# 幻影砲兵 第一部「大蛇の目覚め」
## 第五章 光と音
旧オスタ機関区は、首都から北西へ九十キロ、湖のほとりの小さな町のはずれにあった。
蒸気機関車の時代に、北部線の機関車を整備していた扇形庫だった。高速線が電化されて蒸気機関車が減ると、機関区は閉じられ、扇形に並んだ十二の車庫は、錆びた転車台を囲んだまま、十年近く放っておかれていた。
ハンナ・リースは、その扇形庫を「工房」と呼んでいた。
ホルムが初めてそこを訪れたのは、ヘルダールの試射から四日後のことだった。一号の停止から初弾までの時間は、ベルグ曹長と砲員たちの猛練習で、四分五十秒まで縮まっていた。約束の四分四十秒まで、あと十秒。その十秒をどこで削るか考えあぐねていたとき、ハンナから電話がかかってきたのだ。
――見てもらいたいものがあります。海軍の目で。
扇形庫の三番庫の扉を開けると、材木のにおいがした。
薄暗い庫内に、一本の砲身が横たわっていた。
長さ三十メートル余り。黒く塗られた、太い筒。砲口から砲尾へ向かって、わずかに太くなっていく。砲尾には、閉鎖機を模した箱が取りつけられていた。
ホルムは、思わず足を止めた。
近づいて、手で叩いた。乾いた、軽い音がした。
「松です」
声のほうを向くと、作業着の老人が鉋を手に立っていた。七十に近いだろうか。背中は曲がっていたが、腕は太かった。
「芯に鋼管を三本通して、外側を松の板で巻いてあります。重さは、本物の二十分の一もない。けど、上から写真で見たら、区別はつかんでしょう」
「ノルドさんです」ハンナが言った。「国鉄の客車工場で、四十年、木造客車を作ってこられました」
「木の客車なんぞ、もう誰も作らんからね」ノルドは笑った。「最後の仕事が、木の大砲とは思わなんだ」
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扇形庫の十二の車庫のうち、五つが、この「工房」に使われていた。
三番庫と四番庫では、ノルドと彼が集めてきた元客車工の老人たちが、砲身の模型を作っていた。一本作るのに、六日。すでに二本が完成し、三本目にかかっていた。
五番庫には、廃車待ちの古い機関車が三両。どれも蒸気機関車で、ボイラーの火は落とされていたが、ハンナはそれを動かせるように整備させていた。
「電気機関車じゃないのか」ホルムは訊いた。「本物は、電気機関車四両だ」
「上から見れば、機関車は機関車です」ハンナは言った。「それに、囮は、架線のない線にも置きたいんです。敵に、蛇は高速線の外にも出られると思わせたい。そうすれば、敵が探す線路は、何倍にも増えます」
六番庫と七番庫で、ホルムは足を止めた。
そこにあったのは、砲身でも機関車でもなかった。木箱と、鉄の筒と、何十本もの導火線と、見慣れない薬品の瓶だった。庫内には、硫黄と、それから何か甘ったるい、金属的なにおいが漂っていた。
「イングヴァルさん」
ハンナが呼ぶと、奥で作業台に向かっていた男が振り向いた。四十代の、ひょろりとした男で、両手の指先が黒く焦げていた。
「光と音の係です」ハンナが紹介した。「リンネの夏至祭の花火は、ご存じですか」
ホルムは、目を見開いた。
「リンネの。港の」
「ええ。港の沖で打ちあげる、あの三尺玉です」イングヴァルは、はにかんだように笑った。「うちの家が、四代、あれを作ってきました」
ホルムは、子どものころ、ダールと二人で見上げた夏の夜空を思い出した。港の沖で、腹に響く音とともに開いた、巨大な光の花。ダールは、あれが開くたびに、大声で数を数えていた。
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「見ていただけますか」
日が沈むのを待って、イングヴァルは、湖の岸に仮設した試験場へホルムを案内した。
岸辺の砂地に、太い鉄の筒が一本、斜めに埋めてあった。長さは二メートルほど。筒の口は、湖の上の夜空を向いていた。
「これが、光です」
イングヴァルが導火線に火を点けた。数秒後、筒の口から、白い閃光がほとばしった。湖面が、一瞬、昼間のように照らされた。
続いて、少し離れた砂地に埋めた別の筒から、腹に響く轟音が鳴った。湖の対岸の森にぶつかった音が、遅れてこだまになって返ってきた。
「どうです」
イングヴァルは、期待をこめた目でホルムを見た。ハンナも、隣で黙ってホルムの顔をうかがっていた。
ホルムは、しばらく湖面を見つめていた。
「白すぎる」
ホルムは言った。
「大口径砲の砲口炎は、そんなに白くない。もっと赤い。橙色だ。それに、光ってから消えるまでが、長すぎる。本物は、一瞬で膨らんで、一瞬で消える。そのあとに、赤黒い煙の塊が残る」
「橙……」イングヴァルは、眉を寄せた。「マグネシウムを減らして、ストロンチウムを混ぜれば、赤みは出せますが。一瞬で消すとなると」
「それに、閃光の大きさだ。四十センチ砲の砲口炎は、砲口から二十メートル、三十メートル先まで火の玉が伸びる。五十キロ先から見る敵の観測員には、光の点の大きさまではわからないだろうが、閃光の色と長さは、望遠鏡で見ればわかる。海軍の見張り員は、敵艦の発砲炎の色で、口径を当てる」
イングヴァルは、黙ってうなずいた。それから、懐から帳面を取りだし、何かを書きつけはじめた。
「音は」ハンナが訊いた。
「音のほうは、いい」ホルムは言った。「音源標定班が測るのは、音の大きさじゃなくて、何か所かの聴音所に音が届いた時刻の差だ。時刻さえ合っていれば、音色はたいして問題にならない」
「時刻は、合わせます」ハンナは言った。「秒単位で」
「どうやって。本物の砲と、偽物の光は、何十キロも離れている」
「鉄道時計です」
ハンナは、懐中時計を取りだして、ホルムに見せた。
「国鉄の時計は、毎日正午に、首都の中央指令所から電信で時報を受けて、全線の駅の時計を一斉に合わせています。どの駅の時計も、誤差は二秒以内。高速線の信号所なら、一秒以内です」
彼女は、湖の向こうの暗がりを指した。
「光と音の班は、線路の近くの丘に置きます。どこの丘も、一番近い駅まで、鉄道電話の線を引く。本物の砲が撃つ時刻は、ダイヤで決めてあります。その時刻に、鉄道時計に合わせて火を点ける。本物が撃つのと、同じ秒に」
ホルムは、しばらく言葉が出なかった。
海軍は、艦隊の射撃を同期させるのに、専用の無線と、専用の時計と、何年もの訓練を費やす。この国の鉄道は、それと同じものを、毎日、何の変哲もない日常として持っていた。
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その夜、扇形庫の事務室で、ホルムはハンナから、無線の計画を聞いた。
八つの呼出符号。それぞれが、一両の列車砲の指揮車に割り当てられる。本物の三両には、一号から三号。存在しない五両には、四号から八号。
「四号から八号の無線機は、囮の列車に積んで、囮と一緒に動かします」ハンナは言った。「敵の方向探知機が、電波の出どころを測れば、ちゃんと列車がいる場所から電波が出ている」
「通信士は」
「軍の通信隊から、八人借ります」
「八人、別々の人間だな」
「え?」
ハンナが、顔を上げた。ホルムは、机の上の計画書を指で叩いた。
「電信の通信士には、手癖がある。キーを叩く速さ、点と線の長さの比、文字と文字のあいだの間。一人一人、筆跡みたいに違う。海軍の傍受班は、敵艦の通信士の手癖を覚えていて、艦の呼出符号が変わっても、どの艦が打っているのかを当てる」
ハンナの顔から、血の気が引いた。
「一人の通信士が、二つの呼出符号を打ったら」
「敵の傍受班に、腕のいいのがいれば、同じ人間だとばれる。二両だと思っていた列車が、一両になる」
ホルムは続けた。
「それだけじゃない。四号の通信士は、ずっと四号だけを打たなきゃならない。途中で交代させたら、四号の手癖が変わる。敵は、四号が撃破されて、別の車両に入れ替わったと思うかもしれない。思わないかもしれない。どっちに転ぶか、わからない」
「……それは、使えるかもしれません」
ハンナの声は、かすれていた。だが、その目は、もう別のことを考えはじめていた。
「わざと、手癖を変える。撃破されたように見せたいときに。あるいは、新しい一両が増えたように見せたいときに」
ハンナは、計画書の余白に、何かを書きつけた。それから、鉛筆を置いて、ホルムを見た。
「ありがとうございます。私には、見えていませんでした」
「あんたは、線路を見てる。俺は、海を見てきた。見えるものが、違うだけだ」
ホルムは、ヴィンター少佐の言葉を思い出していた。同じものを見たんだ。違うのは、見た場所だけだ。
ハンナは、少しのあいだ黙っていた。それから、小さく笑った。工廠で会ってから、初めて見る笑顔だった。
「中尉。四分四十秒は、まだですか」
「四分五十秒だ。あと十秒」
「装填のときに、揚弾機が砲尾に届くまで、何秒かかっていますか」
「……十四秒」
「砲身の仰角をかけているあいだに、揚弾機を途中まで上げておけば」
ホルムは、言葉を失った。
それから、声を立てて笑った。