# 幻影砲兵 第二部「写真と時刻表」
## 第二十三章 一門砲
オットー・クライン大尉が、クロンベリの野戦病院を訪ねたのは、開戦百二十七日目の午後だった。
見張りの兵はクラインの階級章を見て、黙って扉を開けた。
ラーシュ・ニューマンはベッドの上で、窓の外の雪を見ていた。右脚のギプスは膝から下だけになっていた。枕元にヴァルデン語の冒険小説が三冊、積んであった。
「中隊長」
ラーシュは振り返って、少し驚いた顔をした。
「リュッケにいるんじゃなかったのか」
「司令部に呼ばれた。ついでだ」
クラインはベッドの脇の椅子に腰を下ろし、外套の内ポケットから、小さな包みを取りだした。油紙に包んだ、黒パンと、燻製の鱒が一切れ。
「病院の飯はまずいだろう」
ラーシュは包みを受けとって、しばらく眺めていた。それから笑った。
「几帳面だな、やっぱり」
二人はしばらく黙っていた。窓の外で、雪が音もなく降りつづけていた。
「リュッケの西の森はどうだ」
ラーシュが訊いた。
「お前がいなくなって、静かになると思った」
クラインは窓の外を見たまま言った。
「最初の三日は静かだった。蛇は、一発も撃ってこなかった。わたしたちは目が潰れたんだと思った」
「四日目に」
「四日目に撃ってきた。こちらが撃って、十四分後に」
ラーシュは黙って聞いていた。
「偵察機は飛んでいなかった。空には何もいなかった。それなのに、こちらの中隊が撃ちはじめて、十四分で、四十センチが落ちてきた」
クラインはラーシュを見た。
「北は耳で撃ちはじめた。音源標定で、こちらの砲の場所を出して、蛇に撃たせている。前の大戦と同じだ。撃てば、撃ち返される」
ラーシュはしばらく何も言わなかった。
それから小さくつぶやいた。
「……夜戦だ」
「なに?」
「いや」
ラーシュは首を振った。
「あいつらしい、と思っただけだ」
クラインはラーシュの顔をじっと見た。それから何も訊かなかった。
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同じ日の夕方、クラインはザイツの机の前に立っていた。
「一つ、提案があります」
ザイツは書類から顔を上げた。
「リュッケの西で、蛇に撃ち返されはじめてから、わたしたちの重砲は撃てなくなりました。一回撃てば、十四分後に四十センチが来る。二十一センチ砲の中隊が、一回撃って、十四分以内に陣地を捨てて逃げるのは無理です。牽引車につないだままでも」
「知っています」
「ですから、中隊で撃つのをやめます」
ザイツはペンを置いた。
「一門で撃ちます」
クラインは机の上の地図に指を置いた。リュッケ突出部の西の森。
「二十一センチ砲を一門だけ、牽引車につないで森の中を走らせる。一か所で三発だけ撃つ。撃ったら、すぐ動く。三発撃つのに一分半。動きだすのに三分。十四分後に蛇の砲弾が落ちてくるころには、二キロ先にいる」
「三発では敵の陣地は崩せない」
「崩すためではありません」
クラインは言った。
「蛇を撃たせるためです」
ザイツはクラインの顔を見た。
「大尉。わたしはあなたの手帳の写しを読みました」
クラインは胸のポケットを叩いた。
「砲身の寿命。百九十発。蛇が一回撃つたびに八発。二十四回撃てば、一本の砲身が尽きる。尽きたら、どこかの工場に戻して、中を入れ替えなければならない」
「……それで」
「一門の二十一センチ砲が、三発撃って逃げる。蛇はその場所に八発撃ちこむ。当たれば、わたしたちは二十一センチ砲を一門失う。外れれば、何も失わない。どちらにしても、蛇の砲身は、二十四分の一、削れる」
クラインは地図の上で、指をゆっくりと動かした。
「一日に十回やれば、蛇の砲身は、一日で半分近く削れます。当たっても、外れても」
ザイツは長いあいだ黙っていた。
「二十一センチ砲一門と、四十センチ砲弾八発」
「二十一センチ砲は本国の工場で、月に何十門も作れます。四十センチの砲身は」
クラインはザイツを見た。
「あなたの年鑑によれば、五か月に一本です」
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ザイツはしばらく考えた。それから口を開いた。
「もう一つ、足せます」
「なんでしょう」
「音だけの砲です」
クラインの眉がわずかに動いた。
「北は音で撃ち返してくる。音源標定で砲の場所を出して。ならば、砲がいなくても、砲の音だけを鳴らせばいい。火薬を地面に埋めて、二十一センチ砲の発射音に似た音を鳴らす。北の音源標定班はそこに砲がいると思う。蛇はそこに八発撃つ」
「空の森に」
「空の森に。蛇の砲身だけが削れる」
ザイツはそう言ってから、自分が何を言ったのかに気づいた。
偽物の音。
ハース曹長が、「音が軽い」と言った、あの波形。本物の四十センチ砲撃に合わせて、別の場所で鳴らされていたかもしれない、偽物の音。
向こうがやっていたかもしれないことを今度は、こちらがやろうとしている。
「大尉?」
「……いや」
ザイツは首を振った。
「やりましょう。一門砲と、音だけの砲。リュッケの西で」
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開戦百三十日目、午前十時十二分。
リュッケ突出部の北、ノルトラント陸軍第六音源標定班の第三聴音所で、記録器の針が跳ねた。
班長の曹長は、六つの聴音所の記録を並べ、双曲線を引いた。交点はブナの森の南西の縁。
「キロ程に」
国鉄から来た上等兵がキロ程表をめくり、鍵を足し、鉄道電話でエルム峠の南の三号を呼んだ。
午前十時二十四分。三号はブナの森の南西の縁に八発を撃ちこんだ。
午前十時四十一分。第三聴音所の針がまた跳ねた。今度はブナの森の西。
午前十時五十五分。三号はそこに八発を撃ちこんだ。
午前十一時二十分。また。
午後一時までに、三号はリュッケ突出部の西の森に五回撃った。四十発。
三号の射撃指揮車で、ホルムは、五回目の射撃の弾着報告を待っていた。報告は突出部の前線の観測所から、鉄道電話で入ってくる。
『五回目。弾着、森の西の空き地。砲の残骸、なし。人影、なし』
ホルムは受話器を置いた。
「五回撃って、仕留めたのは、一回目の一門だけか」
カッセル中尉が射撃記録の帳面を見ながら言った。
「一回目は牽引車ごと吹き飛ばしました。二回目から後は何も」
「何もというのは」
「撃った場所に何もなかった、ということです」
カッセルは帳面から顔を上げた。
「中尉。二回目から五回目の音源は全部、違う場所でした。一門の砲が、三発撃っては逃げている。そう思って撃ちました。でも、撃った場所には砲の轍もない、と前線の観測所は言っています」
ホルムは黙って帳面を受けとった。
四十発。
三号の砲身の、五分の一だった。
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その夜、ホルムはスコーグ峠のトンネルの作戦室で、ハンナのダイヤの前に立っていた。
ハンナは、三号の赤い線の、今日の五つの射撃を、一つずつ指でたどっていた。
「一回目は本物でした」
ハンナは言った。
「二回目から五回目は」
「わからない」
ホルムは言った。
「音源標定班は、四回とも、二十一センチ砲の発射音だと言っている。波形もそれらしかった、と。だが、撃った場所には轍がない。砲の残骸もない」
「音だけ、ですね」
ハンナの声は静かだった。
「私たちが、イングヴァルさんにやってもらっていることと、同じです」
ホルムはハンナの横顔を見た。
「向こうは学んだ。私たちがやったことを。偽物の光と、偽物の音。それを今度はこちらに向けてきた」
「向こうの考える人か」
「たぶん」
ハンナは、三号の赤い線の横に小さく数字を書いた。今日の四十発。その下に、三号の砲身の、残りの寿命。
「三号は今日一日で、砲身の五分の一を使いました。そのうち五分の四は空の森に」
ハンナは鉛筆を置いた。
「向こうは、蛇を殺そうとしているんじゃありません。蛇の砲身を削ろうとしている。一門の古い榴弾砲と地面に埋めた火薬で」
ホルムは長いあいだダイヤを見つめていた。
「……砲弾だ」
ホルムは言った。
「え?」
「向こうが撃った砲弾がどこに落ちたか。それを確かめればいい」
ホルムはダイヤの横の地図の前に立った。リュッケ突出部の、北の縁。ノルトラント軍の塹壕の線。
「本物の二十一センチ砲が撃てば、砲弾はこちらの塹壕に落ちる。十五キロ先から撃てば、飛翔時間は四十秒前後。音源標定班が発射音を記録してから、四十秒後にこちらの塹壕のどこかに、二十一センチ砲弾が落ちているはずだ」
「偽物の音なら」
「砲弾は落ちてこない」
ホルムは振り返った。
「音は嘘をつける。光も嘘をつける。だが、砲弾は嘘をつけない。向こうが本当に撃ったなら、どこかに落ちている」
ハンナはホルムを見ていた。
それから小さく息を吐いた。笑ったのかもしれなかった。
「……私が向こうについていた嘘を今度は、中尉が見破るんですね」
「同じことだ」
ホルムは言った。
「あんたが言った。砲弾は嘘をつけない。俺たちの砲弾も向こうの砲弾も」
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翌日から、ノルトラント軍のリュッケ突出部の塹壕に、新しい決まりができた。
前線の各中隊にストップウォッチが配られた。敵の砲弾が落ちたら、その時刻を秒単位で、鉄道電話で音源標定班に知らせる。
音源標定班は発射音の時刻と、着弾の時刻を突きあわせる。発射音から三十秒から五十秒のあいだに、どこかに着弾がなければ、その発射音は撃ち返さない。
開戦百三十二日目。
リュッケ突出部の西の森で、ヴァルデン軍の「音だけの砲」は、十一回鳴った。蛇は、一度も撃ち返さなかった。
同じ日、本物の一門砲は、四回撃った。そのうち三回は音源標定班の座標を受けた三号が、三発撃って逃げる一門砲の、逃げる先を撃った。林道の先。次の空き地。十四分後に砲が着くはずの場所。
三回のうち、二回、当たった。
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その日の夕方、クロンベリ町役場の地下で、クラインはザイツに報告した。
「音だけの砲は今日は、一度も撃ち返されませんでした。昨日は、四回撃ち返されたのに」
「一門砲は」
「四回撃って、三回撃ち返されて、二門失いました。逃げる先を撃たれた」
ザイツは黙ってうなずいた。
「一日で見破られた」
クラインは窓のない天井を見上げた。
「北は音が嘘だとどうやって見分けたんでしょう」
ザイツは答えなかった。
答えはわかっている気がした。
自分が廊下に十一メートルの紙を広げて、見つけたのと同じものだ。
砲弾は嘘をつけない。
向こうの誰かもそれを知っている。そしてその誰かは、ザイツが向こうの嘘を見破るのに使った道具で、今度はこちらの嘘を見破った。
ザイツは手帳を開いた。
――開戦百三十日目。音のみの砲、四回撃ち返さる。四十センチ弾、三十二発。
――百三十二日目。音のみの砲、撃ち返されず。見破らる。一日。
その下に少し考えてから、書いた。
――向こうにも数える者がいる。
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開戦百三十三日目、深夜。
カールスハムン海軍工廠の第三組立工場の扉が、重い音を立てて開いた。
ヨルムンガンド二号が、四両の機関車にゆっくりと押されて、冬の夜の中へ這いだしてきた。
新しい内筒を入れた砲身が、工場の照明の最後の光を受けて、鈍く光った。旋条はまだ一発も撃っていない、刃物のように鋭い山と谷を刻んでいた。
ベルグ曹長が射撃指揮車の昇降口から、ホルムに手を振った。ホルムは前の日の夜にスコーグ峠のトンネルから、二号を迎えに来ていた。
「海軍さん。お待たせしました」
「ああ」
「新品の砲身ですぜ。二百発、まるまる残ってる」
ベルグはにやりと笑った。それからホルムの顔を見て、笑いを引っこめた。
「どうしました」
「向こうが砲身を削りに来てる」
ホルムは、二号の砲身を見上げた。
「一門の古い榴弾砲と地面に埋めた火薬で。こっちが一回撃つたびに二百分の八ずつ。向こうはそれを数えてる」
ベルグはしばらく黙っていた。
「前の戦争のときも」
ベルグは言った。
「最後は弾と砲身の数の勝負になりました。どっちが先に撃てなくなるか」
「どっちが勝った」
「……砲身が多いほうです」
ベルグは、二号の砲身を見上げた。
「こっちは、三本。向こうは何百本」
ホルムは答えなかった。
二号の四両の機関車が低くうなりはじめた。千トンの蛇がゆっくりと、カールスハムンの工廠を出て、南の前線へ続く夜の線路へ向かって動きだした。
新しい砲身の、二百発。
ホルムはダールの手帳を開き、その数字を書いた。
それから、その下に一行書き足した。
――一発も空の森に撃たない。