幻影砲兵   作:Sub Sonic

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12話 トンネル

# 幻影砲兵 第一部「大蛇の目覚め」

 

## 第十二章 トンネル

 

 開戦七十一日目、午前五時四十分。

 

 スコーグ峠のトンネルの作戦室で、鉄道電話が、一斉に鳴りはじめた。

 

「ヘルネ分岐駅より。爆撃を受く。本線、支線とも不通」

 

「ストールオー橋梁より。爆撃を受く。第三径間、落橋」

 

「ヴィーク信号所より。爆撃を受く。架線切断。き電停止」

 

 ハンナの部下の運転指令たちが、受話器を耳に当てたまま、ダイヤの上に赤い×印を書きこんでいった。ヘルネ分岐駅。ストールオー橋梁。ヴィーク信号所。三つの×印はどれもベルン高速線の上にあった。

 

 ハンナはダイヤの前に立ったまま、動かなかった。

 

 ヴィンター少佐が作戦室に駆けこんできた。軍服のボタンが、一つずれていた。

 

「来たか」

 

「来ました」ハンナは言った。「三か所、同時に。夜明けと同時に」

 

 ハンナは、三つの×印を指でたどった。

 

「ヘルネは高速線と東支線の分岐。ストールオーは、高速線がヴェステルボリの手前で渡る、唯一の大きな川の橋。ヴィークは高速線の南端に電気を送る変電所の、すぐ横の信号所です」

 

「どれも蛇の急所だな」

 

「はい」ハンナの声は平らだった。「鉄道のことをよく知っている人が選んでいます。ヘルネが切れれば、東支線に入れない。ストールオーが落ちれば、ヴェステルボリの北の曲線に行けない。ヴィークが止まれば、高速線の南の百キロに電気が来ない。蛇はディーゼルでも走れます。でも、昼の高速線を煙を吐いて走れば、上から丸見えです」

 

 ハンナはダイヤの上にもう一つ、別の赤い線を探した。

 

「二号は」

 

---

 

 ヨルムンガンド二号はそのとき、ストールオー橋梁の北、二十六キロの地点を、時速百八十キロで南へ走っていた。

 

 ホルムは前から二両目の機関車の運転室にいた。夜明け前にヴェストラ機関区を出て、ヴェステルボリの北の射撃曲線へ向かう途中だった。今朝のダイヤでは、六時二十分にハルス丘陵の第七十一射撃曲線に入り、ラーシュの最初の座標を待つことになっていた。

 

 運転室の鉄道電話が鳴った。

 

 機関士が受話器を取り、二言三言聞いて、顔色を変えた。

 

「中尉。ストールオー橋梁が落ちました」

 

 ホルムは受話器を奪いとった。

 

『二号、二号。こちら司令所』

 

 ハンナの声だった。

 

『ストールオーの第三径間が爆撃で落ちています。この先、ヴェステルボリには行けません。ただちに減速して――』

 

 ハンナの声が、一瞬、途切れた。

 

『――敵の爆撃機がまだ高速線の上空にいます。ヘルネの上に六機、ストールオーの上に四機。二回目の爆撃に入る構えです。偵察機も、一機、高速線に沿って北上中』

 

 ホルムは運転室の窓から、南の空を見た。

 

 夜明けの白い空に黒い点がいくつか見えた。まだ遠い。だが、確かにこちらへ向かってくる。

 

「止まれば、見つかる」

 

 ホルムは受話器に向かって言った。

 

「引き返せば、背中を見せる。偵察機が高速線に沿って北上してくるなら、走っている千トンの列車はここから見える」

 

『わかっています』

 

「どこか、隠れる場所は」

 

 受話器の向こうで、紙をめくる音がした。

 

『……十一キロ北に、ヴァッテン・トンネルがあります』

 

 ハンナの声は落ち着いていた。

 

『高速線の、ヴァッテン丘陵の下を抜けるトンネルです。長さ、二千四百メートル。複線。二号の全長の、十八倍あります。トンネルの中なら、上からは見えない。入口から八百メートルも入れば、ふつうの爆弾では届きません』

 

「十一キロ北。いま、南に向かってる」

 

『はい。止まって、引き返してください。十一キロなら、四分』

 

「偵察機は」

 

『北上中の偵察機が、ヴァッテン・トンネルの南口の上空に着くまで、推定で七分』

 

 ホルムは機関士を見た。機関士はすでに制動弁に手をかけていた。

 

「止めて、引き返す。最大の加速で」

 

「千トンですよ、中尉。時速百八十キロから止まるだけで二キロ」

 

「わかってる。やってくれ」

 

---

 

 制動がかかった。

 

 ホルムの体が前へ投げだされそうになった。運転室の壁に手をついて、踏みとどまった。足元から、制輪子が車輪に押しつけられる重い唸りが響いてきた。焼けた鉄の匂いが運転室の中にまで上がってきた。窓の外で、車輪のまわりから、青白い煙が流れていく。森の流れがゆっくりになっていく。

 

 時速百二十キロ。八十キロ。四十キロ。

 

 止まった。

 

 ホルムは懐中時計を見た。制動をかけてから、一分十秒。

 

「制動、緩め。逆転器、後進」

 

 機関士は、制動管の圧力計の針が戻りきるのを待った。三秒。四秒。それから逆転器のハンドルを後ろへ倒した。

 

「後進、全力」

 

 四両の機関車の主電動機が向きを変えて、うなりを上げた。二号の最後尾の機関車が今度は先頭になる。千トンの列車が身をよじるように北へ動きだした。

 

 時速二十キロ。五十キロ。九十キロ。

 

 ホルムは運転室の窓から身を乗りだして、南の空を見た。黒い点はさっきより大きくなっていた。爆撃機ではない。それよりずっと小さい。一機だけ。偵察機だった。高速線に沿って、まっすぐこちらへ向かってくる。

 

 時速百四十キロ。

 

 前方に丘陵の黒い影が迫ってきた。その影の裾に半円形の、さらに黒い穴が開いていた。

 

 ヴァッテン・トンネルの南口。

 

「あと、一キロ」

 

 機関士が怒鳴った。

 

 ホルムはもう一度空を振り返った。偵察機はまだ遠かった。だが、高度は、七千メートルほどに見えた。あの高さからなら、この列車はきっと見えている。朝日を受けて光る長い砲身も、線路の上を走る千トンの蛇も。

 

 見えているかどうかはわからない。見られていれば、終わりだ。見られていなければ――。

 

「制動!」

 

 列車がトンネルの口に吸いこまれた。

 

 窓の外が、一瞬で真っ暗になった。

 

---

 

 列車は、トンネルの南口から八百メートル入った地点で止まった。

 

 砲身の先端から最後尾の機関車まで、百三十メートル。そのすべてが丘陵の下の、厚さ六十メートルの岩盤に覆われていた。

 

 ホルムは運転室から降りた。

 

 トンネルの中は湿った岩と、機関車の焼けた制輪子のにおいがした。天井の照明はとうに消されていた。懐中電灯の光が濡れた煉瓦の壁を、ぬらぬらと照らしだした。

 

 ベルグ曹長が砲員たちを率いて、列車の脇を走ってきた。

 

「海軍さん。全員、無事です」

 

「そうか」

 

「見られましたかね」

 

「わからない」

 

 ホルムは南口のほうを振り返った。八百メートル先に小さな白い半円が見えた。夜明けの空が、そこだけ切り取られたように光っていた。

 

 その白い半円の上をいま、ヴァルデンの偵察機が飛んでいるはずだった。

 

 ホルムは懐中時計の秒針を見つめた。

 

 一分。二分。三分。

 

 南口の白い半円は何も変わらなかった。爆音も聞こえなかった。

 

 十分。

 

 トンネルの中に、砲員たちの息づかいだけが響いていた。誰も口をきかなかった。

 

 二十分が過ぎたとき、鉄道電話の携帯機を抱えた通信兵が、ホルムのところへ走ってきた。トンネルの壁に沿って引かれた保線用の電話線に、携帯機をつないだのだった。

 

『二号。こちら司令所』

 

 ハンナの声だった。

 

『敵の偵察機は、ヴァッテン・トンネルの上空を通過して、北へ向かいました。旋回はしていません。そのまま、ヴェストラの方角へ』

 

「見られたか」

 

『わかりません。ただ、通過したとき、減速も旋回もしていません。何かを見つけた偵察機はたいてい、もう一度見に戻ってきます』

 

 ホルムは息を吐いた。自分がずっと息を止めていたことに気づいた。

 

『それから中尉』

 

「なんだ」

 

『そのまま、トンネルの中にいてください。日没まで』

 

「日没まで」

 

『爆撃は終わっていません。敵の二回目の爆撃がいま、ヘルネに入っています。三回目もたぶん、来ます。高速線の上は今日一日、蛇が出られる空じゃありません』

 

 ホルムは南口の白い半円を見た。

 

「日没まで、十一時間ある」

 

『はい』

 

「千トンの列車が、十一時間、止まっている」

 

『はい』

 

 ハンナの声がほんの少しだけやわらかくなった。

 

『でも、中尉。止まっているものは見つかった瞬間に死ぬ。それは見つかれば、の話です』

 

---

 

 十一時間は長かった。

 

 トンネルの中は寒かった。岩盤から、絶えず水がしみだし、壁を伝って線路の脇の溝へ流れていた。砲員たちは機関車の運転室と、大物車の砲架の陰に分かれて、毛布にくるまった。

 

 昼過ぎ、トンネルの岩盤を通して、遠い地響きが伝わってきた。一度。二度。三度。爆撃だった。どこか、高速線の上の、どこか。ホルムはその響きの間隔を数えようとして、やめた。

 

 ベルグ曹長がホルムの隣に腰を下ろした。缶に入れた湯を差しだした。機関車の電熱器で沸かしたものだった。

 

「前の戦争でも、トンネルに隠れたことがあります」

 

 ベルグは言った。

 

「旧式の列車砲でしたがね。敵の飛行機が来るたびに、近くのトンネルに逃げこんだ。あのころの飛行機は爆弾なんぞ、ほんの少ししか積めなかった。それでも、怖かった」

 

「いまは」

 

「いまも怖いですな」

 

 ベルグは湯をすすった。

 

「でも、ほっとしてもいる。海軍さんにはわからんかもしれんが」

 

「何が」

 

「トンネルの中は動けない。見られない。何もできない。上で何が起きていても、あっしらには関係がない。こういうのは久しぶりです」

 

 ベルグはトンネルの天井を見上げた。懐中電灯の光が届かない、暗い岩盤。

 

「毎日、撃って、走って、撃って、走って。いつ見つかるか、いつ落ちてくるか。そればっかり考えてた。ここではそれを考えなくていい。岩が、六十メートル、あっしらの上にある」

 

 ホルムは何も言わなかった。

 

 ロスヴィークの白樺林を思い出していた。ダールの中隊には岩盤もトンネルもなかった。見つかれば、それで終わりだった。

 

 止まっているものは見つかった瞬間に死ぬ。

 

 だが、見つからない場所で止まっているものは死なない。

 

「ベルグ」

 

「はい」

 

「高速線にトンネルはいくつある」

 

「さあ。ソーデルさんなら、知ってるでしょう」

 

 ホルムは立ちあがった。トンネルの壁の携帯電話機に歩みより、受話器を取った。

 

「司令所。二号のホルムだ。リースさんを」

 

 少し待って、ハンナの声が出た。

 

「リースさん。高速線と支線に、二号がまるごと入る長さのトンネルはいくつある」

 

 受話器の向こうで、ハンナが、一瞬、黙った。

 

『……十四本です』

 

 ハンナの声は少し震えていた。ホルムが何を言いだそうとしているか、もうわかっているようだった。

 

『二号をまるごと収めて、入口から五百メートル以上奥に止められる長さのトンネルが、高速線に九本。東西の支線に五本。私もいま、同じことを考えていました』

 

「ダイヤに載せてくれ」

 

『載せます。十四本のトンネルを蛇の巣にします』

 

 ハンナは少し間を置いた。

 

『今日から、止まる場所は曲線の上と待避線とトンネル。三種類になります。敵は曲線と待避線しか探していません。トンネルの中は写真に写りません』

 

「偽物もトンネルに入れるか」

 

『入れません』ハンナは即座に言った。『偽物は見つけてもらうためのものです。トンネルの中に隠したら、意味がありません。トンネルは本物だけの巣です』

 

「巣は入口を塞がれたら、墓になる」

 

 ホルムは言った。

 

『……はい』

 

 ハンナの声が少しだけ低くなった。

 

『向こうがトンネルに気づいたら。坑口を崩されたら。だから、同じトンネルには、二晩続けて入れません。十四本を順番に使います。それからどのトンネルにも、崩された坑口を掘りかえす保線の班を近くに置きます』

 

---

 

 日没の二十分前、ハンナから連絡が来た。

 

『ストールオー橋梁の第三径間が仮復旧しました。ソーデルさんの保線隊です』

 

「落ちた橋が、一日で?」

 

『ソーデルさんは高速線を設計したとき、橋は落ちるものだと思って設計したそうです。どの橋の径間も同じ長さに揃えてある。そして予備の橋桁を、三径間分、ヴェストラの資材置き場に置いてあった』

 

 ハンナの声にほんのわずかな誇りがにじんでいた。

 

『戦争のためじゃありません。洪水と、雪崩のためです。でも、同じことです。橋脚は無事でした。落ちたのは桁だけです。落ちた径間をクレーンで吊りあげて、予備の桁と差しかえた。八時間で』

 

「ヘルネは」

 

『ヘルネの分岐器はまだです。ヴィークの架線は、二時間後に通電します。今夜の二号の行き先はストールオーを渡った先の、ハルス丘陵の第七十四曲線。そのあと、夜明け前に、ヴァッテン・トンネルに戻ってきてください。明日の昼はまたそこで休みます』

 

「了解」

 

 受話器を置きかけて、ホルムはふと訊いた。

 

「リースさん。今日の爆撃で国鉄の人は」

 

 受話器の向こうの沈黙は長かった。

 

『……ヘルネ分岐駅の信号扱所に三人いました』

 

 ハンナの声は平らだった。平らすぎた。

 

『一人は私と同じ年に入った人でした』

 

 ホルムは何も言えなかった。

 

『グラーンのときと同じです。分岐駅は動けません。地図に載っています』

 

「リースさん」

 

『大丈夫です』

 

 ハンナは言った。

 

『今夜のダイヤはもう引いてあります。二号は定刻に出てください』

 

---

 

 午後七時十二分。日が沈んだ。

 

 ヨルムンガンド二号は、ヴァッテン・トンネルの南口から、ゆっくりと夜の中へ這いだした。

 

 十一時間ぶりの外の空気は冷たく、澄んでいた。南の空に赤い光がいくつか見えた。昼間の爆撃で燃えた、ヘルネ分岐駅の方角だった。

 

 ホルムは運転室の窓から、その赤い光を見ていた。

 

 ヘルネの信号扱所。三人。一人はハンナと同じ年に入った人。

 

 あの赤い光の下で、ハンナの同期が死んだ。二号が十一時間トンネルの中で湯をすすっていたあいだに、分岐駅の信号扱所で、逃げる場所も隠れる岩盤もないまま。

 

 蛇を守るために蛇の通る線路が狙われた。蛇はトンネルに隠れた。線路の上の人間は隠れられなかった。

 

 ホルムはダールの手帳を開いた。暗い運転室の中で、懐中電灯を手のひらで覆い、指のあいだから漏れる光で一行書いた。

 

 ――開戦七十一日目。ヘルネ。三人。二号、無傷。

 

 書いてから、しばらくその行を見つめていた。

 

 二号はストールオー橋梁の、真新しい第三径間を渡った。仮の橋桁の上で、千トンの列車はほんのわずかに沈み、軋んだ。だが、橋は持ちこたえた。

 

 橋の向こうで、ハルス丘陵の黒い影が夜空を切りとっていた。

 

 その夜、ヨルムンガンド二号は、ハルス丘陵の第七十四射撃曲線から、ヴェステルボリの包囲線の弾薬集積所に向けて、八発を撃った。

 

 同じ時刻に鉄道網の反対側の東支線の丘の上で、イングヴァルの班が閃光を焚いた。無線からはゲルダの長い長点で、六号の射撃報告が流れた。

 

 ヴァルデンの爆撃隊が、一日かけて切り刻んだはずの鉄道網の上で、蛇は何事もなかったかのように撃った。

 

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