二振りの不死斬りを手にしてからというもの、狼はただただ人を斬っている。目に映るもののすべてを斬らねばならぬという観念で動いているかのようだが、私の前に現れる狼は私のことを斬らない。人が違ったようになってしまっても私は狼の帰る先なのだろう。
雨露をしのげる程度の東屋から月や星を眺めているとふいに濃い血の匂いとそれが焦げ付いたような臭いがあたりに漂った。人ではなく獣でもない、我が従者の纏う香りだった。
「狼」
名を呼べば背に朧丸を背負い黒と赤の不死斬り抜き身のままに握った狼は音もなく姿を現した。呼びかけても返事が無いのはもうずっと同じだった。久方ぶりに見る狼はこちらに視線だけをじっと寄越している。歩み寄って刀の間合いに入っても狼は動かない。
「遊び飽いたか?それとも、疲れてしまったのか」
そこかしこが破れた柿渋色の羽織の裾を引っ張ると狼はかつてのように跪いた。表情の乏しい顔を手のひらに包み引き寄せれば、人の温かさはほとんどなく炎のような熱さを感じる。私も狼ももはや人ではないようなものだったが、狼はそれをもうひとつ越えてしまったような気がして少し寂しかった。
龍胤を断ちたいと狼に打ち明けたあの頃は龍胤による禍に見舞われる者を新たに生むようなことがあってはならないと思っていたはずだった。しかしどうにか知り得た龍胤を断つ方法は、不死斬りによって不死の契りの片割れを斬れば、片方は人の身になるというもの。そう知ってから、私は狼を捨て置くことを選ばなくなってしまった。咳の音や怨嗟の声が日ごとに増して耳に届いても。
「今私が死ねば、そなたは修羅から人に戻るのだろうか」
ふと湧いた疑問に狼はまた視線を投げかけてくる。何か言いたげでもあり、何も映していないようでもあるそれに私はそっと唇を寄せまぶたを閉じさせた。
「私は死なぬ。狼が私を望む限り、ずっと、ずっとな」
野に刺された抜き身の刀が三振り。雨風をしのげる程度の東屋で身を横たえた私は覆いかぶさる狼の眉間を指先でふいに撫でた。かつてと変わらず、しわが寄っている。
「楽しいか、狼」
だくだくと注がれる炎のような熱さが身体を灼いている。狼が纏うおよそ人や獣の放つ臭気ではない濃い血が焦げ付くような香りは私にも移り、それが今はこの上なく馨しく、寂しさを感じていた胸の内を満たしていった。
「私も楽しいのだ。遊びにはまだ付き合えるぞ」
言って狼の頬に伸ばした私の手にちろちろと炎が揺らめくのが見えた。引き結んだように見える狼の口元にうっすらと、しかし確かに笑みが点っているのが判った。驚きの次に来たる感情は喜びと嬉しさ。それらが腹を擽り声をあげさせて、私の耳には咳の音も怨嗟の声ももう届かない。
「楽しいな、狼……!」
狼の目が私を映し、また笑みを点している。重ね合わせる肌も、身体を辿る指も、どこもかしこも熱く、なにもかもが悦ばしい。この広き葦名の地に朗々と響く笑い声を聞くのは今や狼唯一人だった。