# 幻影砲兵 第二部「写真と時刻表」
## 第二十一章 線路の言葉
ラーシュ・ニューマンの最後の電文は、ヴァルデン第三軍の通信傍受班でも、書きとられていた。
開戦百十五日目の午後、傍受班の中尉がその紙をザイツの机に置いた。
「平文です。暗号も何もかけていない。落ちる前に慌てて打ったんでしょう」
ザイツは紙を読んだ。
――偵察機、被弾。ビョルク、戦死。脱出する。今朝の目標、二個中隊、東支線九十一キロ付近、左。以上。
ザイツは最後の一行を指でなぞった。
東支線九十一キロ付近、左。
今朝の目標、二個中隊。それはザイツ自身が、昨夜リュッケ突出部の西に入れさせた、餌の二個中隊だった。どこに入れたかはザイツが一番よく知っている。
「リンデマン軍曹」
ザイツは判読班の小部屋に声をかけた。
「リュッケの餌の二個中隊の位置を地図で出してくれ。それと、北の東支線の路線図を」
リンデマンが、二枚の地図を持ってきた。ザイツはそれを重ねた。
餌の二個中隊はブナの森の縁に入れてあった。そのいちばん近くを通る北の鉄道は東支線。東支線の線路から、森の縁まで南東へおよそ六キロ。
「東支線の、九十一キロ地点はどこだ」
リンデマンは路線図の上で、東支線の起点を探した。ヘルネ分岐駅。そこから、東へ。
「このあたりです。兵要地図にはキロ程は書いてありませんが、駅と駅の距離から割りだせば」
リンデマンの指が止まったのは餌の二個中隊から、線路に垂線を下ろしたちょうどその足もとだった。
「線路の、左」リンデマンはつぶやいた。「東支線を起点から終点へ向かって見て、左。南東の側」
ザイツは息を吐いた。
「線路の言葉だ」
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北の偵察機は座標を、地図の座標で送っていなかった。
鉄道のキロ程で送っていた。どの線の、起点から何キロ何百メートル。その地点から、線路のどちら側に何メートル。
傍受班は、三週間前から、北の偵察機が打つ短い電文を記録しつづけていた。十五秒に満たない、数字の羅列。北部線、百九十二キロ四百、左、五千百。四。何を意味するのか、誰にもわからなかった。地図の座標の形式に当てはめても、意味をなさなかった。
「キロ程だったのか」
傍受班の中尉が呆然とした声で言った。
「北部線のキロ程なら、うちの国鉄にも表がある。国際列車のために共用していた。……だが、それなら、とっくに誰かが気づいていてもいい」
「表に当てはめてみなければ、わからない」
ザイツは立ちあがった。
「国鉄から来ている技官を呼んでくれ。北部線のキロ程表を今夜中に」
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夜の十一時過ぎ、国鉄の技官が埃をかぶった分厚い綴りを抱えて、地下へ降りてきた。
北部線、国際列車運行用、キロ程表。起点、ノルトラント首都中央駅。終点、ヴァルデン国境駅。
ザイツとリンデマンは、傍受班が記録してきた電文の中から、北部線のものだけを抜きだした。
三十一通あった。
一通ずつ、キロ程表と地図を突きあわせ、座標に変えていく。北部線、百九十二キロ四百、左、五千百。キロ程表で、首都中央駅から百九十二キロ四百の地点を探す。そこから、線路の左へ五千百メートル。
リンデマンの鉛筆が地図の上で止まった。
「……何もありません。畑です。この日に砲弾が落ちた場所ではない」
次の電文も。その次も。首都から数えた数字はどれも、砲撃のあった場所に当たらなかった。
ザイツはしばらく黙っていた。
それからニューマン少尉の最後の平文をもう一度、机の上に置いた。東支線九十一キロ付近。あれだけは首都から数えた数字が、自分の置いた餌の場所にぴたりと当たった。
「平文は首都から数えている」ザイツは言った。「落ちる直前の、慌てて打った電文だ。決まりどおりの数え方をする暇がなかった」
「ではほかの電文は」
「別の駅から、数えている」
ザイツは北部線の表の上に定規を置いた。
「唐松の森が撃たれたのは、開戦五十八日目の十時五十二分だ。その日の朝、八時二十一分に送られた電文が、唐松の森を指していたとしたら。森の脇の線路の、首都から数えた本当のキロ程はいくつだ」
リンデマンが表と地図を突き合わせた。
「二百十三キロ五百、あたりです」
「電文の数字は、百九十二キロ四百。差は、二十一キロ百」
ザイツは表の上を指で上にたどった。首都中央駅から、二十一キロ百。
そこに北部線の小さな駅が一つ、あった。
「……この駅から、数えていたんだ」
ザイツは次の電文に移った。砲撃のあった場所がわかっている電文だけを選び、同じ計算をした。差は日によって違った。十四キロ。三十六キロ。九キロ。どの差も必ず、北部線のどこかの駅のキロ程にぴたりと重なった。
「毎日、基準の駅を変えている」
リンデマンがつぶやいた。
「表を持っていても、一通だけでは読めない。何十通も集めて、砲弾が落ちた場所と一つずつ突き合わせて、ようやくその日の駅がわかる」
「解くための前提を毎日、一つずつ増やしている」
ザイツはしばらく、表の上の小さな駅の名前を見つめていた。
「だが、砲弾は嘘をつかない。落ちた場所がわかっている日は全部、読める」
ザイツは最初の電文に戻った。
北部線、百九十二キロ四百。その日の基準駅から数えなおして、左へ五千百メートル。
「唐松の森です」
リンデマンが言った。
ザイツは地図を覗きこんだ。
ヴェステルボリの南、唐松の森。開戦五十八日目の朝、クライン大尉の中隊が最初に撃たれた森。
電文の記録時刻は午前八時二十一分。クラインの報告にある、偵察機が上を通った時刻は午前八時十分。そして最初の砲弾が落ちたのは、十時五十二分。
「北の偵察機が唐松の森を見つけて、八時二十一分に座標を送った。蛇は、十時五十二分に撃った」
ザイツは声に出して言った。
「二時間三十一分」
ザイツは次の電文に移った。その次。その次。
三十一通の電文のうち、二十六通がヨルムンガンドの砲撃と対応していた。偵察機が座標を送ってから、その座標に最初の砲弾が落ちるまで。
最初のころは、二時間を超えていた。それが日を追うごとに縮まっていた。一時間四十分。一時間十分。五十五分。四十分。
「速くなっていく」
リンデマンが言った。
「目と砲が慣れていく」
ザイツはうなずいた。それから最後の数通に目を落とした。
開戦九十四日目。リュッケ突出部の西、クラインの中隊が林道の先で撃たれた日。北の偵察機が上を通ったのは、七時二十分。座標の電文は、七時二十八分。そして最初の砲弾が落ちたのは、八時十四分。
だが、その電文の座標は、クラインの中隊が撃たれた北の空き地ではなかった。最初にいた、南の空き地だった。
「偵察機は南の空き地を送った」
ザイツは言った。
「蛇は北の空き地を撃った。クライン大尉が偵察機を見てから移動する先を」
「偵察機の座標を受けとった誰かが自分で、クライン大尉の移動先を計算した」
「そうだ」
ザイツはクラインの私信を思い出していた。海の撃ち方だ。海軍がいる。
偵察機の目は、一つだけだった。その目が見たものを受けとって、砲を撃つ側で、未来を計算する誰かがいる。
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開戦百十六日目、ザイツはクロンベリの野戦病院を訪ねた。
ラーシュ・ニューマンは病院の奥の、見張りのついた個室にいた。右脚は腰から足首まで、白い添え木とギプスで固められていた。顔には落下のときの擦り傷が、いくつも赤く残っていた。
ザイツが部屋に入るとラーシュは、ベッドの上で読んでいた本から顔を上げた。病院の図書室から借りたらしい、ヴァルデン語の古い冒険小説だった。
「ヴァルデン語が読めるんですか」
ザイツは北方語で言った。
「子どものころ、国境の町にいた」
ラーシュは本を閉じた。
「あんたが、尋問官か」
「いいえ。砲兵情報班の、ザイツです」
「砲兵情報」
ラーシュはザイツの顔をしばらく見ていた。
「じゃあ、あんたが、餌を置いたのか。リュッケの、二個中隊」
ザイツは少しのあいだ、答えに迷った。それからうなずいた。
「そうです」
「轍が深かった。影もちゃんとあった。本物の二十一センチを、二個中隊もわざわざ餌に出したのか」
「本物でなければ、あなたは見抜いた」
ラーシュは短く笑った。
「そうだな。偽物なら、見抜いた」
ラーシュは窓の外を見た。クロンベリの町の屋根の上に、冬の低い雲が垂れこめていた。
「ビョルクは」
「後席の方ですね。機体と一緒にリュッケの森に落ちました。昨日のうちにクライン大尉の部下が収容しました。名前と階級を刻んだ墓標をつけて、町の墓地に埋葬します。戦争が終わったら、北に知らせます」
ラーシュは長いあいだ黙っていた。
「……ありがとう」
ザイツはベッドの脇の椅子に腰を下ろした。
「ニューマン少尉。聞きたいことがあります。答えたくなければ、答えなくていい」
「答えないよ。たいていは」
「わかっています」
ザイツは膝の上で手を組んだ。
「あなたが、線路の言葉で送った座標を受けとっていたのは、何人ですか」
ラーシュはザイツを見た。
「知らない」
その答えは嘘ではないようにザイツには聞こえた。
「俺は決められた場所から、決められた言葉で送るだけだった。受けとるのは飛行場の受信所だ。そこから先、どこへ回っていたのかは知らない」
「決められた場所。送信点ですね。毎日、違った」
ラーシュの目がわずかに動いた。
「毎日、誰かが送信点を決めていた。飛行経路の上の、いくつかの点。その日によって、どの点から送るかを変える。それを決めていたのは」
「知らない」
ラーシュはもう一度言った。今度は少しだけ声が硬かった。
ザイツはそれ以上、訊かなかった。
しばらく、二人とも黙っていた。廊下を看護婦の足音が通りすぎていった。
「ザイツ大尉」
ラーシュがふいに言った。
「あんた、数えてるんだろう」
「何をですか」
「蛇を」
ザイツは答えなかった。
「俺も数えてた」
ラーシュは天井を見上げた。
「最初は写真の枚数を。九人の仲間が撮って、誰にも使われなかった写真の山を。それからあの海軍に会って、俺の目が見つけたものを、撃ってもらえるようになった。そしたら、今度は消えた砲の数を数えるようになった。唐松の森で二門。リュッケで二門」
ラーシュはザイツを見た。
「クラインっていう中隊長にも会った。昨日、森の中で。あの人も数えてた。毎朝、時計を握って、俺の飛行機雲を見上げて」
「知っています」
「みんな、数えてるんだな」
ラーシュは小さく笑った。
「数えて、数えて、それで何がわかるんだ」
ザイツは少しのあいだ、考えた。
「わかるものもあります」
ザイツは言った。
「でも、一番知りたいものは数えても、わからないのかもしれません」
「一番知りたいもの」
「……数えている相手がどんな人間か」
ラーシュは長いあいだザイツの顔を見ていた。
それから冒険小説を開きなおした。
「帰ってくれ、大尉。もう話すことはない」
ザイツは立ちあがった。戸口で振り返ったとき、ラーシュは本のページに目を落としていた。だが、ページはめくられていなかった。
ザイツは部屋を出た。
ラーシュ・ニューマンは、ザイツの足音が廊下の向こうに消えるまで、本から目を上げなかった。
送信点を決めていた人間の顔を思い浮かべていた。カルビー飛行場の作戦室で、国鉄の路線図を広げて、「少尉の飛行機もいまから、一本の線です」と言った、黒い外套の、桜色の髪の女の顔を。
あの大尉はその顔を探している。
ラーシュは本のページを一枚めくった。
何も話さない。
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同じ日の夕方、スコーグ峠のトンネルの作戦室で、ハンナはキロ程表を前にしていた。
「ラーシュさんの最後の電文は平文でした」
ハンナはホルムとヴィンターに言った。ホルムは、前の晩にカールスハムンから戻ってきていた。
「東支線、九十一キロ付近、左。あの場所に餌を置いたのは向こうです。向こうはその場所を知っている。平文で送られたキロ程と、自分たちが置いた餌の場所を並べれば、キロ程で座標を送っていたことがわかります」
「線路の言葉が割れた」ヴィンターが言った。
「はい。ラーシュさんの最後の平文だけは、基準駅を使わずに首都から数えた数字でした。あれと餌の場所を並べれば、キロ程で送っていたことに気づきます。北部線の表は向こうにもある。気づけば、あとは砲弾が落ちた場所と一通ずつ突き合わせて、毎日の基準駅を割りだせる。これまでに送ったものはたぶん、全部、読まれます」
ハンナはキロ程表を閉じた。
「言葉を変えます。今日から、基準駅に加えて、キロ程に毎日違う数を足します。その日の、ある列車の列車番号の、下三桁。どの列車かは前の晩に受信所にだけ知らせる」
「送る目はもうない」
ホルムが言った。静かな声だった。
ハンナは手を止めた。
「ラーシュの偵察機は、一機しかなかった。代わりの偵察機も乗り手もいない。空軍には、九千まで上がれる機体はもう一機も残っていない」
「……はい」
「目がなければ、蛇は撃てない。撃てなければ、向こうに渡した理由はそのまま本当になる。蛇の数を縛っているのは目の数だ。目が消えたから、蛇は黙った。向こうはそう思う」
ホルムはハンナを見た。
「それでいいのか」
ハンナは長いあいだ答えなかった。
「……よくありません」
ハンナはようやく言った。
「蛇が黙れば、リュッケの人たちがまた死にます。雲の三日間の、何倍も」
「じゃあ、どうする」
ホルムは作戦室の壁の地図の前に立った。リュッケ突出部。ヴェステルボリ。その周りに散らばる、ノルトラント陸軍の、小さな印。
「目は空だけじゃない」
ホルムは言った。
「陸軍には音源標定班がある。閃光観測班もある。北の重砲が全部やられたあと、撃ち返す砲がなくなって、ずっと遊んでいた連中だ。敵の重砲が撃てば、音を測って、場所を出せる。向こうの考える人が毎日やっていることと、同じことをこっちもできる」
「敵が撃ったら、撃ち返す」
ヴィンターが低い声で言った。
「前の大戦の、砲兵の戦争だ」
「そうです」
ホルムは言った。
「空に目がないなら、耳で撃つ。敵が撃つたびに音源標定班が場所を出す。蛇はそれを撃つ。十五分以内に。撃てば、敵の重砲は撃つのをためらうようになる。撃てば、撃ち返されるから」
ハンナはホルムの顔を見ていた。
「向こうは」
ハンナは言った。
「目が空から耳に変わったことに気づきます。そして目が変わっても、蛇が同時に撃つ数が変わらないことにも」
「気づくだろうな」
「それでも」
ハンナは鉛筆を取った。
「蛇は黙りません」
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開戦百十八日目、午後二時四十分。
リュッケ突出部の西、ヴァルデン第一軍の重砲陣地から、二十一センチ砲弾が、ノルトラント軍の塹壕に撃ちこまれはじめた。
突出部の袋の口に、ノルトラント陸軍第六音源標定班の聴音所が、六か所に散らばっていた。二か月間、撃ち返す砲を持たずに、ただ敵の砲声を記録しつづけてきた班だった。
六つの聴音所のマイクロフォンが同じ砲声を、それぞれ何分の一秒かずれて拾った。記録器の印画紙に黒い線が跳ねあがった。
班長の曹長が時刻の差から双曲線を三本引いた。交点はブナの森の南の縁だった。
「キロ程に直せ」
曹長は班の若い上等兵に言った。上等兵は、国鉄の保線区から徴用されてきた男だった。ハンナがその朝、鉄道電話で、音源標定班の全部に一人ずつ、国鉄の人間を回したのだった。
上等兵はキロ程表をめくった。
「東支線、八十七キロ三百、左、六千四百」
それにその日の鍵を足した。今朝、東支線の始発の貨物列車の番号の、下三桁。
鉄道電話の受話器を取り、エルム峠の南の、第百十一射撃曲線にいるヨルムンガンド三号を呼んだ。
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午後二時五十四分。
ヨルムンガンド三号の射撃指揮車で、ホルムはカッセル中尉と並んで、音源標定班の座標を弾道表に通していた。
海の上で、夜戦のとき、敵艦の姿が見えないことがあった。見えるのは敵艦の発砲炎だけ。その光の方位と音が届くまでの時間から、敵艦の位置を割りだして、撃ち返す。
海の上でやってきたことだった。目がなければ、耳で撃つ。
「装填よし」
三号の砲長が言った。ベルグではなかった。ベルグは、二号とともにカールスハムンにいた。
「撃て」
四十センチの砲弾が冬の空へ昇っていった。
音源標定班の曹長が、最初の二十一センチ砲声を記録してから、十四分。
ブナの森の南の縁で、ヴァルデン第一軍の重砲中隊は、四門のうち三門を失った。
その日から、リュッケ突出部の西の森で、ヴァルデンの重砲が撃つ回数は目に見えて減った。
撃てば、十五分以内に撃ち返される。
空に目がなくても、蛇は見ていた。