13話 包囲の終わり
# 幻影砲兵 第一部「大蛇の目覚め」
## 第十三章 包囲の終わり
開戦七十八日目、午後。
クロンベリ町役場の地下で、ブルクハルト大佐は、一枚の表を前にして、長いあいだ黙っていた。
表は作戦参謀がまとめたものだった。左の列に日付。右の列に、ヴェステルボリの包囲線に展開する重砲の数。
開戦五十七日目、二十四門。
五十八日目、十五門。
六十日目、十一門。
六十三日目、補充を受けて十九門。
六十六日目、十二門。
七十日目、補充を受けて十八門。
七十四日目、九門。
七十八日目、五門。
その下にもう一つの表があった。鉄道爆撃の戦果。十一日間で、爆撃を加えた鉄道目標、延べ四十二か所。うち、橋梁の落橋、九。分岐器の破壊、十四。架線の切断、十九。
そしてそれぞれの目標が何時間で復旧したか。
最も長かったもので三十一時間。ほとんどは半日以内だった。
「ザイツ大尉」
ブルクハルトは表から目を上げずに言った。
「鉄道爆撃のあいだ、ヨルムンガンドの砲撃は減ったか」
ザイツは作戦図の前に立っていた。赤いピンは、百四十本を超えていた。黒い糸はもう数えるのをやめていた。
「減っていません」ザイツは言った。「一日に四回から六回。爆撃の前と、変わりません」
「爆撃した日の、翌日もか」
「翌日も。当日も。ストールオー橋梁を落とした七十一日目の夜にも、ヴェステルボリの北から撃ってきました。落とした橋の、向こう側から」
「つまり、橋の向こうに少なくとも一門がいた」
「あるいは橋がその日のうちに直った」
ブルクハルトはようやく顔を上げた。
「どちらだと思う」
ザイツはすぐには答えなかった。
「わかりません」
それが正直な答えだった。
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ブルクハルトは椅子の背にもたれた。天井の裸電球をしばらく見上げていた。
「わたしは、三十年、砲兵をやってきた」
大佐は言った。独り言のような声だった。
「前の大戦では中隊長だった。塹壕の向こうの敵の砲と毎日撃ちあった。向こうが撃てば、こちらが撃ち返す。こちらが撃てば、向こうが撃ち返す。それが砲兵の戦争だった」
ザイツは黙って聞いていた。
「この戦争で、わたしはそれが終わったと思った。空に目があり、空から爆弾が落ちる。見つかった砲は撃ち返す前に死ぬ。開戦の一か月で、北の重砲はそうやって消えた。重砲は、空を持っている側だけの武器になったと思った」
大佐は表の上の数字を指でなぞった。
「だが、北は空を持たずに重砲を取り戻した。一機の偵察機と線路と、四十センチの砲で。空から見つけられないほど速く走る重砲で」
大佐はザイツを見た。
「ザイツ大尉。きみの計算ではあれは何門だ」
「最低七門です」
「最低七門。おそらく八門。本国にはそう報告した。本国は偵察飛行隊を二個と爆撃隊を一個、送ってきた。高空用の新型戦闘機も」
大佐は少し間を置いた。
「七門でも、八門でも、三門でも、同じことだ」
ザイツは思わず顔を上げた。
「大佐」
「数は関係ない。いまのわたしに関係があるのはこの表だけだ」
大佐は表を持ちあげて、ザイツに見せた。
「二十四門が、二十一日で五門になった。補充を入れても、減るほうが速い。北の砲の数を正しく数えたところで、この線は上を向かない」
大佐は表を机の上に置いた。
「ヴェステルボリの包囲を解く」
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地下室が静まりかえった。
作戦参謀が何か言いかけて、口をつぐんだ。通信将校が受話器を持ったまま動かなくなった。
「重砲はすべて南へ下げる」ブルクハルトは続けた。「ヴェステルボリから、八十キロ以上。あの砲の射程の外まで。歩兵はいまの線に残す。要塞を囲むだけ囲んでおく。撃たずに飢えさせる」
「冬が来ます」作戦参謀が言った。「要塞には、二か月分の食料があると見積もられています。冬のあいだ、歩兵を包囲線に張りつけておくのは」
「わかっている」
大佐の声は静かだった。
「わかっているがほかに手がない。重砲を包囲線に置けば、毎日、あの蛇に食われる。重砲なしで要塞を落とすことはできない。ならば、重砲を下げて、次の手を考えるまで時間を稼ぐ」
大佐はザイツを見た。
「ザイツ大尉。次の手はきみが考えてくれ」
「……私が」
「きみの班はあの蛇だけを追っている。この司令部で、あれのことを一番よく知っているのはきみだ」
大佐は立ちあがり、外套を取った。
「必要なものがあれば、言え。人でも、資材でも」
ザイツは作戦図を振り返った。百四十本の赤いピン。数えきれない黒い糸。そのどこかに嘘があるかもしれない、きれいすぎる図。
ザイツはブルクハルトに向きなおった。
「写真判読の人間を一人ください」
「一人でいいのか」
「一人でいいです。ただし、一番目のいい人を」
ブルクハルトはしばらくザイツの顔を見ていた。それからうなずいた。
「リンデマン軍曹を回そう。空軍の判読班から、この司令部に出向している。女だが、目はわたしが知るかぎり、一番いい」
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開戦八十日目。
ヴェステルボリの包囲線から、ヴァルデン軍の重砲が消えていった。
ラーシュはその朝、高度九千メートルから、その光景を見下ろしていた。
包囲線の南に続く道という道を、長い車列が埋めていた。牽引車に引かれた重砲。弾薬を積んだトラック。馬に引かれた荷車。それらがすべて、南へ南へと動いていた。朝露の上に何百本もの黒い轍が、ほどけた糸のように延びていた。
「撃たなくていいんですか」
後席のビョルクが言った。
「海軍は撃たないそうだ」
ラーシュは昨夜の電話を思い出していた。ホルムの声は疲れていた。
――退いていく砲は撃たない。弾がもったいないし、砲身がもったいない。それに退いていくやつを撃っても、包囲が早く終わるわけじゃない。
それだけではないだろう、とラーシュは思った。だが、訊かなかった。
偵察機は、ヴェステルボリの要塞の上空に差しかかった。
星形の城壁。その内側に赤い瓦屋根の旧市街。二か月半のあいだ、南から撃ちこまれる砲弾で、屋根のいくつかは崩れ、いくつかは焼けていた。
旧市街の真ん中の、大聖堂前の広場に、何か白いものが敷きつめられていた。
ラーシュは双眼鏡を目に当てた。
白いシーツだった。何百枚、いや、何千枚ものシーツが広場の石畳の上に、並べて敷かれていた。それが上から見ると文字になっていた。
一文字の高さが、二十メートルはあった。
**TACK**
ありがとう。
ラーシュは双眼鏡を下ろした。目の奥が熱くなった。
「撮れ」
ラーシュはかすれた声で言った。
「撮れ、ビョルク。全部だ」
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その写真がスコーグ峠のトンネルに届いたのは、その日の夕方だった。
ハンナは作戦室の机の上で、それを長いあいだ見つめていた。粒子の粗い、白黒の写真。星形の城壁と、崩れた屋根と、広場の白い四文字。
ホルムがその後ろに立っていた。
「要塞の人たちは何が自分たちを助けたのか、知らない」ハンナは言った。「北のどこかから、大きな砲弾が飛んできて、南の砲を黙らせた。それしか、知らない。でも、ありがとうと書いた。空に向かって」
「空に向かって書けば、敵の偵察機も見る」
「見たと思います」
ハンナは写真を机に置いた。
「見て、どう思ったでしょうね。向こうの、考える人は」
ホルムは何も言わなかった。
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その週の終わり、ホルムはハンナと並んで、ヘルネの町はずれの墓地を歩いていた。
ヘルネ分岐駅の信号扱所で死んだ三人の、葬儀の帰りだった。国鉄の職員が、二百人以上集まった。制服を着た運転士、車掌、保線夫、信号扱手。ハンナはその中でずっと黙っていた。
墓地を出る坂道で、ハンナがふいに口を開いた。
「中尉。私が国鉄に入って、何年になると思いますか」
「さあ」
「七年です。運行計画課に来て、五年」
ハンナは坂の下に見える線路を見ていた。爆撃で焼けたヘルネ分岐駅の信号扱所が、黒い骨組みだけになって立っていた。その脇を仮設の信号で、貨物列車がゆっくりと通りすぎていった。
「そのあいだ、私が引いたダイヤで、旅客列車が遅れたことは、一度もありません」
ホルムはハンナの横顔を見た。
「遅れた列車はいくらでもありました。雪で。故障で。事故で。でも、それはダイヤのせいじゃない。私が机の上で引いた線のせいで、旅客列車が一本でも遅れたことは、七年間、一度もない」
「戦争が始まってからも」
「戦争が始まってからも、一本も」
ハンナは小さく息を吐いた。白い息だった。
「蛇を走らせるために臨時の列車を何百本も、ダイヤに押しこみました。偽物も錆取りも回送も。それでも、旅客列車は、一本も遅らせていません。ヘルネが落ちた日も。ストールオーが落ちた日も。全部、ほかの線に回して、時刻どおりに着かせました」
「どうして、そこまで」
ハンナはしばらく答えなかった。坂の下で、貨物列車の最後尾が、分岐駅の向こうへ消えていった。
「旅客列車の中には、誰かを待たせている人が乗っています」
ハンナは言った。
「駅のホームで、誰かを待っている人がいます。父親の葬式に向かう人も戦地から帰ってくる人も、入院した子どもに会いに行く人も。私が引いた線が一分ずれれば、その人たちの一分がどこかへ消える」
ハンナはホルムを見た。
「私にできることはそれだけなんです。この戦争で。蛇を走らせて、人を殺す手伝いをしながら、せめて、線路の上の人たちの時間だけは、一分も奪わない。それが私が私でいられる、たった一つの約束なんです」
ホルムは何も言えなかった。
ダールの手帳を思い出していた。その中に書きつけてきた、日付と、場所と、数字。唐松の森。八発。二門。ヘルネ。三人。
自分にはそういう約束が何もなかった。
「リースさん」
「はい」
「その約束は守ってくれ」
ハンナは少し驚いたようにホルムを見た。
「俺にはそういうのがない」ホルムは言った。「撃って、数えるだけだ。だから、あんたのは守ってほしい。あんたの分と、俺の分と」
ハンナは長いあいだ黙っていた。
それから小さくうなずいた。
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開戦八十四日目、夜。
クロンベリ町役場の地下で、ザイツは、一人の下士官と向かいあっていた。
マルタ・リンデマン軍曹。三十歳前後の、小柄な女性だった。空軍の制服の袖を肘までまくりあげていた。机の上には拡大鏡と立体視鏡と、何百枚もの偵察写真が積まれていた。
「大尉のおっしゃる蛇は写真に写りません」
リンデマンは前置きなしに言った。
「この四週間、北の鉄道網を撮った写真を全部見ました。二千枚以上。四十センチ砲を載せた列車が写っていると思われるものは、一枚もありません。走っている列車は写っています。貨物列車、旅客列車、回送列車。でも、どれが蛇なのか、上からは区別がつかない」
「偽装しているのか」
「たぶん、していません」リンデマンは言った。「する必要がないんです。九千メートルから見れば、列車はただの細長い影です。四十センチの砲身を載せていても、屋根のある貨車でも、上からは同じに見える。走っているあいだは」
「では止まっているときは」
「止まっているときは見つかるはずです。昼間、どこかに止まって隠れている。そこを撮ればいい。でも、それも写っていない」
リンデマンは写真の束から一枚を抜きだした。北の高速線の一部。森の中をまっすぐに線路が走っている。
「大尉。一つ、気づいたことがあります」
「なんだ」
リンデマンは写真の上に拡大鏡を置いた。
拡大鏡の下で、二本のレールが細い銀色の糸のように光っていた。朝日を受けて。そしてそのすぐ脇にもう一組の線路があった。待避線だった。
待避線のレールは光っていなかった。地面と、ほとんど見分けがつかなかった。
「使われている線路は光るんです」
リンデマンは言った。
「車輪が毎日、レールの頭を磨きます。だから、錆びない。朝日や夕日を低い角度で受けると写真に、銀色の線になって写ります。使われなくなった線路は数日で、レールの頭の光沢が落ちていきます。雨が多ければ、もっと早い。光を返さなくなったレールは写真の上では、地面に溶けこんでしまう。いつもというわけではありません。光の角度と、フィルムと、高さしだいです。でも、朝と夕方の写真を何日か続けて並べれば、違いは出ます」
ザイツは拡大鏡を覗きこんだ。
光っている本線。光っていない待避線。
「蛇が昼間に止まって隠れる場所はどこか」
リンデマンは言った。
「待避線です。本線に止まっていたら、ほかの列車の邪魔になる。だから、待避線に入る。千トンの列車が毎日、どこかの待避線に出入りしている。その待避線は光るはずです。北の鉄道網には待避線が何百本もあります。そのほとんどは戦争で使われなくなって、錆びている。そのなかで、光っている待避線を探せばいい」
「光っている待避線が全部、蛇だとはかぎらない」
ザイツは言った。
「貨物も使う。軍の補給列車も使う。保線の工作車も」
「はい」
リンデマンはうなずいた。
「光っているのは蛇ではありません。蛇がいるかもしれない場所です。何百本を何十本にするだけです。そこから先は別の目で見ます」
ザイツは長いあいだ、拡大鏡の下の銀色の線を見つめていた。
線路は使えば光る。嘘をつかない。
音も光も無線も嘘をつけるかもしれない。だが、鉄は車輪に磨かれれば光り、放っておかれれば錆びる。それだけだ。
「軍曹」
「はい」
「明日から、北の鉄道網の待避線を、一本残らず撮ってくれ。朝と夕方。光っているものと光っていないものを分けて」
「偵察飛行隊に要請を出します」
リンデマンは立ちあがりかけて、ふと手を止めた。
「大尉。一つ、聞いてもいいですか」
「なんだ」
「大尉は、蛇が何匹いると思っていらっしゃるんですか。本当は」
ザイツは作戦図を見た。百四十本を超える赤いピン。数えきれない黒い糸。
「わからない」
ザイツは言った。
「だから、嘘をつかないものが欲しいんだ」
リンデマンはしばらくザイツの顔を見ていた。それから小さくうなずいて、写真の束を抱えて出ていった。
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その夜、ザイツはペーターへの返事を書いた。
――ペーター。きみの答えは正しい。
――どの二つを選んでも別の列車になる知らせを、なるべくたくさん集める。その数が列車の数のいちばん少ない数だ。お父さんも同じことを考えた。
――それから線で消したところの問題。
――お父さんはまだほんとうの答えを知らない。
――でも、きみの言ったことはたぶん、正しい。嘘の知らせを送っている人は列車が何本あるか、ちゃんと知っている。だから、お父さんはその人に会いたいと思っている。会って、答えを聞きたい。
――それまでは嘘をつかないものを探すことにする。
――たとえば、鉄。鉄は使えば光って、使わなければ錆びる。鉄は嘘をつかない。
――次の問題はまた今度。
ザイツはペンを置いた。
換気口の外で、夜の風が鳴っていた。北の方角から、遠く雷のような音が聞こえた気がした。ザイツはストップウォッチに手を伸ばしかけて、やめた。
包囲は解けた。重砲は蛇の射程の外へ退いた。
だが、蛇はまだ線路の上にいる。何匹かはわからない。
ザイツは灯りを消した。
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同じ夜、スコーグ峠のトンネルの作戦室で、ハンナ・リースはダイヤの前に立っていた。
灰色の線がまた一本、書き加えられていた。ヴァルデンの偵察機の線。今日の午後、ベルン高速線の南の区間を低く、ゆっくりと飛んでいった線だった。これまでの偵察機とは飛び方が違った。本線の上ではなく本線の脇を、なめるように飛んでいた。
待避線の上を。
ハンナは灰色の線を指でたどった。
それから机の上の電話機を取り、ソーデル技師長の番号を回した。
「ソーデルさん。夜分にすみません」
『構いませんよ。どうしました』
「古い貨車の車輪に砥石を噛ませることは、できますか」
受話器の向こうで、老技師長が少しのあいだ黙った。
『……できますが。何に使うんです』
ハンナは灰色の線を見つめたまま、答えた。
「線路を磨きたいんです。国じゅうの待避線を一本残らず」
(第一部 了)