翌朝。
金曜日。
教室に入って、最初に目が行ったのは川崎だった。
別に探したわけではない。
いつもの席にいたから視界に入っただけだ。
そういうことにしておく。
川崎もこっちを見た。
「……」
「……」
昨日までなら。
「おう」
くらいで済んだ。
というか、昨日はそれ以上のことをした。
手を繋いだ。
告白した。
付き合うことになった。
帰っただのおかえりだのという連絡までした。
なのに。
「……おはよ」
「……おう」
一拍。
たったそれだけで、一拍。
何だこれ。
昨日まで帰宅時間を気にしていた相手に、おはようを言うだけで難易度が上がっている。
恋人という肩書きには、会話能力低下のデバフでも付いているのだろうか。
「ヒキタニ君、今日もサキサキと新婚じゃーん!」
後ろからやたら明るい声が飛んできた。
戸部である。
朝から元気だなこいつ。
そのエネルギーを発電か何かに回せないだろうか。
川崎が露骨に嫌そうな顔をした。
俺もたぶん同じ顔をしている。
数日前。
家庭科の課題でペアになった時も、こいつは同じようなことを言っていた。
あの時は。
「誰が新婚だ」
「戸部、うるさい」
で終わった。
今日は。
「新婚ではない」
「え?」
戸部の笑顔が止まる。
川崎もこっちを見る。
「いや、そこだけ否定すんの?」
「付き合ってるだけだ」
「……」
「……」
戸部が止まった。
川崎も止まった。
近くで話していた何人かまで止まった気がする。
何だ。
そんなに珍しいか。
珍しいな。
「……あんた」
「何だ」
「声」
「ん?」
「でかい」
「俺じゃなくて戸部がでかいだろ」
「そういう話じゃない」
川崎の耳が赤い。
そこでようやく。
「ええええええええええ!?」
戸部が復帰した。
「ほらこいつの方がうるさい」
「ヒキタニ君マジ!? サキサキと!?」
「何で二回確認するんだ」
「いやだって! え!? いつ!? マジで!?」
「質問をまとめろ」
「マジで付き合ってんの!?」
「だからそう言っただろ」
「うっわー! マジかー!」
何だその反応。
道端で珍しい虫でも見つけたのか。
まあ、比企谷八幡に彼女ができるというのは、生態系の異常としてはそれくらい珍しいのかもしれない。
「戸部、朝からうるさい」
川崎が低い声を出す。
「ご、ごめんサキサキ。でもマジびっくりして」
「サキサキって呼ぶな」
「そこ!?」
そこらしい。
俺は鞄を置く。
川崎も何か言いたそうだったが、教室の視線が集まりすぎたせいか、そのまま自分の席へ戻った。
ただ。
付き合ってない。
とは。
最後まで言わなかった。
*
休み時間。
廊下に出たところで、後ろから制服の袖を軽く引かれた。
「比企谷」
「何だ」
川崎。
怒っている。
たぶん。
目つきは普段から悪いので判別が難しいが。
「……普通さ」
「おう」
「付き合ってるって人に言うなら、先に相手に確認しない?」
「隠すのか?」
「そうじゃないけど」
「じゃあ問題ないだろ」
「あるよ」
「何が」
「心の準備」
「事前申請制だったのか」
「そういうとこ」
川崎がため息を吐く。
なるほど。
言ってはいけないわけではない。
ただ。
心の準備が必要だったらしい。
そう言われれば。
俺も戸部があそこで騒がなければ、自分から教室の皆様へ交際開始のお知らせを配布する予定などなかった。
「……悪かった」
「……」
川崎が少し止まる。
謝られると思っていなかったのかもしれない。
「……ならいい」
それだけ言って、視線を逸らす。
少し間。
「で」
「何だ」
「デート」
「……」
今度は俺が止まった。
昨日。
俺から言った。
『デート』
その単語を口にしただけで川崎が固まった。
今日は俺が固まる番らしい。
平等社会である。
「……土曜でいいか」
「うん」
「何時」
「昼くらい」
「どこ」
「……」
「……」
二人で黙る。
「決めてないの?」
「お前もだろ」
「あんたが誘ったんでしょ」
「デート有識者みたいに言うな」
「誘った方が考えるんじゃないの?」
「そんな国際条約は知らん」
「普通そうじゃない?」
「普通のデート経験者に聞け」
「何であたしが聞くの」
「俺に聞かれても困る」
「……」
「……」
結論。
「駅前でいいか」
「うん」
「そこから考える」
「ノープランじゃん」
「高度な柔軟性を維持しつつ臨機応変に対応する完璧な作戦だ」
「ノープランでしょ」
「そうとも言う」
「そうとしか言わない」
すでに先行きが怪しい。
*
土曜日。
駅前。
待ち合わせ時刻より少し前に着いた。
早く来すぎたわけではない。
電車の時間の都合である。
決して初デートだから落ち着かなくて家を早く出たわけではない。
そういうことにしておく。
人の流れを眺めながら待つ。
数分して。
川崎が来た。
普段の制服ではない。
だからといって、極端に着飾っているわけでもない。
川崎は川崎だ。
「おう」
「うん」
「……」
「……」
また一拍。
何で毎回初期化されるんだ。
「待った?」
「今来た」
「それ嘘でしょ」
「何で」
「あんた、そういうとこ変に気使いそうだし」
「偏見だ」
「当たってる?」
「五分くらい」
「ほら」
「誤差だろ」
「じゃ、行こ」
「おう」
一歩。
歩き出す。
川崎が横を見る。
「どこに?」
「……」
「決めてないの?」
「駅前には施設が大量に存在する」
「ノープランじゃん」
「昨日も聞いたぞそれ」
「昨日も決めてなかったからでしょ」
正論。
仕方なく歩く。
本屋。
雑貨屋。
家電量販店。
途中で適当なカフェに入る。
別につまらなくはない。
むしろ普通に楽しい。
ただ。
何かがおかしい。
互いに。
デートらしいことをしなければならない。
という謎の圧力に晒されている。
本屋に入れば。
これデートか?
と思う。
カフェに入れば。
これならデートっぽいか?
と思う。
何なんだ。
デート認証機関でも存在するのか。
申請書を出せば、これは正式なデートですと印鑑でも押してもらえるのか。
「ねえ」
「何だ」
「デートって何すんの」
「俺に聞くな」
「一応彼氏でしょ」
「彼氏資格にデート実技試験はなかった」
「じゃあ不合格じゃん」
「合格にしたのお前だろ」
「……」
川崎が黙る。
「……そうだけど」
自分で言ってから耳が少し赤くなる。
自爆である。
俺もたぶん巻き込まれている。
「とりあえず歩くか」
「結局それ?」
「移動すれば何かに遭遇する」
「RPGじゃないんだから」
そんな話をしながら歩く。
そして。
遭遇した。
*
スーパーの前。
入口横に立てられた特売の看板。
『卵 一パック九十八円
お一人様一点限り』
「……」
「……」
俺の足が止まる。
ほぼ同時に。
川崎も止まった。
二人で看板を見る。
「安いな」
「安いね」
一拍。
「行くか」
「うん」
何の迷いもない。
*
五分後。
俺はカゴを持っていた。
「キャベツこっちの方が安い」
川崎が一玉持ち上げる。
「グラム単価だと隣」
「でもそっち大きいじゃん。使い切れないでしょ」
「二、三日で使うなら」
「今日は一食分じゃないの?」
「……そうだな。ならこっち」
「豆腐いる?」
「安いなら」
「三個パック」
「買い」
「納豆も安い」
「家にある」
「牛乳は?」
「昨日買った」
「じゃあいらない」
早い。
異常に早い。
さっきまで本屋一つ入るのにも妙な間があったのに。
野菜売り場に入った瞬間、会話の処理速度が上がった。
キャベツ。
玉ねぎ。
豚肉。
豆腐。
卵。
必要なものを見て。
要るか要らないか。
高いか安いか。
使い切れるか。
それだけ。
何も難しくない。
川崎も余計な遠慮をしない。
俺も気を使わない。
完全に。
数日前の家庭科へ戻っている。
「……ねえ」
「何だ」
川崎が立ち止まる。
「初デートでスーパー来る?」
「お前もノータイムで入っただろ」
「だって卵九十八円だったし」
「だろ?」
「……」
川崎がカゴを見る。
俺も見る。
卵。
野菜。
豚肉。
豆腐。
「……何か、普通に買ってるね」
「そうだな」
「デート中だよね」
「一応」
「何でこんなに生活感あるの」
「俺に聞くな」
「誘ったのあんたでしょ」
「スーパーに誘った覚えはない」
「入ろうって言ったのはあんた」
「同意したのはお前」
「……」
「……」
「卵九十八円だったしね」
「だろ?」
結局そこへ戻る。
*
会計を済ませる頃には。
カゴの中身が完全に一食分になっていた。
袋へ詰める。
豚肉。
キャベツ。
玉ねぎ。
豆腐。
卵。
調味料は家にある。
川崎が袋を見下ろす。
「……これ」
「何だ」
「普通に晩ご飯じゃん」
「……」
見る。
その通り。
「誰が作るんだ」
「買ったのあたしたちでしょ」
「そうではなく場所だ」
「……」
二人で黙る。
川崎家。
そこへ行けば。
数日前と同じだ。
けーちゃんがいて。
大志がいて。
また「お兄さん」とか呼ばれる。
それはそれで。
いや。
今日は。
「……うち来るか」
「……」
言ってから。
自分で止まる。
彼女を家に誘った。
文字にすると急に犯罪臭がする。
いや、犯罪ではない。
高校生の彼氏が彼女を自宅へ誘った。
ただそれだけ。
ただそれだけなのに。
つい数日前まで川崎家の台所で普通に並んでいたのに。
立場が逆になった瞬間、妙に意味が変わる。
川崎も少し目を逸らした。
「……今、その言い方する?」
「いや、食材が」
「分かってるけど」
「小町いるぞ」
「そういう問題じゃないって」
「じゃあ何だよ」
「知らない」
またそれ。
最近こいつの「知らない」が増えている気がする。
大体知っている時に言っている。
「……行く」
「おう」
袋を持ち直す。
俺の家へ向かう。
初デートの行き先。
比企谷家。
デート判定委員会があれば、ここで審査落ちしている気がする。
*
「ただいま」
「おかえりお兄ちゃ――」
玄関へ出てきた小町の声が止まる。
俺。
その後ろ。
川崎。
「お邪魔します」
「……」
「何だ」
小町の視線が動く。
俺。
川崎。
俺たちが持っているスーパーの袋。
もう一度俺。
「……ふーん」
「何だその顔」
「小町まだ何も言ってないけど?」
「顔が喋ってる」
「お兄ちゃんこそ何か喋ることあるんじゃない?」
「何が」
「何か小町に報告することない?」
「……」
面倒な妹である。
こういう時だけ勘が異常にいい。
いや。
スーパーの袋を持って女子と一緒に帰宅している時点で、勘も何もないか。
川崎を見る。
川崎もこっちを見る。
目が合う。
逃げても仕方ない。
「付き合うことになった」
「……」
小町が止まる。
川崎も微妙に固まる。
数秒。
「……いつ?」
「一昨日」
「一昨日!?」
「声でかい」
「いやいやいや。小町、今初めて聞いたんだけど?」
「今言ったからな」
「そういう意味じゃない!」
「じゃあどういう意味だ」
「二日も黙ってたってことでしょ!」
「聞かれなかったし」
「普通言うでしょ!」
「交際開始の家族への報告って義務だったのか」
「少なくとも小町には義務です!」
「いつ制定された」
「今!」
「独裁国家かよ」
小町が俺の横から川崎を見る。
「沙希さん」
「……何?」
「ほんとに?」
「……うん」
川崎の耳まで赤い。
小町の顔が明るくなる。
「うわぁ……」
「何だ」
「お兄ちゃんにもついに……」
「その目やめろ。保護施設から引き取り先が決まった犬を見る目だ」
「だって小町、ちょっと諦めてたもん」
「何を」
「お兄ちゃんの将来」
「妹に見放されてた」
「でも沙希さんなら安心かも」
「何で俺の保護者目線なんだ」
川崎が横で笑う。
「笑うな」
「別に」
「絶対別にじゃないだろ」
「それで」
小町がスーパーの袋を見る。
「今日デート?」
「……」
今度は俺と川崎が止まる。
「まあ」
「一応」
声が重なる。
小町の口元がにやける。
やめろ。
その顔は戸部とは別方向に腹が立つ。
「じゃ、小町にもご飯ある?」
「当然」
「やった!」
切り替え早いな。
まあいい。
こういうところは助かる。
「小町ちゃん、何か苦手なのある?」
川崎が訊く。
「特にないです! あ、辛すぎるのはちょっと」
「分かった」
「……お前もう普通に作る側なんだな」
「買ったでしょ」
「そうだが」
川崎は靴を脱ぐ。
小町が先に廊下を歩いていく。
「台所こっちです!」
「知ってるだろ」
「案内してるの!」
「誰を」
「沙希さんを!」
「見れば分かる」
「お兄ちゃんは黙って荷物持ってきて!」
何で俺の家なのに指示されているのだろう。
*
比企谷家の台所。
数日前とは逆。
あの時は。
俺が川崎家へ入る側だった。
今日は。
川崎が俺の家へ入る側。
なのに。
「それ切って」
「どれ」
「玉ねぎ」
「了解」
「味噌汁?」
「やる」
「豆腐」
「分かってる」
「キャベツ先?」
「肉焼いてる間でいい」
「じゃあやる」
「頼む」
早い。
やっぱり早い。
今日の夕飯は、豚肉と野菜の炒め物。
豆腐の味噌汁。
卵は明日に回す。
わざわざ難しいものを作る理由もない。
川崎が玉ねぎを切る。
俺が豚肉を下味につける。
鍋に湯を張る。
川崎がキャベツを切る。
一から十まで確認しなくてもいい。
必要なことだけ言えば通じる。
こういう時だけ。
俺たちは異様に楽だ。
「比企谷、醤油どこ」
「上の棚」
「これ?」
「隣」
「こっち?」
「そう」
川崎が手を伸ばす。
同時に。
俺も別の調味料を取ろうとして手を伸ばした。
指が触れる。
「……」
「……」
二人とも止まる。
数日前。
川崎家の台所でも、似たような距離には何度もなった。
皿を渡した。
鍋を覗いた。
横を通った。
その時は。
こんなことにならなかった。
「……取れよ」
「そっちが取れば」
「俺が先だった」
「あたしだよ」
「いや俺だ」
「絶対あたし」
「監視カメラ確認するか?」
「台所に付いてないでしょ」
「じゃあ証拠不十分だ」
「何の裁判だよ」
明らかに問題はそこではない。
川崎が先に醤油を取る。
「ほら」
「何がほらだ」
「取った」
「そうだな」
会話が馬鹿すぎる。
*
しばらくして。
フライパンの前に俺。
川崎が後ろを通る。
狭いというほどではない。
普通に通れる。
なのに。
近い。
妙に近い。
反射的に少し避ける。
「何」
「別に」
「邪魔?」
「違う」
「じゃあ何」
「……近い」
川崎まで止まる。
「今さら?」
「今さらだからだよ」
「意味分かんない」
「俺も分からん」
「この前は平気だったじゃん」
「知ってる」
「今日だけ台所狭くなった?」
「物理法則が交際開始を祝して変更された可能性がある」
「ないよ」
「じゃあ知らん」
「それ、あたしの台詞」
「著作権はない」
「いらないけど」
川崎が俺の横を通る。
今度は少し距離を取って。
それはそれで。
何か違う。
「……おかしい」
「何が」
「前は普通にできたぞ」
「知らないよ」
「付き合ったら作業効率落ちるの欠陥だろ」
「何の欠陥」
「交際制度」
「制度じゃないし」
「明らかに生産性が低下している」
「それ、あんたがいちいち意識するからでしょ」
「お前も止まってただろ」
「……」
「ほら」
「うるさい」
川崎が少し赤くなる。
俺もたぶん同じ。
付き合う前は。
生活距離が近くても平気だった。
何も考えていなかった。
いや。
何も考えていないことにしていた。
今は。
好きだと分かっている。
相手もそうだと知っている。
たったそれだけで。
同じ十センチがやたら近い。
面倒だ。
交際というものは面倒である。
知ってた。
恋愛全般を避けてきた俺の事前評価は、やはり正しかった。
ただ。
やめたいかと言われると。
それはまた別の話だった。
*
「おいしい!」
夕食。
小町が野菜炒めを食べて笑う。
「そりゃよかった」
「沙希さんすごいですね!」
「いや、ほとんど比企谷が」
「お前もやってただろ」
「切ったくらい」
「切るのも料理だ」
「何そのフォロー」
「事実」
「ふーん」
「何だよ」
「別に」
またそれ。
小町が俺と川崎を交互に見る。
「……何だ」
「いやー」
「何」
「初デートなんですよね?」
川崎がむせた。
「げほっ……」
「大丈夫ですか?」
小町が水を差し出す。
川崎が受け取る。
「……ありがと」
「何で知ってんだ」
「さっき聞いた」
「誰に」
「沙希さんに」
川崎を見る。
「聞かれたから」
「……」
まあそうだろう。
自白を強要されたわけではないらしい。
小町が指を一本立てる。
「初デートでスーパー行って」
「……」
二本。
「食材買って」
「……」
三本。
「家来て」
「……」
四本。
「三人分の夕飯作ってるの?」
「そうなるな」
「……」
小町がしばらく考える。
「熟年夫婦なの?」
「一昨日付き合ったっつっただろ」
川崎が顔を伏せる。
耳が赤い。
「だって全然初デートっぽくないんだもん」
「初デートらしさの定義を述べよ」
「映画とか!」
「見てない」
「水族館とか!」
「行ってない」
「遊園地とか!」
「疲れる」
「お兄ちゃん……」
「何だ」
「沙希さん、本当にこれでいいんですか?」
「小町」
「……まあ」
川崎が少し考えて。
「楽しいから、いいかな」
「……」
小町が俺を見る。
「お兄ちゃん」
「何だ」
「今の小町的にポイント高いよ」
「俺何もしてないだろ」
「沙希さんが高い」
「俺じゃなかった」
「あと家庭科ってすごいね……」
「お前まで家庭科のせいにするな」
「一番家庭科のせいにしてたのお兄ちゃんじゃん」
「……」
正論である。
*
夕食後。
小町は食器を運ぶと、自室へ引っ込んだ。
「ごゆっくりー」
という余計な一言を残して。
あいつ今度覚えてろ。
台所。
俺が洗う。
川崎が拭く。
また。
数日前と同じ。
水の音。
皿の音。
でも。
前とは少し違う。
「……前の方が楽だった」
川崎がぽつりと言った。
手が止まる。
「何が」
「こういうの」
「……」
一瞬。
嫌な方向へ考える。
付き合わない方が。
という。
「違う」
「まだ何も言ってねえ」
「顔」
「俺の顔に読解機能を付けるな」
「分かりやすかったから」
「嘘つけ。俺は感情表現に定評がない」
「そういう意味じゃない」
川崎が皿を拭く。
「付き合わない方がよかったとか、そういう意味じゃないから」
「……」
バレてる。
「前は何も考えないでできたじゃん」
「まあな」
「今日だって、最初は普通だったのに」
「スーパーではな」
「買い物してる時、全然気にならなかった」
「卵九十八円が強すぎた」
「それはある」
「あるのかよ」
少し笑う。
また皿を渡す。
川崎が受け取る。
今度は指が触れない。
「今は……」
「ん?」
「近いと、気になる」
「……」
「前は普通だったのに」
「俺もだ」
また水を流す。
洗う。
拭く。
静かになる。
ふと。
最初のプリントを思い出した。
俺。
『帰りたくなる家』
川崎。
『気を使わなくていい家』
「気を使わなくていい家って書いたのにね」
川崎が言う。
同じことを思い出していたらしい。
「今めちゃくちゃ気にしてるけどな」
「気を使ってるんじゃなくて」
川崎が少し止まる。
「意識してるだけ」
「似たようなもんだろ」
「違うよ」
「何が」
「……嫌じゃないから」
「……」
手が止まる。
川崎はこっちを見ない。
皿を拭いたまま。
「楽じゃなくなっただけ」
「……」
「嫌?」
「それはない」
ほぼ反射で答えた。
川崎が止まる。
「……そ」
それだけ。
また皿を拭く。
俺も洗う。
付き合う前。
川崎とは楽だった。
必要なことを言えば通じた。
妙な遠慮がなかった。
生活の相性だけなら、家庭科の紙の上でとっくに答えが出ていた。
付き合って。
面倒になった。
手が触れるだけで止まる。
近いだけで気になる。
今まで考えなかったことまで考える。
でも。
それが嫌ではない。
たぶん。
暮らしやすいことと。
一緒にいたいことは。
同じではないのだ。
*
「じゃあ帰る」
洗い物が終わってしばらくして。
川崎が鞄を持つ。
「送る」
「いいよ」
「送る」
「別に一人で帰れるけど」
「知ってる」
「じゃあ何で」
「……俺が送るって言ってんだからいいだろ」
「……」
川崎が少し笑う。
「そ」
玄関。
靴を履く。
「沙希さん、また来てくださいね!」
「うん。また」
「お兄ちゃんもいってらっしゃーい」
「帰るんだよ」
「お兄ちゃんに言ってる」
「何でだよ」
「ちゃんと送ってきてってこと」
「言われなくても分かってる」
「おお……」
「何だその反応」
「彼氏っぽい」
「うるさい」
「はいはい。いってらっしゃーい」
扉を閉める。
外。
少し歩く。
どちらからともなく。
手が近づく。
昨日ほど迷わない。
俺から出したのか。
川崎からだったのか。
よく分からない。
気づけば繋いでいた。
それでも。
少しだけぎこちない。
「今日」
「何だ」
「デートだった?」
「……」
考える。
「スーパー行って飯作ったな」
「うん」
「一般的なデート判定委員会に提出したら否決されそうだ」
「だよね」
「初デート評価、生活感の項目だけ満点」
「そんな項目ある?」
「知らん」
少し間。
手は繋いだまま。
「でも俺は楽しかった」
「……」
川崎がこっちを見る。
すぐ前へ戻す。
「……あたしも」
「なら」
「うん」
それでいい。
認証機関の判定など知らない。
当事者二名がデートだと言えばデートである。
たぶん。
*
川崎家の少し手前。
昨日、別れたのと同じくらいの場所。
「じゃあね」
「おう」
手を離す。
川崎が一歩進む。
「川崎」
「何」
「……」
呼び止めた。
呼び止めたはいい。
次が出ない。
恋人なら。
こういう時。
キスをするものなのか。
しないものなのか。
初デートでするのか。
二回目以降なのか。
そもそも回数で決まるものなのか。
家庭科のプリントには当然ない。
恋人初日の欄もなかった。
教科書にも載っていない。
検索するのも負けた気がする。
こういう時。
答えが分からないなら。
確認すればいい。
「……キスしていいか」
「……」
川崎。
完全停止。
数秒遅れて。
顔が赤くなる。
「……聞くんだ」
「聞かずにやって社会的に死ぬよりいい」
「そういうこと言わなくていいから」
「じゃあどうすりゃいい」
「知らないけど」
「またそれか」
「……」
川崎が目を逸らす。
手を少し握る。
いや。
もう離していた。
その代わり。
鞄の持ち手を握り直す。
少しして。
「……いいよ」
「……おう」
返事が馬鹿みたいだ。
だが他に出ない。
*
一歩。
近づく。
川崎は逃げない。
俺も。
今度は逃げない。
ほんの一瞬。
唇が触れた。
離れる。
「……」
「……」
何も起きない。
いや。
起きた。
だから何も言えない。
顔が熱い。
川崎も赤い。
さっきまで普通に手を繋いでいたのに。
数センチ近づいただけで、全処理能力が持っていかれた。
「……何か言えよ」
「そっちも黙ってたでしょ」
「処理中だ」
「あたしもだよ」
「そうか」
「うん」
「……」
「……」
何なんだこれ。
手を繋いだ時より酷い。
交際制度。
作業効率低下どころの騒ぎではない。
川崎が少し笑った。
それで。
ようやく少しだけ呼吸が戻る。
「じゃあ」
「おう」
川崎が一歩下がる。
俺も。
今度こそ帰ろうとする。
「……ねえ」
「何だ」
少し間。
「八幡」
「……」
止まる。
今。
何て。
「何」
「いや」
「何」
「今――」
言い終わる前。
川崎が俺の袖を掴んだ。
少し引く。
反射的に振り向く。
今度は。
川崎から。
唇が触れた。
一回目より。
少しだけ迷いがない。
離れる。
「……」
「……」
また。
処理停止。
「今、名前」
「そっち?」
「いや、こっちもだが」
「何それ」
川崎は顔を赤くしたまま。
「……これで一回ずつ」
「何を平等にしてんだよ」
「知らない」
「またそれか」
川崎が笑う。
俺も。
少しだけ笑う。
それから。
今度は俺が迷う。
ずっと。
川崎。
そう呼んできた。
名字。
それで困らなかった。
でも。
向こうだけ変えるのも。
何か違う。
「……沙希」
「……」
今度は。
川崎――沙希が止まる。
「……何」
「呼んだだけ」
「……」
「何だよ」
「別に」
出た。
女子の別には信用できない。
今まで何度もそう思った。
ただ。
今までで一番。
信用できない「別に」だった。
沙希が少し笑う。
俺も笑った。
「じゃあな」
「うん」
「帰ったら」
「送る」
「おう」
沙希が家の方へ歩いていく。
数歩進んで。
一度だけ振り返る。
俺も手を軽く上げる。
それから。
帰る。
*
自宅。
「ただいま」
「おかえりー!」
小町の声。
俺は靴を脱いで、自室へ上がる。
鞄を置く。
スマホを見る。
少し前に。
もう届いている。
『帰った』
「……」
付き合う前から。
何度も見た三文字。
最初は。
家庭科の課題だった。
『ちゃんと帰る』
『遅くなるなら連絡する』
そう決めたから。
始まった。
今は。
『おかえり』
送る。
すぐ既読。
少し考えて。
『俺も帰った』
送信。
またすぐ既読。
『おかえり』
「……」
何も変わらない。
課題だった時も。
付き合う前も。
付き合った後も。
帰った。
おかえり。
同じやり取り。
でも。
続けている理由だけが。
もう違う。
*
寝る前。
机の上。
家庭科のコピーが目に入る。
あの。
『将来の家庭生活を設計してみよう』
という。
余計なプリント。
今も残っている。
開く。
『夫 比企谷八幡』
『妻 比企谷沙希』
「……」
数日前。
初めてこれを見た時は。
気持ち悪いと思った。
生々しいと思った。
家庭科教師の手元に同じ文字列が存在していると考えて。
燃やしたいとまで思った。
他にも。
『無理に合わせない』
『ちゃんと帰る』
『遅くなるなら連絡する』
最後。
『十年後の二人は、どんな家庭にしたいですか』
俺。
『帰りたくなる家』
沙希。
『気を使わなくていい家』
「……」
今見る。
夫。
妻。
そこは。
さすがにまだ遠すぎる。
今日初めてキスした高校生が考える話ではない。
十年後なんて知らない。
来週どうなっているかだって分からない。
というか。
次のデート先すら決まっていない。
今日の初デートはスーパーだった。
未来設計以前に、まずデート設計能力を身につけるべきである。
だから。
プリントに書いた未来が。
本当にそうなるかなんて。
分からない。
スマホが震える。
沙希。
『おやすみ、八幡』
「……」
名前。
たったそれだけ。
さっき直接呼ばれた時も思ったが。
破壊力がおかしい。
数日前。
家庭科で隣に座った時。
こんなことになるとは思っていなかった。
返信欄。
『おやすみ、川崎』
そこまで打つ。
止まる。
消す。
もう一度。
『おやすみ、沙希』
送信。
すぐ既読。
少しして。
『うん』
それだけ。
スマホを伏せる。
もう一度。
家庭科のコピーを見る。
最初は。
あれほど燃やしたかった。
今は。
別に。
取っておく理由なんてない。
でも。
捨てる理由も。
もうなかった。
コピーを折り直す。
机の引き出しへ戻す。
閉める。
「……」
川崎沙希と付き合うことになった。
家庭科の課題が終わってから。
――完。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました!
「家庭科の課題で夫婦役になった八幡と沙希」から始まったこの話も、これにて一旦完結です。
付き合って、初デートして、名前で呼んで、キスまでしたので、とりあえず一区切りかなと。
ただ、この二人は付き合ってからの方が書けそうな話が多いので、そのうち後日談だったり、「続」みたいな形でまた書くかもしれません。
気が向いたらその時にでも。
新作や続編の告知はTwitterでもしてるので、よければフォローしてもらえると嬉しいです。
最後までありがとうございました!