# 幻影砲兵 第二部「写真と時刻表」
## 第二十四章 ローセン駅
スコーグ峠のトンネルの作戦室の壁に、新しい紙が一枚、貼られた。
ダイヤの隣にハンナが引いた、細長い表だった。横に三本の砲身の名前。一号、二号、三号。縦に日付。升目の中にその日に撃った弾数と、砲身に残った寿命。
二号の列はまだ真っ白だった。昨夜、カールスハムンから戻ってきたばかりの、新しい内筒。残り、二百発。
一号の列は残り百十二発。
三号の列は残り四十一発だった。
「三号はあと五回撃てば、終わりです」
ハンナは表の前で言った。
作戦室にはホルムとヴィンター少佐と、ベルグ曹長と、三号の射撃指揮官のカッセル中尉が集まっていた。トンネルの天井から、地下水がいつもより速く落ちていた。外は雪解けの日だった。
「カールスハムンの内筒は次の一本が、あと十九日で仕上がります」ハンナは続けた。「三号は、十九日のあいだに、四十一発しか撃てない。一号は、百十二発。二号は、二百発。三本合わせて、三百五十三発。一日あたり、十八発」
「二回と少し」ヴィンターが言った。
「はい。一日に二回。それがいまの蛇の限界です」
カッセル中尉が顔を上げた。
「リュッケの師団は毎日、少なくとも五回の対砲兵射撃を求めています。二回では足りない。こちらが撃たなければ、向こうの一門砲は好きなだけ撃ってきます」
「一門砲は撃たない」
ホルムが言った。
「一門の古い二十一センチ砲を仕留めるのに八発。向こうはそれを数えてる。こちらの砲身を削るために、わざと一門ずつ撃ってくる」
「では塹壕の歩兵は撃たれっぱなしですか」
カッセルの声がわずかに高くなった。
「一門砲の一発で、塹壕の兵が十人死ぬこともあるんですよ、中尉」
ホルムはカッセルを見た。
二十三歳の、陸軍の砲兵だった。砲兵学校を出たばかりで、三号の射撃指揮官に任じられた。海の上で、艦隊の砲弾が何百発も空を飛ぶのを見てきたホルムとは違う。カッセルが知っている砲兵の戦争は、塹壕の中の歩兵を守るための戦争だった。
「知ってる」
ホルムは言った。
「だが、一門砲を撃つたびに、三号の砲身は、二十四分の一ずつ減る。三号が撃てなくなれば、そのあとは、一門砲より大きいものが来ても、撃ち返せない」
作戦室が静まりかえった。
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沈黙を破ったのはハンナだった。
「撃つものを変えましょう」
全員がハンナを見た。
「向こうは蛇の砲身を数えています。砲身は、三本しかない。向こうの重砲は何百門もある。一門ずつ撃ちあったら、先に尽きるのはこちらです」
ハンナはダイヤの隣の地図の前に立った。前線の地図ではなかった。前線の南、ヴァルデン軍の占領地の、鉄道の地図だった。
「向こうの重砲はどこから来ますか」
「本国の工場からだ」ヴィンターが言った。
「どうやって、前線まで来ますか」
「……鉄道で」
「はい」
ハンナは地図の上の、一本の線を指でたどった。
「北部線です。開戦前は国境を越えて、向こうの国鉄とつながっていました。いまは国境からヴェステルボリの南まで、向こうの占領地の中を走っています。向こうはそれを使って、本国から前線へ重砲と弾薬を運んでいる」
ハンナの指が、一つの駅の上で止まった。
「ローセン駅。ヴェステルボリの南西、十キロ。北部線の、占領地の中で一番大きな駅です。貨物の積み降ろしのホームが、四本あります。本国から来た重砲はここで平台車から降ろされて、牽引車につながれて、前線へ向かいます」
「そこを撃つ」ホルムが言った。
「重砲が前線に着く前に」
ハンナは振り返った。
「前線で一門ずつ撃つよりここで、平台車の上に並んでいるうちに撃てば、一度に何門も仕留められます。前線に出てしまえば、一門砲になって、森の中に散らばる。ここにいるうちはまだひとかたまりです」
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「どうやって、いつ重砲が着くかを知る」
ヴィンターが訊いた。
「偵察機はもうない」
「ローセン駅には国鉄の人間がいます」
ハンナは言った。
作戦室の空気が変わった。
「北部線の、占領地の中の駅はどこも、向こうの軍の鉄道部隊が管理しています。でも、向こうの鉄道部隊だけでは手が足りない。信号扱いも入換えも保線も、元からいた国鉄の職員にやらせています。脅して」
「その職員から、知らせが来るのか」
「来ています。ヴェステルボリの包囲が解けたころから」
ハンナは机の引き出しから、薄い綴りを取りだした。
「北部線の、国境の手前までの区間には戦前に敷いた、国鉄の業務用の電話線が地中に埋まっています。前線の下を通っている。向こうは地上の電話線は全部切りましたが、地中のケーブルにはまだ気づいていない」
ハンナは綴りを開いた。
「ローセン駅の駅長が夜中にその線を使って、一日に一度、電話をかけてきます。三十秒だけ。列車の番号と、到着の時刻と、積み荷の種類を国鉄の業務の言葉で」
ホルムは綴りを覗きこんだ。
鉛筆の走り書きが日付ごとに並んでいた。
――臨貨三〇二、ローセン着、四時十分。大物、八。
――臨貨三一五、ローセン着、二時四十分。大物、六。弾薬車、十二。
「大物、というのは」
「国鉄の言葉で、長くて重い積み荷のことです。橋桁や、変圧器や」
ハンナは言った。
「大砲も」
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ヴィンター少佐は長いあいだ綴りを見つめていた。
「ローセン駅を撃てば」
少佐はようやく口を開いた。
「向こうは知らせた者がいると気づく」
「はい」
「駅長は」
「……わかっています」
ハンナの声は平らだった。
「私もそう言いました。駅長に。撃てば、あなたが疑われる、と」
「駅長はなんと」
ハンナは綴りの最後のページを開いた。昨夜の日付。鉛筆の走り書き。
――臨貨三四一、ローセン着、明後日三時三十分予定。大物、十二。至急。
そしてその下にハンナの字で、駅長の言葉が書き写されていた。
――撃ってください。ホームには国鉄の者は、一人もいないようにします。
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開戦百三十六日目、午前三時三十一分。
ラングダール丘陵の、高速線の第六十二射撃曲線。ヨルムンガンド二号は切通しの底で、砲身を持ちあげていた。
ホルムは射撃指揮車の中で、懐中時計を見ていた。
ローセン駅まで、五十九キロ。
ローセン駅の、四本の貨物ホームのうち、どのホームに臨時貨物三四一列車が入るのか。それはわからなかった。ローセン駅長が最後の電話で、それだけは言えなかった。向こうの鉄道部隊が到着の直前に決めるからだ。
四本のホームはどれも長さ四百メートル。四本を合わせた幅は、百二十メートル。
四十センチ砲弾の危害半径はおよそ百メートル。
「四本のホームの、真ん中を撃つ」
ホルムはベルグに言った。
「八発。散布界を少しだけ広げる。四本のどこに入っていても、どれかが当たるように」
「ホームには誰もいないと」
「駅長はそう言った」
ベルグは黙ってうなずいた。
ホルムは懐中時計の秒針を見つめた。
臨時貨物三四一列車の到着予定、三時三十分。平台車から重砲を降ろしはじめるのに、少なくとも十分はかかる。牽引車が来るのを待つあいだ、重砲は平台車の上に並んでいる。
三時三十八分。
「撃て」
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四十センチの砲弾が冬の夜空へ昇っていった。
二号の、新しい内筒の、最初の一発だった。
ホルムは数えなかった。数えていたのはベルグの声だった。
「二発目。三発目」
そのあいだにホルムは、ローセン駅のことを考えていた。
戦前、国際列車に乗って、一度だけローセン駅を通ったことがあった。海軍兵学校の卒業旅行で、ダールと二人、国境の向こうの古い町を見に行った。ローセン駅は赤い煉瓦の、小さな時計塔のある駅舎だった。ホームの売店で、ダールが燻製の鱒を挟んだパンを二つ買った。
あの売店はまだあるのだろうか。
「八発目。撃ち方やめ」
「発進」
四両の機関車がうなりを上げた。二号は切通しを北へ走りだした。
一発目の砲弾はまだ空の上にあった。
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午前三時四十分。
ローセン駅の、第二貨物ホーム。
臨時貨物三四一列車の平台車の上に、二十一センチ榴弾砲が十二門、防水布をかぶって並んでいた。ホームの上では、ヴァルデン軍の鉄道部隊の兵たちが、平台車の固定具を外しにかかっていた。牽引車は駅前の広場に、エンジンをかけたまま待っていた。
駅舎の二階の、駅長室の窓から、一人の老人がそれを見下ろしていた。
ローセン駅長、ヨハン・モーリン。六十一歳。この駅に、三十四年勤めていた。
モーリンは懐中時計を見た。国鉄の時計だった。毎日正午に首都からの時報で合わせてきた時計。この四か月、首都からの時報は来なかった。モーリンは自分の耳と夜中の地中の電話で、時計を合わせつづけてきた。
三時四十分二十秒。
モーリンは窓から離れた。
駅長室の奥の、地下の書庫へ降りる階段の扉を開けた。階段の下には夜勤の信号扱手と入換えの係員と、切符係の、三人がいた。モーリンが夜中の二時に書類の整理だと言って、降ろしておいた。
「駅長」
信号扱手の若者が不安げに見上げた。
「なんでもない」
モーリンは言った。
「あと二分、ここにいなさい」
モーリンは扉を閉めた。自分は階段の一番上の段に腰を下ろした。
三時四十一分。
モーリンは目を閉じた。
遠くで、何も聞こえなかった。四十センチの砲弾は音より速い。五十九キロ先で撃たれた砲弾は発射音より、ずっと先に着く。
三時四十一分四十五秒。
ローセン駅の第二貨物ホームが白く裂けた。
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午前三時五十分。
駅舎の二階の駅長室の窓は、一枚残らず割れていた。
モーリンは階段の一番上の段に座ったまま、割れた窓の外を見ていた。
第二貨物ホームはホームではなくなっていた。平台車が、三両、線路の外へ弾き飛ばされ、横倒しになっていた。防水布が燃えていた。その下の、二十一センチ榴弾砲の砲身が折れ曲がって、夜空を指していた。
第三貨物ホームの上で、弾薬車が誘爆を始めていた。
ホームの上に動くものはほとんどなかった。
ヴァルデン軍の鉄道部隊の兵たちが何人いたのか、モーリンは知らなかった。二十人か、三十人か。
モーリンは懐中時計を見た。
それからゆっくりと立ちあがり、階段の下の扉を開けた。
「出てきなさい。終わった」
三人の部下が青い顔で、階段を上がってきた。信号扱手の若者が割れた窓の外を見て、息をのんだ。
「駅長……」
「いいか」
モーリンは、三人の顔を一人ずつ見た。
「わたしたちはずっと地下の書庫で、帳簿の整理をしていた。何も見ていない。何も知らない。いいな」
三人は黙ってうなずいた。
モーリンは駅長室の割れた窓の前に立った。
燃える平台車の向こうに北の空が広がっていた。星がまだ冴えていた。
あの空の、五十九キロ先に、自分の電話を受けて撃った誰かがいる。
モーリンはその誰かの顔を知らなかった。知る必要もなかった。
十五分ほどして、北の空から、低い轟きが届いた。
一度。三十秒おいて、二度。
八度。
モーリンはその音を最後まで聞いた。
それから制帽をかぶりなおし、ホームへ降りていった。燃える平台車の前で、ヴァルデン軍の将校が何かを叫んでいた。駅長として、いつものように、線路の被害を確かめなければならなかった。
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開戦百三十七日目の夜。
スコーグ峠のトンネルの作戦室で、ハンナは電話機の前に座っていた。
夜中の一時。ローセン駅長からの電話が、いつもかかってくる時刻だった。
一時。一時五分。一時十分。
電話は鳴らなかった。
ホルムは作戦室の隅の椅子で、ハンナの背中を見ていた。
今朝、音源標定班がローセン駅の方角から、弾薬の誘爆音を三時間にわたって記録した。臨時貨物三四一列車の二十一センチ榴弾砲十二門のうち、少なくとも九門が失われたと北部線の別の駅から、夕方に短い知らせがあった。
九門。一回の射撃、八発で。
前線で一門砲を追いかけていたら、九門を仕留めるのに七十二発かかった。
「リースさん」
「はい」
「今夜は休め」
ハンナは振り返らなかった。
「駅長の電話は、三十秒です」
ハンナは言った。
「三十秒のあいだに私が受話器を取らなかったら、駅長は誰にも知らせを届けられないまま、線を切ることになります」
「今夜はかかってこないかもしれない」
「かかってこないかもしれません」
ハンナは電話機の黒い受話器を見つめていた。
「でも、かかってきたときに私がここにいなかったら」
一時三十分。
電話は鳴らなかった。
二時。
ホルムは立ちあがって、ハンナの机の横にもう一つ椅子を持ってきた。黙って座った。
ハンナは何も言わなかった。
二人は並んで、鳴らない電話を見つめていた。
トンネルの天井から、雪解けの水がぽたり、ぽたりと落ちていた。
三時。
三時四十一分。昨日、ローセン駅の第二貨物ホームに、最初の砲弾が落ちた時刻。
ハンナは懐中時計を見た。それから目を閉じた。
電話は鳴らなかった。