# 幻影砲兵 第二部「写真と時刻表」
## 第二十章 九千メートル
開戦百十四日目の夜、ヴァルデン第三軍司令部の地下で、ザイツは空軍の連絡将校と、一枚の地図を挟んで向かいあっていた。
連絡将校のフォン・ラーデ少佐は、三十代半ばの、痩せた男だった。前の大戦の撃墜王の息子だという噂があったが、本人はそれについて何も語らなかった。
「北の偵察機がどこを飛ぶか、ですか」
「はい。どこをいつ」
ザイツは地図の上に、細い赤い線を何本も引いていた。この三週間、防空監視所が記録した、北の偵察機の飛行経路だった。
「北の偵察機は、一機しかありません。その一機が飛ぶ日にしか、蛇は撃たない。ここ二週間はとくにそうです」
ザイツはそこで言葉を切った。その「とくに」が、向こうの誰かが用意した答えかもしれないということは、口にしなかった。どちらにせよ、偵察機が蛇の目であることに変わりはなかった。
「その目を潰したい」
「何度もやっています」フォン・ラーデは言った。「新型は、九千まで上がれるようになりました。でも、上がるのに二十五分かかる。北の偵察機が来たのを見てから上がっていたら、向こうはもう撮るものを撮って、帰っています」
「では来る前に上がっていればいい」
フォン・ラーデは眉を上げた。
「来る場所と時刻がわかれば」
「わかります」
ザイツは地図の上の赤い線を指でたどった。
「北の偵察機は蛇の目標を探しに来ます。蛇の目標はこちらの重砲と弾薬集積所です。どこに重砲を置くかはこちらが決めている」
フォン・ラーデの目がわずかに細くなった。
「……餌を置く」
「はい。明日の夜のうちにリュッケ突出部の西側に、重砲中隊を二つ、新しく入れます。わざと、轍を残して。北の偵察機は朝、それを見に来るはずです。露の上の轍を探して」
「いつ」
「夜明けから一時間以内。この三週間、北の偵察機が最初の偵察に来た時刻は、夜明けから平均四十分後。いちばん早くて二十五分、いちばん遅くて七十分」
ザイツは地図の上の一点に鉛筆で丸をつけた。
「新型を夜明けの三十分前に上げてください。二十五分で九千。夜明けの五分前には、リュッケの上で待っていられる」
フォン・ラーデはしばらく地図を見つめていた。それからゆっくりとうなずいた。
「九千で、一時間も待たせるのは燃料がきつい。四機を、二組に分けて、交代で上げます」
「お願いします」
フォン・ラーデは立ちあがりかけて、ふと手を止めた。
「大尉。あの偵察機の搭乗員はこの三か月、たった一人で、北の空を飛んできた。仲間が全部落とされたあとも。うちの連中は敵ながら、あいつには一目置いている」
ザイツは黙っていた。
「落とすのは惜しい。でも、落とします」
フォン・ラーデはそう言って、出ていった。
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開戦百十五日目、午前六時五十二分。
夜明けから、三十四分。
ラーシュ・ニューマンは、リュッケ突出部の西側の上空、高度八千九百メートルを南へ向かって飛んでいた。
眼下の森に霜が降りていた。昨夜のうちに雪がちらついたのか、畑の畝の陰がうっすらと白い。その白の上に黒い轍がはっきりと見えた。
二本。いや、四本。森の縁から、林道へ。
「新しい中隊だ」ラーシュは言った。「昨夜、入った。二つ」
後席のビョルクがカメラを構えた。
「轍の影は」
ラーシュは双眼鏡の倍率を上げた。轍の縁に朝日が作る細い影。深い。十七トンの二十一センチ砲を引いた轍だ。
「本物だ。撮れ」
シャッターの音が始まった。
ラーシュは送信点を確かめた。今日の三つの送信点のうち、最初の一つは突出部の西の、凍った沼の上。あと二分。
ラーシュは何気なく、風防の外の空を見まわした。この三週間で癖になっていた。上。下。左右。後ろ。九千メートルの空はいつも空っぽだった。空っぽであるはずだった。
左の、太陽の方向に何かが光った。
ラーシュは目を細めた。
低い朝日がまぶしくて、よく見えない。だが、確かに何かが光った。金属の、細い反射。
ラーシュの背中を冷たいものが走った。
「ビョルク。左。太陽の中」
「え?」
「太陽の中に何かいる」
ラーシュはスロットルを押しこみ、操縦桿を右へ倒した。太陽を背にして、逃げる。
その瞬間、右の翼の上を曳光弾の赤い線が何本も走り抜けた。
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上からだった。
九千メートルの自分よりさらに上から。四機の戦闘機が太陽の中から、真っ逆さまに降ってきた。主翼の長い、高空用の新型だった。
ラーシュは機首を下げた。速度を稼ぐ。雲を探す。
雲はなかった。冬の朝の、どこまでも澄みきった空だった。
「ビョルク! 後ろは!」
「二機、ついてきます! あと二機は上に残ってる!」
機関砲の音がした。左の主翼で何かが弾けた。エンジンの回転計の針ががくりと落ちた。
左のエンジンから、黒い煙が噴きだした。
ラーシュは左のエンジンを止めた。燃料を切り、プロペラを風に立てる。機体が左へ大きく傾いた。右のエンジンだけで機体を水平に戻す。
速度が落ちた。
後ろの二機がゆっくりと距離を詰めてきた。
「ビョルク。撮った写真を捨てろ」
「え」
「フィルムをカメラから抜いて、捨てろ。落ちたら、向こうの手に渡る」
後席から、返事はなかった。
「ビョルク!」
ラーシュは振り返った。
後席の風防が割れていた。ビョルクはカメラの上にうつ伏せになっていた。飛行服の背中に黒い穴が二つ開いていた。
ラーシュは前を向いた。
高度計の針が、七千五百を切った。右のエンジンが咳きこむような音を立てはじめた。燃料計の針が見る見る下がっていく。右の翼のタンクにも穴が開いたのだろう。
眼下の地面はまだリュッケ突出部の西側だった。ヴァルデン軍の占領地だった。北の味方の陣地まではあと十五キロ。
届かない。
ラーシュは膝の上の地図を見た。今朝、書きつけたばかりのキロポストが、鉛筆の字で並んでいた。
――東支線、九十一キロ二百、左、五千八百。四。
ラーシュは地図を膝から剥がし、細かく引き裂いた。割れた風防の隙間から、外へ撒いた。紙片が白い蝶のように朝の空に散っていった。
それから送信鍵に手を伸ばした。
今日の送信点ではなかった。十五秒の決まりももうどうでもよかった。
『偵察機、被弾。ビョルク、戦死。脱出する。今朝の目標、二個中隊、東支線九十一キロ付近、左。以上』
送信鍵から手を離し、座席のベルトを外した。
右のエンジンが止まった。
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スコーグ峠のトンネルの無線室で、その最後の送信を受けたのはゲルダだった。
六号の通信士として、長い長点で偽物の電文を打つのが、彼女の仕事だった。だが、この朝はたまたま、カルビー飛行場からの受信を中継する当番に入っていた。
ゲルダはラーシュの電文を、一字ずつ書きとった。
書きとり終えてから、しばらくその紙を見つめていた。
ラーシュの打鍵はいつも速かった。点と線が短くきびきびとして、少しだけ乱暴だった。ゲルダは、三週間、毎朝それを聞いてきた。
今朝の打鍵も速かった。
でも、最後の「以上」だけがほんのわずかにゆっくりだった。
ゲルダは紙を持って、作戦室へ走った。
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ハンナはその紙を受けとり、読んだ。
それから紙を机の上に置いた。
作戦室の誰も口をきかなかった。
ハンナはダイヤの前に歩いていった。ダイヤの上の、細い点線。北の空から、南の線路へ降りてくる、ラーシュの偵察機の線。今朝の点線はリュッケ突出部の西の上空で途切れていた。
ハンナは鉛筆を取った。
点線の途切れたところに小さな×を書こうとした。
鉛筆の先が紙の上で止まった。
ハンナは鉛筆を下ろした。×を書かなかった。
「……ヴィンター少佐に知らせてください」
ハンナは振り返らずに言った。
「それから、一号と三号に。今日の射撃はすべて中止。トンネルに戻るように」
「リースさん」
運転指令の一人がおずおずと言った。
「ラーシュさんが最後に送ってきた目標は。東支線の九十一キロ付近、二個中隊。三号なら、四十分で――」
「撃ちません」
ハンナは言った。
「罠です。昨夜、急に轍を残して入った二個中隊。ラーシュさんがそれを見に来るのを待っていた。蛇が撃てば、その砲撃を待っている爆撃機がどこかにいます」
ハンナはダイヤを見上げた。
「向こうの考える人は目を潰すために餌を置きました。目を潰したら、次は蛇が餌に食いつくのを待っている」
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ヨルムンガンド三号の射撃指揮車で、カッセル中尉は中止の命令を受けた。
三号は東支線のエルム峠の南の第百八射撃曲線で、ラーシュの座標を待っていた。一号は、高速線のヴァッテン・トンネルの近くにいた。
二号はカールスハムンの工廠の中だった。内筒の入れ替えはあと十八日かかる。工廠のクレーンと旋盤は、陸軍の戦車の砲塔の仕事と、代わるがわる使われていた。
ホルムはその二号のそばにいた。カールスハムンの工廠の宿舎で、工廠の鉄道電話から、ラーシュのことを聞いた。
受話器を置いて、ホルムは宿舎の窓から、夜明けの港を見下ろした。
カルビー飛行場の、半分焼け落ちた格納庫。主翼の下で、冒険小説を読んでいたラーシュ。「写真は嘘をつかない。目は嘘をつく」と言ったラーシュ。「あんたは俺の目を撃ってくれるのか」と言ったラーシュ。
撃つ、と答えた。あんたの目が見つけたものは、一つ残らず。
今朝、ラーシュが最後に見つけたものは撃たれない。撃ってはいけない。
ホルムはダールの手帳を開いた。
鉛筆を持ったまま、長いあいだ何も書けなかった。
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高度七千メートルで、ラーシュ・ニューマンは機体の外へ転がりでた。
冷たい風が全身を叩いた。空が回り、地面が回り、また空が回った。ラーシュは心の中で数を数えた。五。十。十五。二十。
開傘索を引いた。
白い絹が頭上でぱっと開いた。体が上へ引っぱりあげられた。
静かになった。
ラーシュは自分が空の中に、ぶら下がっていることに気づいた。風の音だけが聞こえた。
足の下にリュッケ突出部の西の森が、ゆっくりと広がっていた。霜の降りた畑。黒い轍。林道。
遠くで、黒い煙の柱が、地面に向かって落ちていくのが見えた。自分の偵察機だった。ビョルクを乗せたまま。
「すまん」
ラーシュはつぶやいた。誰にも聞こえなかった。
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ラーシュはブナの森の縁に落ちた。
枝に引っかかり、傘が破れ、残りの三メートルを地面に叩きつけられた。右の脚で、何かが折れる音がした。
しばらく動けなかった。
霜の上に仰向けになって、空を見上げていた。木の枝のあいだに冬の朝の、青い空が見えた。九千メートルの空よりもずっと明るい、薄い青だった。
足音が近づいてきた。
ラーシュは首だけを動かして、そちらを見た。
ヴァルデンの軍服を着た男たちが、五、六人。小銃を構えて、森の中から出てきた。その先頭に一人の将校がいた。四十半ばの、がっしりとした体つきの男。左の頬に新しい傷があった。
将校はラーシュの前に立ち、見下ろした。
ラーシュはその男の後ろの森を見た。林道。その脇の、空き地。擬装網をかぶせた、四つの影。網の上にブナの枝がていねいに挿してある。地面の轍は掃いてあった。
牽引車につないだまま。
「……あんたか」
ラーシュはかすれた声で言った。
将校は眉を寄せた。
「几帳面な中隊長」
ラーシュは笑おうとした。折れた脚が痛んで、うまく笑えなかった。
「ヴェステルボリの、唐松の森。偽物の陣地を三つ作って、轍まで掃いてた。リュッケでは牽引車につないだまま撃って、林道沿いに空の射撃位置を五つ。全部、上から見てた」
将校は長いあいだラーシュを見下ろしていた。
それからゆっくりと膝をついた。腰の水筒を外し、蓋を開けて、ラーシュの口元に当てた。
ラーシュは水を飲んだ。冷たかった。
「北の、あの一機か」
将校が言った。北方語だった。訛りはあったが、はっきりとした北方語だった。
「そうだ」
「毎朝、見上げていた」
将校は水筒の蓋を閉めた。
「お前の飛行機雲が消えるまで網の下で息を殺していた。見つかったか、見つかっていないか。見つかっていたら、何分後に来るか。毎朝、時計を握って」
「知ってる」
ラーシュは言った。
「だから、あんたのことはずっと几帳面なやつだと思ってた」
将校は何も言わなかった。
ただ、自分の外套を脱いで、霜の上に横たわるラーシュの体にかけた。
「クラインだ」
将校は言った。
「オットー・クライン。第十四重砲兵大隊」
「ラーシュ・ニューマン」
「ニューマン少尉」
クラインは立ちあがった。部下たちに向かって、担架を持ってこいと命じた。それからもう一度ラーシュを見下ろした。
「お前が見ていた空をわたしは毎朝、下から見ていた」
クラインは言った。
「今朝からは誰もあの空を見上げなくていい」
ラーシュは答えなかった。
ブナの枝のあいだの、薄い青い空を見上げていた。
九千メートルはあんなに遠かっただろうか、と思った。