# 幻影砲兵 第一部「大蛇の目覚め」
## 第三章 幻影
「見せる、というのは」
ホルムは訊き返した。自分の声が、工場の高い天井に吸いこまれていくのがわかった。
「そのままの意味です」
ハンナ・リースは、製図台の上のダイヤグラムから目を上げなかった。
「中尉。駅に立って、列車を見たことはありますか」
「あるに決まってる」
「では、その列車が本当に存在するかどうか、どうやって確かめますか」
ホルムは答えに詰まった。質問の意味がわからなかった。
「目の前を通ったら、存在するだろう」
「一つの駅から見えるのは、通りすぎる一瞬だけです」ハンナは言った。「次の駅の人は、別の一瞬を見る。その二つの一瞬を、同じ列車だと考えるのは、なぜですか」
「……時刻が合うからだ」
「そうです」
彼女はようやく顔を上げた。灰色がかった、よく動く目だった。
「列車というのは、鉄道員にとっては、この紙の上の一本の線です。いくつもの駅で見られた一瞬一瞬を、時刻でつないだもの。つながった線は一本の列車になる。つながらなければ、別の列車になる」
ハンナは赤鉛筆を取り、ダイヤの余白に、短い線を二本引いた。
「こちらの駅で、ある時刻に見えた列車。こちらの駅で、ある時刻に見えた列車。二つの駅のあいだを、その時間で走れる列車がないなら――」
彼女は二本の線を結ばずに、鉛筆を置いた。
「――見た人は、列車が二本あったと思います」
ホルムは黙って、その二本の線を見下ろした。
「敵も、同じことをします」ハンナは言った。「砲撃のたびに、どこから撃たれたかを調べる。時刻を書きとめる。それを地図の上でつなぐ。敵の情報部は、いずれ自分たちで、私たちの砲のダイヤを引くことになります」
「だから」
「だから、そのダイヤを、私たちが先に引いておくんです。敵が引くべき線を」
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ヴィンターは、腕を組んだまま聞いていた。ソーデル技師長は、眼鏡の奥で目を細めていた。二人の造兵技師は、顔を見合わせていた。
ホルムだけが、口を開いた。
「具体的には」
ハンナは、脇に抱えていた紙の束から、もう一枚のダイヤを抜きだした。高速線のダイヤの上に、薄紙を重ねて、別の線が書きこまれていた。赤い太線が三本。その隙間を縫うように、青い細線が五本。
「赤が、本物の三両です。青は、存在しない五両」
「存在しない列車を、どうやって走らせる」
「三つの方法を使います」
ハンナは、指を一本ずつ折った。
「一つ目。無線です。八両分の呼出符号を用意して、八両が別々に動いているように交信させる。ときどき、弱い暗号で。敵が一部だけ読めるように」
「二つ目。形です。材木と鋼管で、砲身の模型を作ります。廃車待ちの古い機関車に、平台車を二、三両つないで、その上に載せる。偽装網をかぶせて、待避線に置いておく。ただし――」
彼女は、ほんの少し口元をゆるめた。
「――網は、少しだけ雑にかけます。敵の偵察機に、見つけてもらえるように」
「三つ目は」
「光と音です。本物が撃つのと同じ時刻に、何十キロも離れた丘の上で、発射の閃光を焚きます。火薬の爆音も。敵の閃光観測班と音源標定班は、そちらを測ります」
造兵技師の一人が、身を乗りだした。
「待ってください。本物の閃光は、どうするんです。四十センチ砲の砲口炎は、夜なら五十キロ先からでも見えますよ」
「隠します」ハンナは言った。「ソーデルさんの線路には、切通しが多いんです」
ソーデルが、うなずいた。
「高速線は、勾配を緩くするために、丘を切り通して走っています。深いところでは、両側の壁が十五メートルを超える。砲口炎は、上には漏れるが、横にはほとんど漏れない」
「上は、どうする」ホルムが訊いた。「真上に偵察機がいれば」
「そのときは、撃たない」
ハンナは、あっさりと言った。
「敵の偵察機がどこを飛んでいるかは、防空監視所から逐一入ります。ダイヤには、それも書き込みます。偵察機の線も、列車と同じ、時刻と場所の線ですから」
ホルムは、しばらく何も言えなかった。
この女は、空も、線路と同じように見ている。
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「反対だ」
それでも、ホルムは言った。言わずにはいられなかった。
「囮に人手と資材を割けば、そのぶん本物の整備が遅れる。三両しかないんだ。三両とも、毎日前線で撃たせるべきだ。一日に四回、三両で十二回撃てば、敵の重砲は一週間で前線から消える」
「一週間で消えるのは、こちらの三両です」
ハンナの声は、静かだった。
「中尉は、ロスヴィークにいらしたんですよね」
ホルムは、答えなかった。
「敵の偵察機は、毎朝この国の上を飛んでいます。三両を毎日撃たせたら、敵は三日で数え終わる。数え終わったら、あとは簡単です。線路を三か所切って、待てばいい。蛇は、線路から出られないんですから」
「線路は直せる」
「直すあいだ、蛇は止まっています」
ハンナは、ホルムをまっすぐに見た。
「止まっているものは、見つかった瞬間に死ぬ。そうですよね」
それは、ロスヴィークの白樺林で、ホルム自身が暗闇の中でたどり着いた結論だった。
この女は、それを知らない。知らないのに、同じ場所にたどり着いている。
「開戦の最初の週に」
ハンナは、少しだけ視線を落とした。
「北部線のグラーン分岐駅が、爆撃されました。信号扱所に、運転指令が四人いました。私と同じ年に国鉄に入った人も、いました」
工場の中が、静まりかえった。
「分岐駅は、動けません。地図に載っていて、どこにあるか誰でも知っています。だから、真っ先に狙われた」
ハンナは、赤い三本の線を、指でなぞった。
「私は、この三本を、地図に載せたくないんです。載せるなら、敵が引いた、間違った地図の上に」
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長い沈黙のあとで、ヴィンター少佐が口を開いた。
「決めよう」
全員が、少佐を見た。
「砲を撃つのは、中尉だ。どう撃つか、何を撃つか、それは中尉が決める。だが、どこで、いつ撃つかは、リースさん、あなたが決める」
「少佐」
「中尉。あなたは、見つかった砲がどう死ぬかを見た。リースさんは、見つかった駅がどう死ぬかを見た。同じものを見たんだ。違うのは、見た場所だけだ」
ホルムは唇を噛み、それから、ゆっくりと息を吐いた。
「……わかりました」
ハンナは、何も言わなかった。ただ、小さく頭を下げた。
ソーデルが、老眼鏡を外して、布で拭きながら言った。
「では、名前が要りますな」
「名前?」
「計画の名前です。書類を回すのに、〈スヴェア主砲陸上転用計画〉では長すぎる」
ホルムは、工場の床に横たわる三本の砲身を見た。それから、製図台の上の、国土を網の目のように覆う路線図を見た。
南の国境のベルンから、首都を経て、北の港へ。東西に伸びる二本の支線。それらが、ぐるりと国をひと巻きしている。
「ヨルムンガンド」
ソーデルが、ぽつりと言った。
「古い歌に出てくる大蛇です。海の底で、世界をひと巻きして、自分の尾をくわえている。子どものころ、祖母がよく歌ってくれました」
ソーデルは、路線図の上に指を置いた。
「私の線路は、この国をひと巻きしている。そこを、三匹の蛇が走る」
「三匹の蛇、ですか」
ハンナが、繰り返した。そして、ふと何かに気づいたように、顔を上げた。
「その名前、敵に教えましょう」
ホルムは、耳を疑った。
「なんだって」
「名前です」ハンナは言った。「名前のない砲は、ただの砲です。どこから撃たれたかわからない、正体不明の砲撃。敵は、それを一つ一つ調べて、一つ一つ潰そうとします」
彼女は、赤鉛筆の尻で、ダイヤの余白を叩いた。
「でも、名前のある怪物は、違います。敵の頭の中で、勝手に大きくなる。見えない場所に、勝手にもう一匹いると思ってくれる。怪物には、名前が要るんです」
ヴィンターが、低く笑った。
「漏らす時期は、あなたに任せる」
「はい。最初の砲撃から、少し経ってから。敵が、何かを探しはじめたころに」
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その夜、ホルムは工廠の宿舎で眠れなかった。
灯りを消した部屋の中で、ダールの手帳を開いた。煤と、乾いた血の染みがついた革表紙。挟んであった電報を抜きだし、その裏に、鉛筆で一行だけ書いた。
――砲は、撃つ前に、もう勝っていなければならない。
書いてから、しばらく眺めた。自分の言葉ではない、と思った。あの女の言葉だ。だが、自分がロスヴィークで、言葉にできずにいたものでもあった。
窓の外で、夜間の貨物列車が、長い汽笛を鳴らして通りすぎていった。
あの列車も、どこかのダイヤの上では、一本の線なのだろう。ホルムはそう思いながら、ようやく目を閉じた。