# 幻影砲兵 第一部「大蛇の目覚め」
## 第九章 黒い糸
開戦五十九日目、午前六時。
ザイツは町役場の地下の作戦図を一枚、自分の班のものにした。ヴェステルボリを中心に半径百五十キロ。ノルトラント側の鉄道網が、細い黒線で描きこまれた、兵要地図の拡大版だった。
その上に昨日の四つの音源の位置に赤いピンを打った。ピンの頭に小さな紙片を貼りつけた。紙片には砲撃の開始時刻と終了時刻を書いた。
それから裁縫箱を取りだした。
班の伍長が怪訝な顔でそれを見ていた。ザイツが故郷から持ってきた、妻の裁縫箱だった。中には黒い木綿糸の糸巻きが三つ入っていた。
「一門の砲が、二つの地点を走りきれないとき」
ザイツは、一度目の音源のピンと、二度目の音源のピンのあいだに、黒い糸を一本張った。
「この二つは別々の砲だ。糸で結ばれた二つのピンは同じ砲ではありえない」
伍長は黙ってうなずいた。
「昨日は糸が一本。だから、最低二門」
ザイツは裁縫箱の蓋を閉じた。
「今日から、一本ずつ増えていく」
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糸はザイツが思っていたよりも、ずっと早く増えていった。
開戦五十九日目、ヨルムンガンドは五度撃った。六十日目には、六度。六十一日目には、四度。狙われたのはすべて、ヴェステルボリの包囲線の重砲陣地と、その後方の弾薬集積所だった。
砲撃のたびに、閃光観測班と音源標定班が数字を送ってきた。ザイツはその数字をピンに変え、紙片に時刻を書き、鉄道地図の上で、ほかのすべてのピンとの距離を測った。高速線、北部線、東支線、西支線。分岐駅を経由するあらゆる経路のなかで、いちばん短いものを探す。その距離を、二つのピンの時間差で割る。
時速三百キロを超える組には黒い糸を張った。
三日目の夜、ザイツの作戦図には赤いピンが十九本、黒い糸が三十一本張られていた。
「ずいぶん増えましたな」
音源標定班のハース曹長が、地下に報告に来たついでに作戦図を覗きこんだ。五十を過ぎた古参の下士官で、前の大戦から音源標定一筋だという男だった。
「まるで蜘蛛の巣だ」
「蜘蛛の巣なら、まだいい」ザイツは言った。「蜘蛛は自分がどこに糸を張ったか知っている。私はこの糸が何を意味しているのか、まだ半分もわかっていない」
ハースはしばらく作戦図を眺めていた。それからふと思い出したように言った。
「大尉。一つ、気になっていることがあります」
「なんだ」
「音の形です」
ハースは腋に抱えていた紙の束を広げた。音源標定の聴音所に置かれた記録器が、細長い印画紙に焼きつけた波形だった。黒い線が平らに流れ、あるところで大きく跳ねあがり、震えながら、また平らに戻っていく。
「これが昨日の十四時二十分の砲撃の、第三聴音所の記録です」ハースは跳ねあがりを指した。「で、こっちが先月、要塞の十五センチ砲を測ったときのもの」
二つの波形を並べると、形が違うのは素人目にもわかった。十五センチ砲の波形は鋭く跳ねあがって、すぐに収まる。昨日の波形は跳ねあがりの幅が広く、ゆるやかだった。
「大口径の砲ほど、低い音が長く残ります。それは当然です」ハースは言った。「ただ、これは」
ハースは別の印画紙を広げた。
「ベルンの近くの、観測所から遠い聴音所の記録です。同じ砲撃を遠くから拾った。ここでは波形がもっとずっと低く、長くなってなきゃならない。音は、遠くへ行くほど高い音から先に消えていきますから」
「なっていないのか」
「なってはいます。ただ、思っていたほどじゃない」
ハースは首を傾げた。
「四十センチの砲が、六十キロ先で撃ったにしては音が軽いんです。まるで、もっと小さいものがもっと近くで鳴ったみたいに」
ザイツは、二枚の印画紙を長いあいだ見比べていた。
「地形のせいでは」
「かもしれません。丘の向こうからの音は、妙な形になることがあります。風も昨日は強かった」
ハースは印画紙を巻いた。
「前の戦争でも、ときどき、こういうのがありました。測った位置は合ってるのに、音の形だけがどうも腑に落ちない。たいていは地形か、風でした」
「たいていは」
「ええ。たいていは」
ハースが去ったあとザイツは手帳を開き、一行だけ書きつけた。
――音が軽い。ハース曹長。記録を保管のこと。
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開戦六十二日目の朝、オットー・クライン大尉が、ザイツの机の前に立った。
ザイツが呼んだのだった。第十四重砲兵大隊の報告書のなかで、発射音の遅れを書いてきたのは、クラインだけだった。その男に直接、話を聞きたかった。
クラインは、四十半ばの、がっしりとした体つきの男だった。軍服は新しかったが、額にはまだ塞がりきらない傷があった。両手を後ろに組んで、まっすぐに立っていた。
「楽にしてください、大尉。私も大尉です」
「失礼します」
クラインは勧められた椅子に浅く腰かけた。
「あなたの報告書を読みました」ザイツは言った。「発射音が着弾のあとに届いた。一分余り遅れて。あれはどうやって測ったんですか」
「測ってはいません」
クラインは少しだけ顔をしかめた。
「測れなかったんです。時計を出したのは終わってからでした。一分余というのは感覚です。砲兵の、二十年の」
「それでも、書いた」
「書きました」
クラインはしばらく黙っていた。それから言った。
「数えることしか、できなかったんです。部下が吹き飛ばされているときに、中隊長ができることは何もなかった。撃ち返す相手も見えない。逃げる場所もない。だから、数えました。砲弾の間隔と、数と、発射音と。それしか、できることがなかった」
ザイツはクラインの顔を見た。それから机の上の作戦図に目を落とした。十九本の赤いピン。三十一本の黒い糸。
「大尉。お願いがあります」
「なんでしょう」
「包囲線の重砲中隊すべてに、ストップウォッチを配りたい。砲撃を受けたら、最初の着弾の時刻、最後の着弾の時刻、そして発射音が届いた時刻。それを秒単位で記録してもらう。あなたがやったことを、全部の中隊にやってもらいたいんです」
クラインは眉を寄せた。
「それが何の役に立ちますか」
「音源標定と閃光観測は、敵の砲がどこにいるかを教えてくれます」ザイツは言った。「でも、それは観測所で測った数字です。観測所は砲撃を受けている場所からは遠い。砲弾が実際に落ちた場所で、何秒ずれて音が来たか。それを知っているのは撃たれた側の人間だけです」
「つまり」
「別の方法で、同じ答えを確かめたいんです。もし答えが違ったら、どちらかが間違っている」
クラインは長いあいだザイツを見ていた。
「大尉は観測所の数字を疑っておられるんですか」
ザイツはすぐには答えなかった。
「まだわかりません」
それが正直な答えだった。
「わかりました」クラインは立ちあがった。「中隊はもう二門しかありません。砲員の半分はほかの中隊に回されました。私は暇です」
「では」
「時計を配って回ります。包囲線の中隊、全部に」
クラインは敬礼した。それから出ていきかけて、戸口で振り返った。
「もう一つ、報告書に書かなかったことがあります」
「なんですか」
「偵察機です。あの日の朝、八時過ぎに北の偵察機が一機、高く飛んでいました。砲撃はその二時間半後でした」
クラインは続けた。
「あとで、ほかの中隊にも聞きました。砲撃を受けた中隊は全部、その日の朝か前の日の夕方に偵察機を見ています。一機だけ。いつもとても高い」
「……一機だけ」
「ええ。北の空軍にはもう、あれ一機しか残っていないんじゃないかと、みんな言っています」
クラインが出ていったあとザイツは、しばらく戸口を見つめていた。
それから空軍の連絡将校に電話をかけた。
「北の偵察機を落とせませんか。一機だけ、高く飛んでいるやつです」
受話器の向こうで、連絡将校はため息をついた。
『九千メートルですよ、大尉。うちの戦闘機は、八千五百を超えると舵が効かなくなる。追いかけたって、向こうが降りてくるのを待つしかない。何度もやってます。一度も捕まえられていない』
「一度も」
『一度もです。あいつはたぶん、あの国でいちばん空をよく知っている』
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開戦六十三日目、ヴァルデン第三軍の重砲兵にひとつの命令が出た。
――重砲中隊ハ、日没後ニ陣地転換ヲ行ヒ、昼間ノ陣地ニ二夜以上留マラザルコト。
ザイツの進言だった。偵察機が朝に見つけた陣地を、その日のうちに撃たれる。ならば、偵察機が見た陣地に翌朝はもういなければいい。重砲は夜のうちに動く。
命令はヴェステルボリの包囲線に、目に見えない代償を強いた。
二十一センチ榴弾砲の陣地転換には、六時間かかる。毎晩六時間を移動に使えば、そのぶん、要塞を撃つ時間が減る。弾薬の補給も、毎晩違う場所へ届けなければならない。砲員たちは眠れなくなった。重い砲を泥の道で夜ごとに引きまわした。
包囲線から要塞に撃ちこまれる砲弾の数は、三日で半分になった。
ヴェステルボリの要塞の中で、四万人の市民が、二か月ぶりに朝まで眠った。
そのことをザイツは知らなかった。知っていたとしても、それが自分の命令のせいだとは、思わなかっただろう。
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開戦六十四日目の夜。
ザイツの作戦図には赤いピンが三十四本、黒い糸が八十九本、張られていた。
ザイツは一人で、作戦図の前に座っていた。地下室の電灯は半分消されていた。換気口から、冷たい夜気が流れこんでいた。
八十九本の糸はもう目で追える数ではなかった。どのピンがどのピンと結ばれているのか、糸が重なり、交差し、絡みあって、黒い網の目のようになっていた。
知りたいのはただ一つの数だった。
この三十四回の砲撃を矛盾なく説明するには、最低何門の砲が必要か。
ザイツは、ペーターへの手紙に書いた問題を思い出していた。
ある国に何本かの列車が走っている。わかるのは、ときどきどこかの駅で列車が見えたという知らせと、その時刻だけ。その国には少なくとも何本の列車が走っているか。
ザイツは紙を一枚取った。
三十四本のピンを紙の上の三十四個の点に写した。それから、八十九本の糸を、点と点を結ぶ八十九本の線に写した。地図の上の位置はもう要らなかった。要るのは、どの点とどの点が結ばれているかだけだった。
学生時代にほんの少しだけ、こういう図を扱う数学を習ったことがあった。点と線だけでできた図。点に色を塗る。線で結ばれた二つの点には、同じ色を塗ってはいけない。そうやって、すべての点に色を塗るには最低何色が要るか。
色は砲だ。線で結ばれた二つの砲撃は同じ砲ではありえない。すべての砲撃に砲を割り当てるには、最低何門が要るか。
正確な答えを出すのは難しい。点が三十四個もあれば、手で調べつくすことはできない。
だが、下から押さえることはできる。
互いに、すべての組が線で結ばれている点の集まりを探せばいい。三つの点が互いに三本の線で結ばれていれば、その三つには、三つの違う色が要る。四つの点が互いに六本の線で結ばれていれば、四色が要る。
そういう集まりのうち、いちばん大きいものを見つければ、それが砲の数の下限になる。
ザイツは夜が明けるまで、紙の上の点と線を追いつづけた。
ある点を選び、その点と結ばれている点を並べる。そのなかから、互いに結ばれている点を選び、また並べる。行き止まりになれば、戻って、別の点から始める。鉛筆の先が丸くなるたびに小刀で削った。
午前四時過ぎ、ザイツの鉛筆が止まった。
七つの点だった。
開戦六十四日目の、九時二分。九時十一分。九時十九分。九時三十二分。九時四十分。九時五十四分。十時十一分。
あの朝の、七十分足らずのあいだに起きた、七つの砲撃だった。どれも、四発ずつ。ヴェステルボリの包囲線の、東から西まで。
七つの点は互いに、二十一本の線で結ばれていた。音源標定が割りだした七つの発射地点は、高速線の南端から、東支線の奥、西支線の終点、北部線の山あいまで、鉄道網の端から端に散らばっていた。どの二つを取っても、その時間差で、一門の砲が走りきれる距離ではなかった。
七色が要る。
ザイツはしばらくその七つの点を見つめていた。
最低、七門。
この三十四回の砲撃を矛盾なく説明するには、四十センチ級の列車砲が少なくとも七門、必要になる。それが数学の答えだった。
七門より多いことはありうる。数学は下限しか教えてくれない。七門より少ないことはありえない。この三十四の観測がすべて正しいかぎりは。
ザイツは鉛筆を置き、両手で顔を覆った。
答えは合っている。途中の式も合っている。それなのに、どこかで、誰かに教わった答えを写しているような気がした。
なぜなら、その七つの点はあまりにもきれいだったからだ。
ほかの日の砲撃は、一日に四回から六回、朝から夕方までばらばらに起きていた。あの朝だけが違った。七十分のあいだに七回。まるで、七門が一斉に腕前を見せつけるように撃った。そして七つの発射地点は、どれもほかのどの地点とも、ちょうど走りきれない距離だけ離れていた。鉄道網の、端と端に。
七門の砲を持つ指揮官がなぜ、一つの朝に、七門すべてを、互いにいちばん遠い場所から撃たせるのか。
答えは、一つしか思いつかなかった。
それを見る者に、七門いると、数えさせるためだ。
ザイツは顔から手を離した。
換気口の外で、夜明け前の鳥が鳴きはじめていた。
それでも、根拠はなかった。あるのは数学教師がよくできすぎた答案に抱く、あの感覚だけだった。そして戦争は感覚では動かない。
ザイツは報告書の用紙を取りだし、書きはじめた。
――敵大口径列車砲ノ数、最低七門ト推定ス。
書きかけて、手が止まった。
しばらく考えてから、ザイツはその後ろに一語、書き足した。
――但シ、観測資料ノ信頼性ニ付キ、別途検証ヲ要ス。
その一語が、参謀本部の机に届くまでのどこかで削られることを、ザイツはまだ知らなかった。