幻影砲兵   作:Sub Sonic

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19話 七号

# 幻影砲兵 第二部「写真と時刻表」

 

## 第十九章 七号

 

 砲弾は嘘をつけない。

 

 ハンナはその夜、一睡もしなかった。

 

 ホルムが仮眠室に引きあげたあとハンナは、作戦室の机に新しい紙を一枚広げた。ダイヤではなかった。ただの方眼紙だった。

 

 横軸に時刻。縦軸はなかった。

 

 開戦五十八日目から、今日までの、三つの蛇の射撃を細い帯にして書きこんでいった。一号、二号、三号。どの帯も長さは四分足らず。敵の側で、誰かが時計を持って数えていれば、こういう帯が並んでいるはずだ。

 

 書き終えてから、ハンナは定規を一本取った。定規を方眼紙の上に縦に当て、左から右へゆっくりと滑らせていった。

 

 定規が同時に三本の帯と交わる場所が、六か所あった。四本と交わる場所は、一か所もなかった。六十八日目から右では、二本より多く交わる場所はなかった。

 

 ハンナは定規を置いた。

 

 三門。そして、二門。紙の上にそのまま書いてあった。

 

 国鉄の指令なら、誰でも一瞬で読める。向こうの考える人は国鉄の指令ではない。だが、同じものをたぶん、もう読んでいる。

 

 ハンナは長いあいだその紙を見つめていた。

 

 隠せない。砲弾の数は増やせない。一度に落とせる場所の数も増やせない。

 

 では隠せないものをどうするか。

 

 ハンナは国鉄に入って最初の年に、指令所の古参から言われたことを思い出していた。雪で特急が遅れたとき、乗客への案内をどう書くか、悩んでいたハンナにその古参は言った。

 

 ――遅れは隠せない。だから、遅れの理由をこちらで決めてやるんだ。「雪のため」と書けば、客は雪を恨む。何も書かなければ、客は国鉄を恨む。

 

 ハンナは新しい鉛筆を取った。

 

---

 

 翌朝、ハンナは、ホルムとヴィンター少佐を作戦室に呼んだ。

 

「向こうは同時に落ちた場所の数を、数えていると思います」

 

 ハンナは方眼紙を二人の前に広げた。

 

「数えれば、三門、二門と出ます。私にはそれを隠す方法がありません」

 

「では」ヴィンターが言った。

 

「理由をつけてやります」

 

 ハンナは方眼紙の上の帯を指でたどった。

 

「同時に三か所しか撃たない理由。八門あっても、三門ずつしか撃たない理由。それを向こうに渡します。向こうが自分で思いつく形で」

 

「どんな理由だ」

 

「目です」

 

 ハンナはホルムを見た。

 

「ラーシュさんの偵察機は、一機しかありません。一機の偵察機が、一度に見つけられる目標は限られている。だから、八門の蛇は見つけた目標を順番に撃つしかない。同時に撃つのは多くても三門」

 

 ホルムは眉を寄せた。

 

「それは向こうが自分でも思いつく理屈だ」

 

「思いついていると思います。だから、それを確かめさせてあげるんです」

 

 ハンナは方眼紙を裏返し、白い面に短い線を何本か引いた。

 

「これから、蛇が撃つのは、ラーシュさんが飛んだ日だけにします。ラーシュさんが飛ばない日は、一発も撃たない。雨の日も雲の日もラーシュさんが飛べない日は、蛇は全部、黙る」

 

「目標はほかにもある」ホルムが言った。「ラーシュが前の日に見つけておいた集積所や、動かない陣地は」

 

「撃ちません」

 

 ハンナはきっぱりと言った。

 

「向こうは北の偵察機が飛んだ日と、蛇が撃った日を並べてみるはずです。そしてぴったり重なることに気づく。偵察機が飛ばない日は、八門の蛇が、一門残らず黙っている。なら、蛇の数を縛っているのは目の数だ。向こうはそう考えます」

 

「その考えが自分のものだと思えば、疑わない」

 

「はい」

 

 ハンナは鉛筆を置いた。

 

「遅れの理由はこちらで決める。雪のせいにすれば、客は雪を恨みます」

 

---

 

 だが、それには代償があった。

 

 開戦百七日目から、北の空は、三日続けて厚い雲に覆われた。ラーシュの偵察機は、カルビー飛行場の格納庫から出られなかった。

 

 ヨルムンガンド一号と三号は、三日間、トンネルの中で眠った。

 

 その三日のあいだにヴァルデン第一軍は、リュッケ突出部の重砲陣地を、二キロ前へ押しだした。蛇が撃たないあいだにノルトラント軍の陣地に、二十一センチ砲弾が千発以上撃ちこまれた。

 

 三日目の夜、リュッケ突出部のノルトラント軍師団司令部から、ヴィンター少佐に電話がかかってきた。受話器の向こうの師団長の声は、ハンナの机まで聞こえるほど大きかった。

 

 ――蛇はどこへ行った。三日間、何をしていた。こっちは、三日で四百人死んだ。

 

 ヴィンターは受話器を置いたあと、長いあいだ何も言わなかった。

 

 ハンナはダイヤの前に立ったまま、その会話を聞いていた。

 

「リースさん」

 

 ヴィンターがようやく口を開いた。

 

「わかっています」

 

 ハンナは振り返らなかった。

 

「私が決めました」

 

 ホルムは作戦室の隅の椅子で、ハンナの背中を見ていた。細い肩がほんのわずかに震えていた。

 

 四百人。

 

 蛇の数を隠すために蛇が撃たなかった三日間の、代償だった。

 

---

 

 開戦百十日目、雲が切れた。

 

 ラーシュは夜明けと同時に、リュッケ突出部の上空へ飛んだ。三日分の目標がそこにあった。前へ押しだされたヴァルデンの重砲陣地、弾薬集積所、補給所。

 

 一号と三号はその日、合わせて十一回撃った。

 

 同じ日の夕方、ハンナは、七号を死なせた。

 

---

 

 七号はオスタ機関区の扇形庫で、ノルドが四本目に仕上げた偽砲身だった。

 

 死に場所は北部線のグラーヴ峡谷の待避線だった。北部線は架線のない線区で、七号はずっと蒸気機関車に牽かれて、北部線の山あいを行き来していた。架線のない線区の丘からの「砲撃」はほとんどが七号の呼出符号で報告されていた。

 

「七号を架線のない線区から消します」

 

 ハンナはその理由をホルムにだけ話した。

 

「向こうの判読員は、蛇は電気で走ると気づいているかもしれません。気づいていれば、架線のない線区の砲撃は全部、怪しいと思っている。だから、そこにいた七号を殺してあげます。架線のない線区にいた蛇は死んだ。それで、架線のない線区の怪しさを一緒に葬ります」

 

 グラーヴ峡谷の待避線に、七号を夕方まで置いた。偽装網をほんの少しだけ雑にかけて。

 

 ヴァルデンの偵察機がそれを見つけた。

 

 翌朝、爆撃機が来た。

 

 そこから先はイングヴァルの仕事だった。

 

 イングヴァルは、七号の平台車の床下に黒色火薬とマグネシウムと、夏至祭の三尺玉の割薬を樽で二十個、仕込んでいた。爆撃機の最初の爆弾が七号の近くに落ちた瞬間、イングヴァルの部下が、峡谷の上の岩陰から電気で点火した。

 

 グラーヴ峡谷の底から、火柱が噴きあがった。

 

 イングヴァルは、二十の樽を、一度には鳴らさなかった。最初に三つ。間をおいて、五つ。また間をおいて、残りをばらばらに。弾薬車の中で、砲弾が一つずつ火に呑まれていくときの、あの不揃いな間を夏至祭の花火の間合いで真似た。オレンジ色の火の玉が峡谷の壁を照らし、黒い煙の柱が冬の空へ昇っていった。

 

 峡谷の上空で、爆撃機の乗員たちはそれを見た。

 

 彼らは蛇がいると聞かされて飛んできた。そして爆弾を落とした直後に、その下から火が噴きあがるのを見た。蛇を八匹と信じている者の目には峡谷の底の火は、弾薬車の誘爆に見えた。三十発か、それ以上の。

 

---

 

「七号、撃破。弾薬の誘爆を確認」

 

 クロンベリ町役場の地下で、作戦参謀が読みあげたとき、歓声は、五号のときほど大きくはなかった。二度目だった。そして、五号を撃破したあとも、砲撃が一発も減らなかったことを、司令部の誰もが覚えていた。

 

 それでも、ブルクハルト大佐は写真を手に取った。

 

 グラーヴ峡谷の底。黒く焼け焦げた平台車の残骸。そしてその脇に転がる、長い筒の残骸。峡谷の壁に誘爆の焼け跡が、黒い放射状の染みになって広がっていた。

 

「今度は弾薬が誘爆している」

 

 大佐は言った。

 

「張りぼてに弾薬は積まない」

 

 ザイツは黙っていた。

 

 リンデマンが写真を受けとり、立体視鏡に挟んだ。

 

 長い沈黙があった。

 

「大尉」

 

 リンデマンは立体視鏡から顔を上げずに低い声で言った。

 

「この写真は低空から撮られています。爆撃の二時間後に戦果確認のために、偵察機が千五百メートルまで降りて撮った。いままでの写真の中で、一番細かいところまで写っています」

 

「何が写っている」

 

「砲身が真ん中で折れています」

 

 リンデマンは写真の一点を指さした。ザイツは立体視鏡を覗きこんだ。

 

 焼け焦げた長い筒が、二つに折れて、峡谷の底に転がっていた。その折れ口がこちらを向いていた。

 

「折れ口を見てください」

 

 ザイツは目を凝らした。

 

 折れ口は黒い円に見えた。その円の中にさらに小さな、黒い点があった。

 

 一つ。二つ。……三つ、だろうか。

 

「砲身の中の穴は、一つです」

 

 リンデマンの声は震えていなかった。

 

「四十センチの砲弾が通る穴が、一つ。鋼の砲身が折れたら、折れ口にはその穴が一つだけ見えるはずです。でも、この折れ口には穴が少なくとも二つあります」

 

 ザイツは立体視鏡から顔を上げた。

 

「三つ目は」

 

「三つに見えます。二つははっきりしています。三つ目は煤の染みかもしれません。でも、もし三つ目が穴なら、三つは、三角形の角の位置に並んでいます」

 

「……何だと思う」

 

 リンデマンは少しのあいだ、言葉を選んだ。

 

「芯です」

 

 リンデマンは言った。

 

「三本の細い鋼管を芯にして、外側を何かで巻いて、太い筒の形にしたもの。その芯の三本の管の穴が折れ口に見えている。私にはそう見えます」

 

 ザイツは長いあいだ何も言わなかった。

 

 それから写真を持って、ブルクハルト大佐の机へ行った。

 

---

 

「穴が三つ、か」

 

 ブルクハルトは立体視鏡を覗きこみ、長いあいだ黙っていた。

 

「リンデマン軍曹の目はわたしも信じている」

 

 大佐は立体視鏡から顔を上げた。

 

「だが、千五百メートルからの写真だ。折れ口の直径はせいぜい一メートル。写真の上ではほんの針の先ほどだ。その中の黒い点が三つか一つか。焼けた金属の影かもしれない。煤の染みかもしれない。粒子の粗さがそう見せているのかもしれない」

 

「かもしれません」ザイツは言った。

 

「そしてザイツ大尉。この砲は弾薬を誘爆させている」

 

 大佐は写真の上の、峡谷の壁の放射状の焼け跡を指でなぞった。

 

「三百メートルの火柱だ。三度の誘爆。張りぼてに、四十センチ砲弾を三十発も積むか」

 

「積まないでしょう」

 

 ザイツは言った。

 

「四十センチ砲弾を積む必要はありません。火柱を上げるだけなら、火薬の樽で足ります」

 

 ブルクハルトはザイツの顔を見た。

 

「きみはこの火柱も嘘だというのか」

 

「わかりません。ですがもし、嘘をつく人間がいるなら、その人間は、五号のときにリンデマン軍曹が何を疑ったかを、知っていたかもしれません。鋼の砲身は燃えない。だから、今度は燃えるより大きな火を見せた。弾薬の誘爆に見える火を」

 

「知っていた、だと?」

 

「知っていたのではなく」ザイツは言いなおした。「そう疑われることを予想していた」

 

 ブルクハルトは長いあいだ黙っていた。

 

「ザイツ大尉。きみの言っていることは筋が通っている。この前と同じだ。そしてこの前と同じで証拠にはならない」

 

「はい」

 

「穴が三つ見える写真と弾薬が誘爆した写真。どちらを本国に送るか。わたしは両方送る。そして本国は誘爆のほうを信じる」

 

 大佐は写真をザイツに返した。

 

「蛇はまた一匹死んだ。八門のうち、二門。残り六門。本国の数字はそうなる」

 

「……はい」

 

「きみの数字は」

 

 ザイツは写真を受けとった。三つに見える穴。三百メートルの火柱。

 

「私の数字は」

 

 ザイツは言った。

 

「変わりません」

 

---

 

 その夜、ザイツは廊下の十一メートルの紙の前に一人で立っていた。

 

 今日、グラーヴ峡谷で七号が死んだ。その前の三日間、蛇は一発も撃たなかった。北の空が雲に覆われて、北の偵察機が飛べなかった三日間。

 

 ザイツは作戦日誌を開いて、北の偵察機の目撃記録と蛇の砲撃の記録を並べた。

 

 偵察機が飛んだ日。蛇が撃った日。

 

 ここ二週間、二つはぴったりと重なっていた。偵察機が飛ばない日は、一発も撃っていない。

 

 ザイツは日誌を閉じた。

 

 目の数が蛇の数を縛っている。北の偵察機は一機しかない。だから、同時に撃つ砲は三門まで、いまは二門まで。

 

 ブルクハルトが言ったとおりの説明だった。筋は通っている。

 

 そしてここ二週間で、急にあまりにもきれいに筋が通るようになった。

 

 ザイツは紙の上の帯を見下ろした。

 

 偵察機が飛ばない日に一発も撃たない。前もって見つけておいた動かない目標さえ、撃たない。リュッケ突出部の味方の陣地が、三日間、敵の重砲に叩かれつづけていても。

 

 八門の蛇を持つ指揮官が、そんなことをするだろうか。

 

 三日間、味方を見殺しにしてまで偵察機の飛ぶ日と、撃つ日をそろえるだろうか。

 

 そろえる理由があるとすれば。

 

 ザイツは冷たい廊下の壁に手をついた。

 

 見せるためだ。

 

 蛇の数を縛っているのは目の数だと、こちらに思わせるために。同時に三か所しか落ちない砲弾にこちらが自分で、もっともらしい理由を見つけるように。

 

 遅れの理由を向こうが決めている。

 

 ザイツはその言葉を知らなかった。だが、同じことを考えていた。

 

 この図の向こう側にいる誰かは、ザイツが何を数えているかを知っている。知っていて、その数え方に合わせて、答えを用意している。

 

 ザイツは廊下の紙をゆっくりと巻きとりはじめた。十一メートルの紙を一センチずつ。

 

 巻きとりながら、思った。

 

 その誰かは、三日間、味方を見殺しにした。

 

 それはその誰かにとって、どれほど重いことだったのだろう。

 

 ザイツは紙を巻き終えた。

 

 そして初めて、その誰かの顔を想像しようとした。

 

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