# 幻影砲兵 第一部「大蛇の目覚め」
## 第七章 初陣
開戦五十八日目、午前一時。
首都の北、ヴェストラ機関区の検修庫の中で、ヨルムンガンド二号は、四両の機関車に電気を通されて、低く唸っていた。
二号は、一号より九日遅れて完成した車両だった。試射を重ねた一号の改修点は、すべて最初から組みこまれている。台車の電磁石は三十二基。駐退機は、一号の経験から後座長を十五センチ伸ばした。揚弾機は、仰角をかけながら砲弾を押しあげられるように、レールの取りつけ角度を変えてある。
ホルムは二号の射撃指揮官として、ベルグ曹長とともにこの車両に移っていた。一号はヘルダールの経験を持つ砲員たちが、三号は陸軍の砲兵学校を出たばかりのカッセル中尉が率いる。三両の射撃指揮官のうち、実戦で砲弾が落ちる音を聞いたことがあるのは、ホルムだけだった。
「海軍さん。弾薬、積みこみ終わりました」
ベルグが、帳面を手に報告に来た。
「即応弾三十。榴弾二十四、半徹甲六。装薬は全装薬三十、減装薬六」
「半徹甲は、今日は使わない」
「わかってます。陣地にコンクリートを打つほど、向こうは暇じゃないでしょう」
ベルグは帳面を閉じ、二号の砲身を見上げた。検修庫の薄暗い照明の下で、砲身は覆いをかぶって、長い眠りについた獣のように横たわっていた。
「前の戦争のとき」ベルグは言った。「初めて実戦で撃つ前の晩、あっしは一睡もできませんでした。二十歳でしたがね」
「いまは、眠れるか」
「いまも、眠れませんな。五十を過ぎても」
ベルグは笑った。ホルムも、少しだけ笑った。
---
午前二時四十分。二号は、ヴェストラ機関区を出た。
ダイヤの上では、二号は「臨時回送第九〇四一列車」だった。首都から南へ、夜間の貨物列車の合間を縫って、ベルン高速線を下っていく。回送列車は、乗客も貨物も積まない。駅員たちは、深夜に通りすぎていく長い列車を見ても、気にとめない。夜の高速線を、中身のわからない回送列車が走るのは、戦争が始まってから珍しいことではなくなっていた。
ホルムは、前から二両目の機関車の運転室に乗っていた。
計器盤の速度計の針が、時速百五十キロを越え、百八十キロを越えた。窓の外を、夜の森が、黒い帯になって流れていく。高速線の軌道は、驚くほど静かだった。重軌条とコンクリートの枕木の上を、千トンの列車は、ほとんど揺れずに滑っていく。
機関士は、国鉄の特急を十五年運転してきたという男だった。計器から目を離さずに、ぽつりと言った。
「特急〈北極星〉と、同じ線を走ってるんですよ、いま」
「知ってる」
「〈北極星〉は、乗客を四百人乗せて、三百キロで走ります。こいつは、大砲を一門乗せて、二百キロ」
機関士は、しばらく黙って前を見ていた。
「戦争が終わったら、また〈北極星〉を運転したいもんです」
ホルムは、何も答えなかった。答えられなかった。
---
午前五時十分。二号は、ヴェステルボリの北百二十キロ、ホルスタ信号所の待避線に入った。
ここで、夜明けを待つ。ラーシュの偵察機が、ヴェステルボリの上空に着くのが、午前八時。座標が届くのが、早くて八時半。それまで二号は、森に囲まれた待避線の中で、偽装網をかぶって眠る。
待避線の線路は、夜のうちに錆取り列車が往復して、朝日に光っていた。そしてハンナのダイヤによれば、今朝は国じゅうの百十四本の待避線が、同じように光っているはずだった。
ホルムは運転室を出て、待避線の脇の土手に腰を下ろした。夜明け前の空気は冷たかった。東の空が、ゆっくりと白んでいく。
ダールの手帳を開いた。昨夜、ハンナから渡された射撃計画の写しが、挟んであった。
今日、三両が撃つのは、ヴェステルボリの包囲線の重砲陣地。ラーシュが事前に見つけている十二門のうち、昼間に動かないことが確実な陣地から順に。二号の目標は、要塞の北、唐松の森の四門。一号と三号は、それぞれ西と東の陣地。
四門の重砲。砲員は、一門につき十五人前後。
六十人。
ホルムは、手帳を閉じた。
---
午前八時十分。
高度七千二百メートル。ラーシュ・ニューマンは、ヴェステルボリ包囲線の南側を、ゆっくりと東へ飛んでいた。
眼下に、唐松の森が広がっていた。朝日が、低い角度から森を照らしている。森の北の縁の空き地に、擬装網をかぶせた砲陣地が三つ。網の端が、少しめくれていた。網の下から、砲身らしい影がのぞいていた。
ラーシュは双眼鏡を下ろした。
「偽物だな」
後席の写真員が、身を乗りだした。
「どうしてわかるんです」
「網の端のめくれ方が、きれいすぎる。風でめくれたんなら、もっと乱れる。誰かが手でめくった」
ラーシュは双眼鏡を、森の中へ向けた。唐松の梢のあいだ。二重に張った擬装網。網の上に、唐松の枝が、ていねいに挿してある。地面の轍は、見えない。掃いてある。
だが、森の西の端で、朝日が、網の外に、一本の細い影を落としていた。長さは、せいぜい三メートル。網の下の砲身が、わずかに網を持ちあげている。その持ちあがった部分が、低い朝日を受けて、網の外へ影を伸ばしていた。
ラーシュは、影の数を数えた。四つ。
「几帳面なやつだな」
ラーシュは、つぶやいた。
「偽物は雑に、本物は二重に。轍まで掃いてる。こいつは、ロスヴィークを覚えてる」
「撮りますか」
「撮れ。全部だ」
カメラのシャッターが、規則正しく切られていく。そのあいだにラーシュは、膝の上の地図にキロポストを書きつけていた。北部線は、開戦前にはヴェステルボリの南を通って国境を越えていた。いまは、線路の半分がヴァルデン軍の占領地の中にある。だが、キロポストは、そこにもある。
ラーシュは、送信の前に、飛行経路の上の目印を確かめた。今日のダイヤで決められた送信点は、三つ。そのうち、三番目の、湖の上。
湖の上に出たところで、ラーシュは送信鍵を叩いた。
『北部線、百九十二キロ四百、左、五千百。四』
十一秒。ラーシュは送信鍵から指を離し、機首を北へ向けた。帰る前に、もう一度、森の上を通る。写真を撮りなおすふりをして、ヴァルデンの対空監視員に、偵察機がこのあたりを探っていると思わせる。そして、何も起きないまま、飛び去る。
森の中の中隊長は、たぶん、それを見ているだろう。網の下で息をひそめて、飛行機雲が消えるのを待っている。見つかったかどうかは、わからない。見つかっても、撃てる者はいない。そう思っている。
ラーシュは、少しだけ、その中隊長に同情した。
---
午前八時二十九分。ホルスタ信号所。
ホルムは、信号所の鉄道電話の受話器を置いた。ラーシュの座標は、カルビー飛行場の受信所から、ベルンの司令所を経て、鉄道電話でここまで届いていた。
北部線、百九十二キロ四百、左、五千百。四門。
ホルムは射撃盤の前に座り、キロポスト表を開いた。北部線、百九十二キロ四百の地点の、地図上の座標。そこから、線路の左へ五千百メートル。唐松の森の中の一点。
ハンナのダイヤでは、二号が使うのは、ベルン高速線の第六十二射撃曲線だった。ヴェステルボリの北西、ラングダール丘陵を切り通す、深さ十六メートルの切通し。曲線の上の射撃点から、唐松の森まで。
ホルムは距離を測った。六十一・八キロ。
弾道表を開く。全装薬。初速、毎秒千二メートル。仰角、四十三度十二分。弾丸飛翔時間、百九秒。今朝の気温、摂氏四度。気圧、千八ヘクトパスカル。高層の風は、北西から毎秒十八メートル。弾丸は高度二万メートルを超えて飛ぶ。その高さの風を、気象班が夜明け前に気球を上げて測ってある。
ホルムは数字を書きこみ、足し、引いた。地球の自転による偏差。六十キロ先では、無視できない。弾丸が飛んでいる百九秒のあいだに、目標は、地球と一緒に東へ動いている。
海の上でなら、ここに、自艦の速力と、敵艦の速力と、自艦の揺れが加わる。ここでは、どれもない。止まっている砲から、止まっている的へ。ロスヴィークでダールに言ったとおりだった。
贅沢な話だ。
ホルムは、最後の数字を書き終えた。
「発進」
---
午前十時四十六分。
二号は、時速二百キロで、ラングダール丘陵の切通しに飛びこんだ。
両側の壁が、窓の外を灰色の帯になって流れていく。前方に、白く塗られた枕木が見えた。三百メートル手前の目印。機関士が、制動をかけた。千トンの列車が、身をよじるように減速していく。
「白、通過。時速三十七キロ」
「白、通過。時速十二キロ」
列車が、止まった。
「停止位置、目標から前方十五センチ」
ホルムは、運転室から飛び降りた。切通しの底の砂利を踏んで、射撃指揮車まで走った。背後で、パンタグラフが下りる音がした。電磁石が、低い唸りを上げてレールに噛みついた。
射撃指揮車に飛びこんだとき、砲身はもう、持ちあがりはじめていた。
「仰角、四十三度十二分」
「方位、修正なし」
揚弾機が、砲身の仰角を追いかけるように、千二百キロの砲弾を押しあげていく。
ホルムは、射撃指揮車の窓から、切通しの上の空を見上げた。青い空だった。雲は、ひとつもない。防空監視所からの報告では、この三十分、この空域にヴァルデンの航空機はいない。
六十キロ先の唐松の森にも、同じ空が広がっているはずだった。
「装填よし」
ベルグの声がした。
ホルムは、懐中時計を見た。停止から、四分四十一秒。
北の丘の上では、いまこの瞬間、イングヴァルの班が鉄道時計を睨んでいる。本物が撃つのと、同じ秒に、偽物の閃光を焚くために。
ホルムは、息を吸った。
「撃て」
---
世界が、白くなった。
ヘルダールで何度も聞いた音だった。それでも、実弾の全装薬は、演習とは違った。切通しの壁が震え、砂利が跳ね、射撃指揮車の窓ガラスが鳴った。列車全体が、後ろへ押し戻された。電磁石が唸り、車輪が軋み、七十センチ滑って止まった。
切通しの両壁のあいだに、赤黒い煙が、ゆっくりと立ちのぼっていった。壁の縁を越えたところで、高層の風にちぎられて、北西へ流れていった。
「一発目、発射。飛翔時間、百九秒」
ホルムは、懐中時計の秒針を目で追った。
砲弾はいま、高度二万メートルに向かって昇っている。成層圏の、青黒い空の中を。
「次弾、装填」
機関車が、ゆっくりと列車を前へ押し戻す。七十センチ。射撃点に、戻る。
「装填よし」
「撃て」
二発目。三十秒。三発目。
四発目が砲口を離れたとき、一発目の砲弾は、放物線の頂点を越えて、落下を始めていた。
五発目。六発目。七発目。
ホルムは、数えていなかった。数えているのは、ベルグの声だった。ホルムの耳には、ベルグの声と、秒針の音だけが聞こえていた。
「八発目、発射」
「撃ち方やめ。電磁石解除。パンタグラフ上げ」
ホルムは、怒鳴った。
「発進!」
運転室から、機関士の短い返事が聞こえた。四両の機関車が、うなりを上げた。千トンの列車が、身じろぎし、ゆっくりと、それから確かに、動きだした。
ホルムは、懐中時計を見た。
一発目の砲弾は、まだ空の上にあった。あと二十三秒。
二号は、切通しを北へ抜けた。窓の外に、秋の畑が広がった。速度計の針が、時速五十キロを越え、百キロを越えた。
あと三秒。
二、一。
ホルムには、何も聞こえなかった。六十キロ南で、唐松の森が噴きあがる音は、ここへは届かない。届くのは、三分近くあとだ。そのころには、二号は、この場所から十キロ以上北にいる。
ホルムは、懐中時計の蓋を閉じた。
---
午前十一時二分。
ラーシュの声が、鉄道電話を経て、ホルスタ信号所の次の信号所まで届いていた。偵察機はヴェステルボリの上空に戻り、二回目の撮影をしていた。
『唐松の森。四門のうち、一門、消えた。一門、横倒し。残り二門は、無事に見える。森の西半分が、なくなってる』
ホルムは、受話器を握ったまま、黙っていた。
『海軍、聞こえてるか』
「聞こえてる」
『八発で、二門。横倒しのやつは、たぶん、もう撃てない』
「わかった」
ホルムは受話器を置いた。
背後で、ベルグ曹長が、ぼそりと言った。
「二門。上出来です。前の戦争じゃ、列車砲が一日かけて撃って、一門潰せりゃ、勲章ものでした」
「そうか」
「海軍さん」
ホルムは、振り返らなかった。
「いまの森にも、砲員がいたと思ってるんでしょう」
「……いた」
「いましたよ。六十人か、七十人か」
ベルグは、しばらく黙っていた。それから、言った。
「あっしが前の戦争で撃ったとき、向こうからも、同じくらい撃ち返されました。こっちの砲陣地で、同じ中隊の連中が、何人も死んだ。それで、撃った砲弾の先のことは、考えないようにした。考えたら、次が撃てなかった」
「いまは」
「いまも、考えないようにしてますな。三十年たっても、うまくいきませんが」
---
その日、ヨルムンガンド三両は、ヴェステルボリの包囲線に向けて、合わせて四度撃った。
午前十時五十二分、二号。唐松の森。
午前十一時三十一分、一号。そこから西へ二十六キロの、ブロム村の南の砲陣地。
午後一時八分、三号。そこから東へ四十キロの、国道沿いの窪地。
午後三時四十分、ふたたび二号。ヴェステルボリの南西、ケルベック丘陵の北斜面。
同じ時刻に、北の丘の四か所で、イングヴァルの班が閃光を焚き、爆音を鳴らした。無線からは、一号、二号、三号、それに存在しない五号と七号の射撃報告が、それぞれの手癖で流れた。
夕方、ラーシュの最後の偵察で、ヴェステルボリの包囲線から、九門の重榴弾砲が消えていることが確かめられた。
夜、二号は、首都の北のヴェストラ機関区に戻った。
ホルムは、検修庫の脇の事務所で、ハンナから電話を受けた。
『今日のダイヤは、全部、予定どおりに走りました』
受話器の向こうで、ハンナの声は、少しだけかすれていた。
『旅客列車は、一本も遅れていません』
「そうか」
『中尉。ご無事で、よかった』
ホルムは、何か答えようとして、言葉を探した。見つからなかった。
「リースさん」
『はい』
「今日の森の中隊長は、几帳面なやつだったらしい。ラーシュがそう言ってた。偽物の陣地を三つ作って、轍まで掃いてた」
受話器の向こうで、ハンナは黙っていた。
「たぶん、ロスヴィークのことを、よく覚えてるやつだ。俺たちが、北の重砲がやられたのを見て覚えたのと、同じことを、向こうも覚えてた」
『……はい』
「そいつが生きてたら、今日のことを、よく覚えてると思う」
ハンナは、長いあいだ何も言わなかった。やがて、静かな声が返ってきた。
『覚えている人がいるなら、その人は、きっと数えはじめます。どこから撃たれたのか。何門いるのか』
「ああ」
『数えはじめたら、そこからが、私の仕事です』
電話が切れた。
ホルムは、ダールの手帳を開いた。今朝の数字の下に、もう一行、書き加えた。
――開戦五十八日目。唐松の森。八発。二門。
書いてから、しばらく、その行を見つめていた。
それから、手帳を閉じて、灯りを消した。