# 幻影砲兵 第二部「写真と時刻表」
## 第十四章 錆取り列車
ヴェストラ機関区の資材置き場の隅に、廃車を待つ古い有蓋貨車が二十両ほど、雨ざらしで並んでいた。
ソーデル技師長はその一両の下に潜りこんでいた。七十に手が届こうという老人が泥と油にまみれて、仰向けに台車を見上げている。ハンナはその足元にしゃがみこんで、懐中電灯で手元を照らしていた。
「車輪そのものに砥石を当てても、意味がない」
台車の下から、ソーデルのくぐもった声がした。
「車輪は自分の踏む場所しか磨きません。レールの頭の、幅にして二十ミリほど。本線の光り方と同じにするなら、それで足りますが」
「足りますか」
「足ります。本線を走る列車の車輪も同じ幅しか磨いていない。上から見て同じに見えればいいなら、同じ幅を磨けばいい」
ソーデルは台車の枠を指で叩いた。
「ここに腕を一本つけます。腕の先に砥石。バネで、レールの頭に押しつける。貨車を引いて走れば、砥石がレールを擦る。錆が落ちて、下の鉄が出る。三往復もすれば、一週間放っておいた待避線でも、上からの写真では本線と見分けがつかなくなる。近くで見れば、砥石の筋が残りますがね」
「何両、作れますか」
「ここにある二十両、全部。三日あれば」
ハンナは懐中電灯を持ったまま、頭の中で数えた。
二十両を、五両ずつ、四つの編成に分ける。一編成に古い蒸気機関車を一両。北部線、高速線の南と北、東西の支線。四つの線区に一編成ずつ。
北の鉄道網の待避線は、四百十二本。そのうち、戦争で使われなくなって錆びているのが、三百本あまり。一編成が、一晩に待避線に入って三往復し、本線に戻って次の待避線へ。給水と、砥石の交換と、信号所との打ち合わせを入れて、一晩に三十本がいいところ。四編成で百二十本。三晩で全部。
それから、五日ごとにまた全部。
「ソーデルさん。錆は、一週間でつきますか」
「この季節なら、五日です」
ソーデルは台車の下から這いだしてきた。白い髭に赤茶けた錆の粉がついていた。
「秋の雨と、朝の露と。鉄は北の秋が嫌いなんです」
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三日後の夜、最初の研磨車がヴェストラ機関区を出た。
古い蒸気機関車に牽かれた、五両の有蓋貨車。その台車の下から、砥石をつけた鋼の腕が、レールに向かって伸びていた。
ハンナはその夜、スコーグ峠のトンネルを出て、研磨車の最後尾の車掌室に乗っていた。自分の目で確かめたかった。
研磨車は高速線の南の区間の、最初の待避線に入った。三年前まで貨物列車の退避に使われていた、長さ六百メートルの待避線だった。戦争が始まってから、一度も列車が入っていない。
機関車がゆっくりと貨車を押しこんだ。
貨車の下から、音が響きはじめた。鉄が石に擦れる、低い、唸るような音。車掌室の床板を通して、足の裏に細かい震えが伝わってきた。
ハンナは車掌室の窓から身を乗りだし、後ろのレールを懐中電灯で照らした。
研磨車が通りすぎたあとのレールの頭に、細い銀色の帯が一本、闇の中に浮かびあがっていた。
二往復目で帯は太くなった。三往復目で、レールの頭は隣の本線と同じ色になった。
ハンナは懐中電灯を消した。
暗闇の中で、自分の心臓の音が聞こえた。
敵の偵察機はこの待避線を撮るだろう。明日の朝か、明後日の朝。そして写真の中で、この待避線は光っている。昨日まで錆びていた待避線が今日は光っている。
敵の判読員はそれを見て、何を思うだろう。
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開戦八十九日目、朝。
クロンベリ町役場の地下の、判読班の小部屋で、マルタ・リンデマン軍曹は、立体視鏡から顔を上げた。
「大尉」
ザイツは隣の机で、音源標定班の記録を整理していた。顔を上げた。
「待避線が全部、光っています」
リンデマンの声は落ち着いていた。だが、机の上の写真を並べなおす手が、いつもより速かった。
「三日前の写真では高速線の南の区間の待避線は、十四本のうち、光っていたのが三本でした。昨日の写真では、九本。今朝の写真では」
リンデマンは、一枚の写真をザイツの前に置いた。
「十四本、全部です」
ザイツは拡大鏡を取った。
朝日を受けた高速線。その脇に並ぶ待避線。どの待避線のレールも細い銀色の糸になって、光っていた。三日前には地面と見分けがつかなかった待避線も。
「ほかの区間は」
「東支線も西支線も北部線も同じです。昨日までに撮った区間は全部、光りはじめています」
ザイツは拡大鏡を置いた。
しばらく何も言わなかった。
「三日で全部」
「はい」
「千トンの列車が、三日で、四百本の待避線に一度ずつ出入りしたわけではない」
「ありえません」リンデマンは言った。「誰かがわざと光らせています」
「どうやって」
「わかりません。砥石か、薬品か。空の貨車を往復させるだけでも、何度も繰り返せば、錆は落ちます」
リンデマンは写真を重ねなおした。
「大尉。私たちが待避線を撮りはじめたのは、五日前です。偵察飛行隊に要請を出して、待避線の上を低く飛ばせた。その翌々日から、待避線が光りはじめました」
「偶然かもしれない」
「かもしれません。でも、偵察機の飛び方を変えた、二日後です」
「偶然なら、それでいい」
ザイツは椅子の背にもたれた。天井の裸電球を見上げた。
「偶然でなければ、向こうはこちらの偵察機の飛び方を見ている」
こちらが光る線路を探しはじめた。向こうはそれを、偵察機の飛び方だけで察したのかもしれない。そして、三日で、国じゅうの線路を光らせた。
鉄は嘘をつかない。息子への手紙にそう書いたばかりだった。
だが、鉄を磨く人間は嘘をつける。
「軍曹」
「はい」
「きみはまだ何か言いたそうな顔をしている」
リンデマンは少し驚いたように顔を上げた。それから、ほんのわずかに口元をゆるめた。
「はい。二つあります」
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「一つ目」
リンデマンは光っている待避線の写真を二つの山に分けた。
「こちらの山は架線のある待避線です。高速線の本線から分かれて、架線もそのまま続いている。こちらは架線のない待避線。蒸気機関車の時代に作られて、電化のときに架線を張らなかったもの」
ザイツは、二つの山を見比べた。架線のない山のほうが、三倍ほど高かった。
「大尉のおっしゃる蛇は電気で走ると思います」
「なぜわかる」
「千トンの列車を、ふつうの列車砲よりずっと速く走らせるには、力が要ります。北の国鉄には高速線用の蒸気機関車はありません。本線用のディーゼルは、一番強いもので千五百馬力。戦前の鉄道年鑑とケーラー技官の話で確かめました。千トンを高速線の速さで走らせられるのは、高速線の架線から電気を取る機関車だけです」
「千トンの列車を牽くのに、電気機関車を何両使っても、同じだ」
「はい。そして電気機関車は架線から離れられません」
リンデマンは架線のない山を机の端へ押しやった。
「蛇が昼間に隠れる待避線は、架線のある待避線から探すべきです。それで、四百本が、九十本になります」
ザイツはしばらくリンデマンの顔を見ていた。
「待て。前の大戦の列車砲は蒸気機関車で牽いた」
「はい。ですが前の大戦の列車砲は、撃つ場所まで一日かけて行って、一日かけて据えつけました。いまの蛇は止まって数分で撃ち、撃ったら走り去ります。大尉が最初の日に計算なさった、三十五分で百九十キロ。あの数字がそのまま正しくなくても、蛇が、ふつうの列車砲とは比べものにならない速さで動いているのは、確かです」
ザイツは口を閉じた。
それから作戦図を振り返った。百四十本を超える赤いピン。そのうち、架線のない線区の近くに打たれたピンが、いくつあるか。
ざっと見ただけで二十本はあった。
「……二十本ある」
「はい」
「架線のない線区に。電気でしか走れない蛇が、二十回も架線のない場所の近くから撃っている」
リンデマンは黙った。
「その二十本は嘘の音と光かもしれない。あるいはきみの推理のほうに、穴があるのかもしれない。蛇が、架線のない場所でも走れる何かを持っているのかもしれない」
ザイツは架線のない山を机の端から、少しだけ引きもどした。
「架線のある九十本から、先に見る。それは正しい。だが、架線のない線は捨てない。机の端に置いておく」
「……はい」
「軍曹。二つ目は」
リンデマンはもう一枚、写真を出した。
高速線の一部だった。森の中を抜ける本線。その本線が丘陵の裾で、黒い半円の中に吸いこまれていた。
「トンネルです」
リンデマンはトンネルの南口を指さした。
「この写真は、七十一日目の朝の写真です。北の鉄道網を爆撃した日。偵察機が高速線に沿って北上しながら撮りました。ヴァッテン丘陵のトンネルの、南口」
「何か写っているのか」
「何も」
リンデマンは言った。
「何も写っていないんです。トンネルの南口にも本線の上にも。でも、この写真の二分前に、同じ偵察機が撮った写真があります」
リンデマンは、二枚目の写真を並べた。トンネルの南口から、十キロほど南の本線。
「ここに列車が一本、写っています。北へ向かって走っている。ぶれていて、長さはよくわかりません。でも、屋根の上に、何か長いものが突き出しているように見えます」
ザイツは拡大鏡を覗きこんだ。
粒子の粗い写真の中で、細長い影が本線の上を北へ向かっていた。影の上にさらに細い、棒のような影が斜めに突き出していた。
「そして、二分後の写真ではこの列車がどこにもいない」
リンデマンの声は静かだった。
「本線の上にも待避線にも。二分で十キロ。時速三百キロなら、ちょうど、トンネルの南口に着く時間です」
ザイツは拡大鏡を置いた。
「……トンネルに入った」
「少なくともそう考えるのが一番自然です。途中の分岐も待避線も、この写真の範囲には写っていません。そしてその日の偵察機が、夕方にもう一度この区間を撮っていますが、トンネルの北口から出てきた列車は、写っていません」
「トンネルの中に止まっていた」
「はい。たぶん、日没まで」
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その夜、ザイツは北の鉄道網のトンネルを、兵要地図から一本ずつ拾いだした。
長さ一キロを超えるトンネルが高速線に九本、東西の支線に五本。百三十メートルの列車をまるごと収めて、坑口から深く隠せるトンネルは、十四本。
「十四本のトンネルを爆撃すればいい」
ブルクハルト大佐はザイツの報告を聞いて、そう言った。
「トンネルの中の列車は爆撃では壊せません」ザイツは答えた。「厚さ数十メートルの岩盤があります。でも、入口と出口を塞ぐことはできる。両方の坑口を崩せば、中の列車は出られなくなる」
「ではそうしろ」
「ただし」
ザイツは言葉を選んだ。
「どのトンネルに、いつ入っているかがわからなければ、意味がありません。空のトンネルの坑口を崩しても、向こうは翌日には別のトンネルを使うだけです。十四本全部を同時に塞ぐには爆撃機が足りません。そして塞いだ坑口はあの国の保線隊なら、たぶん、一日で開けます」
「なら、どうする」
「見張ります」
ザイツは言った。
「十四本のトンネルの坑口を毎日、朝と夕方に撮ります。列車が入るところか、出るところを捉えられれば、その日はそのトンネルの中にいる。そのときに両方の坑口を塞げばいい」
ブルクハルトはしばらく黙っていた。
「きみの班の、あの判読員の見立てか」
「はい」
「女だが、目は一番いいと言ったろう」
「はい。私が思っていたよりもずっと」
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開戦九十一日目の朝。
スコーグ峠のトンネルの作戦室で、ハンナはダイヤの上の灰色の線を見つめていた。
ヴァルデンの偵察機の線がまた変わっていた。
待避線の上を舐めるような飛び方は、二日前から消えていた。かわりに灰色の線は高速線と支線の上の、いくつかの点に朝と夕方、決まって現れるようになった。
ハンナはその点を鉛筆で丸く囲んでいった。
ヴァッテン。ルンド丘陵。ストールオーの北。東支線のエルム峠。
囲み終えたとき、丸は十四個あった。
ハンナは鉛筆を置いた。
「中尉」
作戦室の隅の椅子で、仮眠をとっていたホルムが目を開けた。昨夜、二号でヴェストラに戻ってきて、そのまま報告に来ていたのだった。
「なんだ」
「向こうはトンネルに気づきました」
ホルムは跳ね起きた。
ハンナはダイヤの上の十四個の丸を指さした。
「十四本のトンネルの坑口を、朝と夕方に撮っています。蛇が入るところか、出るところを捉えようとしている」
「どうして、気づかれた」
「わかりません。七十一日目にヴァッテンに逃げこんだとき、見られていたのかもしれない。あのときの偵察機は旋回しませんでした。でも、写真は撮っていた。撮った写真をあとで、誰かが丁寧に見たのかもしれない」
ハンナの声は落ち着いていた。だが、ダイヤの縁を握る指が白くなっていた。
「光る線路を二日で見抜かれた。いや、見抜かれたんじゃない。こちらが見抜かせた。偵察機の飛び方を見て、慌てて全部の線路を光らせた。それで、向こうはこちらが見ていることを知った」
ハンナは目を閉じた。
「そして光る線路の次に何を見ればいいか、考えた。考えて、トンネルに行きついた」
「リースさん」
「向こうの、考える人は」
ハンナは目を開けた。
「私たちが何かを隠すたびにその隠し方から、何かを学んでいます。隠せば隠すほど、何を隠しているかを教えている」
ホルムはハンナの隣に立った。ダイヤの上の十四個の丸。灰色の線。赤い線。青い線。
「なら、隠すのをやめるか」
「いいえ」
ハンナは首を振った。
「隠し方を変えます。隠していることを見せないように隠します」
ハンナは新しい鉛筆を取った。
「中尉。向こうが坑口を撮るのは朝と夕方です。蛇がトンネルに入るのは夜明け前。出るのは日没後。いまのところ、写真には写っていません」
「このままなら、写らない」
「はい。でも、向こうは写らないことをおかしいと思うはずです。十四本のトンネルを毎日見張って、何も写らない。それは蛇がトンネルを使っていないからか、それとも、使っていても見えない時間に出入りしているからか」
ハンナは、十四個の丸のうちの一つに鉛筆の先を置いた。
「だから、ときどき、見せます」
「見せる?」
「偽物をトンネルに入れます」
ホルムは眉を寄せた。
「トンネルは本物だけの巣だと言ったのは、あんただ」
「言いました。でも、向こうがトンネルを見はじめたなら、トンネルにも偽物が要ります」
ハンナは丸の横に青い線を一本、引いた。
「夕方、まだ明るいうちに偽物を一本、トンネルに入れます。わざと、偵察機に撮らせる。向こうはそのトンネルを爆撃して、坑口を塞ぐ。塞がれたトンネルの中には材木の砲身が一本」
「向こうは蛇を一匹、閉じこめたと思う」
「はい。そしてトンネルを見張ったのは正しかったと思う。正しかったと思えば、見張りつづけます。十四本の坑口に朝と夕方、偵察機を縛りつけておける」
「向こうの考える人は、一本目が囮かもしれないとも考える」
「考えると思います」
ハンナはあっさりと言った。
「だから、一度では終わらせません。見せる日と、見せない日を混ぜます。今度はエルム峠。次は別のトンネルで別の日に。一つは爆撃させて、一つは爆撃させない。本物が入る日には何も見せない。そのうち、向こうはどのトンネルの写真を信じればいいのか、わからなくなります」
ハンナは鉛筆を置いた。
「本物はそのあいだに、見せていないトンネルを使います」
ホルムはしばらくダイヤを見つめていた。
「偽物は蒸気機関車で牽いてるだろう。高速線のトンネルに、煙を吐く列車が入っていったら」
「ばれます」ハンナはすぐに言った。「本物はトンネルに入るときは、必ず電気で走ります。排気を中に溜めないように。向こうの考える人なら、坑口に入っていく列車の屋根に、パンタグラフが上がっているかどうかまで、見るかもしれない」
ハンナはダイヤの余白に小さく書きこんだ。
「試作の電気機関車の、予備が一両、ヴェストラにあります。本物と同じ形の。それを偽物に回します。架線の下を本物と同じように走らせる」
「予備を囮に使えば、本物の機関車が故障したとき、替えがなくなる」
「はい」
ハンナは鉛筆を止めなかった。
「それでも、使います。一度、見せると決めたなら、本物と見分けがつかないように見せなければ、見せないほうがましです」
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その日の夕方、オスタ機関区の扇形庫で、老職人のノルドはハンナからの電話を受けた。
四番庫で仕上げたばかりの、三本目の偽砲身の出番が決まった。
「どこへ持っていくんで」
『東支線の、エルム峠のトンネルです』
「トンネルの中じゃ、せっかくの細工も誰にも見てもらえませんな」
『入るところは見てもらいます』
受話器の向こうで、ハンナの声が少しだけ笑ったように聞こえた。
『ノルドさん。その砲身には名前がありますか』
「名前? 木の大砲に名前なんぞありませんよ」
『ではつけてください。敵には、五号と呼ばれることになります』
ノルドはしばらく黙っていた。それからしゃがれた声で笑った。
「五号ね。わしの最後の木造客車は、五号車でしたよ。四十年前に作った特急の、食堂車だった」
ノルドは受話器を置いた。
四番庫の薄暗がりに、松の板で巻いた三十メートルの砲身が、横たわっていた。ノルドはその砲尾の、閉鎖機を模した箱に白いペンキで、小さく数字を書いた。
五。
誰にも見えない場所に。