# 幻影砲兵 第二部「写真と時刻表」
## 第十七章 年鑑
空軍の資料室から届いた年鑑は、戦前に中立国の出版社が出していた、各国海軍の艦艇要目集だった。
厚さは十センチ近くあった。革の表紙は擦りきれ、背の金文字は半分剥げていた。ページのあちこちに、前の持ち主の鉛筆の書きこみが残っていた。
リンデマン軍曹がザイツの机の上にそれを置いた。
「北の海軍の項は、三百十二ページからです」
ザイツはページをめくった。
ノルトラント海軍。戦艦、二隻。どちらも、三十年近く前に建造された旧式艦で、主砲は三十センチ級。巡洋艦、四隻。駆逐艦、十一隻。潜水艦、八隻。
四十センチ級の砲を積んだ艦はどこにもなかった。
ザイツはページをめくりつづけた。三百十八ページ。「建造中の艦艇」という小見出しの下に、一隻の名前があった。
――戦艦〈スヴェア〉。
ザイツはその項を指でなぞりながら読んだ。
――開戦の三年前、カールスハムン海軍工廠にて起工。基準排水量、推定三万二千トン。主砲、四十・六センチ、七十五口径、三連装砲塔三基、計九門。竣工予定、開戦の翌年。
「七十五口径」
ザイツは声に出して読んだ。
「長いな」
「長いんですか」リンデマンが訊いた。
「戦艦の主砲はたいてい、四十五口径から五十口径だ。砲身の長さが口径の四十五倍から五十倍。七十五口径というのはその一・五倍の長さだ」
ザイツは計算尺を取った。
砲身が長いほど、装薬の燃焼ガスが砲弾を押す時間が長くなる。そのぶん、初速が上がる。五十口径で初速が毎秒八百メートルなら、七十五口径では――。
「毎秒千メートル前後」
ザイツは計算尺を置いた。
「最初の日にクライン大尉の報告から、私は距離を逆算した。発射音の遅れから。あのとき、初速を毎秒八百から千のあいだと仮定した。千に近いほうが音源標定の距離とよく合った」
「つまり」
「つまり、蛇の砲はこの〈スヴェア〉の主砲だ」
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ザイツはしばらく黙って年鑑を見つめていた。
九門。
戦艦一隻分の主砲。九門のうち、何門が完成し、何門が陸に上がり、何門が列車に載ったのか。
「年鑑には完成した砲の数は書いてありませんね」
リンデマンが言った。
「竣工予定が開戦の翌年だ。開戦の時点で、砲がすべて揃っていたとは思えない。だが、何門揃っていたのかはわからない」
「九門のうち、八門が蛇になっていても、おかしくない」
リンデマンの声は慎重だった。
ザイツは顔を上げた。
「そうだ。おかしくない」
ザイツは年鑑を閉じた。
「皮肉だな。嘘をつかない帳簿を探して、見つけたら、それは参謀本部の数字を裏づけていた。九門の主砲。八門の蛇。一門は予備か、まだ工場の中か。筋が通る」
「大尉はまだ疑っていらっしゃるんですね」
ザイツは答えなかった。
かわりに年鑑をもう一度開き、〈スヴェア〉の項の下に、小さな活字で添えられた注記を読んだ。
――主砲の砲身寿命、全装薬にて約百九十発と推定。
ザイツはその一行を手帳に書き写した。
百九十発。
そしてその下にもう一行書いた。
――開戦五十八日目より百日目まで、弾痕より推定される発射弾数、約五百。
五百発を、八門で割れば、一門あたり六十発あまり。まだ寿命の三分の一にも届かない。
だが、もし、もっと少ない数で割ったら。
ザイツはそこで鉛筆を止めた。
割る数がわからない。わからない数で割ったものは、何の答えにもならない。
それに割られる数も見かけほど確かではなかった。弾痕が教えるのは撃った数だ。年鑑の百九十発は全装薬で撃った数だ。装薬を減らして撃った弾が混じっていれば、砲身はそれだけ長くもつ。五百発は全装薬に直せば、五百発より少ないかもしれない。
五百発ではない。五百発相当だ。そしてその「相当」がいくつなのかもわからない。
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「大尉。もう一つ、あります」
リンデマンが年鑑とは別の、薄い綴りを机に置いた。
「海軍の情報部から、借りてきました。戦前の、北の海軍の動静報告の写しです。〈スヴェア〉の項を探して、関係のありそうなところだけ抜きだしてもらいました」
ザイツは綴りを開いた。
古いタイプライターの文字で、短い報告が日付順に並んでいた。
――開戦十四か月前。カールスハムン北方のスカーレ試射場にて、大口径砲の試射を確認。対岸の中立国漁民の証言による。発射音、三十分間に五回。
――開戦九か月前。スカーレ試射場にて、大口径砲の試射を確認。同上。発射音、四十分間に六回。
――開戦五か月前。スカーレ試射場にて、大口径砲の試射を確認。同上。発射音、二十五分間に五回。
ザイツはその三つの報告を何度も読み返した。
「試射だ」
ザイツは言った。
「新しい砲身が完成したら、必ず、試射場で撃って確かめる。一門ごとに何発か。これは砲身が一本完成するたびに行われる、検査の射撃だ」
「三回」
リンデマンが言った。
「はい。三回です。でも」
リンデマンは綴りの最後のページを指さした。
――注。スカーレ試射場の観測は、対岸の漁民の証言に依るものであり、漁期外及び荒天時の試射は観測されていない可能性が高い。
「三回しか聞かれていない、ということです。三回しか撃たれていない、ということではありません」
ザイツは綴りを閉じた。
三回。
開戦の五か月前までに、少なくとも三本の砲身が完成していた。四本目、五本目があったかどうかはわからない。冬の荒天の日に、漁民が港にこもっているあいだに撃たれていたら、誰にも聞かれていない。
そして開戦から百日のあいだに、さらに何本の砲身が完成したのかもわからない。
「少なくとも三門」
ザイツはつぶやいた。
「最大で九門」
「参謀本部の八門はそのあいだに入ります」
「ああ。入る」
ザイツは椅子の背にもたれた。
九門の主砲。三回の試射。五百発の弾痕。百九十発の砲身寿命。
どの数字も嘘はついていない。そしてどの数字も蛇が何匹いるのかを、はっきりとは教えてくれない。
ただ、一つだけ。
ザイツは試射の報告をもう一度開いた。開戦十四か月前。九か月前。五か月前。
五か月。四か月。四か月か五か月に一本。
もし、それがカールスハムンで砲身を仕上げる速さなら。開戦の五か月前から、百日目のいままでにさらに完成した砲身は――。
ザイツは手帳に書きかけて、やめた。
それも推測だ。推測の上に推測を重ねた数字は参謀会議では、一秒で退けられる。
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同じ週、ホルムは、カールスハムン海軍工廠の第三組立工場に立っていた。
ヨルムンガンド一号の内筒の入れ替えが終わり、二号と交代するために、二号を工廠へ回送してきたのだった。一号は前の晩に工廠を出て、高速線へ戻っていった。
一号は開戦六十八日目に工廠に入ってから、三十日あまり、ここにいた。入れ替えの作業そのものは、十日で終わる。残りの二十日あまりは仕上がりの遅れた内筒を待っていた。
第三組立工場は開戦三十日あまり前に、ホルムが初めて足を踏み入れたときと、ほとんど変わっていなかった。天井の高い、ひどく寒い建物。その床に鋼の筒が並んでいる。
ただ、並んでいるものが違った。
あのとき、床に横たわっていたのは、完成した三本の砲身だった。いまはそれが蛇になって線路の上を走っている。かわりに床の上にあるのは砲身の内側に差しこむ、新しい内筒だった。一号のぶんはもう使われた。残りは、一本。二号のぶん。三号のぶんはいま、小型のプレスで打っている。
そしてその奥にもっと太く、もっと荒々しい鋼の塊が、六本、横たわっていた。
鍛造の途中で止まった、〈スヴェア〉の第二、第三砲塔の砲身だった。表面は鍛造の槌の跡ででこぼこしていた。旋条はまだ一本も刻まれていない。
「あれを仕上げることはできないのか」
ホルムは案内してくれた工廠の造兵技師に訊いた。開戦前の工場で、陸上砲台案を捨てると言ったヴィンターに、反論しかけた若い技師だった。
「できます。時間があれば」
技師は首を振った。
「鍛造の続きをやるには、あの大型プレスが要ります。工廠に一台しかない。いまは陸軍の戦車の砲塔を打ちだすのに毎日使っています。仮に明日から砲身に戻したとしても、一本仕上げるのに五か月かかる」
「五か月」
「戦前はそうでした。鍛造に二か月、焼き入れと焼き戻しに一か月、中ぐりと旋条切りに二か月。それからスカーレで試射です」
ホルムは黙って六本の鋼の塊を見ていた。
「内筒は」
「内筒は砲身ほど大きくありません。小型のプレスでも打てます。一本、一か月。いまの一本を二号に使えば、三号の番が来るころに次の一本が、ちょうど間に合う計算です」
「間に合わなかったら」
「間に合わなかったら、蛇の一匹はこの工場の中で、内筒を待つことになります」
技師は工場の高い天井を見上げた。
「中尉。この工場は蛇の心臓です」
ホルムは技師を見た。
「三匹の蛇の砲身はここでしか、入れ替えられない。内筒もここでしか作れない。この工場が壊れたら、三匹とも、二百発撃ったところで、ただの鉄の塊になります」
「……敵はそれを知っているか」
「さあ。カールスハムンは港町です。海軍の工廠があることは誰でも知っています。でも、ここで蛇の砲身を入れ替えていることを知っているのは」
技師は肩をすくめた。
「砲身の寿命を数える人がいれば、いつか、ここに行きつくでしょうね」
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その夜、ホルムは工廠の宿舎で、スコーグ峠のトンネルに電話をかけた。
「リースさん。カールスハムンのダイヤを見せてもらえないか」
『カールスハムンの、ですか』
「蛇がここに出入りする線だ。それと、内筒が作られる線。砲身が入れ替えられる線。全部」
受話器の向こうで、ハンナは少し黙った。
『……引いてあります。でも、中尉が見たいのはたぶん、それじゃありません』
「なんだと思う」
『敵の偵察機の線です。カールスハムンの上を、灰色の線が通っているかどうか』
ホルムは黙った。
『いまのところ、通っていません』
ハンナは言った。
『開戦以来、ヴァルデンの偵察機が、カールスハムンの上空を飛んだのは、二回だけです。どちらも港の艦艇を撮りに来た、海軍の偵察機でした。陸軍の偵察機は、一度も来ていません』
「いまのところは」
『はい。いまのところは』
ハンナの声は少しだけ低くなった。
『中尉。向こうの考える人は光る線路から、トンネルに行きつきました。トンネルから、たぶん、次の何かに行きつきます。それが何かはわかりません。でも、中尉が工廠で考えたことを向こうも、いつか考えると思います』
「砲身の寿命を数えるか」
『数える人なら』
電話が切れた。
ホルムは宿舎の窓から、夜の工廠を見下ろした。灯火管制で、明かりはひとつも見えなかった。ただ、第三組立工場の大きな屋根の影が、港の黒い水面を背に、うずくまった獣のように浮かんでいた。
その屋根の下に蛇の心臓がある。
ホルムはダールの手帳を開き、一行書いた。
――カールスハムン。内筒、残一。一本、一か月。
それから少し考えて、もう一行、書き足した。
――向こうが砲身を数えはじめたら。
その先は書けなかった。
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開戦百四日目の夜。
クロンベリ町役場の地下で、ザイツは息子への手紙を書いていた。
――ペーター。今日の問題。
――ある町にいくつかの時計がある。時計は、百九十回鳴ると工場に戻して、中の部品を入れ替えなければならない。工場は町に一つしかない。部品を入れ替えているあいだ、その時計は鳴らない。
――ある町で、九十日のあいだに時計が五百回鳴るのが聞こえた。どの時計が鳴ったのかはわからない。聞こえたのは音の数と鳴った日だけだ。
――さて、この町には時計はいくつあるだろう。そしていつ、どの時計が工場に戻っただろう。
ザイツはペンを置いた。
今度の問題は、答えを知っていて出す問題ではなかった。ザイツ自身が答えを知りたかった。
手紙を封筒に入れ、宛名を書きかけたとき、ザイツの手が止まった。
時計が工場に戻るとき、その時計は鳴らなくなる。
五百回の音のなかに鳴らなくなった時計の、沈黙が混じっているはずだ。
ザイツは封筒を置いて、作戦図の前に立った。百六十本を超える赤いピン。その一本一本に貼られた、日付と時刻の紙片。
ザイツはピンを日付ごとに数えはじめた。