白亜の列柱がどこまでも続く円卓の間。
虚圏の冷え切った月光が差し込む広間で、藍染惣右介は物憂げな雰囲気を纏いながらわずかに視線を伏せ、卓上に置かれた空の白磁のカップとその上に静止する自ら焙煎した漆黒の豆、そして浮かぶ水球を見つめていた。
そんな藍染の背後へと、市丸ギンの影が細い足音を響かせながら滑り込んできた。
「藍染隊長、またそんな凝った淹れ方しはるんですか。現世の豆やろ、それ」
「凝っているわけではないよ、ギン。物事にはそれに相応しい段階と作法があるというだけの話だ」
「水もそれ、わざわざ硬水選んでますやん。そんな尖ったのよう飲めますね」
藍染は微かに笑みを浮かべつつギンのツッコミを受け流し、一瞬生まれた静寂を破るように良く通る声で紡ぎ始めた。
腕を振り上げ、人差し指を天に向かって勢いよく突き上げる。
「滲み出す混濁の紋章。不遜なる狂気の器。湧き上がり・否定し・痺れ・瞬き・眠りを妨げる」
言霊が空間を震わせ、卓上で凝縮された霊圧が重力を伴って歪み、四角い漆黒の壁が焙煎済みの豆と硬水の水球を飲み込み、組み上がっていく。
豆を分子レベルで粉砕し、理想的な熱量と超高圧の重力場によって成分が適切に抽出されようとしているのだ。
まさに深淵と呼べるプロセス。
暗黒の立方体が寸分の狂いもなく卓上のカップの真上に移動する。
ふわぁ……。
芳醇なアロマが玉座を包み込んだ。
背後で市丸ギンが鼻を少し動かした。
貼り付けたような笑顔だったものがわずかに頬が緩んでいる。
「爬行する鉄の王、絶えず自壊する泥の人形、結合せよ、反発せよ、地を満たし己の無力を知れ!!」
鉄製のスプーンがカップの中で優雅に爬行し、小さな黒砂糖の塊がまるで泥のように自壊しながら漆黒の液体に溶け込み、表面をわずかに波立たせる。
「破道の九十──黒棺」
パチン、と藍染が指を鳴らす。
漆黒の壁が静かに崩壊し霧散する。
白磁のカップには今まさに重力抽出を終えたばかりの漆黒の液体が湛えられ、香しい芳香を放つ湯気を立ちのぼらせていた。
酸味は理想的な水準に抑えられ、格調すら感じられる苦みと芳醇なアロマだけがまるで質量を伴うかのようにあたりに満ちている。
完全詠唱によって生まれた黒棺コーヒー。
「……いつ見てもえげつない手管やなあ。たかが豆一杯淹れるために九十番台の鬼道使うなんて、霊王宮の連中も腰抜かしますわ」
ギンは感嘆とも呆れともつかない息を吐きながら、自身の懐に手を入れた。
「ボクにはそんな悠長なことやってる時間あらへんから、これで十分ですわ」
ギンが取り出し、テーブルの上に無造作に置いたのは現世の自動販売機で売られているような金属の円筒だった。艶のない黒地に、無骨な銀色の文字で『破道 九十 BLACK』と印字されている。
藍染の眼差しが、わずかに細められた。
「……詠唱破棄か」
「ええ。プシュッと開けて一秒。これで仕事の合間の眠気なんか一発で吹き飛びますよってに」
ギンは迷いなくプルタブに指を掛けた。
パシュッ。
小気味よい音とともに、ごくわずかな黒い霊圧の飛沫が周囲の空気をちりちりと焦がす。
「破道の九十、黒棺──っと。うん、やっぱりこの雑味と金属の匂いを纏ったコーヒーがガツンと効いてええんですわ」
ギンは缶に直に口をつけ、一息に飲み干した。
手数を省き詠唱を捨て、ただカフェイン摂取という結果のみを短絡的に手に入れるための規格品。
まさに詠唱破棄された黒棺そのものであった。
藍染は白磁のカップを静かに持ち上げ唇を湿らせた。
深淵の底に淀むような重厚な苦みが、舌の上で幾重もの味わいを現しながら喉の奥へと消えていく。
「愚かなことだ、ギン」
「へえ?」
「詠唱を省くということは、その過程にある世界の秩序を切り捨てることに他ならない。君のそれから得られるものは本来の三分の一にも満たないよ。ただのカフェインに過ぎない」
「三分の一でも十分ですけどねえ。狛村隊長あたりならこの缶コーヒー一本でお陀仏ですわ」
「その例えはどうなんだ? ……狼には毒だろう」
藍染はカップを手にしたまま、ゆるやかに立ち上がった。
「いいかい、ギン。便利さに魂を預けた者はいずれ自らが何を失ったかにも気づけなくなる。薄めたカルピスのようにね」
語りながら藍染は両腕を広げた。
世界の理を説くときのあの所作だ。
カップを持ったままの右手で。
「あ」
ギンの声と白磁が指先から離れる感触は、ほぼ同時だった。
カシャン、という音は、意外なほど軽かった。
白亜の床に、漆黒の液体が広がっていく。
超高圧の重力場で極限まで抽出された黒が月光を吸い込みながら静かに円卓の間の床を満たしていった。
「……地を、満たし」
ギンが小さく呟いた。
藍染は右手を宙に掲げたまま、動かなかった。
砕けた破片。
立ちのぼる湯気。
芳醇なアロマだけが変わらぬ格調で辺りに満ちている。
「……焙煎にずいぶんと手間をかけたのだが」
藍染惣右介がゆっくりと膝をついた。
天に立つと嘯いた男が己の淹れた
床にこぼれた漆黒の液体に映る自分の顔をただ見つめていた。
「なんと無力なのか」
「ソレ、さっき自分で詠唱しはったやないですか」
ギンが即ツッコミを入れる。
「……喧嘩売ってるのか」
怒気を噴き上げる彼を前に、ギンは涼し気な顔をしたまま懐からもう一本缶を取り出すと藍染の目の前の床にそっと置いた。
「
乾いた虚圏の風が、二人の間を吹き抜けた。
床一面に広がった漆黒の液体から立ち昇る香気だけが白亜の宮殿をゆっくりと満たしていった。