0話 砲声は後から来る
# 幻影砲兵 第一部「大蛇の目覚め」
## 序章 砲声は後から来る
ヴァルデン陸軍第十四重砲兵大隊、第二中隊長のオットー・クライン大尉は、自分の砲が好きだった。
二十一センチ榴弾砲。一門十七トン。最大射程十六キロ半。牽引車で引いて運び、据えつけるのに半日かかる。そのかわり一度据えてしまえば、要塞のコンクリートを一枚ずつ、確実に剥がしていける。鈍重で、正直で、仕事の早い砲だった。
ヴェステルボリ要塞の包囲は、二十二日目に入っていた。
中隊の四門は、要塞から十四キロ離れた唐松の森に据えてあった。要塞砲の射程のわずかに外側。この距離を割り出したのはクライン自身で、彼はその数字を少しばかり誇りに思っていた。北の連中の十五センチ要塞砲は、どれほど仰角をかけても、この森には届かない。
だがクラインが恐れていたのは、要塞砲ではなかった。
開戦からの一か月で、ヴァルデン軍はノルトラントの重砲連隊を、ほとんど一門残らず狩り尽くしていた。その手順はいたって単純だった。夜明けに偵察機が飛ぶ。写真が現像され、判読班が擬装網の下の砲を見つける。昼までに座標が爆撃隊へ渡り、午後には、そこにあった砲兵陣地が畑になっている。
重い砲は、速く逃げられない。見つかれば、それで終わりだ。
だからクラインは、自分の中隊を病的なまでに隠した。擬装網は二重に張った。牽引車の轍は、朝ごとに兵に掃かせた。偽の砲陣地を、本物から八百メートル離れた空き地に三つ作らせた。材木を切って砲身を拵え、帆布をかぶせ、わざと網の端をめくらせておいた。射撃は雲の厚い日を選び、晴れた朝には一発も撃たせなかった。
二十二日間、第二中隊は一門も失っていなかった。大隊のほかの中隊は、同じ期間に三門を失っている。
---
その朝は、晴れていた。
午前八時十分。当直の見張りが、北の空を指さした。
「偵察機。一機。高度、かなり高いです」
クラインは双眼鏡を向けた。青い空に、細い白線が一本、定規で引いたように伸びていた。飛行機雲。その先端に、銀色の点が光っている。ノルトラント空軍に残された数少ない偵察機の一機だろう。あれだけ高く飛ばれると、高射機関砲は届かない。
「全員、網の下へ。動くな。煙も出すな」
森は静まりかえった。白い線はゆっくりと森の上を横切り、南へ抜け、大きく旋回して、また北へ戻っていった。二十分ほどの出来事だった。
「見つかりましたか」
副官のハンス・ブレーマー少尉が、声をひそめて訊いた。まだ二十歳を少し過ぎたばかりの若者で、この中隊でいちばん計算が速い。
「さあな」クラインは双眼鏡を下ろした。「だが見つかったところで、どうということはない」
「爆撃は」
「北の空軍に、もう爆撃機は残っていない。重砲もだ。要塞の砲はここまで届かん」
クラインは唐松の幹に手を当てた。樹脂のにおいがした。
「写真を撮ったところで、撃てる者がいなければ、ただの写真だ」
ブレーマーはうなずいた。クライン自身、その言葉を疑ってはいなかった。
---
午前十時五十二分。
最初の一発には、予兆がなかった。
空気を裂く音も、風を切る唸りも、何も聞こえなかった。あとになってクラインは何度もその瞬間を思い返したが、どう思い返しても、最初に来たのは音ではなかった。地面だった。足の下の大地が、見えない巨人に蹴りあげられたように跳ねた。
森の西の端で、土と唐松が、空へ向かって噴きあがった。
噴きあがったものが落ちてくるまでの数秒間、クラインは呆然とそれを見上げていた。倒木ではない。土砂ではない。それは森の一角そのものが、根こそぎ引き剥がされて宙に浮いている光景だった。
それから、ようやく音が来た。音というより、全身を平手で叩かれるような圧だった。耳の奥で何かが鳴りつづけ、世界の輪郭がぼやけた。
「伏せろ!」
自分の叫び声が、ひどく遠くに聞こえた。
伏せた地面の上で、クラインは数えていた。砲兵の習性だった。砲弾が来たら数える。間隔を数え、弾数を数える。それが砲の種類と数を教えてくれる。
一、二、三――。
二発目は、きっかり三十秒後に来た。今度は森の中央、四号砲から百メートルも離れていない場所だった。唐松が二十本、一度に倒れた。
三十秒。
三発目。
三十秒。
四発目が、三号砲に落ちた。
クラインは、それを目で見たわけではなかった。ただ、三号砲の方角で何かが光り、次の瞬間、十七トンの鋼鉄が回転しながら木々の上に浮かんでいるのを見た。砲身が折れ、砲架がねじれ、それはおもちゃのように、ゆっくりと宙を舞った。
五発目。六発目。七発目。
八発目のあと、三十秒が過ぎても、次は来なかった。
六十秒。九十秒。
森は、静かになった。耳鳴りだけが残っていた。
---
クラインが立ちあがろうとしたとき、それは聞こえてきた。
北から。ずっと遠くから。
低い、腹の底に響くような轟き。遠雷に似ていたが、雷ではなかった。一度。三十秒おいて、二度目。また三十秒おいて、三度目。
クラインは膝をついたまま、動けなくなった。
四度。五度。六度。七度。
八度。
それきり、北の空は黙った。
「……大尉」
ブレーマーが、泥だらけの顔で這い寄ってきた。額から血が流れていたが、本人は気づいていないようだった。
「いまのは、なんですか。砲撃は終わったのに、どうしてまだ――」
「発射音だ」
クラインは自分の声がかすれているのを聞いた。
「いま聞こえたのは、撃った音だ。砲弾が落ちた音じゃない。北のどこかで、あの砲が撃った音が、いまようやくここに届いた」
ブレーマーの顔から、血の気が引いた。彼は計算の速い若者だった。クラインが言い終わる前に、同じ結論にたどり着いていた。
音は、砲弾より遅い。
普通の砲撃なら、そんなことは起こらない。十キロ、十五キロの距離なら、砲弾が落ちるころには、発射音はとうに届いている。音が砲弾に追い抜かれ、着弾のあとから、こうして遅れてやってくる。それほどの距離から撃たれたことなど、クラインの二十年の軍歴で一度もなかった。
「時間は」クラインは言った。「最後の着弾から、最後の発射音まで。計ったか」
「……計っていません」
「俺もだ」
クラインは唇を噛んだ。それから、懐中時計を取りだした。竜頭が曲がっていたが、針は動いていた。
「だが、だいたいはわかる。一分以上だ。一分以上、遅れて来た」
一分以上。音速は秒速三百四十メートルほどだ。砲弾がどれだけの時間、空を飛んでいたのかはわからない。だが音が一分以上も遅れて届くのなら、砲は少なくとも二十キロより、ずっと遠くにいる。
二十キロの向こうに、北の重砲はいないはずだった。一門も。
---
被害は、砲二門、戦死十一名、負傷十九名だった。
三号砲は跡形もなかった。一号砲は、至近弾で砲架が割れていた。残った二門の砲口を、クラインはぼんやりと眺めた。二十二日間、ひとつの傷もつかなかった砲だった。
弾痕のひとつに降りてみた。
穴は、直径二十メートルを超えていた。深さは、クラインの背丈の三倍ほどもある。底には地下水がにじみ出していた。縁の土は溶けたように固まり、鼻をつく火薬のにおいが立ちこめていた。
穴の縁で、ブレーマーが鋼の破片を拾いあげた。手のひらほどの大きさで、ずしりと重く、まだかすかに温かかった。
「これ、弾殻の一部です。厚みが……四センチ以上あります」
クラインは破片を受けとった。湾曲の具合を指でなぞった。この曲がり方が描く円を頭の中で延ばしてみる。
「四十センチ級だ」
「そんな陸砲、どこの国にもありません」
「ああ。陸砲にはない」
クラインは北を見た。唐松の梢の向こうに、何も見えない空があった。二時間半前、あの白い線が引かれていた空だった。
写真を撮ったところで、撃てる者がいなければ、ただの写真だ。
自分の言葉が、耳の中でゆっくりと反響した。
---
その日の夕方、大隊本部から通報が届いた。
同じ日、ヴェステルボリ包囲線に展開する重砲中隊のうち、三個中隊が同じ攻撃を受けていた。第二中隊を含めて四個中隊。失われた重砲は、合わせて九門。
どの中隊も、報告の内容はほぼ同じだった。朝に偵察機が一機飛んだこと。数時間後、予兆なく四十センチ級の砲弾が三十秒間隔で落ちてきたこと。そして砲撃が終わったあと、北から発射音が遅れて届いたこと。
ただ一点、クラインを凍りつかせたのは、報告の最後に添えられた時刻の一覧だった。
第二中隊への砲撃、十時五十二分から十時五十六分。
第四中隊への砲撃、十一時三十一分から十一時三十五分。場所は、第二中隊の森から西へ二十六キロ。
第九中隊への砲撃、午後一時八分から一時十二分。場所は、そこからさらに東へ四十キロ。
同じ砲か、とクラインは思った。
同じ砲なら、ありえない速さで移動していることになる。別々の砲なら、北には四十センチ級の砲が、少なくとも二門、いや三門はいることになる。そのどちらも、クラインの知っている戦争には存在しないものだった。
彼は報告書を書いた。書けることは多くなかった。砲の種類は不明。数は不明。位置は不明。ただ、ひとつだけ、ほかのどの中隊の報告にもない数字を書き加えた。
――発射音、着弾後、一分余を経て到来。北方より。
その数字が、第三軍司令部の地下で、一人の砲兵情報将校の机に届くことになるのを、クラインはまだ知らなかった。
---
夜、クラインは眠れなかった。
残った二門の砲のそばに毛布を広げ、森の天井の隙間から星を見ていた。唐松の折れた梢のあいだに、見慣れない形の空が広がっていた。
重い砲は、速く逃げられない。見つかれば、それで終わりだ。
その原則で、ヴァルデンは北の重砲を狩り尽くした。クラインもその恩恵を受けた一人だった。空が味方であるかぎり、重砲は王だった。
だが今日、同じ原則が、こちらに向いた。
しかも、見つけたのが今朝のあの一機だけだとすれば、撃ったほうの砲は、北のどこにも見当たらない砲だ。ヴァルデンの偵察機が毎朝、北の空を飛び、北の地面を写しているにもかかわらず。
クラインは寝返りを打った。
遠くで、雷のような音がした。
彼は跳ね起き、懐中時計をつかみ、耳を澄ました。
ただの遠雷だった。北の地平で、夏の終わりの雲が光っていた。それでもクラインは、その夜いっぱい、時計を手放すことができなかった。
砲弾が先に来る。砲声は、後から来る。
それが、この戦争の新しい順番だった。