# 幻影砲兵 第一部「大蛇の目覚め」
## 第十一章 朝露
開戦六十六日目、午前六時五十分。
高度八千九百メートルの空は夜明けの直後でも、まだ濃い藍色をしていた。ラーシュ・ニューマンは酸素マスクの内側で白い息を吐きながら、左の翼の下を見下ろした。
ヴェステルボリの包囲線が、薄い朝霧の底に沈んでいた。唐松の森、白樺の林、刈り入れの終わった麦畑。そのすべてが夜のあいだに降りた露で、灰色がかった銀色に光っていた。
その銀色の上に黒い線が走っていた。
ラーシュは双眼鏡を目に当てた。
細い、黒い線。畑の端から林の縁へ、ゆるやかに曲がりながら続いている。幅は双眼鏡の視野の中で髪の毛ほど。だが、はっきりと見えた。まわりの銀色の中で、そこだけが露を失って黒く沈んでいた。
「轍だ」
後席の写真員、ビョルクが身を乗りだした。
「どこです」
「畑の端から、北の林へ。二本、平行に走ってる。重いものを引いた跡だ。夜のうちに通った」
ラーシュは双眼鏡を動かした。黒い二本の線は林の縁で途切れていた。林の中に入ったのだ。そして林の縁から百メートルほど内側で、梢の並びがわずかに乱れていた。
「夜のうちに動けば、朝の写真には写らない」
ラーシュはつぶやいた。
「そう思ったんだろうな、向こうの誰かは。でも、露は正直だ。夜に動いたものは露を蹴散らす。朝日が昇って露が乾くまで、二時間。そのあいだは夜に何が通ったか、全部、地面に書いてある」
ビョルクがカメラのシャッターを切りはじめた。
「ロスヴィークのときはこっちが動けなかった」ラーシュは言った。「今度は向こうが動いて、そのせいで見つかる」
皮肉なもんだな、とラーシュは思った。だが、口には出さなかった。
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その朝、ラーシュは露の上に、十一本の新しい轍を見つけた。
轍の先を一本ずつたどり、林や窪地の縁で梢の乱れや、不自然な影を探した。九本の轍の先に新しい陣地があった。二本はただの弾薬輸送のトラックの跡だった。
ラーシュは、九つの陣地のキロポストを膝の地図に書きつけ、今日の送信点を三つ通りすぎるたびに三つずつ送った。
『北部線、二百二キロ百、右、四千三百。四』
『東支線、八十八キロ九百、左、六千二百。三』
『北部線、百九十七キロ六百、左、三千八百。四』
十五秒以内の送信を九回。
八時十分、ラーシュが帰投の針路をとったとき、ヴェステルボリの北の高速線では、ヨルムンガンド二号が、最初の射撃曲線に滑りこもうとしていた。
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その日、二号は四度撃った。
一度目と二度目はうまくいった。ラーシュの二回目の偵察で、二つの陣地の重砲が、合わせて五門消えていることが確かめられた。
三度目の目標はヴェステルボリの南東、ソルバッケ村の北の窪地だった。四門。ラーシュが露の上の轍の先に見つけた陣地だった。
八発を撃ち、発進し、次の曲線へ向かう途中で、ホルムは信号所の鉄道電話でラーシュの声を聞いた。
『海軍。ソルバッケの窪地』
「どうだった」
『……偽物だった』
ホルムは受話器を握りなおした。
『二回目の写真で見たら、窪地の中に木の砲身が転がってた。帆布が焼けて、中の材木がむき出しになってる。本物はたぶん、あそこから二キロ東の林だ。轍が窪地を通りすぎて、そっちに続いてた。朝は窪地の手前で轍が薄くなってたから、見落とした』
「……そうか」
『すまない』
「あんたのせいじゃない」
ホルムは受話器を置いた。
八発。千二百キロの砲弾が、八発。木の砲身と帆布に向けて。
ホルムはしばらく信号所の窓の外を見ていた。
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その夜、ヴェストラ機関区の検修庫で、ベルグ曹長が帳面を開いた。
「今日の四回で、二号の射撃数は全装薬に換算して、累計百十八発になりました」
ホルムは黙ってうなずいた。
「造兵技師の見積もりじゃ、全装薬で二百発弱。試射の減装薬の分は造兵技師の換算表で、全装薬の何分の一かに直してあります。熱と、削れ方が違いますんでね。換算で、あと八十発ちょっと。そこで、内筒の入れ替えです」
「わかってる」
「今日のソルバッケの八発は」
「わかってる」
ホルムは、二号の砲身を見上げた。検修庫の薄暗い照明の下で、覆いをかぶった砲身は、朝と何も変わらないように見えた。だが、その内側では、一発撃つごとに旋条の山が、ほんのわずかずつ削られている。
海の上では砲身の寿命を気にすることは、ほとんどなかった。戦艦が一回の海戦で撃つ主砲弾は、一門あたり、せいぜい数十発。二百発の寿命を撃ちつくす前に海戦は終わる。あるいは艦が沈む。
ここでは毎日撃つ。一日に四回。一回に八発。一日に三十二発。
ホルムは頭の中で計算した。このまま撃ちつづければ、二号の砲身はあと三日で寿命を迎える。一号も、三号もほぼ同じだ。
三門の砲身が同時に尽きる。
「ベルグ」
「はい」
「今日の八発はあの窪地の偽物に使った。それは、二号の砲身の、二十五分の一だ」
ベルグは何も言わなかった。
「敵はそれを知らない。知らないまま、木の砲身を作った。たぶん、あの几帳面な中隊長のやり方を真似て。それで、二号の砲身の二十五分の一を削った」
ホルムは覆いのかかった砲身に手を当てた。冷たかった。
「偽物は安い。本物の百分の一の値段で作れる。リースさんが言ってたとおりだ。こっちの偽物が、向こうの爆撃機を無駄に飛ばすのと同じように、向こうの偽物はこっちの砲身を無駄に削る」
「同じ手を使ってきやがった」
「ああ。同じ手だ」
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ホルムは機関区の事務所の鉄道電話で、スコーグ峠のトンネルを呼びだした。
ハンナはすぐに出た。夜の十一時を過ぎていたが、声に眠気はなかった。
「リースさん。ダイヤに、一本、線を足してくれないか」
『何の線ですか』
「砲身の線だ」
受話器の向こうでハンナが黙った。
「三門の砲身はどれも、あと八十発前後で寿命が来る。今日のように一日に四回撃てば、三日で尽きる」
『……三門とも、ですか』
「三門とも。初陣から、同じように撃ってきたからな」
『内筒の入れ替えは、カールスハムンでしかできません。一門につき、少なくとも十日』
「三門同時に入れたら、十日間、蛇は一匹もいなくなる」
ホルムはそこで言葉を切った。何かが喉に引っかかった。
「……八門の砲兵なら、三日で全部が止まるなんてことはない」
受話器の向こうで、ハンナが小さく息をのむのが聞こえた。
『八門なら、交代で入れます。一門ずつ。撃つ数はほとんど変わらない』
「三門なら」
『三門なら、同じ日に尽きて、同じ日から、十日、黙ります』
ハンナの声が低くなった。
『向こうの考える人が撃つ数を毎日数えていたら。ある日から、ぱったり十日。……砲身の減り方にも数が出ます』
ハンナは長いあいだ何も言わなかった。やがて低い声が返ってきた。
『撃つ数を減らします』
「減らせるか」
『減らさなきゃいけません。三門の砲身の寿命がずれるように。一号を先に工廠に入れて、そのあいだは、二号と三号で撃つ。二号の番が来たら、一号が戻っている。そうやって、いつもどれか一門は工廠にいて、ほかの二門で撃つ』
「二門で、八門に見せられるか」
『見せます』
ハンナの声は少しかすれていた。
『そのかわり、中尉。撃つ一発一発を大事にしてください。偽物に撃たないでください』
「努力する」
『……ありがとうございます』
電話が切れかけたとき、ホルムはふと思いついて言った。
「リースさん」
『はい』
「砲身にもダイヤがあるんだな」
受話器の向こうで、ハンナが小さく息をのむのが聞こえた。
『はい。この紙の上のものは全部、そうです』
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開戦六十八日目の朝、ラーシュは偽物の見分け方を一つ、帳面に書き足した。
露の上の轍の、幅と深さ。
二十一センチ砲を重い牽引車で引いた轍は深く、幅が広い。露だけでなくその下の土まで掘りかえしている。目方を量ったわけではない。九人ぶんの写真で、本物の轍がどう写るかをラーシュは覚えていた。朝日が低い角度から差すと轍の縁に細い影ができる。
木と帆布の偽物を引いた轍は浅い。露は蹴散らされるが土までは届かない。影ができない。
その朝、ラーシュは十四本の轍を見つけ、そのうち四本を、影がないという理由で送らなかった。
ラーシュが送った十本の先の陣地を、二号と三号が、四度ずつ撃った。一号はカールスハムンへ向かっていた。
八度の砲撃で、七門の重砲が消えた。偽物に撃った砲弾は、一発もなかった。
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だが、その日の昼、ラーシュはあやうく死にかけた。
ヴェステルボリの上空で、二回目の偵察に入ろうとしたときだった。後席のビョルクが叫んだ。
「下! 右下、二機!」
ラーシュは右の翼越しに下を見た。
八千メートルほどの高さに、ヴァルデンの戦闘機が二機いた。それ自体は珍しいことではなかった。ラーシュが飛んでいるのは、九千メートル。ヴァルデンの戦闘機は、八千五百を超えると舵が効かなくなる。下から見上げて、歯噛みするしかない。この一か月、ずっとそうだった。
だが、その二機は上がってきた。
八千五百。八千七百。ふらつきながら、だが確かに上がってきた。見慣れた機体よりも主翼が長く見えた。
「新型だ」
ラーシュはスロットルを押しこんだ。機首を下げ、速度を稼ぐ。九千メートルで追いつかれれば、逃げ場はない。
後ろで機関砲の音がした。乾いた、連続した音。左の翼のどこかで、金属が裂ける音がした。
ラーシュは前方の雲を見た。ヴェステルボリの北に積雲の塔が立っていた。頂上は、七千メートルほど。
ラーシュはそこに向けて機体を落とした。
一分後、偵察機は雲の中にいた。白い闇が風防の外を流れた。機体が乱気流に揺さぶられた。ラーシュは計器だけを見て、機首を北へ向けつづけた。
雲を抜けたとき、ヴァルデンの戦闘機は見えなくなっていた。
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カルビー飛行場に降りたとき、ラーシュの偵察機の左の主翼には、拳が入るほどの穴が三つ開いていた。燃料タンクまであと二十センチだった。
ホルムはその夜、飛行場の格納庫にいた。ヴェストラ機関区から、鉄道電話で知らせを受けて、飛んできたのだった。
ラーシュは主翼の下に座りこんで、冒険小説を読んでいた。いつものように。ただ、ページをめくる指がかすかに震えていた。
「新型だった」
ラーシュは本から目を上げずに言った。
「主翼が長い。高空用に作りなおしたんだろう。まだ、九千じゃ、ふらふらしてた。でも、上がってこられるようになった」
「偵察は続けられるか」
「続けるさ」
ラーシュは本を閉じた。
「ただ、もうゆっくり見てる暇はなくなる。一回の偵察で、上にいられるのはせいぜい二十分。そのあいだに見つけて、送って、逃げる。露の上の轍を、一本一本、影があるかないか見比べてる時間はたぶん、なくなる」
ラーシュは自分の手を見た。震えはまだ止まっていなかった。
「向こうにも誰かいるんだな」
ラーシュは言った。
「俺たちが北の重砲で覚えたことを、向こうは南の重砲で覚えた。夜に動く。偽物を作る。それから北の目を潰そうとする。順番まで同じだ」
ホルムは何も言わなかった。
トンネルの中の、ハンナの声を思い出していた。
向こうに考える人がいます。
ラーシュがふと顔を上げた。
「海軍。偽物、見分けられるようになったよ。轍の影で」
「聞いた。今日は、一発も偽物に撃たなかった」
「そうか」
ラーシュはにやりと笑った。まだ少し、顔がこわばっていた。
「じゃあ、明日からは向こうも轍を深く掘ってくるな。偽物に重しを積んで」
「たぶんな」
「そしたら、また別のを探す」
ラーシュは冒険小説を開きなおした。
「追いかけっこだ。どっちが先にへまをするか」
ホルムは格納庫の扉の外を見た。夜の飛行場に整備兵たちの懐中電灯が、蛍のように動いていた。ラーシュの偵察機の翼の穴に明日の朝までに継ぎが当てられる。
追いかけっこだ、とホルムは思った。
向こうの誰かもいま、同じことを考えているのだろうか。