# 幻影砲兵 第一部「大蛇の目覚め」
## 第一章 見つかった砲
開戦九日目の朝、アルヴィド・ホルム海軍中尉は、陸軍の重砲陣地で、ぬるくなった代用茶をすすっていた。
国境から二十キロ北、ロスヴィーク村はずれの白樺林。ノルトラント陸軍第二重砲連隊、第三大隊第一中隊の陣地だった。二十一センチ榴弾砲が四門、白樺の幹に隠れるように据えてある。海の上で育った目には、陸の砲はどれも、地面に根を生やした巨大な植物のように見えた。
「海軍さんには退屈だろう」
中隊長のマグヌス・ダール大尉が、隣に腰を下ろした。煤で黒くなった手で、茶の缶を受けとる。
「退屈なもんか」ホルムは言った。「感心してるんだ。陸の砲は、止まっていられる」
「止まっていられる?」
「船の砲は、自分も揺れて、的も走ってる。縦揺れと横揺れと、自艦の速力と敵艦の速力を全部計算に入れて、ようやく一発撃てる。ここじゃ、砲も的も地面に釘づけだ。贅沢な話だよ」
ダールは笑った。子どものころから変わらない、歯を見せる笑い方だった。
二人は、北の港町リンネで隣り合った家に生まれた。ダールは陸軍士官学校へ、ホルムは海軍兵学校へ進み、それから十年、会うのは年に一度の帰省のときだけになった。そのダールの中隊に、ホルムがいま連絡将校として居座っているのは、偶然ではなかった。
ホルムが砲術長として乗り組むはずだった戦艦〈スヴェア〉は、開戦の二日前に建造が中止された。船台の上で、艦体はまだ肋骨のような骨組みをさらしている。鋼材は陸軍の戦車に回され、造船所の工員は弾薬工場に回された。海軍に残されたのは、行き場を失った砲術将校たちと、完成したばかりの主砲三門だけだった。
行き場のない将校たちは、陸軍の各部隊に「射撃統制の研究」という名目で散らされた。ホルムは迷わず、ダールの連隊を希望した。
「まあ、贅沢させてもらえるのも、見つからないうちだけだがな」
ダールは茶をひと口飲み、空を見上げた。
「第一大隊の話、聞いたか」
「いや」
「昨日、全滅した。十二門。朝、偵察機が一機飛んで、午後に爆撃機が来た。それで終わりだ」
ホルムは缶を下ろした。
「十二門全部か」
「全部だ。陣地転換の準備はしてたらしい。だが二十一センチを動かすには、砲身と砲架を分けて、二つの荷にして引かなきゃならん。分解に二時間、移動に二時間、据えつけに二時間。どう急いでも六時間はかかる」
ダールは白樺の葉の隙間を指さした。
「向こうは、朝の写真から午後の爆弾まで、六時間かからないらしい」
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その偵察機は、午前七時四十分にやってきた。
高い。ホルムの目測で、高度七千メートル以上。細い飛行機雲が一本、南から北へ伸び、陣地の真上で折れて、また南へ戻っていった。海の上なら、あれは敵艦隊の斥候だ。斥候が去ったあとに来るのは、主力と決まっている。
「中隊、射撃中止。全員、網の下へ」
ダールの号令で、陣地は凍りついたように静まった。
飛行機雲が消えたあと、ダールは地図を広げた。
「今日のうちに移る。日没と同時に分解を始めて、夜のうちに東の林へ抜ける」
「日没まで待つのか」
「昼に動けば、それこそ上から丸見えだ。二十一センチの車列は、道の上で一キロの長さになる。昼間の道で見つかれば、陣地で見つかるより悪い」
筋の通った判断だった。ホルムにも反論はできなかった。見つかったかどうかは、わからない。見つかっていなければ、いま動くことこそが命取りになる。見つかっていれば、日没まで待つことが命取りになる。
どちらなのかは、敵の写真判読班だけが知っている。
午前中、中隊は二度、短い射撃を行った。国境を越えてくるヴァルデンの縦隊を叩くためだった。ホルムは射撃指揮所で、ダールの測量班が弾道表をめくるのを見ていた。陸の弾道計算は、海のそれより素朴で、そのぶん頑丈だった。地図の上で距離を測り、方位を測り、気温と気圧を足す。それだけで、二十一センチの砲弾は、十四キロ先の四つ辻に、ほとんど寸分違わず落ちた。
「いい砲だな」ホルムは言った。
「ああ」ダールは砲身に手を当てた。「いい砲だ。重すぎることを除けば」
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午後二時十分。
最初に気づいたのは、見張りではなかった。白樺林の外で草を食んでいた、農家の馬だった。馬がいっせいに首を上げ、南の空を向いた。
それから、音が来た。
遠い蜂の羽音のような、低いうなり。それが見るまに大きくなり、やがて空全体を震わせる轟音になった。
「爆撃機!」
ホルムは空を見上げた。南の空に、黒い点が並んでいた。十、十二。整然とした編隊だった。先頭の一機が、翼を傾けた。
急降下爆撃機だった。
ホルムは海軍の教本で、その機体の図を見たことがあった。ほとんど垂直に近い角度で降下し、目標の真上で爆弾を放す。狙いの精度は、高空から落とす水平爆撃とは比べものにならない。艦艇にとってもっとも恐ろしい敵の一つだと、教本には書いてあった。
動かない砲にとっては、それ以上だった。
サイレンのような甲高い唸りを上げて、一機目が落ちてきた。ホルムは退避壕に飛びこんだ。背中で、世界が裂けた。
二機目。三機目。
壕の縁から土が崩れ落ちてくる。耳が効かなくなった。何かが燃えるにおいがした。白樺の焦げる、甘ったるいにおいだった。
どれくらい続いたのか、ホルムにはわからなかった。十分だったかもしれないし、一時間だったかもしれない。気づいたとき、空の唸りは遠ざかりつつあり、かわりに、人の叫び声が聞こえはじめていた。
壕から這い出したとき、白樺林は林ではなくなっていた。
一号砲は横倒しになり、砲身が地面に突き刺さっていた。二号砲は、どこにあったのかもわからなかった。三号砲の砲架は、真ん中から二つに折れていた。四号砲だけが、形を保っていた。その周りに、砲員たちが倒れていた。
ダールは、四号砲の脇にいた。
あとで生き残った砲員から聞いた。二機目の爆撃の直後、ダールは退避壕から飛び出し、四号砲の弾薬庫に燃え移りかけた火を、自分の外套で叩き消していたのだという。弾薬庫が誘爆すれば、周囲の壕にいる二十人が死ぬ。ダールは火を消し、弾薬庫を守った。そして五機目の爆弾が、彼の三メートル隣に落ちた。
ホルムはダールの隣に膝をついた。
ダールの顔は、驚くほどきれいだった。煤で汚れてはいたが、傷はなかった。胸から下のほうを、ホルムは見なかった。見る必要はなかった。
「重すぎるんだ」
ホルムは、自分がそう言っているのを聞いた。誰に言っているのかわからなかった。
「いい砲だ。重すぎることを除けば」
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夜になって、生き残った者たちが集められた。第一中隊の砲員七十二名のうち、立って歩ける者は二十六名だった。砲は四門すべてが失われた。四号砲は形こそ残っていたが、照準器と駐退機が破片でずたずたになっていた。
同じ日、第二重砲連隊の残りの二個大隊も、同じ手順で狩られていた。朝の偵察機。午後の爆撃機。ノルトラント陸軍の重砲は、開戦九日目の日没までに、その七割を失った。
ホルムは焼け残った白樺の根元に座り、地図を膝に広げていた。灯火管制のため、懐中電灯の光を手のひらで覆い、指のあいだから漏れる細い光で数字を追った。
写真を撮られてから、爆弾が落ちるまで。今日は六時間半。昨日の第一大隊は、六時間。
二十一センチ榴弾砲の陣地転換に必要な時間は、六時間。
ホルムは、数字を並べて眺めた。どちらも同じ六時間だ。つまり、二十一センチ砲の運命は、敵の写真判読班の手際と、こちらの分解作業の手際の、わずかな差で決まる。そして敵の手際は、日を追うごとに良くなっている。
負けたのは、砲ではなかった。
ダールの砲は、敵の砲に負けたのではない。一発の砲弾も受けずに死んだ。砲を殺したのは、一枚の写真と、六時間という時間だった。
船の上では、そんなことは起きない。船は見つかっても、走る。敵の偵察機に見つかった艦隊は、全速で針路を変え、爆撃機が来るころには、写真の中の位置から何十キロも離れている。海の上では、写真は撮られたその瞬間から古くなっていく。
陸の砲は、止まっていられる。止まっていられるのは、贅沢だ。
今朝、自分が口にした言葉が、喉の奥で苦く裏返った。
止まっていられるのではない。止まっているしかないのだ。そしてこの戦争で、止まっているものは、見つかった瞬間に死ぬ。
ならば。
ホルムは地図の上に指を置いた。その指の下を、細い黒線が走っていた。国境から南へ、首都へ、港へ、国土を網目のように覆う線。ノルトラント国鉄の路線網だった。
写真に写った位置に、六時間後にはいない砲。
撃ったあと、写真が現像されるより早く、何十キロも離れている砲。
そんな砲は、陸の上には存在しない。だが――。
ホルムは懐中電灯を消した。暗闇の中で、焼けた白樺の甘いにおいが、まだ漂っていた。
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三日後、海軍軍令部から電報が届いた。
――ホルム中尉ハ直チニ連絡将校ノ任ヲ解キ、カールスハムン海軍工廠ニ出頭スベシ。〈スヴェア〉主砲陸上転用計画ニ関スル件。
ホルムは電報を二度読み、それから丁寧に折りたたんで、ダールの形見の手帳に挟んだ。