# 幻影砲兵 第一部「大蛇の目覚め」
## 第八章 計算尺
ヴァルデン第三軍司令部は、ヴェステルボリの南東四十キロ、占領したばかりのクロンベリ町の町役場に置かれていた。
町役場の地下には、市民の戸籍を収めた書庫があった。書架は運びだされ、かわりに作戦図と電話機と、何台もの机が並べられた。その一番奥、換気口の真下の、いちばん寒い机が、エーリヒ・ザイツ大尉の席だった。
ザイツは三十八歳だった。開戦の半年前までヴァルデン南部の地方都市で、ギムナジウムの数学教師をしていた。予備役の砲兵将校として登録されていたのは、学生時代に砲兵の測地部隊で兵役を済ませたからにすぎない。召集令状が来たとき、ザイツは自分が役に立つとは思っていなかった。
配属されたのは第三軍司令部の砲兵情報班だった。任務は対砲兵情報。敵の砲兵がどこにいるかを割りだし、味方の砲兵と爆撃隊に教える。閃光観測班が見た光と音源標定班が聞いた音を、地図の上の一点に変える仕事だった。
開戦から五十七日間、その仕事はほとんど必要なかった。
ノルトラントの重砲は偵察機の写真で見つかり、爆撃隊に潰された。閃光も音も測る前に消えていった。ザイツの机に回ってくるのは、要塞の十五センチ砲の、とうにわかりきった位置の報告ばかりだった。
ザイツは空いた時間で、故郷の息子に手紙を書いた。息子のペーターは十歳で、父親に似て数字が好きだった。手紙にはいつも一つ、算数の問題を書いた。ペーターは次の手紙で答えを送ってくる。答えが合っていれば、ザイツはもう少し難しい問題を書く。
開戦五十八日目の朝もザイツは、書きかけの手紙を前にしていた。
問題はまだ決まっていなかった。
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午前十時五十四分、地下の電話が一斉に鳴った。
「第十四重砲兵大隊より。第二中隊陣地、砲撃を受く。大口径。現在も継続中」
「ヴェステルボリ要塞からか」
参謀長のブルクハルト大佐が、作戦図の前で振り返った。五十代の、頬の削げた男で、開戦以来、第三軍の作戦を事実上一人で回していた。
「要塞の十五センチ砲はあの森まで届きません」
答えたのは作戦参謀だった。
「ではどこからだ」
ザイツは電話機のひとつを取った。閃光観測班の、第三観測所だった。ヴェステルボリの北西の丘の上に置かれた、望遠鏡と測角器の小屋。
「砲撃地点は?」
『特定できません』
観測所の曹長の声は落ち着いていたが、困惑を隠せていなかった。
『北の稜線の向こうで光を見ました。二回。橙色の閃光です。方位は測りましたが、ほかの観測所と交会させると、稜線のはるか向こうです。距離は少なくとも四十キロ以上』
「四十キロ」
『それ以上かもしれません。測角の誤差が大きすぎて』
ザイツは受話器を置き、別の電話を取った。音源標定班。前線の後方に数キロおきに六つの聴音所を並べ、そこに置いたマイクロフォンが、同じ音をそれぞれ何秒ずれて拾ったかを測る。時刻の差から、双曲線を描き、その交点が音の出どころになる。
『音源、一か所。北北西、ハルス丘陵の北、ベルガ村付近』
音源標定班の少尉は数字を読みあげた。ザイツはそれを作戦図に写した。ヴェステルボリの北北西。北部線の線路から、東へ八キロほど離れた丘陵地帯だった。
「距離は」
『……五十八キロ』
地下室が静まりかえった。
「五十八キロ?」ブルクハルトが繰り返した。「冗談だろう」
『閃光観測の方位ともおおむね合っています』
「そんな距離を撃てる砲がどこにある。我が軍にもあの国にもない」
「大佐」
ザイツは静かに言った。
「砲弾の破片を見てからにしませんか。口径がわかれば、砲の見当がつきます」
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午前十一時三十三分、二度目の電話が鳴った。
「第十四重砲兵大隊より。第四中隊陣地、砲撃を受く。ブロム村南」
ザイツは作戦図の上でブロム村を探した。唐松の森から、西へ二十六キロ。
音源標定班の数字がまた読みあげられた。今度の音源はヴェステルボリの北東。オールム丘陵の南斜面。
ザイツはピンを打った。最初の音源のベルガ村と、二度目の音源のオールム丘陵。二つのあいだは直線でおよそ七十キロ。
「……同じ砲か?」
ブルクハルトが、ザイツの肩越しに作戦図を覗きこんだ。
「わかりません」ザイツは言った。「ですが確かめる方法はあります」
ザイツは机の引き出しから、ノルトラントの鉄道地図を取りだした。戦前にヴァルデンの参謀本部が作った、兵要地図の鉄道編だった。
五十八キロ。それほどの距離を撃てる砲は固定の要塞砲か、艦砲か、そのどちらかしか考えられない。あの丘陵地帯に要塞はない。海もない。だとすれば、その砲は移動しているはずだった。そしてそれほど巨大な砲を移動させられるのは。
「鉄道です」
ザイツは言った。
「列車砲です。前の大戦のときにもありました。大口径の艦砲を鉄道の台車に載せて運ぶ」
「列車砲だと。あれは据えつけに丸一日かかる代物だぞ」
「ええ。だから、おかしいんです」
ザイツは鉄道地図の上で、ベルガ村の近くの線路を探した。ベルン高速線がハルス丘陵の南を走っていた。オールム丘陵の南にも、高速線の東支線が走っている。
ザイツは物差しを当て、線路に沿って、二つの地点のあいだの距離を測った。高速線を南へ下り、分岐駅で東支線に入り、北へ上る。
百九十キロ。
一度目の砲撃が終わったのは、十時五十六分。二度目の砲撃が始まったのは、十一時三十一分。そのあいだ、三十五分。
ザイツは計算尺を滑らせた。
百九十キロを三十五分。時速三百二十六キロ。しかもそれは止まっている時間を含まない場合だ。撃ち終えて動きだすまで、着いてから撃ちはじめるまで、それぞれ数分はかかるはずだった。前の大戦の列車砲なら、数時間。
「同じ砲なら、時速三百三十キロ以上で走ったことになります」
「そんな列車はない」
「あります」
ザイツは鉄道地図の余白を指さした。そこには戦前の諜報員が書きこんだ注記があった。
――ベルン高速線、特急〈北極星〉、最高速度、毎時三百粁。
「ですが、三百キロで走れるのは、四百トンの旅客列車です。大口径の列車砲は少なくともその倍は重い。しかも分岐駅を通り、東支線に入り、止まって、撃つまでの時間を考えれば」
ザイツは計算尺を置いた。
「あり得ません。移動時間が合わない」
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午後一時十一分、三度目。
場所はヴェステルボリの南東、国道沿いの窪地の第九中隊陣地。音源はヴェステルボリの北、スカール湖の西岸の丘。
ザイツはピンを打ち、線路を測った。二度目の音源から、三度目の音源まで鉄道距離で二百六十キロ。時間差、九十七分。平均時速百六十キロ。
「これは可能です」ザイツは言った。「二度目の砲がそのまま移動したのかもしれない。あるいは、一度目の砲かもしれない」
午後三時四十三分、四度目。
ヴェステルボリの南西、ケルベック丘陵の北斜面。音源は北西の、また別の丘の上だった。
ザイツは、四つのピンを見下ろした。四つの音源を、二つずつ組にして、鉄道距離と時間差を並べる。一門で走りきれる組と走りきれない組。
走りきれないのは、一度目と二度目の組だけだった。
「最低、二門」
ザイツは言った。
「一門ではどうやっても説明がつかない。二門あれば、説明がつく。三門かもしれないし、それ以上かもしれない。ですが今日の四回だけではそれ以上は言えません」
ブルクハルトは腕を組んで、作戦図を睨んでいた。
「今日、失った砲は」
「九門です」作戦参謀が答えた。「二十四門のうち」
ブルクハルトはしばらく黙っていた。
「ザイツ大尉」
「はい」
「明日から、きみの班でこの砲だけを追え。ほかの仕事はすべて外していい」
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夕方、第十四重砲兵大隊からの詳報が、ザイツの机に届いた。
四つの中隊の報告をザイツは一枚ずつ読んだ。どの報告も似たようなものだった。朝に偵察機が一機、高く飛んだ。数時間後、予兆なく砲弾が落ちてきた。三十秒間隔。八発。弾痕の直径、二十メートル超。回収された破片から推定される口径、四十センチ級。
四十センチ級。戦艦の主砲だ。
ザイツは、二枚目の報告書に移った。第二中隊。報告者、オットー・クライン大尉。
最後の一行で、ザイツの目が止まった。
――発射音、着弾後、一分余を経て到来。北方より。
ザイツはその行に赤鉛筆で線を引いた。
ほかの三つの中隊の報告には、発射音のことは一行も書かれていなかった。砲撃のさなかに、遠くの轟きを聞き分ける余裕のある者は、いなかったのだろう。あるいは聞いても、書きとめるほどの意味があるとは思わなかったのだろう。
このクラインという男は数えていたのだ。自分の中隊が吹き飛ばされているあいだも。
ザイツは計算尺と棚の奥の一冊の綴りを取った。
海軍の連絡将校が先月、置いていったものだった。ヴァルデン海軍の、三十八センチ艦砲の射表。距離ごとの仰角と落角と飛翔時間が、細かい数字で並んでいる。四十センチ級の砲の射表はこの地下室にはない。手元で一番近いのがこれだった。
ザイツは方眼紙に三つの列を引いた。距離。発射音が届くまでの時間。砲弾が飛ぶ時間。
三十キロ。音、八十八秒。砲弾、射表で五十四秒。差、三十四秒。
四十キロ。音、百十八秒。砲弾、七十四秒。差、四十四秒。
五十キロ。音、百四十七秒。砲弾、九十五秒。差、五十二秒。
六十キロ。音、百七十六秒。砲弾、百十八秒。差、五十八秒。
七十キロ。音、二百六秒。砲弾、百三十九秒。差、六十七秒。
一分余。クラインの言う「余」が、十秒か、二十秒か。この射表の上なら、六十五キロから、八十キロのあいだになる。
だが、この射表は初速毎秒八百メートルの砲のものだ。
ザイツは鉛筆の尻で紙を叩いた。四十センチ級の砲がもっと速い砲弾を撃つなら、砲弾は早く着く。差はもっと手前で一分を超える。
初速を毎秒九百と置いた。射表の飛翔時間を初速の比で縮め、落ちかたの鈍る遠距離には、少しだけ割り増しをつけて、表を作りなおした。粗い近似だった。空気は砲弾の速さの二乗よりも込みいった形で砲弾を削る。それでも、答えの幅くらいは出せる。
九百なら、六十四キロ。
千と置いて、もう一度。五十八キロ。
ザイツは計算尺を置いた。
五十五キロから、七十キロ。音源標定班が出した五十八キロと矛盾しない。初速を毎秒千メートルに近いと置いたときに一番よく合う。
海軍の射表にある、どの艦砲よりも速い砲だ。
ザイツはしばらく紙を見つめていた。何かがほんのわずかに引っかかっていた。数字は合っている。音源標定と、閃光観測と、発射音の遅れ。三つの方法がすべて同じ答えを出している。
だが、三つとも同じ答えを出すことそのものがなぜか、ザイツには気持ちが悪かった。
いつもの戦場なら、閃光観測と音源標定は、たいてい数百メートルはずれる。丘に遮られ、風に流され、観測員の目と耳の癖で、少しずつ違う答えを出す。今日の四回はどれも、驚くほどきれいに一致していた。
まるで、測られるために用意された答えのように。
ザイツは首を振った。根拠のない感覚だった。数学教師が生徒の答案に抱く、あの感じだ。答えは合っている。途中の式も合っている。だが、どこかで、誰かに教わった答えを写しているような気がする。
それを口にするにはまだ早すぎた。
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夜、ザイツは書きかけの手紙に戻った。
ペーターへの問題をまだ決めていなかった。ザイツはペンを取り、少し考えてから、書きはじめた。
――ペーター。今日の問題は少し難しい。
――ある国に線路が一本通っている。その線路の上を何本かの列車が走っている。きみはその国の駅には行けない。時刻表も持っていない。わかるのはときどき、どこかの駅で、列車が一本見えたという知らせとその時刻だけだ。
――さて、その国には、少なくとも何本の列車が走っているだろう。
――ヒント。列車はとても速く走ることができる。だが、どんなに速い列車でも、決まった速さより速くは走れない。
ザイツはペンを置いた。
それからもう一行、書き足した。
――もし、知らせのうちのいくつかが嘘だったら、どうなるだろう。
書いてから、その一行を長いあいだ見つめていた。十歳の子どもに出す問題ではなかった。
ザイツはその一行をていねいに線で消した。
だが、消したあともその一行は紙の上から消えなかった。ザイツの頭の中からも。