# 幻影砲兵 第二部「写真と時刻表」
## 第十六章 五号
開戦九十六日目、午後三時五十分。
東支線の北の終点に近いクロック信号所の待避線で、偽物の五号は出番を待っていた。
先頭には試作電気機関車の予備機が一両。その後ろに平台車が三両。平台車の上に、松の板で巻いた三十メートルの砲身が、偽装網をかぶって横たわっている。最後尾にはもう一両、古い電気機関車。こちらは戦前に貨物用として使われていた旧型で、廃車の手続きが済んだばかりのものだった。
上から見れば、電気機関車が二両、平台車が三両。本物のヨルムンガンドの、半分ほどの長さしかない。だが、九千メートルからなら、長さの違いは、よほど注意して見なければわからない。そして長い砲身の影は誰の目にも見える。
運転室にはカール・ストランドが座っていた。
五十二歳。国鉄で三十年、機関車を運転してきた男だった。そのうち十五年は特急〈北極星〉の運転士。開戦五十八日目の夜、ヨルムンガンド二号の運転室でホルムに「戦争が終わったら、また〈北極星〉を運転したい」と言った、あの機関士だった。
ハンナが、五号の運転士を探していると聞いて、ストランドは自分から名乗りでた。
「偽物でも、機関車は機関車です」
ストランドはハンナにそう言った。
「誰かが運転しなきゃならん。本物の砲に乗ってる若い連中を、偽物に回すわけにはいかんでしょう」
---
ハンナの計画は単純だった。
日没の二十分前に、五号をクロック信号所から出し、東支線を南へ四キロ走らせて、エルム峠のトンネルに入れる。そのあいだにヴァルデンの偵察機に撮らせる。偵察機はこの一週間、毎日夕方の四時過ぎに、エルム峠の坑口の上空を通っていた。
五号はトンネルに入ったら、そのまま中で止まる。ストランドは運転室を降りて、トンネルの北口から歩いて外へ出る。北口の外に保線隊の軌道自転車が待っている。
敵は、五号がトンネルに入ったのを撮る。そしてたぶん、翌朝、坑口を塞ぎに来る。
「塞がれたトンネルの中に材木の砲身が一本」
ハンナはスコーグ峠のトンネルの作戦室でそう言った。
「敵は蛇を一匹、閉じこめたと思います。そしてその蛇を仕留めるまで、エルム峠から目を離さない。そのあいだ、本物はほかの十三本のトンネルを使います」
「仕留めるまでというのは」ヴィンター少佐が訊いた。
「坑口を塞いでも、中の列車は壊せません。敵はこちらが坑口を開けに来るのを待って、出てきたところを叩こうとするはずです。だから、こちらは開けに行きます。何日かかけて。敵の爆撃に邪魔されながら」
「そして出てきたところを」
「叩かせます」
ハンナは平らな声で言った。
「そうしなければ、敵はエルム峠を見張りつづけます。五号が出てこないかぎり。いつまでも出てこなければ、そのうち、中に何もいないのではないかと疑いはじめる。だから、一度、出して、壊させます。敵が自分の目で、五号の最期を見るように」
ホルムは作戦室の隅で黙って聞いていた。
「運転士は」
ホルムが言った。
「出てくるとき、誰が運転する。爆撃機が待っている坑口から、偽物を走らせて出すのは」
「誰も運転しません」
ハンナはホルムを見た。
「ストランドさんが制御器を縛って、機関車を一人で走らせる仕組みを考えてくれました。トンネルの中で、制御器をノッチに入れて固定して、運転室から飛び降りる。五号は無人で坑口から出ていきます」
「ストランドさんはそれで納得したのか」
「……いいえ」
ハンナは少しだけ目を伏せた。
「最後まで運転させてくれと言われました。偽物でも、機関車を人の手から離して走らせるのは、運転士の恥だと」
「それで」
「命令しました。降りてください、と」
ハンナの声は震えていなかった。
「私が引く線の上で、偽物のために人が死ぬことはありません」
---
午後四時十一分。
高度八千五百メートル。ヴァルデン第七偵察飛行隊のヘルマン・ゲーツ少尉は、東支線のエルム峠に向かって、南から北へ飛んでいた。
もう九日間、毎日同じ時刻に同じ坑口の上を飛んでいた。第三軍の砲兵情報班からの要請だった。十四本のトンネルの坑口を朝と夕方に撮れ。何も写らなくても、撮れ。
九日間、何も写らなかった。
ゲーツは双眼鏡を目に当てて、エルム峠の南口を探した。夕日を受けた山の斜面に黒い半円の穴。その手前の東支線の本線が赤く光っている。
その本線の上に何かが動いていた。
ゲーツは息を止めた。
列車だった。南へ向かっている。先頭に四角い機関車の影。その後ろに平たい車両が何両か。そしてその上に――。
長い。異様に長い棒のような影が斜めに突きだしていた。夕日が真横から差して、その影を線路の脇の斜面に、何十メートルも長く引き伸ばしていた。
「撮れ!」ゲーツは後席に叫んだ。「全部撮れ! 連続で!」
シャッターの音が狂ったように続いた。
列車はゆっくりと減速し、エルム峠の南口の黒い半円に吸いこまれていった。最後尾の機関車が消えるまで、ゲーツは双眼鏡を離さなかった。
坑口の前にはもう何もなかった。夕日が空の線路を赤く照らしていた。
---
開戦九十七日目、午前六時四十分。
エルム峠のトンネルの南口と北口に、ヴァルデンの爆撃機が、それぞれ八機ずつ襲いかかった。
狙いは坑口の上の斜面だった。岩と土を崩して、坑口を埋める。急降下爆撃機が次々に翼を傾け、サイレンのような唸りを上げて落ちていった。
トンネルの中で、偽物の五号は何も知らずに眠っていた。運転室には誰もいなかった。カール・ストランドは、前の晩のうちに北口から歩いて外に出て、保線隊の軌道自転車で、クロック信号所まで戻っていた。
爆撃のあと、南口は崩れた土砂で完全に埋まった。北口は半分が埋まった。
その日の午後、ソーデルの保線隊が北口の土砂を除けにかかった。ヴァルデンの爆撃機がふたたび来た。保線隊は森の中に逃げこんだ。北口はまた埋まった。
九十八日目。九十九日目。
保線隊は毎日、北口に取りついた。毎日、爆撃された。保線夫が二人、負傷した。
ハンナはスコーグ峠のトンネルの作戦室で、その報告を一つずつダイヤに書きこんでいた。保線隊の線。爆撃機の線。北口の土砂がどれだけ除けられ、どれだけ戻されたか。
負傷した二人の名前も書きこんだ。
ホルムはそれを黙って見ていた。
「芝居だとわかっていても、怪我人は出る」
ホルムが言った。
「はい」
「芝居をやめれば、怪我人は出ない」
「芝居をやめれば、敵はエルムから目を離します」
ハンナは鉛筆を止めなかった。
「そしてほかの十三本のトンネルを、もう一度見はじめます。本物がいる、十三本を」
---
開戦百日目、午前五時二十分。
エルム峠の北口の土砂は夜のうちに保線隊の手で、機関車の車幅ぶんだけ、細い溝のように掘り開けられていた。レールの上の土も、枕木の隙間まで掻きだしてあった。溝の両側には崩れた土砂が、機関車の屋根の高さまで残っていた。
その溝を歩いて、カール・ストランドはトンネルの中へ入った。
暗かった。懐中電灯の光が濡れた煉瓦の壁を照らした。四日前に自分が止めた五号がそこにいた。電気機関車の四角い顔。その後ろの平台車の上の、網をかぶった長い影。
ストランドは、先頭の電気機関車の運転室に上がった。
架線は南口が崩れたときに一部が切れていたが、北口側の半分はまだ生きていた。保線隊が夜のうちに仮の電線をつないでいた。
ストランドはパンタグラフを上げた。架線から、青い火花が散った。計器の針が跳ねあがった。
機関車が目を覚ました。
ストランドは制御器のハンドルに手を置いた。三十年、握ってきたハンドルだった。
それから、ポケットから、細い鋼線を取りだした。ハンドルを、四ノッチの位置まで回し、鋼線で、制御台の枠に縛りつけた。きつく。三重に。
四ノッチ。平らな線なら、時速四十キロあたりで、機関車の力と、列車の重さと、空気の抵抗が釣りあって、それ以上は速くならない。北口の先の東支線は、三キロほど、平らな直線が続いている。速すぎれば、溝の土に乗りあげて、坑口で脱線する。遅すぎれば、坑口を出る前に爆撃機に撃たれる。四ノッチがそのあいだだった。
ハンドルから、手を離した。
機関車がゆっくりと動きだした。北口へ。車幅ぶんの細い溝から、ほの白い夜明け前の光が差しこんでいる、その方向へ。
ストランドは運転室の扉を開けた。動きはじめた機関車の、ステップに足をかけた。
一瞬、ためらった。
それから飛び降りた。
トンネルの底の砂利の上にストランドは転がった。膝を打った。起きあがって、振り返った。
五号が自分の前をゆっくりと通りすぎていった。先頭の機関車。三両の平台車。網をかぶった長い砲身。最後尾の、廃車になるはずだった旧型の機関車。
五号の先頭が北口の細い溝に入った。機関車の排障器が溝の縁から崩れかけた土を、ざりざりと押しのけた。車体の両脇を土砂の壁が擦った。それでも、車輪は掻きだされたレールの上を外れなかった。五号は夜明けの外へ出ていった。
ストランドはトンネルの壁に背中を預けて、その背中を見送った。
「すまんな」
ストランドは誰にともなく、つぶやいた。
「最後まで運転してやれなくて」
---
午前五時四十一分。
エルム峠の上空で、夜明けを待っていたヴァルデンの爆撃機の編隊長は、トンネルの北口から、長い影が這いだしてくるのを見た。
「出たぞ! 北口! 蛇が出た!」
十二機の急降下爆撃機が、一斉に翼を傾けた。
五号は北口から東支線を北へ、時速四十キロほどで走っていた。無人の運転室の制御器は、四ノッチのまま縛られていた。加速も減速もしない。ただ、まっすぐに線路の上を走りつづけた。
一機目の爆弾は、五号の三十メートル手前に落ちた。線路が吹き飛び、枕木が宙を舞った。
五号は止まらなかった。吹き飛んだ線路の手前で、先頭の機関車が脱線した。前のめりに傾き、線路の脇の斜面に頭から突っこんだ。その後ろの平台車が次々に押しこまれ、折り重なった。
二機目の爆弾が、折り重なった平台車の真ん中に落ちた。
松の板で巻いた砲身が炎を上げて、空へ跳ねあがった。
---
その日の昼、ヴァルデン第三軍司令部の地下に偵察写真が届いた。
エルム峠の北口の外、東支線の脇の斜面。脱線して横倒しになった電気機関車。折り重なった平台車。そしてその上に黒く焼けただれた、長い筒のような残骸。
「五号、撃破」
作戦参謀が読みあげた。
地下室に歓声が上がった。開戦以来、初めてだった。この四十日あまり、毎日のように重砲を食われてきた司令部で、初めて、蛇の一匹を仕留めた。
ブルクハルト大佐は写真を手に取り、長いあいだ見つめていた。それからザイツのほうを振り返った。
「ザイツ大尉。きみの班の手柄だ。トンネルに気づいたのはきみたちだ」
「……ありがとうございます」
ザイツはそう言った。だが、その声には周りの歓声と同じ熱はなかった。
ザイツの隣で、リンデマン軍曹が写真を立体視鏡に挟んで、覗きこんでいた。
「軍曹」
ザイツは声をひそめた。
「どうだ」
リンデマンはしばらく答えなかった。立体視鏡の中で、焼けた残骸の形を何度も確かめているようだった。
「……砲身が燃えています」
リンデマンは立体視鏡から顔を上げずに言った。
「鋼の砲身は燃えません。塗料は燃えますし、機関車の油や、平台車の木の床も燃えます。だから、燃えていること自体はおかしくない。でも」
リンデマンは写真の一点を指さした。
「砲身の形が崩れています。真ん中が焼け落ちたようにへこんでいる。鋼の筒なら、爆弾で曲がることはあっても、焼けて崩れることはありません」
「では」
「わかりません。爆弾がちょうど真ん中に当たったのかもしれない。写真が粗いだけかもしれない」
リンデマンはようやく顔を上げた。
「大尉。現地を見に行けませんか。エルム峠は北の領内です。無理なのはわかっています。でも、この写真だけでは私には蛇だったとは言えません」
ザイツは作戦図を振り返った。
エルム峠のピンに作戦参謀が、黒い×印を書きこんでいるところだった。
「……言えないな」
ザイツは言った。
「写真だけではどちらとも言えない」
---
その夜、ヨルムンガンドは撃った。
開戦百日目の夜、九時十二分。ヴェステルボリの南東、ヴァルデン第三軍の後方の弾薬集積所に八発。
同じ夜、十一時四十分。リュッケ突出部の西側、第一軍の重砲陣地に八発。
翌朝、六時五分。
ザイツは作戦図の前に立って、新しいピンを打った。
五号が消えても、砲撃の数は、一発も減らなかった。
ブルクハルト大佐がザイツの後ろに来た。
「減っていないな」
「はい」
「八門のうち、一門を仕留めて、七門。七門でも、撃つ数を減らさずにいられるということか」
「……あるいは」
ザイツは言いかけて、やめた。
あるいは最初から、五号はいなかった。
だが、それを口にする根拠は、リンデマンの「焼けて崩れた砲身」だけだった。粗い写真の、一か所のへこみ。
「あるいは、八門以上いる」
ブルクハルトがザイツの言葉を引き取った。
「そういうことだな」
ザイツは答えなかった。
---
同じ朝、スコーグ峠のトンネルの作戦室で、ハンナはダイヤの上の青い線の一本に、赤鉛筆で線を引いた。
五号。
線を引いてから、しばらく赤い線の下の青い線を見つめていた。
「ストランドさんは」
ホルムが訊いた。
「無事です」ハンナは言った。「膝を打っただけです。今朝、クロックの信号所から、電話をくれました」
「なんて」
ハンナは少しだけ口元をゆるめた。
「機関車を一両、無駄にして、すまなかったと。それから」
ハンナはダイヤの余白に新しい青い線を一本、引きはじめた。
「九号はいつ出すのか、と訊かれました。今度は最後まで運転させてくれと」
「なんて答えた」
「だめです、と」
ハンナは青い線を引き終えた。
「九号も誰も乗せずに走らせます」
ホルムはその新しい青い線を見た。
五号が消えた場所から、少し離れた線区に、九号が生まれていた。
敵の作戦図の上では、五号に黒い×が書かれていた。八門のうち一門を仕留めて、残り七門。それなのに、蛇が撃つ数は、一発も減らない。だから、敵の参謀長は言った。八門以上いる、と。
×の書かれた一匹の穴を敵は自分の手で、見えない一匹で埋めていた。
ハンナのダイヤの上ではその一匹に、九号という名前がついていた。