丹羽左門は、その日もいつもと変わらない一日を終えるつもりでいた。
普段通りに夕方からの授業を二つこなす。そして最後の生徒を見送ったあと、ホワイトボードに残った文字を消し、机の上を片づけながら、明日の授業では近代史のこの部分をどう説明しようか、定期テストを控えているあの生徒はどこでつまずくだろうか、といったことを頭の中で整理していた。
地方から出てきて大学受験に失敗したのはとうに10年以上前のことだった。
残念ながら第一志望には届かなかったのだが、なんとか滑り止めの大学に進学することはできた。それでも、自分が初めて味わった大きな挫折感や辛さ、絶望感を別の誰かにまで味わってほしいとは思わなかった。だから自分が教えることで少しでも合格へ近づける生徒がいるのならばと、この仕事を続けてきた結果、思った以上の時間が流れていた。
特別な人生だとは思っていない。
ただ、教えた生徒が合格したと報告に来れば嬉しかったし、卒業して何年も経った元生徒が、たまに顔を見せに来てくれるのも嫌いではなかったから、左門自身はそんな生活をそれほど悪いものだとは考えていなかった。
その日も、授業を終えればいつものように家へ帰るつもりだった。
――そのはずだった。
気がついたとき、左門は森の中に立っていた。
足元には湿った土があり、周囲にはこれまで見たことのない樹木が並んでいる。頭上では葉が風に揺れていたが、そこから漏れてくる光には、いつも歩いている住宅街の街灯も、車のヘッドライトもなかった。
「は? ……何だ、ここ」
左門はその場で立ち尽くした。
ほんの少し前まで、自分は街中を歩いていたはずだった。塾を出て、いつもの道を駅へ向かっていた記憶ははっきりしているし、何か事故に巻き込まれたような感覚もない。誘拐されたという可能性も考えたが、それなら拘束されているはずであり、少なくとも今の状況を説明する材料にはならなかった。
とりあえず、自分が何を持っているのかを確認する。
財布がある。
鍵もある。
スマートフォンもある。
鞄までそのままだった。
ポケットからスマートフォンを取り出して電源を入れてみると画面は問題なく点いたものの、表示されたのは「圏外」と記された二文字だった。
「……参ったな」
頭の中の混乱はすでに頂点に達しているが、自分がなぜこんな場所にいるのか考えるよりも先に、やらなければならないことがあるのは分かっている。 それに、さきほどまで夜だったはずなのに、頭上には太陽が出ている。そのこと自体がおかしいのは分かっていたが、今の左門には、それを考えている余裕がなかった。
とにかく、この深い森から出ることが最優先である。信州の片田舎から上京してきた彼からすれば森の中で一人でぽつんとたたずんでいることのまずさはよく理解できていた。
(いや、とにかくここでじっとしていてもしょうがない、道路なり人なり探すしかないよな。うーん……遭難した時に動くのはよくないとは聞くけど大まかな現在地もわからないし、助けを呼ぶこともできないわけだしなぁ)
内心で沸き立つ焦りや疑問を一旦は脇に置き、ひとまず森から出ることを決めると、左門は歩き始めた。
しかし、しばらく歩けば道へ出られるかもしれないという希望は、思っていたより早く裏切られることになった。枝が肩へ触れ、柔らかな土へ靴が沈み、歩けば歩くほど森は深くなっていくばかりで、スーツの裾には少しずつ泥がつき、革靴の中には湿った感触まで伝わり始めていた。
(まずい、喉が渇いてきた。)
どれほど歩いたのかもわからないが、このまま歩き続けるのはまずいと、左門はようやく理解した。このままでは道を見つけるまでに脱水で倒れかねなかった。
そこまで思い至ると左門は足を止めて耳を澄ました。聞こえるのは風の音と葉擦れの音、それにどこか遠くで鳴いている鳥の声くらいで、人の気配はまるでない。
「誰かいませんか!」
最後の希望とばかりに声を張ってみたが、無情にも森の奥へ自分の声だけが吸い込まれていっただけだった。
もちろん、返事などない。想定していたとはいえ、さきほどまで理性で抑えつけたはずの不安が一気に鎌首をもたげてきた。それを吹き飛ばすためか、飲み込まれてパニックを起こしたからかは定かではないが、彼がもう一度呼ぼうと息を吸い込んだ、そのときだった。
――ぱから、ぱから。
「……馬だよな?」
蹄の音が聞こえる。
希望とともに彼は音のする方へ顔を向ける。助かるかもしれないという思いが体をめぐり、その正体が現れるまでの時間は、実際よりも何倍も長く感じられた。
やがて木々の向こうから、一台の荷馬車が姿を現した。一頭の馬が荷車を引き、御者台には白髪の老女が座っていた。見た目からして日本人というよりも西欧の魔女のようだが、そんなことを気にしている余裕は今の左門にはなかった。
人だ!
それだけで、左門は胸の奥から力が抜けるような気がした。
この機会を逃してはならないとばかりに慌てて馬車の端へ寄り、手を上げて大声をあげた。
「すみません、少し止まってもらえませんか!」
彼の声はしっかりと届いたようで馬車の速度は落ち、いぶかしむように老女が左門を見つめた。その視線が左門の顔から服装へと移るにつれて、老女の表情にわずかな驚きが浮かんだ。
「まあ……どうなされたのですか?」
「道に迷ってしまったんです。申し訳ないんですが、人の住んでいるところまで乗せてもらえないでしょうか?」
「……もちろん構いませんよ。ちょうどオーチマへ向かっているところですので」
その怪しげな見た目には似つかわしくない人好きのする笑みを浮かべて老女は答えたが、左門にとっては、その言葉に含まれていた地名と国名のほうが、よほど大きな衝撃だった。
「オーチマ……?」
「はい。ナシノ王国の町でございますが、ご存じありませんか?」
聞いたことがない。
少なくとも、左門の知識の中にそんな国名は存在しない。
「……ナシノ王国」
「ええ」
「ここは……日本ではないんですね」
口に出してしまってから、左門自身が何を聞いているのだと思った。聞いたこともない地名を出してきた相手にそんなことを聞いても仕方ないはずなのに、と。
案の定、老女は不思議そうな顔で彼の言葉をオウム返しするだけだった。
「日本……でございますか?」
「いえ。何でもありません」
「ふーむ、見たところ何か事情がおありのようですなぁ。詳しくお話を伺いたいところではありますが――」
まずい。と左門の額に一筋の冷汗が流れた。なんせ左門自身、自分の容姿があまり他人受けしないことは理解していた。痩せぎすで高めの身長をしており、目つきも悪い。安全な街中でこちらから話しかければ、おびえられてしまっても不思議ではない。
突拍子もない話だし、相手を騙すことに抵抗もあったが、直近の記憶が曖昧ということにしてしまうしか、今の自分の状態をごまかす方法が思いつかなかったのだ。
「まぁ、身なりやお言葉から鑑みれば問題のあるような人ではなさそうですな。どうぞ。荷台へお上がりくださいませ」
「あ、あはは……ありがとうございます。助かります」
荷台へ足をかけたところで、左門は奥に人がいることに気づいた。
少女だった。
毛布を肩にかけ、身体を小さく縮めるようにして座っている。年齢は十六、七歳ほどだろうか。淡い茶色の髪が頬へ流れ、その隙間から覗く瞳は、周囲の森の緑よりも鮮やかな翠色をしていた。
肌は驚くほど白い。
それだけなら容姿の整った少女というだけの話だったが、座っているだけなのに妙に育ちの良さが感じられ、粗末な荷台に乗せられていることのほうが不自然に思えるほどだった。
左門は軽く頭を下げた。
「こんにちは。驚かせてしまったなら、すみません」
「……こんにちは」
返ってきた声は小さかった。どうにもその様子に違和感を覚える。御者台の老女の孫だとすれば、年は合うかもしれないが、それでもなんとも言えない違和感が大きかった。
「あの、すみません。この子は……」
「ああ、シャナと申しましてね。私の奴隷でございますよ」
「は……奴隷?」
まるでこともなげに帰ってきた老女の言葉に、今度は左門が思わず聞き返してしまった。
驚き視線をすぐに少女――シャナに向けたが、彼女は黙ってうつむいたままだった。
「はい。いろいろと事情のある子でございましてね。この先の大きな町で売る予定の上玉なのですよ」
奴隷。
歴史の授業で扱ったことはある。けれど、それは教科書の中に出てくる制度の名称であって、現代の日本で自分の目の前に実物がいることを想定して使う言葉ではない。
ナシノ王国。
オーチマ。
奴隷。
知らない国の、知らない制度。
そのうえ、自分がどうやってここへ来たのかも分からない。
ここまで揃えば、嫌でも一つの考えが浮かぶ。
――異世界。
「……いや、うん、なんとなくわかっていたけど、やっぱりそうだよな」
左門の口から諦めのような響きを伴った言葉が小さくこぼれてしまった。しかしギョッ車台の老女は聞き取れなかったのか、それとも聞き流したのか、何も言わずに馬車をゆっくりと走らせ始めただけだった。
こうなってしまっては流れに身を任せるしかないと左門は荷台の端へ腰を下ろしたが、なんとも座りが悪かった。もちろんスプリングなど期待できない馬車の揺れという物理的な物もあったが、精神的な居心地の悪さが大きかった。奴隷と紹介された少女と謎の老女というとんでもない状況での沈黙である。とてもではないが、沈黙という選択肢をとれるほどに彼の心臓は強くなかった。
「あ、あの、オーチマという町まであとどれくらいなのでしょうか?」
「そうですなぁ、夕暮れまでには十分つくでしょうから野営の心配などはなさらないで結構ですよ。それに、なに、謝礼であれば町についてからで結構ですとも」
「あ……」
――やっぱりいるよな。お礼。
しまったと思って、慌ててカバンの中から財布を取り出して、中を見てみると中には二人の渋沢が見えた。
(いや、使えるわけないよな。ラノベとかなら、こういう場面はどうしてるんだ。ボールペンでも渡せばいいのか、いやいや、それで足りないとなるとジャケットとかならどうだ。まだ産業革命が起こっていないなら、手工業の衣類は高いはず――)
「……ところで、旦那様はどちらからお越しに?」
思考が深いところに入り込もうとしていたところに、こんどは老女の方から質問がやってきた。
「……ちょっと記憶が怪しくて整理させてください。実はここへ来るまでのことをあまり覚えていないんです」
「まあ……」
「い、いや、完全に記憶がないわけではありませんよ? ただ、場所についてはどうにも曖昧で」
「なるほど、そうでしたか。なに、そうであればこの婆のことなんぞお気になさらないでください」
なんとかごまかせたのか老女は、それ以上深く聞く気はないらしかった。
そのことに左門は密かに安堵した。
(流石に記憶喪失なんて突拍子もなかったけど、異世界転生――いや、死んだとかじゃないんだから、こういう場合は転移が正しいのかな。いやいや、そんなことはどうでもいいんだよ。とにかく頭がおかしい奴と思われないのが大事なんだから、設定だけでも固めないといけない)
そう思って頭を働かせてみる左門だったが、どうにも変なことばかりが頭をかすめていく。例えば眼前の老女の年齢であったり、シャナと呼ばれた少女が奴隷になった理由などとりとめのない仮説を浮かべては頭を振って自身の問題への対処へと思考を戻そうとしたが、なかなか軌道の修正が利かなかった。
加えて言えば会話のたびに妙な違和感があったことに気がついてしまった。
老女と自分は確かに日本語で会話していた。意味も通じているから間違いないだろう。しかし、ときどき相手の口の動きと耳へ届く音が、ほんの少しだけ噛み合わないような気がしたのだ。
疲れているせいかもしれない。
(駄目だ。正直、混乱してて頭が回らない。今の状況じゃ、何が普通で何が普通でないのかも分からない)
そう考えた直後だった。
ヒュッ、と空気を裂く音がした気がする。
ドンッ!
何かが御者台へ突き刺さり、馬のいななきが響き、大きく車体がはねたかと思った瞬間――
「――は?」
――ぐらりと老女の身体が力なく揺れ、そのまま地面へと落ちた。
胸に矢が刺さっている。
「――!」
シャナと呼ばれた少女が後ろで何かを叫んだ。左門にはその言葉の意味が分からず、ただぼんやりと矢らしきものが飛んできた方向を見つめることしかできなかった。
しかし、彼の思考がまとまるよりも早く森の木々の間から男たちが姿を現す。弓を持った者、剣を抜いた者、粗末な鎧を身につけた者。左門にすら、それらが盗賊以外の何者にも見えなかった。
混乱はすでに頂点に達していると感じていたはずなのに、さらに頭の中が真っ白になる。
逃げるのか。
戦うのか。
そもそも、戦うってどうやって?
三十四年生きてきたが、こんな状況に遭遇したことなど一度もない。
当然だ。
そんな経験がある人間のほうが珍しい。
そんな彼の後ろではシャナが何かを唱えようとしていたが、その声が途中で止まってしまった。胸を押さえる手が震えている。
「き、君、大丈夫か!?」
明らかに尋常ではない様子に、目の前の脅威よりも彼女を心配することに左門の意識が向いてしまった。こんな状況で何をしているのかと考える余裕すらなく、ただ目の前の少女をどうにかしなければという思いだけが先に立っていた。
「う、後ろ! 危ない……!」
シャナの悲鳴に振り返った瞬間、荷台へ飛び込んできた男の短刀が視界を覆った。
怖い。死ぬ。
頭ではそれしか考えられなかったが、かつて身体に叩き込んだ柔道の動きが反射的に起動した。 腕をつかむ。引く。腰を落とす。 次の瞬間、男の身体が宙を舞い、首から泥道へ激しく突き刺さった。
ゴキッ、という嫌な音が森に響く。
「……え?」
地面に倒れた男は、不自然な角度に首を曲げたまま、ぴくりとも動かなくなった。
左門は呆然と自分の手を見つめた。
――不用意に投げてしまった。しまった、無事であってくれ。
矛盾を抱えながらも彼はそう思った。
しかし、倒れた男は起き上がらない。
「……嘘だろ」
声が震える。
人を殺した。
そう理解した瞬間、手の震えが止まらなくなった。
周囲の盗賊たちが倒れた仲間を見て、それから左門を見る。
その視線には、先ほどまでとは違うものが混じっていた。
「……!」
残った二人の盗賊のうち一人が、何かを叫ぶとともに、なぜか森の中へ逃げていった。
後には左門の荒い息遣いだけが残った。瞬間、彼のあちこちからドッと汗が噴き出してきた。助かったという安堵と、盗賊が逃げ出したことへの疑問がぐるぐると渦巻いていた。
その場から動けなかった。手が震えている。膝に力が入らない。
今、自分が何をしたのかということばかりが頭の中を回っていた。
「はぁはぁ……大丈夫ですか?」
後ろからシャナの声がした。
「え?」
「お顔が……」
「大丈夫です」
ほとんど反射的に答えていた。
もちろん、大丈夫ではない。
それでも、そう言うしかなかった。
シャナは何も言わずに御者台へ視線を移した。
「……っ」
「どうしたんですか?」
「……私と主人は、命を共有する契約を、結んでいます」
「命を共有?」
「そう、です。主人が死ぬと、私も死にます」
「……そんな馬鹿な」
左門は息をのんだ。彼女がさきほどから様子がおかしかったのはそういうことかと納得する一方で、これ以上の惨劇が目の前で繰り広げられようとしていることに、血の気が一気に引いていったのだ。
そんな風にしているうちにもシャナの顔からも、みるみる血の気が失せてゆく。
「この、ままでは、私も長くありません」
「な、何か助ける方法はないんですか?!」
シャナは苦しげに少し考えてから、老婆の身体を指さした。
「主人が、い、生きていれば、契約の変更ができます。けれど――」
「し、しかし、彼女はもう……」
「はい」
ここまでの説明であれば絶望的な状況だというのにシャナはただ静かに肯定するだけだった。
「血ならばあの人の魔力が残っている可能性があります」
「ち、血ですか?」
「うっ……そ、そうです。でも、残った魔力とあなたの魔力があれば、契約を移せるはずです」
「……つまり、僕が、その新しい主人になると?」
シャナは左門の言葉に静かに、しかし、重々しく一度だけ首肯した。
その様子から左門も黙って一度だけ頷いた。
異世界へ来てから、まだ半日も経っていない。
魔法など使ったことがないし、魔法というものが本当に存在するのかどうかさえ、ついさっきまで半信半疑だったのだ。そんな左門に魔力など使えるはずもない。
「あ、あの、僕、魔力なんて使えませんよ! 別の方法を――」
「私が、魔力の伝達に、ついてはお手伝い、します。どうか、どうか、協力してくだ、さい」
「え? も、もちろんです! できることがあるなら協力させてください」
左門は少しだけ驚いた。
自分にもできることがある。それならば迷う理由はなかった。
「ありがとうございます」
それから彼女は老婆の身体のそばへしゃがみ込み、流れた血へ指先を触れた。そして老女の懐から契約書らしき一枚の羊皮紙をとりだすと、それを地面へと広げた。
目の動きで彼女がその内容を何度か確認しているのが左門にもわかった。そして、ゆっくりと顔を上げる。
「まずは、ここへ指をおいてください。あなた様は、指先に、意識を向けて、それから私が言う言葉を、間違えずに繰り返してください」
「え、ええ! 分かりました!」
そしてシャナは左門の指先に自身の手を置いたのちに一つずつ言葉を告げる。左門は、それをそのまま繰り返した。
不思議なことに、言葉の意味がひどく明瞭だった。
誰を新たな主人とするのか。
誰がそれを受け入れるのか。
どういう形で契約を変更するのか。
書面にすれば特殊な契約条項になるような内容なのに、左門には、まるで最初から知っていたかのように意味が理解できる。
自分では意識していない何かが、身体のどこかに引っかかっているような感覚だった。
最後の一節を告げられる。
左門がそれを繰り返した。
シャナの指先に触れていた血が、わずかに揺れる。
空気が震えた。
胸の奥に、かすかな熱が生まれる。
細い糸のようなものが、自分とシャナとの間につながったように感じられた。
「……終わりました」
シャナが大きく息を吐く。
「あ、あの、大丈夫ですか?」
「はい」
何度か深呼吸したあと、シャナは自分の胸元を確かめるように手を置いた。
「もう、危ない感じはありません」
「そうですか……」
左門もようやく息を吐いた。
自分の生徒と同じ年ごろであろう少女が助かった。
そのことに、ひどく安心した。
そんな風に安堵している彼をしばらく見つめた後、シャナは少しためらいながらも深く頭を下げた。
「……これで私は、あなたの奴隷です」
「……」
その言葉を受けて左門の中で先ほどまでの気持ちが一瞬で消え去った。
そんなつもりではなかった。
奴隷が欲しかったわけでも、主人になりたかったわけでもない。
ただ、目の前で死にかけていた少女を助けたかった。
それだけだった。
「……分かりました」
それ以上、何と言えばいいのか分からなかった。
森には、もう盗賊の気配はない。
風が木々の間を抜けて葉を静かに揺らしている。
馬は襲撃の際に奪われたのか逃げ出したのか判然としなかったが、すでに近くにいるような気配はなくなっていた。ただ二人の呼吸の音だけがその場に残っていた。
怒涛の展開に呆然としながらも左門は改めて周囲を見渡した。
死んだ老女。
そして、自分が投げ飛ばした盗賊。
さっきまでなら、ただこの場を離れることばかり考えていたかもしれない。
だが、死んだ人間をそのまま森へ残していくことには、どうしても抵抗があった。
「シャナさん」
「はい」
「あの、少しだけ、手伝ってもらえませんか?」
「……?」
「流石にここへ野ざらしにしていくのは抵抗があるんです。せめて荷台の中へ移してあげたいんですが、手伝ってもらえませんか?」
「……わかりました」
少し悩むようなそぶりを見せたがシャナも左門の提案に最終的には頷いた。左門からしてみれば死んだ老婆に悪感情はほとんどなかったが、奴隷として扱われた彼女にはいろいろな思いがあったのかもしれない。
二人で持ち上げた遺体は思ったよりも重く、左門はどうしてもそれが人という物の重さに感じられて作業中は常に吐き気がこみあげてきていた。一方でシャナは淡々とした様子であった。
(――こんな年の子がこんな様子ってことは随分と命の扱いが軽いのかもしれないな、この世界)
暗澹とした気持ちがさらに募ったが、それでも体が不思議といつもより動くような感覚があった。遺体を移動させるだけの作業は、三十分も経たないうちに終わり、最後に左門はそれに手を合わせた。
老女はシャナを奴隷にしていた人間だ。
盗賊は自分へ剣を向けた。
どちらも左門にとって、決して好意を抱ける相手ではなかった。
それでも、死んでしまえば同じ人間だった。
「……どうか成仏してくださいよ」
小さく呟く。その傍らで、シャナは何も言わずに立っていた。
簡単な祈りを済ませた後、シャナが何かを懐へしまうような小さな動きを見せた。
左門はそれを特に気に留めなかった。
今は、それより町へ向かうことのほうが重要だった。
「シャナさん、オーチマの方向とかわかりますか?」
「ええ、もちろんです」
「それなら良かった。とにかく今はオーチマまでいきましょう」
まだ太陽は中天を少しすぎたあたりだった。
ここまで読んでくださいましてありがとうございます。
ゆっくりと進めていく予定ですが、お付き合いいただけますと幸いです。