# 幻影砲兵 第二部「写真と時刻表」
## 第二十二章 霧氷
開戦百二十四日目の夜、北の国に最初の大雪が降った。
夕方から降りはじめた雪は夜半にはいったん止み、それから空が晴れた。雲が去ったあとの空は星が痛いほど冴えていた。気温は夜明け前に零下十八度まで下がった。
スコーグ峠のトンネルの坑口に立つと吐く息が、すぐに凍って、睫毛に白くまとわりついた。
ハンナはその坑口で、夜明けを待っていた。
隣にソーデル技師長がいた。毛皮の帽子を耳まで下ろし、厚い外套の襟を立てていた。
「雪は嘘をつきませんな」
老技師長は白い息を吐きながら言った。
「ゆうべ、どの線路を列車が通ったか。今朝の雪の上には全部書いてある。通った線路は、レールの上の雪が車輪に押しのけられて、黒い二本の線になる。通らなかった線路は雪に埋もれて、白いまま」
「わかっています」
ハンナは言った。
「だから、ゆうべ、全部の線に除雪車を出しました」
国鉄の冬の仕事だった。大雪の夜には除雪車が本線も支線も待避線も、一晩じゅう走りまわる。戦争が始まる前から、毎年やってきたことだった。今年はそれに蛇の通らない待避線と、蛇の使わない射撃曲線と、蛇の入らない十四本のトンネルの取りつけ線を加えただけだ。
夜明けの光が峠の稜線を薄い桃色に染めはじめた。
坑口の外の、雪に覆われた谷を高速線が走っていた。レールの上の雪は除雪車に押しのけられて、二本の黒い線になっていた。その脇の待避線も黒い二本の線。その先の、射撃曲線への取りつけ線も。
国じゅうの線路が雪の上に黒い線を描いていた。
「どこを通ったかはわからない」
ハンナは言った。
「全部、通ったように見えます」
ソーデルは黙ってうなずいた。
それからふと顔を上げた。
「リースさん。あれを」
ソーデルが指さしたのは線路の上ではなかった。線路の上の、空中だった。
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高速線の架線が朝日を受けて、白く光っていた。
電柱と電柱のあいだに張られた、トロリー線と、それを吊る吊架線。いつもは黒く細い線にしか見えない。それが今朝は白く太く、ガラス細工のように輝いていた。
「霧氷です」
ソーデルが言った。
「夜のあいだに空気中の水分が、冷えた架線に凍りついた。この冷えこみなら、一晩で、指の太さほどにもなる」
ハンナは架線を見上げていた。
白い架線は谷の奥へどこまでも続いていた。朝日を浴びて、きらきらと光りながら。
だが、ところどころで光が途切れていた。
谷の入口から、トンネルの坑口のすぐ手前まで。そこだけ、架線が黒く細いままだった。霧氷がついていなかった。
「……パンタグラフ」
ハンナはつぶやいた。
「そうです」
ソーデルの声は低かった。
「夜のうちに電気機関車がこの下を通った。パンタグラフが架線の霧氷を削り落とした。通ったところだけ、架線が黒い」
ハンナは谷の入口からトンネルの坑口まで、黒い架線をたどった。
一号だった。ゆうべ、二時過ぎに第百十一射撃曲線から戻ってきて、このトンネルの隣の、スコーグ・トンネルの本線側に入った。トンネルの中に排気を溜めないように蛇は、坑口の手前では必ずディーゼルを止め、架線から取って、電気で走る。
「除雪車は蒸気で牽いています」
ソーデルが言った。
「煙突から火の粉は出しますが、パンタグラフは上げない。架線の霧氷は削らない」
「本線の旅客列車は」
「夜中の二時から五時までは、高速線に旅客列車は走りません。貨物は何本か。電気で牽く貨物は、パンタグラフを上げて走りますから、霧氷を削る。ですが貨物が走るのは本線だけです。待避線の取りつけにも射撃曲線にも、トンネルの取りつけ線にも入らない」
ハンナは谷の奥を見た。
本線の架線はところどころで黒く、ところどころで白かった。夜の貨物列車が霧氷が育ちきる前に通った区間と、育ちきったあとに通った区間。
そしてその本線から枝分かれして、トンネルの坑口に向かう取りつけ線の上の架線だけが、真っ黒だった。
一本だけ。
「……向こうの判読員は」
ハンナは坑口の外の空を見上げた。夜明けの空はまだ、灰色の偵察機の線に汚されていなかった。
「今朝、これを撮ります」
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開戦百二十五日目、午前十時。
クロンベリ町役場の地下で、マルタ・リンデマン軍曹は、立体視鏡から顔を上げなかった。
ザイツは判読班の小部屋の戸口に立って、リンデマンの背中を見ていた。今朝の偵察写真が届いてから、二時間、リンデマンは一言も口をきいていなかった。
「軍曹」
リンデマンはようやく顔を上げた。その頬が紅潮していた。
「大尉。雪の上の線路は全部、黒いです。どれが本物の足跡か、わかりません。北はゆうべ、国じゅうの線路に除雪車を走らせました」
「そうだろうな」
「ですが」
リンデマンは、一枚の写真をザイツの前に置いた。
「架線です」
ザイツは拡大鏡を取った。
高速線の、ある区間。谷の中を本線が走っている。その本線の上の架線が朝日を受けて、白く光っていた。細い、光る糸になって。
「霧氷がついています。ゆうべの冷えこみで架線に氷が育った。氷のついた架線は低い朝日を受けると、写真に白く写ります。これまで架線は、九千メートルからはほとんど写らなかった。細すぎて。でも、今朝は写っている」
「それで」
「電気機関車がパンタグラフを上げて下を通ると、霧氷が削れます。削れたところは黒い。削れていないところは白い」
リンデマンは写真の上の一点を指さした。
本線から、枝分かれした線路。その先の、丘陵の裾の、黒い半円。トンネルの坑口。
取りつけ線の上の架線が黒かった。
「ゆうべ、電気機関車がこの取りつけ線を通って、トンネルに入りました」
ザイツは拡大鏡を覗きこんだまま、動かなかった。
「……蛇だ」
「はい。旅客列車はトンネルの取りつけ線には入りません。夜の貨物も。ここを通るのは」
「蛇だけだ」
ザイツは拡大鏡を置いた。
「ほかのトンネルは」
リンデマンは写真の束をザイツの前に並べた。
「今朝、偵察飛行隊が撮れたのは、十四本のトンネルのうち、十一本です。残りの三本は雲がかかっていました」
リンデマンは、十一枚の写真を、一枚ずつ指でたどった。
「取りつけ線の架線が黒いのはこの一本と」
リンデマンの指がもう一枚の写真の上で止まった。
「この一本。東支線の、エルム峠の南の、ヴィード・トンネル」
「二本だけか」
「十一本のうち、二本だけです」
ザイツは椅子に腰を下ろした。
ゆうべ、トンネルに入った蛇は、二匹。
十四本のうち、十一本を見て、二本。見えなかった三本に何匹いたかはわからない。一匹もいなかったかもしれないし、三匹いたかもしれない。
だが、ザイツの頭の中で、十一メートルの紙の上の帯が、ひとりでに並びはじめていた。六十八日目から後、同時に落ちた砲弾の場所は最大で二か所。
そして今朝、トンネルに入った蛇は、二匹。
「軍曹」
「はい」
「明日の朝も撮ってくれ。冷えこみが続けば、霧氷はまたつく。十四本全部を。雲があれば、雲の下まで降りてでも」
「偵察飛行隊にそう伝えます」
リンデマンは立ちあがりかけた。それから少しためらって、言った。
「大尉。明日の朝も架線は光ると思いますか」
ザイツは答えなかった。
光る線路を探しはじめたら、二日で国じゅうの線路が光った。トンネルを見はじめたら、トンネルに偽物の五号が入ってきた。
向こうはこちらの目を見ている。
「わからない」
ザイツは言った。
「だが、今朝の写真は今朝の写真だ。明日何が起きても、今朝、二本だったことは変わらない」
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その夜。
ヴェストラ機関区の検修庫の前で、カール・ストランドは、見慣れない機関車を見上げていた。
古い旧型の電気機関車だった。五号の最後尾に連結されて、エルム峠の北口の外で爆撃された機関車と同じ型。この一両はヴェストラの留置線の奥で、廃車を待っていたものだった。
その屋根の上にパンタグラフが、二基並んでいた。一基はふつうのパンタグラフ。もう一基はすり板の代わりに、細い鋼のブラシのようなものを取りつけた、奇妙な形のパンタグラフだった。
「霜取りです」
ソーデル技師長がストランドの隣で言った。
「架線についた霧氷を夜のうちに削り落とす。北の山の線区では戦前から、冬になると走らせていました。霧氷がついたままの架線に、朝一番の列車が突っこむと、パンタグラフが氷に弾かれて、火花を散らして、架線を焼き切ることがある。だから、夜のうちに霜取り列車が先に走って、氷を落としておく」
「知ってますよ」
ストランドは言った。
「〈北極星〉の運転士だったころ、冬の朝はいつも霜取りのあとを走ってました」
「今夜から、それを国じゅうでやります」
ハンナの声がした。ストランドは振り返った。
黒い外套の女が検修庫の暗がりから出てきた。夜の十一時を過ぎていたが、ハンナの顔に眠気はなかった。ただ、目の下に薄い影があった。
「高速線も東支線も西支線も。本線も待避線も射撃曲線も、トンネルの取りつけ線も。架線のある線路は、一本残らず、霜取り列車を走らせます。夜中の二時から、夜明けまで。何度も」
「そうすりゃ、朝には国じゅうの架線が真っ黒になる」
「はい」
「今朝、もう、一本、撮られちまった後でも」
ハンナは少しのあいだ、黙った。
「……はい」
ハンナは霜取り機関車を見上げた。
「今朝の写真は今朝の写真です。取り消せません。向こうは今朝、二本の黒い取りつけ線を見ました。それはもう向こうのものです」
ハンナの声は平らだった。
「でも、明日の朝からは見せません。光る線路のときと同じです。向こうは今朝の二本を覚えている。そして明日の朝、国じゅうの架線が黒くなったのを見て、こちらが見られていると気づいたことに気づく」
「それじゃ、隠したことがばれる」
「ばれます」
ハンナは言った。
「でも、隠さなければ、毎朝、本物の数を見せることになる。それよりは、一度だけ見せて、あとは隠すほうがいい」
ストランドはしばらくハンナの横顔を見ていた。
「リースさん。あんた、疲れてるな」
ハンナは答えなかった。
「偽物の機関車を運転させてくれって言ったときも、あんたはだめだと言った。人が死ぬ線は引かないと。今度の霜取りは偽物じゃない。本物の仕事だ。冬の国鉄の、いつもの仕事だ」
ストランドは、霜取り機関車のステップに足をかけた。
「今夜の一番はわしが走らせますよ。高速線の南の区間。こいつは最後まで運転させてもらいます」
ハンナは長いあいだストランドを見ていた。
それから小さく頭を下げた。
「お願いします」
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開戦百二十六日目、夜明け。
ヴァルデンの偵察機は、十四本のトンネルのうち、十三本の取りつけ線を撮った。
どの架線も黒かった。本線も支線も待避線も射撃曲線への取りつけ線も。北の国じゅうの架線から、霧氷が消えていた。
クロンベリ町役場の地下で、リンデマンは、その写真を黙ってザイツの机に置いた。
ザイツは写真を一枚ずつ見て、それから机の引き出しを開けた。
前の日の写真が入っていた。十一本のうち、二本だけ黒い取りつけ線。
ザイツは、二組の写真を並べて置いた。
「一日だった」
ザイツは言った。
「光る線路は、二日で隠された。霧氷は、一日だ。向こうは速くなっている」
「私たちもです」
リンデマンが言った。
ザイツは顔を上げた。
「光る線路のときは北が隠す前に、何も見つけられなかった。今度は隠される前に一度だけ見ました」
リンデマンは前の日の写真の、二本の黒い取りつけ線を指さした。
「二本です。十一本のうち、二本。それはもう取り消せません」
ザイツは長いあいだその二本の線を見つめていた。
それから手帳を開き、書いた。
――開戦百二十四日目夜。トンネルに入った電気機関車、二。見えざる三本を除く。
書いてから、少し考えて、もう一行、書き足した。
――同夜、同時に落ちた砲弾の場所、最大二。六十八日目より変わらず。
二つの「二」が手帳の上に並んでいた。
ザイツは手帳を閉じた。
証拠ではない。見えなかった三本のトンネルがある。十一本のうちの二本だというだけだ。八匹の蛇のうち、その夜たまたま動いたのが二匹だった。そう言われれば、それまでだ。
だが、どの数字も同じ数を指していた。
同時に鳴る時計は、二つ。
トンネルに帰る蛇は、二匹。
ザイツは窓のない地下室の天井を見上げた。
北の国の、どこかのトンネルの奥で、誰かが今朝の真っ黒な架線を見て、何を思っているのだろう。
昨日の朝の二本を取り消せないことを、悔やんでいるのだろうか。
それとも、一日で隠しきったことに、ほっとしているのだろうか。
ザイツにはわからなかった。
ただ、その誰かが昨夜も眠っていないことだけはなぜか、わかる気がした。