# 幻影砲兵 第二部「写真と時刻表」
## 第二十六章 数える人
ラーシュ・ニューマンが、スコーグ峠のトンネルに来たのは、開戦百四十八日目の夕方だった。
松葉杖をついて、坑口から一キロの暗いトンネルを、自分の足で歩いてきた。途中で三度休んだ。ホルムが肩を貸そうとしたが、ラーシュは首を振った。
「ここまで来て、担がれて入るのは格好がつかない」
作戦室の板戸を開けたとき、ハンナはダイヤの前に立っていた。
振り返ったハンナの顔を見て、ラーシュは松葉杖に体重を預けたまま、しばらく何も言わなかった。
カルビー飛行場の作戦室で、路線図を広げていた女。「少尉の飛行機もいまから、一本の線です」と言った女。あのときよりずいぶん痩せていた。目の下の影が濃くなっていた。
「リースさん」
「ニューマン少尉」
ハンナは机の横の椅子を引いた。ラーシュはそこに腰を下ろした。松葉杖を机の端に立てかけた。
「ご無事で」
ハンナは言った。それから少しだけ声が揺れた。
「……ビョルクさんのことは」
「聞いた」
ラーシュは言った。
「俺の最後の電文をゲルダが受けたって。平文で打ったから、向こうに線路の言葉が割れたって。それも聞いた」
「少尉のせいではありません」
「わかってる」
ラーシュは作戦室の壁のダイヤを見上げた。
赤い三本の線。青い細い線。灰色の、敵の偵察機の線。そしてラーシュの偵察機の点線が、リュッケの上空で途切れていた。
途切れたところには何も書かれていなかった。×も。
ラーシュはそれを長いあいだ見ていた。
「俺の線は終わってないんだな」
ハンナは答えなかった。
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ヴィンター少佐とホルムとハンナとラーシュ。四人が作戦室の机を囲んだ。
ラーシュは捕まってからのことを順を追って話した。ブナの森に落ちたこと。クラインという中隊長に水をもらったこと。クロンベリの野戦病院。見張りのついた個室。ヴァルデン語の冒険小説。
それからザイツのことを話した。
「砲兵情報班の、ザイツ大尉」
ラーシュは言った。
「三十代の後半。背は俺より少し低い。痩せてる。声が静かで北方語がうまい。訛りはあるけど、きれいな北方語だ。本を読む人間の話し方をする」
ハンナは黙って聞いていた。膝の上で、両手を固く組んでいた。
「二回、来た。一回目は俺が落ちた次の日。二回目は交換船の二日前」
「何を訊かれた」ヴィンターが言った。
「一回目は俺の座標を受けていたのが何人か、と訊かれた。知らないと答えた。本当に知らなかった。それから送信点を毎日誰かが決めていただろう、と言われた」
ハンナの組んだ手に力がこもった。
「何も答えなかった。大尉もそれ以上は訊かなかった」
ラーシュはハンナを見た。
「リースさんのことは、一言も話してない。名前も顔も国鉄の人だということも」
「……ありがとうございます」
「礼を言われることじゃない」
ラーシュは少し言葉を切った。
「それより大尉が何を話したかのほうが、大事だと思う」
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「大尉は」
ラーシュは机の上で指を組んだ。
「数えてる、と言ってた。はっきりとは言わなかった。でも、俺があんた数えてるんだろうと訊いたら、否定しなかった」
「何を数えていると」ホルムが訊いた。
「蛇を。それから」
ラーシュはハンナを見た。
「嘘を」
作戦室が静まりかえった。
「四か月、誰かの嘘を数えてきた、と言ってた。その誰かは自分のことを何も知らない。知らないまま、自分の数え方に合わせて、嘘をつきつづけてきた、と」
ハンナは目を伏せた。
「それからこう言った。自分はその人に公平でありたい。自分がその人の顔を想像してきたのと同じくらいには、その人にも自分の顔を知っていてほしい」
ラーシュはしばらく黙った。
「だから、俺を交換船に乗せたんだと思う。俺が北に帰れば、北の誰かが大尉の名前と顔を知る。ビョルクの墓のことを伝えさせるって言ってたけど、それだけじゃない。大尉は自分の顔を北に届けたかったんだ」
ヴィンター少佐が低くうなった。
「……罠ではないのか。こちらに何かを信じこませるための」
「かもしれない」
ラーシュはあっさり言った。
「でも、少佐。俺はあの大尉が俺に何も託さなかったのを見てる。伝えてほしいことはあるかと訊いたら、ないと言った。話したいことを話せ、と。罠を仕掛ける人間は何を話させたいか、決めてるもんだ。あの人は決めてなかった」
ヴィンターは黙った。
「それに」
ラーシュは少しだけ笑った。
「最後に変わった人だなと言ったら、よく言われますって答えた。息子にもって」
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ハンナは長いあいだ何も言わなかった。
やがて口を開いた。
「少尉。その人は、一人でしたか」
「一人?」
「病室に来たのは」
「一人だった。二回とも。部下も通訳も連れてなかった」
「……そうですか」
ハンナは机の上の鉛筆を取った。それから立ちあがり、ダイヤの前へ歩いていった。
ダイヤの上の、灰色の線。ヴァルデンの偵察機の飛跡。この四か月、ハンナが一本ずつ書きこんできた線。待避線を舐めるように飛んだ線。トンネルの坑口を朝と夕方に撮った線。霧氷の朝に、十一本の取りつけ線を撮った線。
その灰色の線の束を見上げながら、ハンナは言った。
「この線を引かせていたのはずっと誰かでした」
ハンナの声は静かだった。
「光る線路に気づいた誰か。トンネルに気づいた誰か。霧氷の朝を見逃さなかった誰か。音だけの砲を置いて、砲身を削りにきた誰か。私はその誰かをずっと考える人と呼んできました」
ハンナは灰色の線の束の、一番下の余白に鉛筆の先を置いた。
「名前を書いてもいいですか」
誰も答えなかった。
ハンナは小さな字で書いた。
――ザイツ。
書いてから、しばらくその三文字を見つめていた。
「……公平、ですか」
ハンナはつぶやいた。
「私はその人に、一つも公平なことをしてきませんでした。嘘を見せて、嘘を数えさせて、嘘に理由をつけて。雲の三日間はその人に、偵察機の数が蛇の数を縛っていると思わせるために、リュッケの人たちを見殺しにしました」
ハンナは鉛筆を下ろした。
「その人は私の顔を想像していたんですね。四か月」
「ああ」ラーシュが言った。
「私はその人の顔を想像したことが、ありませんでした」
ハンナは振り返った。
「考える人、と呼んで、紙の上の灰色の線にしていました。ヘルネの信号扱所の人たちを爆撃で殺した線。ラーシュさんを落とした線。私はその線を憎むことしか、してこなかった」
ホルムはハンナの顔を見ていた。
泣いてはいなかった。ただ、ひどく疲れた顔だった。
「中尉」
ハンナがホルムを見た。
「その人はこれからも数えつづけると思いますか」
「数えるだろう」
ホルムは言った。
「数える人間はやめない。俺もやめられない」
ホルムは胸のポケットのダールの手帳に手を当てた。
「そしてそいつはたぶん、もうすぐ答えを出す」
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同じ夜。
ヴァルデン第三軍の占領地の北の端、ミルデ川の鉄道橋のたもとにザイツは立っていた。
北部線がミルデ川を渡る橋だった。開戦七十四日目、ヨルムンガンドの八発がこの橋に落ちた。橋桁の二径間が川に落ち、鉄道部隊が仮の桁を架けるのに三週間かかった。
ザイツはその三週間のあいだに、橋のまわりの弾痕を手をつけずに残しておくよう、鉄道部隊に頼んでおいた。
理由はそのときはうまく説明できなかった。ただ、いつか、この穴が必要になる気がした。
いま、その理由がわかっていた。
ブルクハルト大佐は言った。筋の通った説明ではなく、それ以外に説明のつかないものを持ってこい、と。
砲弾がどこに落ちたかは嘘をつけない。
だが、砲弾はどこから飛んできたか。
閃光観測と音源標定はそれを教えてくれる。だが、光も音も嘘をつけるかもしれない。ザイツ自身がクラインと一緒に、リュッケで音だけの砲を鳴らした。
砲弾そのものは。
砲弾がどちらの空から落ちてきたかは。
「大尉」
懐中電灯の光の中から、工兵隊の少尉が泥まみれの長靴で、弾痕の縁を上がってきた。二十代半ばの、眼鏡をかけた若い工兵だった。工兵学校で、弾道学を少しかじったという男だった。
「お探しのものです」
少尉は泥まみれの布包みを差しだした。
ザイツは包みを開いた。
鋼の破片だった。手のひらほどの大きさでずしりと重かった。表面に細い溝が何本も刻まれていた。
「信管の一部です。弾底信管の、外殻。これが弾痕の底の、どの位置にどちらを向いて埋まっていたかを記録してあります」
少尉は手帳を開いた。弾痕の断面図が鉛筆で、ていねいに描かれていた。
「四十センチの砲弾は、六十キロも飛んでくると、ほとんど真上に近い角度で落ちてきます。仰角で言えば、六十度から六十五度。それでも、真上ではない。わずかに傾いて、地面に突っこむ。その傾きが弾痕の形と信管の破片の飛び散り方に残ります」
少尉は断面図の上の、一本の矢印を指さした。
「砲弾はこの方向から、来ました」
ザイツはその矢印を見つめた。
「方位は」
「真北から、東へ十一度。誤差はプラスマイナス二度」
ザイツは懐中電灯を持ち直し、外套のポケットから、折りたたんだ地図を取りだした。
ミルデ川の鉄道橋。そこから、真北から東へ十一度の方向に定規を当てた。
鉛筆で線を引いた。
ザイツはその線を北へ北へとたどっていった。
開戦七十四日目、ミルデ川の鉄道橋を撃った砲撃の、音源標定の位置はハルス丘陵の北、ベルガ村の近くだった。閃光観測も同じ場所を示していた。そこに赤いピンが刺さっている。
ザイツの鉛筆の線はベルガ村を通らなかった。
ベルガ村の、東へ十二キロ。
線はその先へまっすぐに伸びていた。
ハルス丘陵の南を走る、ベルン高速線の上を。
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ザイツは地図の上の、一本の鉛筆の線を長いあいだ見つめていた。
懐中電灯の光がわずかに震えていた。
「大尉?」
工兵の少尉がザイツの顔を覗きこんだ。
「……少尉」
ザイツは言った。自分の声がひどく遠くに聞こえた。
「この線は音源標定の位置を通らない」
「はい。十キロ以上、ずれています。音源標定の誤差にしては大きすぎます」
「どちらかが間違っている」
「はい」
「きみの測った、この信管の向きと」
ザイツは地図の上の、ベルガ村の赤い印を指で押さえた。
「ここで鳴った、音と光と」
少尉は少しのあいだ、黙っていた。
「大尉。私は弾痕の形と破片の向きを測っただけです。音も光も見ていません。ですが」
少尉は眼鏡を押しあげた。
「砲弾はここに落ちました。この穴はここにあります。この穴を掘ったのは、北東十一度の空から来た砲弾です。それは変えようがありません」
ザイツは目を閉じた。
開戦五十八日目の夜。町役場の地下で、クラインの報告書の一行に赤線を引いた夜。閃光観測と、音源標定と、発射音の遅れ。三つの方法が、あまりにもきれいに同じ答えを出していることに、なぜか気持ちが悪くなった夜。
数学教師が生徒の答案に抱く、あの感じ。答えは合っている。途中の式も合っている。だが、どこかで、誰かに教わった答えを写しているような気がする。
あの夜から、九十日。
ザイツは目を開けた。
ミルデ川の水が橋の下で、冬の終わりの黒い流れになって、音を立てていた。
「少尉」
「はい」
「ほかの弾痕も測れるか」
「この橋のまわりにあと六つあります。それに北部線の沿線の、ほかの着弾地点も。雪が解けて、穴の底が乾けば」
「全部、測ってくれ」
ザイツは言った。
「とくに開戦六十四日目の朝の、七つの弾痕を」
「六十四日目?」
「七十分のあいだに、七つの砲撃があった朝だ。音源標定は鉄道網の端から端に、七つの発射地点を出した。その七つの穴が、どちらの空から来た砲弾で掘られたのか」
ザイツは地図をたたんだ。
「それが知りたい」
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ミルデ川の鉄道橋から、クロンベリの町へ戻る車の中で、ザイツはずっと窓の外を見ていた。
北の地平線の上に星が出ていた。雪解けの夜の、湿った空気の中で、星は少しにじんで見えた。
あの星の下の、どこかのトンネルの奥で、誰かがダイヤを引いている。
ラーシュ・ニューマンはもう、北に帰り着いただろうか。
その誰かはもうザイツの名前を知っただろうか。
知ったとしたら、何を思っただろうか。
ザイツは胸のポケットに手を当てた。ペーターの手紙がまだ入っていた。
――嘘の知らせを送っている人は、列車が何本あるか、ちゃんと知っている人です。
――お父さん、この問題、ほんとうの答えは何ですか。
ザイツは窓の外の星を見上げた。
もうすぐ、答えがわかる。
そして答えがわかったとき、ザイツは初めて、この問題を出した人間と同じ答えを持つことになる。
北の、どこかの、トンネルの奥で、四か月前から、ずっとその答えを知っていた人間と。
(第二部 了)