# 幻影砲兵 第二部「写真と時刻表」
## 第二十五章 交換船
ローセン駅長からの電話は、三晩、鳴らなかった。
四晩目の、夜中の一時十二分。
スコーグ峠のトンネルの作戦室で、黒い受話器が短く一度だけ鳴った。
ハンナは机に突っ伏して眠っていた。ベルの音で跳ね起きた。受話器を取るまでに二秒かかった。
「……こちら、指令」
受話器の向こうで、ざらついた雑音がした。地中を何十キロも這ってきた、古い銅線の音だった。
それから声がした。若い男の声だった。駅長の、ゆっくりとした低い声ではなかった。
『ローセン。信号扱い、オーケソン』
ハンナは受話器を握りしめた。
『駅長は、四日前に連れていかれました。向こうの憲兵に。駅の者が全員、調べられて、駅長だけが』
声は早口だった。三十秒の決まりを守ろうとしていた。
『駅長は最後にわたしに言いました。夜中の一時にこの線を使え。三十秒だけ。指令は必ず、受話器を取る』
ハンナは何も言えなかった。
『臨貨三五八、ローセン着、明後日二時五十分予定。大物、十。以上』
電話が切れた。
ハンナは受話器を耳に当てたまま、動かなかった。
ツー、という音が長く続いていた。
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翌朝、ハンナは作戦室の机で、ローセンの綴りを開いていた。
昨夜の走り書きの下に新しい行を書き足した。
――臨貨三五八、ローセン着、明後日二時五十分予定。大物、十。信号扱い、オーケソンより。
その上の行に駅長の名前が書いてあった。ヨハン・モーリン。四日前の日付で最後の知らせ。
ハンナはその名前の横に小さく、何かを書こうとして、鉛筆を止めた。
ラーシュの点線のときと同じだった。×を書けなかった。
「リースさん」
ホルムが作戦室の戸口に立っていた。
「臨貨三五八を撃つのか」
ハンナは顔を上げなかった。
「……駅長は連れていかれました」
「聞いた」
「オーケソンという信号扱いの人は、二十歳です。去年、国鉄に入ったばかりの」
ハンナの声がかすれた。
「撃てば、今度はその人が連れていかれます」
「撃たなければ」
「撃たなければ、十門の二十一センチ砲が前線に出ます。一門砲になって、森の中に散らばって、塹壕を撃ちます。そしてそれを仕留めるのに、蛇の砲身が、八十発ぶん、削られます」
ハンナはようやく顔を上げた。目が赤かった。
「私は線を引くだけです。撃つのは中尉です。連れていかれるのは駅長とオーケソンさんです。私はトンネルの中で、電話の前に座っているだけです」
「リースさん」
「中尉。私はどうすればいいんですか」
ホルムはしばらく何も言わなかった。
それから作戦室の中に入り、ハンナの机の前に立った。
「オーケソンは臨貨三五八の知らせを送ってきた」
ホルムは言った。
「駅長が連れていかれて、次は自分だとわかっていて、送ってきた。三十秒の決まりを守って」
「……はい」
「撃たなければ、その三十秒は無駄になる」
ハンナはホルムを見た。
「駅長もオーケソンも自分で決めたんだ。国鉄の人間として。あんたが、七年間、旅客列車を一本も遅らせなかったのと同じだ。誰に命令されたわけでもない。自分で決めた約束だ」
ホルムはダールの手帳を机の上に置いた。
「撃つのは俺だ。その一発一発を俺はここに書く。あんたは線を引いてくれ。駅長と、オーケソンの三十秒が無駄にならない線を」
ハンナは長いあいだダールの手帳の、擦りきれた革表紙を見つめていた。
それから鉛筆を取った。
ダイヤの上に明後日の二時五十分から、一本の赤い線を引いた。
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同じ週、ヴァルデン第三軍司令部の地下で、ザイツは、一通の書類を前にしていた。
中立国エストラの赤十字委員会からの通知だった。
ヴァルデンとノルトラントのあいだで、重傷の捕虜の交換が中立国の仲介で行われる。第一回の交換は開戦百四十五日目。エストラの港町、ヴィスビュの岸壁で。ヴァルデン側からは重傷のノルトラント兵捕虜、四十二名。ノルトラント側からは重傷のヴァルデン兵捕虜、三十八名。
ヴァルデン側の名簿の、最後に近い行に、一つの名前があった。
――ラーシュ・ニューマン、少尉、ノルトラント空軍。右下腿骨折、及び全身打撲。
ザイツはその名前を長いあいだ見つめていた。
名簿にラーシュの名前を加えたのはザイツだった。
ブルクハルト大佐は名簿を見たとき、眉を寄せた。
「あの偵察機乗りか」
「はい」
「あれを返せば、北はまた目を取り戻すぞ」
「返さなくても、北は耳で撃ってきます」
ザイツは言った。
「それにニューマン少尉の脚はもう、九千メートルの操縦には耐えられません。軍医の所見です。骨はつながっても、右足の踏みこみに力が入らない。高空で、方向舵を踏みつづけることはできないそうです」
ブルクハルトはしばらく黙っていた。
「きみはなぜ、あれを返したい」
ザイツは少しのあいだ、答えを探した。
「……ビョルクという、後席の男の墓の場所を北に伝えたいんです。ニューマン少尉なら、伝えてくれる」
それは嘘ではなかった。だが、全部でもなかった。
ブルクハルトはザイツの顔を見て、何かを察したようだった。だが、何も言わずに名簿に署名した。
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開戦百四十三日目、ザイツは野戦病院のラーシュを最後に訪ねた。
ラーシュはベッドの上に起きあがって、松葉杖を二本、脇に立てかけていた。ギプスは外れ、右脚には細い添え木だけが残っていた。
「交換船に乗るそうだな」
ラーシュはザイツの顔を見るなり、言った。
「看護婦が教えてくれた。あんたが、名簿に入れたって」
「そうです」
「なんでだ」
「ビョルクさんの墓の場所を、北に伝えてもらいたい」
ザイツは外套のポケットから、封筒を一つ取りだした。
「クロンベリの町の墓地の、東の区画。ここに地図と、墓標の写真が入っています。ビョルクさんの身につけていたものも。認識票と、手帳と、写真が一枚」
ラーシュは封筒を受けとった。中を覗いて、しばらく何も言わなかった。
写真は若い女と小さな男の子が、どこかの湖のほとりで、笑っているものだった。
「……ビョルクの、嫁さんと、息子だ」
ラーシュの声がかすれた。
「息子は、三つだったかな。あいつ、いつもこの写真をカメラの横に挟んでた」
ラーシュは封筒を胸に押しあてた。
「ありがとう、大尉」
ザイツは黙って首を振った。
しばらく、二人とも黙っていた。窓の外で、雪解けの雫が軒から落ちていた。
「大尉」
ラーシュが言った。
「あんた、俺に何か伝えてほしいことがあるんだろう」
ザイツはラーシュを見た。
「ビョルクの墓のことだけで、敵の偵察機乗りを、わざわざ交換船に乗せるやつはいない。あんたは数える人だ。数える人は何かを数えるために動く」
ザイツは長いあいだ黙っていた。
それから口を開いた。
「伝えてほしいことはありません」
「嘘だ」
「本当です。私はあなたに何も託しません。あなたは北に帰って、見たことを話すでしょう。それは止められない。話したいことを話してください」
ザイツは立ちあがった。
「ただ、あなたが北に帰れば、北の誰かは私のことを知るでしょう。あなたが、この部屋で見た私のことを。名前と、顔と、階級と。何を訊いて、何を訊かなかったか」
「……それが狙いか」
「狙いではありません」
ザイツは戸口に向かった。
「ただ、私は、四か月、誰かの嘘を数えてきました。その誰かは私のことをまだ何も知らない。知らないまま、私の数え方に合わせて、嘘をつきつづけてきた」
ザイツは戸口で振り返った。
「私はその人に公平でありたいんです。私がその人の顔を想像してきたのと同じくらいには、その人にも私の顔を知っていてほしい」
ラーシュは長いあいだザイツを見ていた。
「変わった人だな、あんた」
「よく言われます」
ザイツは少しだけ笑った。
「息子にも」
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開戦百四十五日目、午後二時。
中立国エストラの港町、ヴィスビュの岸壁に、二隻の船が並んで舫われていた。
一隻はヴァルデンの病院船。もう一隻はノルトラントの病院船。どちらの船の舷側にも白地に赤い十字が、大きく描かれていた。
岸壁の上にエストラの赤十字委員会の人々が、名簿を手に立っていた。二隻の船のあいだを担架が、一つずつ、ゆっくりと行き交った。
ラーシュ・ニューマンは担架を断って、松葉杖で歩いた。
ヴァルデンの病院船の舷梯を降り、岸壁の石畳を二十歩。エストラの委員が名簿の上の名前に線を引いた。それからノルトラントの病院船の舷梯を上った。
舷梯の一番上に海軍の制服を着た男が立っていた。
ラーシュは足を止めた。
「……海軍」
「ラーシュ」
ホルムはラーシュの肩に手を置いた。
ラーシュは何か言おうとした。言葉が出てこなかった。ホルムも何も言わなかった。ただ、肩に置いた手に少しだけ力をこめた。
しばらくして、ラーシュがようやく口を開いた。
「ビョルクが」
「知ってる」
「墓はクロンベリにある。名前の入った墓標がついてる。嫁さんと息子の写真も預かってきた」
「そうか」
「向こうの大尉が全部、やってくれた」
ホルムはラーシュの顔を見た。
「向こうの大尉?」
ラーシュは胸のポケットから、ザイツの封筒を取りだした。
「砲兵情報班の、ザイツ大尉。蛇を数えてる男だ。俺を落とすために、本物の二十一センチを二個中隊も餌に出した男だ。そして俺をこの船に乗せた男だ」
ラーシュは北の海を見た。エストラの港の向こうに灰色の冬の海が、どこまでも広がっていた。その向こうに北の国があった。
「海軍。帰ったら、リースさんに会わせてくれ」
ホルムの手がわずかにこわばった。
「……なぜ、リースさんの名前を」
「俺に送信点を決めてたのはあの人だろう。カルビーの作戦室で、路線図を広げて、少尉の飛行機も一本の線ですって言った人だ」
ラーシュはホルムを見た。
「向こうの大尉はあの人を探してる。名前も顔も知らないまま。四か月、あの人の嘘を数えてきたって言ってた」
ラーシュは封筒を胸に戻した。
「俺は何も話さなかった。あの人のことは、一言も。でも、あの大尉のことはあの人に話さなきゃならない。そういう約束をしたわけじゃない。でも、そうしなきゃならない気がする」
「どうして」
ラーシュは少し考えた。
「公平だから、かな」
ラーシュは自分でも不思議そうに言った。
「あの大尉がそう言ったんだ。あの人の顔を想像してきたのと同じくらいには、自分の顔も知っていてほしいって」
ホルムはすぐには答えなかった。
汽笛が鳴った。ノルトラントの病院船が、ゆっくりと岸壁を離れはじめた。
ホルムは、遠ざかっていくヴァルデンの病院船を見た。
その舷側の白い十字が灰色の海の上で、小さくなっていった。
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その二日前、ホルムがヴィスビュへ発つ前の未明。開戦百四十三日目の午前二時五十八分に、ヨルムンガンド二号はホルムの指揮で、ローセン駅の第一貨物ホームに八発を撃っていた。
臨時貨物三五八列車の、二十一センチ榴弾砲十門のうち、七門が平台車の上で失われた。
その翌晩から、ローセン駅からの電話は、二度と鳴らなかった。ホルムがヴィスビュの岸壁に立った夜も。
ハンナはローセンの綴りの最後の行に信号扱い、オーケソンの名前を書いた。
その横に何も書かなかった。
綴りを閉じ、机の引き出しの一番奥にしまった。
それからダイヤの前に立った。
明日の赤い線を引かなければならなかった。