# 幻影砲兵 第一部「大蛇の目覚め」
## 第十章 名前
北方鉄道砲兵団の司令所はベルンの北西十四キロ、廃線になったスコーグ峠のトンネルの奥にあった。
トンネルは高速線が開通する前、古い北部線が峠を越えるために掘ったものだった。長さは一キロ余り。高速線が丘陵を切り通して峠の下を抜けるようになってから、使われなくなった。レールは撤去され、坑口は板で塞がれ、中には蝙蝠が棲みついていた。
ヴィンター少佐はそのトンネルの中ほどに、板壁で三つの部屋を仕切った。無線室と、電話交換室と、作戦室。天井からは裸電球が下がり、壁からは絶えず地下水が染みだしていた。夏でも、吐く息が白かった。
作戦室の奥の壁一面に、ハンナのダイヤが貼られていた。
横軸に時刻。縦軸に駅と信号所。旅客列車、貨物列車、軍用列車、保線車両。それに赤い三本と青い五本。点線で描かれた、ラーシュの偵察機の線。そしてこの一週間で新しく加わった線があった。灰色の、細い線。
ヴァルデンの偵察機の線だった。
国じゅうの防空監視所から、ヴァルデン機の目撃報告が、鉄道電話で数分おきに入ってくる。ハンナの部下の運転指令たちが、それを時刻と場所に変え、ダイヤの上に書きこんでいく。一機の偵察機が朝の八時に国境を越え、九時に高速線の上を北へ飛び、十時に東支線の上で旋回し、十一時に国境へ戻る。それは、一本の灰色の線になる。
開戦六十四日目の夜、ホルムがトンネルに着いたとき、ハンナはその灰色の線の前に立っていた。
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「今日の朝の七十分」
ホルムは外套を脱ぎながら言った。
「七回撃って、七回とも予定どおりに走った。二号は、三回。移動は、二十キロ、十八キロ。一号は二回、三号も二回。どれも停止から初弾まで五分を切った」
「知っています」ハンナは振り返らなかった。「全部、この紙の上にあります」
「ラーシュの報告だと包囲線の東から西まで、七つの陣地で、重砲が合わせて六門消えた」
「知っています」
ホルムはハンナの隣に立った。ダイヤの上で、今朝の七十分が、ひときわ密な斜線の束になっていた。赤い三本が互いに寄り添うように、ヴェステルボリの北の曲線に三度、二度、二度と触れている。そしてその周りに青い五本と、ほかの赤い線から枝分かれした細い点線が、鉄道網の端から端まで扇のように広がっていた。イングヴァルの光と音の班の線だった。
七つの閃光。七つの轟音。鉄道網の、端と端。
「見事だな」ホルムは言った。
「ありがとうございます」
「だが」
ハンナが初めてホルムのほうを見た。
「見事すぎる」
ホルムはダイヤの上の斜線の束を指さした。
「海軍の兵学校で、艦隊運動の講義があった。敵に、こちらの艦数を多く見せるための陣形というのがある。煙幕を張って、艦と艦の間隔を広く取り、発砲のたびに位置を変える。教官はその講義の最後に必ずこう言った」
ホルムは少し間を置いた。
「見せるための艦隊運動は見せたい相手に、見られていると思え。そして見せたい相手のなかに、一人でも頭のいいやつがいれば、見せていることそのものが見られる」
ハンナは黙っていた。
「今朝の七十分は、敵に七門を数えさせるために撃った。そうだな」
「そうです」
「なら、敵の中に頭のいいやつがいれば、そいつはこう考える。どうして、七門の砲が、七十分のあいだに互いにいちばん遠い場所から、一斉に撃つのか」
トンネルの天井から、地下水が一滴、ハンナの足元に落ちた。
ハンナは長いあいだ、ダイヤの上の斜線の束を見つめていた。それから灰色の線のほうへ目を移した。
「中尉。これを見てください」
ハンナは灰色の線の一本を指でたどった。
「三日前から、敵の偵察機の飛び方が変わりました。それまでは前線と高速線と、待避線だけを飛んでいた。砲を探す飛び方です。でも、三日前から、それに加えて、こういう線が出てきた」
灰色の線はヴェステルボリの包囲線の、ヴァルデン側の後方を南北に何度も往復していた。
「自分たちの側を飛んでいるんです。自分たちの重砲陣地の上を。そして翌朝にはその陣地がもうない」
「陣地転換か」
「はい。ラーシュさんの報告でも、昨日から、敵の重砲は夜のうちに動くようになりました。自分たちの偵察機で、自分たちの陣地がどう見えるか、確かめてから動いている。ロスヴィークで、こちらの重砲がやられたのと同じことが、自分たちに起きると誰かが気づいた」
ハンナは灰色の線から指を離した。
「向こうに考える人がいます」
ホルムは黙ってうなずいた。
「中尉のおっしゃるとおりかもしれません」ハンナは言った。「今朝の七十分は見事すぎた。私は自分が引いた線の美しさに見とれていました」
ハンナはダイヤの前の机に座り、新しい紙を一枚、引き寄せた。
「次からは下手に撃ちます」
「下手に?」
「本当に七門いる砲兵なら、ときどき、へまをするはずです。二門が同じ時刻に近すぎる場所で撃ってしまう。一門が故障で一日休む。移動が遅れて、予定の時刻に撃てない。本物の軍隊はきれいなダイヤでは動きません」
ハンナは鉛筆を取った。
「国鉄のダイヤもそうです。机の上で引いたダイヤはきれいです。でも、実際に走らせると遅れが出る。雪で止まる。信号が故障する。本物のダイヤは毎日、少しずつ汚れていく。その汚れ方で、ベテランの指令はどの線区で何が起きたかわかる」
ハンナの鉛筆が紙の上を走りはじめた。
「偽物にも汚れが要るんです」
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ホルムはしばらくハンナの手元を見ていた。それから言った。
「もう一つ、聞きたいことがある」
「はい」
「名前だ。いつ、漏らす」
ハンナの鉛筆が止まった。
「明日です」
「明日?」
「考える人がいるなら、その人はいま、数字を持っています。七という数字を。その数字が正しいかどうか、確かめようとしている。そういう人は自分の数字を裏づける証拠を、一つでも多く欲しがります」
ハンナは机の引き出しから、一枚の電文用紙を取りだした。
「その人に証拠を渡します」
電文用紙には短い文が書かれていた。
――臨回六号(ヨルムンガンド)、〇九四〇、ハルス信号所着。側線ニテ待機。四号及ビ七号ト時刻合セノ上、発車時刻ハ追ッテ指示。
国鉄の業務電報の、ありふれた形だった。臨時回送列車がどこの信号所に何時に着き、どの列車と時刻を合わせて待つか。指令所では毎日、何百通も打たれる文面。そのなかに、一語だけ、括弧でくくられた名前がまぎれこんでいた。
「業務電報に見せるのか」ホルムが言った。
「軍の作戦電報をそのまま古い暗号で送れば、露骨すぎます。国鉄の電報なら、国鉄の暗号で打たれていて当たり前です。向こうは臨時回送の一通を読んで、その中の括弧の一語と番号を拾う。拾ったのは自分だと向こうが思えるように」
「六号」ホルムは言った。
「六号です。一号から三号は本物だから、名前と一緒に出したくない。四号から八号のうち、真ん中の番号を出す。そうすれば、敵は少なくとも六両いると思う。四号と七号の名前も一緒に出せば、その上と下にもまだいると思う」
「六号というのは実際には何だ」
「三つでできています」
ハンナは指を三本立てた。
「ゲルダさんの打つ、六号の呼出符号。ノルドさんの材木の砲身を載せて、山あいの待避線に停めてある、古い機関車の囮列車。それから、六号が撃ったことになっている時刻に、イングヴァルさんの班が焚く、偽物の閃光と音。無線と、形と、光と音。三つがそろって、はじめて六号です。どれか一つだけなら、ただの無線か、ただの材木か、ただの花火です」
「暗号は」
「国鉄の、戦前の業務用暗号です。軍の暗号じゃありません。数年前にヴァルデンの国鉄と、国際列車の運行のために共用していたものです。向こうの国鉄の人間なら、半日で解けます。軍の傍受班なら、一日」
ホルムは電文用紙を見つめた。
「……軍の暗号で送れば、解かれない。解かれないものは証拠にならない。だから、わざと弱い暗号で送る」
「はい」
「それを読ませたい相手が弱すぎると気づいたら」
「気づくと思います」
ハンナはあっさりと言った。
「今朝の七十分に気づく人なら、この暗号が弱すぎることにも気づきます。でも、気づいたところで何も言えません。弱い暗号で送られた本物の電文も、戦争ではいくらでもあります。通信士がうっかり古い暗号を使った。前線の部隊が、新しい暗号書を受けとっていなかった。そういうことは毎日のように起きている」
「疑うことはできても、証明はできない」
「はい。そして疑いは上には届きません」
ハンナは電文用紙を、無線室へ回す書類入れに入れた。
「国鉄にいたころ、よく思いました。指令所で一番正しいことを言う人の意見は、たいてい、一番通りにくい。正しいことはたいてい、面倒だからです」
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開戦六十五日目、午前九時四十分。
スコーグ峠のトンネルの無線室で、ヨルムンガンド六号の通信士が送信鍵を叩いた。
六号の通信士は軍の通信隊から借りてきた、ゲルダという名の若い女性だった。開戦前は、北部の小さな町の郵便局で電信を打っていた。彼女の打鍵には独特の癖があった。長点をほんのわずかに長く引く。ホルムが教えた「手癖」の話を聞いたハンナが、八人の通信士の打鍵を一人ずつ聞き比べて、六号に割り当てた通信士だった。
この先、ヨルムンガンド六号はずっと、ゲルダの長い長点で話すことになる。
ゲルダの打った電文は、ヴェステルボリの北の丘の上に据えた送信機から、夜明けの空へ放たれた。囮の六号が停まっているはずの、山あいの待避線の、すぐ近くの丘だった。
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同じ日の午後四時、ヴァルデン第三軍司令部の地下で、通信傍受班の中尉が、ザイツの机に一枚の紙を置いた。
「北の国鉄の、古い業務用暗号でした。うちの国鉄から来た技官が半日で解きました」
紙には解読された電文が書かれていた。
ザイツはそれを読んだ。一度。二度。
**JÖRMUNGANDR**
「ヨルムンガンド」
ザイツは声に出して読んだ。
「北方の古い歌に出てくる、大蛇です。海の底で、世界をひと巻きして、自分の尾をくわえている」
学生のころ、数学の講義の合間に、北方の古い歌の訳本を読みふけったことがあった。数式ばかりの毎日にときどき、ああいう遠い国の、でたらめに大きな話が欲しくなった。
「蛇ですか」傍受班の中尉が言った。
「鉄道のことでしょう。あの国は線路で、ぐるりと巻かれている」
ザイツは電文の残りを読んだ。国鉄の、ありふれた臨時回送の電報だった。その文面の中に括弧でくくられた一語と、番号が三つ。六号。四号。七号。
最低七門。その数字の上に名前と番号がきれいに重なった。
「方向探知は」
「送信地点はヴェステルボリの北、ハルス丘陵の近くです。昨日の砲撃のうち、一つの音源と、ほぼ一致します」
ザイツはしばらく黙っていた。
「中尉。この暗号はほかの電文にも使われていますか」
「いえ。北の軍の通信はほとんど全部、軍の新しい暗号です。こっちはまだ半分も読めていません。この古い暗号が使われたのはこれが初めてです」
「初めて」
「前線の部隊が、新しい暗号書を受けとっていなかったんでしょう。よくあることです」
ザイツは電文を机の上に置いた。
「よくあることです」と、ザイツは繰り返した。
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その夜、第三軍司令部で参謀会議が開かれた。
ザイツは作戦図の前に立った。赤いピンが三十八本、黒い糸が百二本。その横に解読された電文の写しが貼ってあった。
「敵の大口径列車砲の数は最低七門。傍受電文に現れた番号から、おそらく八門」
会議室の空気が重く沈んだ。
「八門」ブルクハルト大佐がゆっくりと繰り返した。
「ただし」ザイツは続けた。「観測資料について、いくつか検証の必要な点があります。音源標定の波形に、口径と合わない特徴が見られること。それにこの電文の暗号があまりにも」
「ザイツ大尉」
ブルクハルトが手を上げた。
「きみの数字は最低七門だ。そうだな」
「……はい」
「電文の番号は、八門までを示している」
「はい」
「ならば、七門か八門か、あるいはそれ以上か。それが問題だ。七門より少ない可能性は、きみの計算で排除されている。そうだな」
「……観測資料が正しいかぎりは、です」
ザイツはそれだけ言って、あとを続けられなかった。
最低七門。それは観測資料がすべて正しいという前提の上で、数学が保証する下限だった。前提が崩れれば、下限も崩れる。だが、前提が崩れているという証拠はまだ何もない。あるのはハース曹長の「音が軽い」と、あまりにもきれいな七十分と、あまりにも弱い暗号だけだった。
証拠ではない。感覚だ。
「観測資料が正しくないという証拠はあるのか」
ブルクハルトの問いにザイツは答えられなかった。
「……ありません」ザイツは言った。「観測資料が正しいかぎり、七門未満では説明がつきません」
ブルクハルトはうなずいた。
「本国に報告する。北に、四十センチ級の列車砲が少なくとも七門、おそらく八門。ヨルムンガンドと呼称。偵察飛行隊の増派と、鉄道網に対する組織的な爆撃を要請する」
会議はそれで終わった。
ザイツの報告書の末尾に書かれた一語――観測資料の信頼性につき、別途検証を要す――は、本国への電報を起案した作戦参謀の手で、字数を詰めるために削られた。
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三日後、ザイツの机に故郷からの手紙が届いた。
ペーターの字だった。十歳の子どもにしては整った、少し右肩上がりの字。
――お父さん。問題の答えです。
――列車がある時刻にある駅で見えて、別の時刻に別の駅で見えたとき、その二つの駅のあいだを、その時間で走れなかったら、その二つは別の列車です。
――だから、全部の知らせのなかから、どの二つを選んでも別の列車になる知らせを、なるべくたくさん集めます。集めた数が列車の数の、いちばん少ない数です。
ザイツは思わず笑った。十歳の息子は父親が徹夜で紙の上に探したのと、同じ答えにたどり着いていた。
手紙には続きがあった。
――それから、お父さんが線で消してあったところも読めました。
ザイツは手紙を持つ手を止めた。
――もし、知らせのうちのいくつかが嘘だったら。
――それは答えがわかりません。嘘の知らせがどれかわからないと、列車の数はわかりません。
――でも、一つだけわかります。
――嘘の知らせを送っている人は、列車が何本あるか、ちゃんと知っている人です。
――だって、知らなかったら、嘘の知らせは作れないから。
――お父さん、この問題、ほんとうの答えは何ですか。
ザイツは長いあいだその手紙を読み返していた。
地下室の換気口から、冷たい夜気が流れこんでいた。作戦図の上で、百二本の黒い糸が裸電球の光を受けて、かすかに揺れていた。
嘘の知らせを送っている人は列車が何本あるか、ちゃんと知っている。
ザイツは作戦図の前に立った。三十八本のピン。百二本の糸。そのどこかに嘘がある。その嘘を作った誰かがこの図の向こう側で、本当の答えを知っている。
その誰かもいまこの瞬間、どこかで、同じような図を見ているのだろうか。
ザイツは手紙をていねいに折りたたみ、胸のポケットにしまった。
返事はまだ書けなかった。ほんとうの答えをザイツ自身が、まだ知らなかったからだ。