を振られてはいかがでしょう」
「それでいいの?」
「笑顔もお忘れなく」
無茶を言う。それでも、私は前世のアイドルの真似事のように、自分でもわかる少しぎこちない笑顔を浮かべながら右手を上げる。
「……皆様、ごきげんよう」
瞬間。
「おお……!」
「姫様がこちらを見たぞ!」
「なんてかわいらしい……」
そこかしこから歓声が上がる。最後のは聞かなかったことにした。私は王女だ。かわいいと言われるために来たわけではない。……いや、中身が元男子とはいえ外見は八歳の幼女なのだから、仕方ない気もするけど。
「王女様ー!」
先ほどの女の子が、ぴょんぴょん跳ねながら嬉しそうに大きく手を振っている。その母親が、青ざめた顔で慌てて娘の腕を下ろそうとした。
「こ、こら! 姫様に指を差すなんて失礼な!」
「構いません」
反射的に声が出た。母親が驚いて顔を上げる。私は女の子に向かって、少しだけ首を傾げて手を振り返した。
「こんにちは」
「こんにちは!」
満面の笑顔。たったそれだけなのに、王宮で受けるお辞儀よりも、妙に胸がくすぐったかった。
◇ ◇ ◇
視察、と言っても、ただ大通りをちやほやされながら歩くだけではなかった。父上から事前に指示されていたらしく、エルミナは時折店へ立ち寄り、私を伴って店主へ話を聞く。
「今年の小麦の値段は?」
「去年より少し高いですね。ただ、北の街道が整備されてから輸送が早くなりまして。昔の不作の時ほど酷くはありません」
「大通りに設置された魔導街灯の具合はいかがです?」
「あれは助かってますよ。夜でも治安が良くなりまして、店を早く閉めずに済みます」
私はエルミナの横で聞きながら、頭の中で授業の内容と照らし合わせていった。街道整備、物流と穀物価格、それに魔導街灯。どれも机の上で習ったことだ。けれど、教室でのそれは単なる『数字』だった。予算がいくら。工事期間が何年。導入台数が何基。
今は違う。「夜でも店を閉めなくて済む」たったそれだけの生きた言葉で、机上の数字の意味が急に立体的に分かったような気がした。
「姫様」
「なに?」
「少しこちらへ」
エルミナに促され、細い横道へ入る。大通りほど綺麗に舗装されてはいない。石畳の一部が沈み、雨水が溜まった泥の跡もある。
「ここは?」
「先月、住民から修繕願いが出されている通りです」
「……これか」
授業で見たことがある。確か「南三区画生活道路補修申請」。紙の上では、ただの一行だった。けれど実際に見ると、小さな子供や老人が歩くには確かに危ない。
ちょうど一台の荷車が、問題の窪みを避けるようにゆっくりと進んでくる。御者も慣れているらしく慎重に車輪を運んでいたが、それでも片輪が石畳の沈んだ部分へ取られ、荷台が大きく傾いた。
「うわっ!」
荷台に積まれていた木箱が傾く。中から、赤い果物がいくつも泥の上に転がり落ちた。
「ああっ!」
商人らしい男が慌てて荷車を止める。私は考えるより先に駆け寄っていた。
「大丈夫ですか?」
「へ? ……ひ、姫殿下!?」
男の顔が凍りついた。しまった。またこれだ。
「果物、落ちましたよ」
「い、いえ! 姫殿下のお手を煩わせるわけには!」
「でも、このままだと他の人に踏まれます」
すでに一つ拾い上げていた私は、果物を手に持ったまま困ってしまう。そこで。
「姫様」
背後から、妙に静かな声がした。振り返る。エルミナが微笑んでいる。笑っている。でも怖い。
「……何?」
「先日申し上げたことをお忘れでございますか?」
「う」
まずい。
「お手伝いすることが悪いとは申しません。ですが――」
エルミナは、私の手にある果物ではなく、その向こうの窪んだ石畳へ視線を向けた。
「目の前の一つを拾って終わりになさらぬように。なぜ落ちたのか、その原因を知り、同じことで困る方を減らす。それが姫様にできることではございませんか?」
「……なるほど」
正論である。私は渋々、拾った果物を泥を払って男へ渡した。
「申し訳ありません。驚かせてしまって」
「い、いえ! とんでもございません!」
商人の方がなぜか恐縮しきっている。私は改めて、原因である石畳の窪みを見る。
「エルミナ。ここ、修理される予定なのよね?」
「申請は上がっております」
「いつ?」
「現在、担当部署で予算と優先順位を――」
「つまり、まだ決まってない?」
「左様でございます」
私はしゃがみ込み、石畳を見る。ただの壊れた道。でも、これのせいで荷物が落ちる。転ぶ人がいる。荷車が壊れるかもしれない。その小さな不便の積み重ねが、生活というものなのだろう。
「……帰ったら、父上に聞いてみる」
「それがよろしいかと」
エルミナが満足そうに頷いた。なんだか、王女としての実地試験を受けているような気分になってきた。
◇ ◇ ◇
それからさらに市場を歩いた。途中で魔導具店へ入り、一般家庭向けの小型照明器を見せてもらった。薬屋では、今年は南部の薬草が豊作だと聞いた。仕立て屋では何故か店主に「姫様のお召し物を一度作らせていただければ、一生の誉れでございます!」と熱狂的に詰め寄られ、エルミナが即座に無言の圧で間に割って入った。
そして。
「いい匂い……」
私は無意識に足を止めた。
通りの角。小さな屋台から、焦がしバターのような甘い香りが漂っている。鉄板の上で、丸い生地が焼かれていた。表面には蜂蜜らしきものが薄く塗られ、砕いた木の実が散らしてある。
「……美味しそう」
思わず呟くと、隣を歩いていたエルミナがこちらを見た。
「随分と熱心にご覧になりますね。お召し上がりになりますか?」
「視察中だけど、いいの?」
「市場の食文化を知るのも立派な視察でございます。民が普段口にしているものを知るのも勉強かと」
「やった。じゃあ、一つだけ」
屋台を営んでいるのは、まだ若い夫婦だった。二人とも私に気づいた瞬間、慌てて姿勢を正す。
「ひ、姫殿下……!」
「ごきげんよう」
「よ、ようこそいらっしゃいました!」
奥さんの方が、緊張のあまり声を裏返した。その奥さんの後ろから、小さな顔が覗いている。私と同じくらいか、少し年下だろうか。茶色い髪を二つに結んだ女の子が、父親の服を掴み、こちらをじっと見ている。
目が合った。ぱっと隠れた。もう一度覗く。また目が合う。また隠れる。なんだこの生き物。かわいい。
「それ、何ですか?」
私が屋台の焼き菓子を指差して聞く。
「は、はい! 蜂蜜と胡桃を使った焼き菓子でして!」
「一ついただけますか?」
「もちろんです! お代など結構ですので!」
「いいえ、きちんとお支払いします」
「い、いえ、そんな! 姫殿下からお代をいただくなど恐れ多い!」
店主は本気で恐縮しているらしい。けれど、ここで引くつもりはなかった。
「でも、これは皆さんが生活するために売っているものでしょう? 私だけ無料にしてもらうのは違うと思うの」
夫婦は一瞬だけ顔を見合わせた。
「……ありがとうございます」
父上からも、視察先で安易に物を受け取るなとは言われている。けれど、それ以前に、今日ここまで街を歩いてきた私自身が、無料で受け取るのは違うと思った。エルミナが硬貨で代金を支払い、私は焼きたてを一つ受け取った。
「熱いのでお気をつけください」
「ありがとう」
小さく息を吹きかけ、齧る。表面は少し香ばしく、中はふんわりと柔らかい。蜂蜜の優しい甘さと木の実の香りが、歩き疲れた身体に染み渡る。
「おいしい」
「ほ、本当ですか!?」
夫婦の顔が一気に明るくなった。
「はい。すごく」
「よかったなあ!」
「ええ!」
二人が顔を見合わせて心底嬉しそうに喜ぶ。その姿を見ていると、こっちまで少し嬉しくなる。
「こちらのお店は長いんですか?」
「いえ、まだ二年ほどでして」
夫が照れくさそうに頭を掻いた。
「今は屋台ですが、いつか金を貯めて、ちゃんとした立派な店を持ちたいと思っております」
「お店を?」
「はい。家内と、それから娘もおりますので」
夫婦の背中に隠れていた女の子が、また顔を出す。私はしゃがんで目線を合わせた。
「こんにちは」
「……こんにちは」
消え入りそうな小さい声。
「お名前は?」
「ミア……」
「ミアちゃんね」
私が名前を呼ぶと、ミアは少しだけ目を見開いた。
「私はセレフィーナ」
「知ってる。黒い髪の、お姫様」
「……そっちで覚えられてるんだ」
思わず笑ってしまった。ミアも、つられたようにほんの少し笑った。
「お父様のお店、立派なお店になるといいわね」
「うん」
少女は今度ははっきりと頷いた。
「私も、お店手伝うの」
「そっか」
私はもう一口、焼き菓子を食べた。
「じゃあ、いつか立派なお店になったら、また買いに来る」
「ほんと?」
「本当」
その瞬間。ミアの顔が、太陽のようにぱっと輝いた。
「絶対ね!」
「こ、こらミア! 姫殿下に馴れ馴れしく!」
「いいの」
私は父親を制して笑った。
「約束ね」
そう言って小指を出しかけて、さすがに王族が初対面の市井の子供と指切りするのはどうなのだろう、と途中で指が止まった。エルミナを見る。彼女は僅かに眉を上げたあと、何も言わず優しく微笑んだ。許可らしい。
「ほら」
私は改めて小指を差し出した。ミアは少し迷ったあと、恐る恐る自分の小さな小指を絡める。
「約束」
「うん!」
今度は、とびきりの笑顔だった。
◇ ◇ ◇
王宮へ戻る頃には、空が橙色に染まり始めていた。帰りの馬車の窓から、ガタゴトと遠ざかっていく街並みを見る。
「どうでしたか?」
向かいに座るエルミナが尋ねた。
「……疲れた」
「それは何よりでございます」
「そこ喜ぶところ?」
「有意義であった証拠かと」
私は窓の外を見る。
今日までの私にとって、王都とは王宮の窓から眺める景色であり、地図や報告書の上で学ぶ場所だった。人口も知っている。税収も知っている。どこに市場があって、どこに職人街があるかも勉強した。
でも今日初めて、そこに人が暮らしているのだと実感した気がした。魔導街灯のおかげで夜まで商売ができる人。道の窪みに困っている商人。いつか自分の店を持ちたい夫婦。その店を手伝いたいという少女。
七万人。その数字の中に、今日会った全員がいる。
「エルミナ」
「はい」
「父上が言ってたこと、少し分かったかも」
「どのようなことでしょう」
「数字だけじゃ、国は分からないって」
エルミナは何も言わなかった。ただ、少しだけ嬉しそうに目を細める。
「帰ったら、あの道の修繕のこと、私から聞いてみる」
「はい」
「あと、市場の魔導街灯も。みんな助かってるって伝える」
「はい」
「それから――」
私は一度言葉を止めた。窓の向こうに、王宮が見えてくる。その背後には、夕焼けに染まった王都の屋根がどこまでも続いていた。
ルヴェルティア王国。前世の記憶を持った私が生まれ、八年間を過ごしてきた国。私はまだここを「故郷」と呼ぶことに少し違和感があった。今だって、その感覚が完全に消えたわけではない。地球へ帰りたい。父と母と妹がいた、あの家へ帰りたい。その願いは変わっていない。
けれど。
「……また、街に来られるかな」
ぽつりと呟くと、エルミナは少しだけ考えるように目を伏せた。
「もちろん、機会はございましょう」
「じゃあ、今度はいつ?」
「それは何とも。姫様がお出ましになるとなれば、護衛の手配だけでなく、周辺の警戒や日程の調整も必要でございますから」
「……そんなに大変なの?」
「姫様は、この国にお一人しかいらっしゃらない王女でございますので」
言われてしまえば、その通りだった。
「気軽に遊びに来る、っていうわけにはいかないのね」
「残念ながら」
「そっか……」
少しだけ残念だった。だからこそ、次に来られた時には、今日見つけた場所をもう一度見て回ろうと思った。私はそう考えながら馬車の背もたれへ身体を預け、もう一度窓の外を見る。
今日食べた甘い焼き菓子の味。小さなミアの笑顔。市場の喧騒。道の埃。どれも、王宮の高い窓からでは見えなかったものだ。
地球へ帰る。その願いは、今も変わらない。
それでも今日、この国に「また行きたい場所」が一つ増えた。