血を吐いて倒れる老人。
中は、俺と老人だけ。
絶対に俺は殺していないはずなのに。
人が死ぬ瞬間を、俺は二度見た。
一度目は、何もしなかった。
二度目は、何をすればいいのか分からなかった。
だから俺は、非常通話のボタンを押した。
「人が死んで……」
そこで一度、言葉を止めた。
そして、こう言い直した。
「……俺が、殺しました」
――夏の暑さが尾を引き、今日も蒸し暑い一日だった。
俺は仕事の外回りで、とある都内のマンションを訪問していた。
今日も何気ない一日。
スーツのジャケットを腕にかけ、マンションの中へ入る。
訪問するには管理人への確認が必要だったため、面倒臭いがインターホンを押した。
「すみません、株式会社〇〇〇〇の者ですが。今日も訪問営業をさせていただきたく」
『あぁ、はい。どうぞ』
相変わらず無愛想な老人だ。
そう思いながら、俺はエレベーターへ向かった。
今日は上から順番に、適当に回っていくか。
そう考えていると、先ほどの管理人がやってきた。
『すみません、私も乗ります。七階の〇〇さんのところに用事があるので』
「えぇ、どうぞ」
俺は営業だ。
そう自分に言い聞かせ、自慢の笑顔を向けながらエレベーターに乗り込んだ。
「今日も暑いですね」
『えぇ。ゴホッ……ゴホッ……』
老人は苦しそうに咳をした。
チッ。
咳くらい手で隠せよ。
そう思いながら、階数ボタンを眺めていると――
バツンッ。
突然、エレベーターの照明が消えた。
同時に、身体がわずかに揺れる。
エレベーターが止まった。
「最悪だ……」
管理人と二人きり。
密室。
おまけに、唯一の涼しい空間まで台無しだ。
あぁ、そういえば今日の占い、最下位だったな。
そんなくだらないことを考えていた、その時だった。
バタンッ。
人が倒れる音がした。
「……え?」
暗闇の中、俺は息を呑んだ。
多分、管理人が倒れた。
「管理人さん! 大丈夫ですか?」
返事がない。
俺は暗い床に手をつきながら、老人が倒れた場所を探した。
「何も見えねえや……」
手を伸ばす。
すると、ベチャッ……
何か、ぬるりとしたものに触れた。
「……なんだ、これ」
その瞬間――
ブゥン。
エレベーターの照明が復旧した。
「やっとかよ……」
俺は老人の方を見る。
老人は床に倒れ、口元から血を流していた。
「うわぁぁぁぁ!」
俺の手にも、べったりと血が付いている。
まずい。
何で倒れてるんだ。
俺は何もしていない。
確かにこの老人は不器用で無愛想だ。
でも、死ねばいいなんて思っていたわけじゃない。
そもそも、俺は老人に触れてすらいない。
なのに、老人は動かない。
焦りが判断を鈍らせる。
間違いなく、通報するべきだ。
でも――
エレベーターという密室で、二人きり。
もし、本当に俺が殺したのだとしたら?
「いや……そんなわけない」
俺は殺してない。
そう思っているのに、血を見ると身体が動かなかった。
老人から目を離せない。
その時だった。
『何で殺した?』
「……え?」
老人が、こちらを見ていた。
さっきまで倒れていたはずなのに。
口元から血を流したまま、俺を睨んでいる。
『何で殺した?』
「やめろ……」
俺は後ずさる。
『お前が殺したんだ』
「違う……!」
『お前が、俺を殺した』
「違う!」
頭が痛い。
息が苦しい。
心臓が激しく脈打つ。
老人の声が、頭の中で何度も繰り返される。
目の前に倒れている老人を見る。
血を吐いて、動かない。
その光景を見ているうちに、別の記憶が蘇ってきた。
――半年前。
俺は渋谷で飲んでいた。
かなり酔っ払っていた。
帰りも無事に帰れるか心配なくらいだったが、その日のことだけは鮮明に覚えている。
人気の少ない路上を歩いていると、後ろから、
バタンッ。
人が倒れる音が聞こえた。
「うぁ?」
振り返る。
そこには、老人が倒れていた。
「……死んだのか?」
俺は近づかなかった。
酔っ払いだろう。
誰かがそのうち助ける。
そう思った。
いや本当は、面倒だっただけなのかもしれない。
俺はその場を離れた。
そして後日――
渋谷の路上で倒れていた男性が、心不全により死亡したというニュースを見た。
間違いない、あの時の老人、本当に死んだんだ。
誰も通らなかったのか?
あの時、後ろから声が聞こえた気がするし、助けを求めていたような気もする。
でも、酔っていて、はっきりとは覚えていない。
ただ一つだけ覚えている。
俺は、何もしなかった。
「あの時……俺が通報してれば、助かったのか?」
自分に問いかけても、答えは出ない。
どうせ助からない、心不全だったんだから。
そう言い聞かせても、胸の奥に残ったしこりは消えなかった。
そして――今。
目の前には、血を吐いて、動かない老人がいる。
俺は震える手を伸ばした。
今度こそ、何もしないわけにはいかない。
だが、指が止まる。
もし、この老人が死んでいたら?
もし、俺が殺したのだとしたら?
監視カメラもある。
言い逃れはできない。
「……俺は、殺してない」
自分に言い聞かせる。
そして、震える指で非常通話ボタンを押した。
『緊急でしょうか?』
コールセンターの女性が出る。
俺は唾を飲み込んだ。
「老人が……倒れています」
『すぐに救急隊を呼びます! 容態を教えてください!』
改めて老人を見ると、血を吐いている。
口が震える。
「俺が、殺しました」
『えっ……?』
「俺が殺しました」
『警察も呼びます! そこを動かないでください!』
「……はい」
やっと自白できた。
これで俺は、あの苦しみから解放される。
そう思った。
頭の中にあったしこりが、ようやく取れていくような気がした。
――それから二十分ほど経った頃。
エレベーターが動き始めた。
俺の心も、ようやく動き始めたような気がした。
そして七階に到着すると、警察と救急隊が待っていた。
『大丈夫ですか!?』
救急隊員が俺を押し退け、倒れている老人のもとへ駆け寄る。
俺は何もできず、その場に立ち尽くした。
『署で詳しくお話を聞かせてください』
「……はい」
俺は警察に連れて行かれた。
エレベーターの前に集まった人たちの視線を、俺は一生忘れない。
恐怖と、嫌悪が混じった目。
自分は人を殺したのだ。
そう思うと、不思議と冷静だった。
やっと苦しみから解放される、そんな気がしていた。
――翌日。
俺は警察署の取調室にいた。
『もう一度聞く。なぜ、殺したなんて言った?』
「……わかりません」
『わからない?』
「……はい」
警察官は机の上に一枚の資料を置いた。
『エレベーター内の監視カメラを確認した』
「……監視カメラ?」
『あれは停電時でも録画できるものだった。映像も残っている』
警察官は淡々と続けた。
『停電した後、老人は一人で倒れている。お前は何もしていない』
「……」
『老人に触れたのも、倒れた後に手を伸ばした時だけだ』
頭の中が真っ白になる。
「……じゃあ」
声が震えた。
「俺は……殺してない?」
『そういうことだ』
「……でも、俺は……」
『だから聞いている。なぜ、あんなことを言った?』
「……わかりません」
涙が溢れた。
「ただ……苦しかったんです」
『苦しかった?』
「あの時……俺が通報しなかったから……」
言葉が詰まる。
「あの人も、死んだと思って……、あの時の俺が通報してれば、助かったのかもしれないって……ずっと……」
俺は顔を伏せた。
「だから……俺が殺したのと同じじゃないですか……」
警察官はしばらく黙っていた。
そして、静かに言った。
『今回の老人は助かった』
「……え?」
『食道静脈瘤からの大量出血だった。かなり危険な状態だったが、お前の通報が早かったから助かったそうだ』
俺は顔を上げる。
「……助かった」
『ああ』
その言葉を聞いて、胸の奥から力が抜けた。
俺は人を殺していなかった。
そして今回は、ちゃんと通報した。
けれど――
『一つだけ聞いていいか』
警察官が言った。
「……はい」
『半年前の件だ』
心臓が跳ねた。
『お前が通報していたら、その人は助かったと思うか?』
俺は答えられなかった。
『医療記録を見ても、それは分からない。すぐに救急車を呼んでいても助からなかった可能性はある』
警察官はそう言って、資料を閉じた。
『だから、お前が殺したとは言えない』
「……」
『今回と同じだ。お前は老人を殺していない』
頭では分かっている。
でも――
半年前の路上で倒れていた老人に、俺は何もしなかった。
けれど、今度通報した老人は助かった。
だからこそ、余計に思ってしまう。
あの時も、今のように電話をしていれば。
それだけが、いつまでも頭から離れなかった。