「絶好のサイクリング日和だ……!」
自転車に
『ノスタルジー号』……お値段なんと80万ファンス! 購入店の主が言うには、ランドリコの限定モデルで発売後すぐに売り切れ。金があっても買えない状況の中でなんとか入荷した一品とのことだった。
過去の記憶もない中でアノマリー管理局に拾われて、骨董品屋エイボンに迎え入れてもらった僕は、恩返しと、それ以上に大切な人たちのために精力的に働いてきた……ものの、当然お金持ちなんかじゃない。
ではどこからそんな
以前、本や新聞の売店である"真夜中のブックスタンド"、店主の万里さんと言うおじいさんに出会った。異象がらみの事件で、僕も微力ながら力添えさせてもらった人物だ。その万里さんのブックスタンドは、一時はヘテロシティ最後のブックスタンドになったものの、彼はそれを嘆き、私財を投じて街のブックスタンド普及に尽力したらしい。
『みんなが新聞を読みたい時に、新聞が見られるだけで十分だ』、そう言って。
彼の働きはシティ速報にも掲載され、市政部門の支援を受けることが叶った今では、街のいたるところでブックスタンドが営まれるようになった。それらは通称猫スタンドと呼ばれている。
その猫スタンドではスクラッチくじが買えて、もちろん当選の期待値は低い。けれど、そこで支払ったファンスは街の市政部門を通じてブックスタンドの支援になる。
万里さんとは事件の時に関わったきりだけど、街のみんなのためにと言う想いに感化された僕は、新聞を購入しにブックスタンドへ立ち寄ってはスクラッチくじを、俗に言うニャクラッチを購入していたって訳だ。
それで本題──なんと先日、80万ファンスが当選してしまったのである。
これまでにブックスタンドへ支払った金額の合計よりなお大きい額だ、僕は店主の猫餅さんに辞退を申し出たんだけど……曰く、当選者を発表して支払うのもブックスタンドを運営するうえで大切なことらしく、受け取ってもらわないと困るとのことで。
そうしてひょんなことから
当然、頼ったのはエイボンが誇る万能執事ことアドレーさん。甘えすぎるのは良くないと思いつつ、アドレーさんの意見なら間違いないと言う信頼があった。それで考えを聞いてみたら、まずは自転車でも買ってみては、とのことだった。
エイボンは立地的にすこし入り組んだ場所にあるし、交通の便が良いとは言えない。そのうえ、店が以前所有していた自動車は差し押さえられたとかで、移動手段は各々に委ねられている……と言うか、みんな当たり前に徒歩及び公共交通機関に頼るのみだ。
アドレーさんの提案を咀嚼してみれば、それはとても魅力的に思えた。後ろに座席があるものを買えば、僕が送迎役として役に立つ未来がすぐに思い浮かんだから。
鬼郎丸に振り回されてヘトヘトの早霧を、胸に重たい本を抱えて書店や図書館を行き来するエドガーを、夜な夜な民間の異象依頼を受けては赤字を取り戻そうと資金繰りするナナリを。僕が自転車を持っていれば、みんなが少しだけ楽になるんじゃないかって思えた。
善は急げ、僕はすぐにエイボン最寄りの自転車屋、「Ticking Back」へ向かった。しかし……意外と二人乗り用の座席がついているものは少なく、あってもどこか錆びついた中古品ばかり。
きっと難しい顔で店内を見回していたからだろう、話しかけてくれた店主に要望を伝えて、料金なら心配いらないと大見栄を切ったら……出てきたのが、この『ノスタルジー号』だったのだ。
正直迷った。これはさすがに……と何度も冷静に考えたつもり。でも……降って湧いた80万ファンス。ランドリコ限定モデルの、二人乗りにピッタリな自転車が、こちらも80万ファンスだ。
最終的に──僕は、購入する決断をした。実用性はもちろん、店の入り口に置いておけば、分かる人には価値が分かるだろう。それはエイボンと言う骨董品屋への評価にも繋がるだろうし、つまり宣伝に使える。乗っても置いといても嬉しい逸品には違いない。
まぁ、これに乗って帰ればアドレーさんは、『私が差し出口をしたばかりに……』と悔いるような素振りを見せていたけれど。お店としてのエイボンはもちろん、みんなのためにもなると熱弁すれば、最後には笑顔を見せてくれた。……
「~~♪」
そうして今に至る。『ノスタルジー号』との出会いを回顧しながらロンバス湖を眺めて
その時は我らが新市民の頼れるアドバイザー。にくきゅう銀行のマネージャーこと、ちぃちゃんを後ろに乗せてツーリングをしていたんだ。友達と自転車で出かけてみたいけれど、運転が出来ないから……と言う彼女に申し出て、後ろに乗ってもらった。やっぱりこの自転車を買ってよかったと頷いたものだ。
思い返しつつも頬に風を感じながら、脚は淀みない。視界の端でゆっくりと形を変えるロンバス湖を横目に、そう言えばとまた一つ記憶が蘇った。
ちぃちゃんとのツーリングを終えたとき、彼女は楽しかったと言ってくれて、その次には『私も自転車の練習をしてみます』と宣言したのだ。次は彼女が僕を後ろに乗せて、ツーリングの続きを走るのだと。
「練習はうまくいってるのかな……いや、そもそも休みを貰えてるのかな……?」
ちぃちゃんを応援する気持ちと同時に、少しばかりの心配が顔を覗かせた。僕との会話が重荷になって、彼女の貴重な休日を潰してしまわないと良いんだけど……ん?
一瞬、見間違いかと思った。あまりにベストタイミングと言うか、ちぃちゃんのことを考えていたから彼女の姿を幻視してしまったのだと。
「やっぱり、ちぃちゃんだ」
彼女はたしかに、僕の視界に映っていた。僕が走っていた周辺の道路のさらに内側、ロンバス湖の畔の遊歩道でしきりに周囲を見回しては、人が居ないのを確かめて……自転車に跨り、両足をペダルに乗せる。……そしてバランスを崩して倒れかけて、わたわた慌てては体勢を立て直す。で、また周りを見て他人に迷惑をかけていないかを確認して……そんな風に繰り返していた。
「こんにちは、ちぃちゃん」
僕は自転車を降りて、少し離れた場所から彼女に声をかけた。ちぃちゃんは耳が過敏だそうだから、驚かせてしまわないように。
「え──かっ、鑑定士さんっ!? こ、こんにちは……ど、どうしてここに?」
それでもやはり、驚かせてしまったようで──いや、声にと言うよりも、急に僕が現れたからかな。それとも、練習中のところを知り合いに見られたくなかったか。
「偶然近くを通りかかったら見かけたものだから。練習中?」
「は、はい。……あまり、上手くはいってないんですけど。えへへ……」
気まずそうに苦笑するちぃちゃん。僕は彼女に近づきながら申し出る。
「もし良ければアドバイスしようか?」
「あ……お、お願いしても良いでしょうか……?」
「もちろん!」
ちぃちゃんは
当然一瞬で彼女の目の前を通り過ぎてしまったので、すぐにブレーキをかけて自転車を降りた。
「どうかな、参考になりそう?」
「や、やってみます……っ!」
僕の実演を目にしたちぃちゃんは、やる気満々の様子でハンドルを握った。そしてペダルに右足をかけて──左足もぴょんとペダルに置いて、またバランスを崩した。
「あぅ……」
眉で八の字を描きながら、彼女は上目遣いに僕を見た。情けない、恥ずかしい。そんな想いが透けて見えるようだった。どうすれば上手く伝えられるだろう……? 数秒考えて、僕は財布からファンス硬貨を取り出した。
「ちぃちゃん、コレを見て」
「……? お金、ですか……?」
「そう。そっちに転がすから、受け取って」
ちぃちゃんの目の前で、僕はコインを軽く転がした。それは真っ直ぐに彼女に向かって、その足元でちょいと指先に
「えっ、と……?」
小さく首を傾げるちぃちゃんに、
「よし、今度はちぃちゃんが転がしてみて」
そう伝えた。
「は、はい……」
彼女は不思議そうにしつつも、僕がやったようにコインを転がしてくれた。同じように真っ直ぐ僕の足元へ、僕もまた指先で受け止める。
「今のコインの動きを、仮に僕としてみよう。そして今のちぃちゃんは、これ」
僕は手の中のコインを地面に立てようとする。それは一瞬だけ自立したように見えたものの、小さな凹凸の傾きによってすぐに倒れてしまった。
「自転車もコインと同じで、なんの力も加えずただ立てようとしても倒れるだけ。転がすためには最初に地面を蹴って、その力を利用するんだ。出来そうかな?」
「なっ、なるほど……! やってみますっ!」
目から鱗とばかりに目を見開いて、ちぃちゃんは大きく頷いた。そして僕の助言に従って、右足をペダルに置いて……左足で、力強く地面を蹴った。
「わっ、──わぁっ!?」
勢いよく射出される自転車。かと思えばキュッと、ブレーキとタイヤの摩擦音が響いて急停止。つんのめるちぃちゃんと自転車は僕の方に来ていたので、どうにか手を添えることが出来た。
「その調子! ちょっと力が入り過ぎてるみたいだから、ハンドルはもう少し優しく握ろう。地面を蹴るときも、指の力だけで蹴るくらいが丁度いいよ。さ、もう一回!」
「はっ、はい!!」
僕に突っ込みそうになったからか表情が曇りかけていたちぃちゃんに、お構いなしに発破をかけた。落ち込む余裕も無く、彼女はその場でもう一度姿勢を正す。
「ハンドルは優しく握って……足は指の力だけで……」
手元を見て、足元を見て、そして前を見据えて。ちぃちゃんは小さく喉を鳴らしたあと──スッと自転車を前に転がした。
「──わっ。や、やりましたっ。やりましたよ鑑定士さんっ!」
「やったね! おめでとう!!」
転がしながら僕の前を通り過ぎて、
「ひゃぁっ?」
バランスを崩しそうになりつつ、彼女は持ち前の身体能力で難を逃れる。
「ごめん、急に止めたりして。でも後ろを見ながら運転するのは危ないと思って……」
もしかしたら問題は無かったかも知れないけど、僕は無理矢理に彼女の自転車を止めた。それを詫びると、ちぃちゃんは滅相も無いとばかりにブンブン首を横に振る。
「そっ、そんな! むしろありがとうございましたっ、おかげで転ばずに済みました……こちらこそ、ごめんなさい……」
「あはは、じゃあお相子ってことで」
「そ、そうですね、はい。お相子で……えへへ」
僕らはお互いに微笑み合って、しばらく自転車の特訓を続けたのだった。
「今日はありがとうございました、鑑定士さん」
夕暮れ時に、僕たちはちぃちゃんの家の前に居た。もちろん、それぞれが自転車に乗ってここまで来た。つまり──彼女は自転車に乗って、誰とでもツーリングが出来るようになったのだ。どこかの映画のように、友達と自転車で出かけられる。
雨が降った時にどうするか、彼女はもう選ぶことが出来る。お開きにするのか、雨に濡れながらも旅を続けるのか、それはちぃちゃんとその時隣に居る誰かの自由。
「こちらこそ。色々口を挟んだのに、邪険にしないでいてくれてありがとう」
「そっ。そんなことする訳ないです! わ、わたしが鑑定士さんを邪険に、なんて……」
「それは嬉しいけど、ちぃちゃんにはいつもお世話になってるから。困っているなら助けになりたいとは思うけど、僕のやり方がいつも正しいとは限らないからね。もし邪魔になっていたら、遠慮せずに言って欲しいな」
「そ、そんなことは起きないと思いますが……わかり、ました。──分かった上で、きっと私は……鑑定士さんを、拒みませんから……」
「え、っと……ごめん。よく聞こえなくて」
「なっ、なんでもないですっ。むしろこちらこそ、面倒をおかけしていたらいつでも言ってくださいね……!」
「ははは、ちぃちゃんにかけられる面倒ならむしろ歓迎だよ。君と一緒ならきっと、どんな苦労でも楽しみながら前に進める。今日みたいにね」
「はぅ……っ」
立ち話をしていると、ちぃちゃんは息を漏らして俯いてしまった。いけない、今日はそれなりに長く練習したから。身体の慣れない筋肉を使っただろうし、日ごろの仕事疲れだって残ってるはずだ。もっと早く気づかなきゃいけなかった……。
「それじゃあ、僕はそろそろ帰るよ。自転車とは言え、はやく出発しないと真っ暗になりそうだ」
「あ──そう、ですね。はい。今日はここまでに……」
ちぃちゃんの言葉を聞きながら、僕はまた自転車に跨った。……僕も、今日の一日だけで随分とノスタルジー号に馴染んだ気がする。しばらくはペダルを漕ぐたびに、ちぃちゃんのことを思い出しそうだ……いや、今日彼女と会う前からそうだったかな?
「またね、ちぃちゃん。……次は、後ろに乗せてくれる?」
重荷になるような約束は……と思っていた筈なのに。思わず僕は口を
「は──はいっ!! かならずっ。その時は私が、お迎えに行きますね……!」
けれど、僕が後悔する前に。ちぃちゃんは、花開くような笑顔でそう言ってくれた。それだけで、今日使った体力が全回復するような嬉しさ、喜びが湧き上がるのを実感した。
「うん! じゃあまたっ。お休み、ちぃちゃん!」
「はい! おやすみなさい、鑑定士さん──っ」
大きく手を振ってくれるちぃちゃんに背を向けて、僕は力強く地面を蹴った。ちぃちゃんの一歩目にも引けを取らない勢いで発進する。
気が早いとは思うけれど。
ちぃちゃんがペダルを漕ぐ自転車。その後ろで太陽のもと、頬に風を浴びて日常を駆る。そんな素敵な非日常が、遠からず訪れることを予感していた。
それはこの後、アドレーさんが振舞ってくれる料理の献立予想よりもきっと、確かな予感だった。