こいつ泣かせたら世界終わる 作:黒狸
平原地帯を離れ、所々に影を落とす岩場のような地形の、その更に奥。
ノーチェが濃いケモノ臭の漂う空間に踏み込むや否や、刺さるような視線が幾重にも向けられた。
「ここにも『モンスターハウス』。参ったな、また書き直しか」
数十か数百か。もはや数えるのも馬鹿らしくなるほどの無数の気配である。
呟く間にも睨めつける視線は警戒から敵意、殺気を宿すものへと変わっていくのがありありと感じられ、それらが行動に移されるより早く、ノーチェは足元の影へと潜りこんで退避した。
▽
「どうだったぁ?」
「あぁ、案の定ここにも発生してた」
出口で待っていた橙色の竜ことレンリに迎えられ、ノーチェはその場に座り込んだ。
ゆるく息をつきながら地図を開き、岩山を模した地形に炭筆で×印を加えて。森林の地形にも同様の印がすでに残されており、これで二つ目になる。
「行きでは無かったんだけどな。お前が縮むまで暇だったとはいえ、一応改めて見回って正解だった」
「私のおかげだねぇ。ふふん」
「抜かせデカブツ」
「乙女に言うセリフじゃあないよねぇ!?」
やたら体も声もデカい竜の戯言を聞き流しつつ、地図と炭筆を荷物にしまって。
痴話げんかなのか小競り合いなのか。ともかくそんな掛け合いを挟みながらしばし移動し、見晴らしのよい丘に着くなり黙々と野営の準備を進めていく。
そうして沈黙にも飽きてきた頃、鍋を火にかけ始めたノーチェが先に口を開いた。
「アンミーはまだ寝てるわけ?」
「背中で寝てるねぇ。待ってる間にお日様にあてられたみたい」
「もう少ししたら起こそうか。夜に眠れなくなってぐずられても困る」
吐息一つ、レンリが笑ったのだと思う。
「赤子じゃぁないんだからさ」
「それくらいのぐずり方なら可愛げがあるってもんだけどな」
実際は局所的な天変地異に加え危険な魔物の大量発生である。冗談じゃない。
そう思い起こした記憶と、先のモンスターハウスの光景とがなんとなしに重なって感じられて。ノーチェは重い吐息を一つ、次いで眉をひそめる。
「なぁ。モンスターハウスってのは、発生原因がいくつかあるわけだが」
「うん?」
「今回のは自然発生じゃない。明らかに外敵要因だろ?」
レンリは数秒ほど思案した様子で。
重苦しい雰囲気に違わず、ゆるりと首をもたげて零した。
「まあそっちだよねぇ。自然発生って要は生息域のねじれだから、もっと長い時間をかけて形成されるものだし。第一そうだったら行きの時点で遭遇するはずだもの」
「にしても影響範囲が広すぎないか? 層全体に及ぶなんて聞いたことないぞ」
「う~ん。まさかこの階層で、一体も魔物と遭遇しないとはねぇ」
言わずもがな、迷宮は魔物の巣窟である。
魔物は程度の差こそあれど、基本的には人間を見かければ襲い掛かってくる。この行動原理の根っこに存在するのは、彼らが人を恐れていないという事実だ。恐れているからこそ他の生物は警戒し、距離を置き、様子を見るなどしているわけで。それがない魔物たちは迷宮内を我が物顔で闊歩しているのが普通なのだ。
そして、そんな生物たちが層全体から忽然と姿を消しているという事実。であれば、
「......何から隠れていたのか、だね」
「そうさな。とはいっても――」
ノーチェの視線は無意識にレンリに。正しくはその背中のアンミーに向けられていて。
「ま、そうなるよねぇ」
「あー待て。今のは俺が悪かった、確定じゃない。そもそも仮にそうだったとして、とてもじゃないがギルドに説明できないしな」
「まあ他にも可能性はあるよ。迷宮の一層か二層に、突如そういう存在が現れた、とかさ」
パキリ、薪が弾ける音がした。
あくまでも仮設の域を出ない話だが、状況に当てはめれば合点がいく。
そこらの魔物や冒険者以上に恐ろしいナニカが突如として迷宮の上層に現れ、魔物たちはそれを恐れて逃げ隠れ、寄り集まり、やり過ごそうと密集し始めた過程でモンスターハウスが発生したのだと。
要は、そんな仮定である。
「......」
ノーチェは次第に水分が出てきた鍋の中身をヘラで潰すように混ぜる。
その手に無意識に力がこもっているような気がして、ゆるく息をつき直した。
「ありえなくないけど、納得したくはないな」
「どっちのが気が楽かって話だよぉ」
苦笑。その文法はどちらもゲテモノの場合には成り立たないのだ。
「なんにせよギルドからの依頼はやり直さざるを得なそうだし、難儀するな」
「地図の更新って言ったってねぇ。こんな劇的に状況を変えられちゃったらたまったもんじゃないよぉ」
「ま、面倒だけど仕方ないさ」
「路銀もそんなに多くないしねぇ」
「......まあ、それもある。とりあえず二層は把握できたし、今日は休んで明日は一層だな」
「なんかいい匂い、」
未だ寝ぼけ気味のアンミーがひょこりと顔を出した。
軽々とレンリの背中から飛び降り、漂う香りに誘われるままに鍋を覗きこんで。中身に気が付くなり「わっ」と喜びの声をあげる。
「これ迷宮果?」
「ん? ああ。あのチビ狼が最初の一個を取ったとき、俺もこっそりな。ジャムでも作ってみようと」
「へえ、ふうん、いいね」
目覚めてすぐに入った良い知らせに、空色の長髪がご機嫌に揺れる。
次いで上目遣いでもってこちらを見つめてきた。レンリも遠巻きに湿度の高い視線を向けており、恐らくは味見を求められているのだと思うが、特に後者は質量的に足りるのだろうか。全部舐められても困る。
そも、まだ煮詰まったばかりである。一旦冷まさねば火傷必須なような。
「そういえば、口は丈夫だったか」
レンリはいわゆる竜舌。アンミーは煮詰める途中のスープを直接味見していた記憶がある。
であれば問題ないかとヘラで一口分をすくいあげ、
「んむ。ふふっ、美味しい」
直接ぺろりと舐めとったアンミーは、思わず口元を緩めながら舌なめずり。
粒だった食感も僅かに残しつつ、元々あった迷宮果の甘味を更に濃縮させ、香りもさらに増した特性のジャムである。グルメな彼女にも通じて何よりだった。
「ノーチェ、ノーチェ、ボクもお願いねぇ」
「あ~お前はちょっと待て......これで良し」
これまた一口分のジャムをヘラに乗せて差し出すと、レンリは器用に舌を伸ばしてぺろり。
彼女は満足そうに口元をもちゃもちゃさせながら味にひたり、それから程なくして。
「ぎょええええええぇぇ!!」
バタリ。絶叫して、そのまま気絶した。
「竜さん!? ちょ、ノーチェ。何したの?」
「いやなに。異世界人曰く、良薬口に苦しってな。」
呼びかけにも応じず、威厳も何もないへそ天の恰好で倒れたままのレンリ。
駆け寄るアンミーの瞳には困惑の色が色濃く浮かんでいたが、懐からポーションの瓶をチラつかせると合点がいったらしい。程なくしてくつくつと笑みを浮かべ始める。
「こいつ、少し魔力が溜まったらすぐ使うからな。こうでもしないとずっと魔力酔いだ」
「ふふ。ちょっと可哀そうかも」
「荒療治が必要なときだってあるさ」
「......やけに、急ぐね?」
すんと突っ込まれ、思わず舌を巻いた。勘のいい少女だこと。
「調査依頼もあらかた終わったしな。こういう時は早いうちに準備を整えて撤退するに限る」
「そういうもん?」
「そういうもんだ」
ひとまずは納得してくれたらしく、アンミーはそれ以上言及してこない。
代わりに迷宮果ジャムにひっそりと指を伸ばそうとするので、やんわりと静止しておいた。
「まあ大丈夫だ。とりあえず今日は休んで、明日に備えないとな」
その実、半分本当で半分嘘である。
迷宮には現在明らかな異常事態が発生しており、いつ面倒ごとに巻き込まれるかもわかったものではない。魔力を万全に回復する術があるならやらない手はないのだ。
必要以上に不安がらせる必要はない。故に、できる限り柔らかい笑顔になるよう努めておいた。
不自然に見えていなければ、何よりなのだけど。
〇
このパーティにおけるアンミーの役割は、主に魔力による探知と炊事がある。
しかし現在、炊事も既に終わり、魔力感知をしようにもそもそも魔物が辺りにいないのである。
ぶっちゃけ暇なのだ。というわけで暇つぶしとして、魔力を糸のような形にする遊びを行っていた。遊びは遊びだが、魔法を使う上で大事な基礎が詰まっているとはレンリの談だ。
「~♪」
倒木に身を預け、足をぶらぶらと揺らして。鼻歌は夜闇に溶けていくばかり。
普段ならこういう時構ってくれるレンリは先の件を理由にふて寝しており、未だ実体化しているカゲロウはとっくにアンミーの影の中でお休み状態に入っている。
「あーくそ、こいつ仕返しが陰湿すぎるっ」
ノーチェはそんなレンリの下敷きにされた自分の寝具を取り出そうと躍起になっていた。
しかしながらドラゴンの大きな体は、男一人が持ち上げようとしたとてびくともしない。結局彼はあれこれと手を尽くしたのち、諦めてローブを被り腰を下ろしていた。
それを見ているのは面白くて、しばらくは暇しなかった。自業自得だとは思う。
「私の一緒に使う?」
「使わない。あんまそういうこと人に言うもんじゃないぞ」
「む」
頬を膨らませ抗議の意を示す。別に、誰にでも言うわけではないのだけど。
「二人以外には言わない」
「それならいい。欲を言えばそこから更に一人、俺を減らすべきだな」
「......」
そう語るノーチェは"また"不器用な笑顔をしていて。
何故そんなに不安そうに笑うのか。気になりはすれど、きっと自分には話してくれないだろうから、追及しようとはやる気持ちを袖を掴んで堪えた。
彼自身も思うところがあったのかもしれない。どかりと横に座り込んで、その時にはフードを深く被っていたので、表情は伺い知れなくなっていた。
「とりあえず俺も少し休むよ。アンミーは寝れそうか? 昼間はぐっすりだったみたいだけど」
「ん。眠くなったら寝る。それまで火の番はしといてあげる」
「そりゃ助かる。俺でもレンリでも気軽に起こしてくれ」
小さな相槌を返せば、それきりとんと静寂が辺りを包み込んだ。
夜風に揺られる葉が擦れ、パチパチと焚火が弾け、少しばかり冷え込んできた空気。夜が深まってきた気配を感じながら、アンミーはおもむろに立ち上がり右手を掲げる。
「そろそろ寝た、かな。それじゃあ」
イメージは、魔力の糸を広げて編みこむような形で。
呟く。
「『プロテクション』」
詠唱と共に展開された光の盾――盾というにはお粗末なそれであり、蜘蛛の巣のような形状だが――は、数秒と経たずして解け、虚空に溶けていった。
「次、」
今度はたっぷりと時間をかけ、魔力を練りこむ。
イメージは先と同じく広げた糸に、今度は織りなす魔力を束ね、重ね、円形を成すように。
「~~~~~~『プロテクション』」
再び展開された、今度はまごうことなき光の盾とでも言うべきそれは、ざっくりとだが30秒ほど維持されてから夜闇に混ざって消えた。
魔力自体は十分であり、どちらかと言えば維持をするアンミーの集中が途切れたのだ。
「もっと早くて、丈夫で、長持ちじゃないと」
呟き、また繰り返す。
「『プロテクション』」
きっかけは劣等感だった。
迷宮果の時も結局自分では何もできず、ノーチェとレンリに頼りきる他なかった。後ろから見ているだけというのは楽ではあるけれど、その半面居心地がひどく悪く感じられるのだ。
戦いにおいては足手まといで、肝心なときにだって役には立たなくて。――仮に二人に何かがあったとして、それでも見ているだけしかできないのか、と。
「~~~~~~『プロテクション』」
そんなモヤモヤした気持ちごと吐き出すかのように、ひたすらに魔法を発動してしばらく。
「ふぁ。疲れてきた」
ゆるく欠伸を一つ。
先までは色々と考えていたので気にならなかったが、心も体も落ち着いてくると、周囲のことにも気が回るようになってくるというもの。最初に感じたのは、なんでもない静けさそのものだった。
無音、というわけではない。耳を澄ませば様々な音が静寂に混じって聞こえてくる。
びゅうと風が吹く音。木の葉が擦れる音。
大きな木が緩やかにその身を震わせ、月明かりから落ちる影も同様に揺れる。たまに葉っぱが落ちた隣家もして、辺りをとんと包んでいる薄闇は覗いていると吸い込まれてしまいそうな心地になる。
ともすれば、何かが隠れていても気が付かないのかもしれない、なんて。そう考え始めた折、ふと想起したのは以前にも似たような静けさを感じた際の記憶だった。
にぎやかな仲間や、家族や、友達がいなくなって、一人きりの夜だった。
こうして静かな夜の中にいればこそ、あの頃の心細さをよく思い出す。
「あれ、」
そう考え始めたのが良くなかったのだと思う。
心細い気持ちは不安を呼んで、普段なら気に留めないような音にも敏感になってしまって。風の音も、木の葉の音も、何か別のソレ。どことなく不気味な様に感じられてきた。
「......」
袖口をきゅっと握りしめる。
二人の会話を聞いていた。魔物が辺りにいないこともなんとなしにわかっていた。『自分が余計なことを考えなければ』大丈夫なはずなのだ。
そう自分を納得させようとするものの、嫌な思考は留まらず寧ろ広がるばかり。
「......ッ、」
思わずノーチェを起こそうと、した。その手を引っ込めた。
彼は昼間に単独で探索を行い、夜には見張りも行い、つい十分ほど前に休み始めたばかりなのだ。ようやっと腰を据えて休めたところで「怖いから」なんて理由で起こされてしまってはあまりに不憫である。
何より、
(面倒くさい、よね)
彼は優しいからそれを表には出さないだろうが、そう考えるのが普通だろう。
そんなこんなで逡巡の後、先に休んでいたレンリを起こすことにした。
「ね、竜さん起きて」
「んん?」
「ちょっと。起きてって」
「ん~~~」
呼びかけだけでは起きる気配がなく、何か他の刺激が必要だろうと。
というわけで手を添えてみたり鱗を撫でてみたりしたが、どれも反応は鈍いまま。結局アンミーが導き出した結論は、竜の鼻先に座り込んでみることであり、
「そろそろ起きてほしいんだけど。って、」
「へ、へ、へ......ぶえっくしょいっっっ!!」
「わぁ!?」
ある種当然の帰結というか。レンリ――巨大な竜が特大のくしゃみをぶちまけた。
幸い予兆があったため、アンミーは受け身を取れている。しかしくしゃみの勢いで強力な風が発生し、空気砲のようになったそれが焚火を薪ごと吹き飛ばしてしまった。
突如として辺りが完全な闇に包まれ、ただでさえ不安だった気持ちが更に膨れ上がる。
「ちょっともう......」
未だ目覚めないレンリがゴロリと寝返りをうって。
その際に広がった翼が、闇の中、巨大な別の生き物のようにも見えた。
「ッ、」
あ、だめだこれ。ちょっと泣きそう、なんて。
目頭がきゅうっと熱くなって、弱気な感情ばかりが頭の中で反響する。泣いちゃだめだと考えれば考えるほどに目尻から雫が零れ、落ちたそれらが地面にどす黒い闇を広げていくのが見えた。
大気がよどんで、地面が揺れて。先の翼に受けた印象が災いしたのか、影が形を成すのは無数の魔物でなく、代わりにいつも以上にとても大きな魔物。一つ目の巨人を模した影――サイクロプスだった。
「――――。」
「わわ......、」
ズン、と重低音が響く。
あの巨体で、恐らくだけどとんでもない力持ちだ。あの巨木の幹みたいな腕で殴られれば、ノーチェは当然、レンリとてただではすまないだろう。
また、ズンと足音。こっちに寄っている。
であれば、できる限り自分が気を引いてこの場から引き離したい、と。そう行動を導き出す自分自身とは裏腹に、身体の方は動かない。脚が強張っていた。すくんでいた。ともすれば腰が抜けていたのかもしれない。すぐ走らなければならないにも関わらず、体は言うことを聞かない。
怖い。
再び足音。すぐそこまで来ている。
引き離せないのならせめて、
「二人とも、起き――」
頭に、手が、添えられた。苦笑の気配がした。
「あぁ。聞こえてるよ」
「ノーチェ、ごめ、」
言い切る前にガシガシと頭を撫でられる。
「子供がそういうの気にしなくていい」
「......ごめん」
「逆に悪かったな。後はなんとかする」
優しい声だけを残し、ノーチェはサイクロプスへと向き直って。
音も無く駆け出す。彼は距離を縮めながら足元から影を伸ばしていたが、巨人は筋肉の塊である足を巨体に似合わぬ速度でもって振り下ろしてくる。
それを見てもノーチェは止まらなかった。どころか逃げも避けもせず、挙句には防御の姿勢すら見せないままに突っ込んでいって。ズズンと強烈な衝撃と共に、その姿が一瞬にして見えなくなる。
「ゴオオオオォォッッッ!!」
「ノーチェっ、」
視界には土煙と大地につき立った巨人の足が映るのみ。
既に距離を詰められていたのもあって一瞬のことだったが、アンミーの目にも何とか見えた。
サイクロプスの足が踏み潰すのとほぼ同時、そこから伸びる影とノーチェの影が繋がり、水に潜るようにしてノーチェの姿が足元の影に溶け込んでいた。
巨人が手ごたえの無さに気が付く間もなく、足元から影がグルグルと螺旋を描いて首元へと登っていく。獲物に絡みついた蛇を思わせるそれだが、異なるのは実体がなく掴むことができないことだろう。
サイクロプスが体中を搔きむしるが、自分の肉ばかりが抉れノーチェを捉えることは叶わない。
やがて頭部へと到着した影。今度は逆にとっぷりとその中からノーチェが姿を表して。
「とりあえずお前はお役御免。もっと小さくなって出直してこい」
力いっぱいに振りかぶるような仕草。
サイクロプスと繋がった影が爆発的に膨れ上がり、さながら主の剛腕、その筋繊維がごとくノーチェの右腕にギュルギュルと纏わりついて。
「デカブツは! 一人で! 十分だっての!!」
「ゴァッッ!?」
一息、一閃。
横っ面へ思い切り打ち抜くパンチがモロに入る。サイクロプスはその勢いのままに宙を舞い、受け身も取れず地面に倒れ伏した。
その姿がドロリと影と瘴気として空気中に溶けて消え、夜は静寂を取り戻していく。
〇
「――ふう、」
巨体が完全に消滅するのを見届けたノーチェは、ふらつく様子で座り込んだ。
纏っていた影が離れても、彼の右腕は形を維持できないのかスライムのようにぐねぐねとした不定形。彼は弱っていてもそれを隠しがちだが、今はそのやせ我慢すら成立しないほど憔悴しているのが見て取れた。
「ねぇノーチェ、休もう? これも貸したげる」
「ああ、助かる」
コカトリスブランケットを羽織るノーチェは、何かに気が付いたらしく苦笑を浮かべる。
「レンリも、多分もう大丈夫だと思う」
「......」
返事はなかったけれども、代わりに尻尾がパタンと揺れた。
同時に上空で何かしらの魔力が弾ける気配がして、何事かと見上げれば展開された魔法陣が霧散するところだった。果たして一体いつから起きていたのか、それは定かでないけれど、恐らくはもう少し危ない状況に陥れば助けに入るつもりだったのかもしれない。
「さてと、」
ノーチェはどこか複雑そうな表情で、自分の足元をぽんと指し示すように叩いた。
最初は理解が追いつかず呆けていたけれど、痺れをきらした彼が再度足元をぽんぽんと叩く。
「アンミー。こっち来な」
「うん、」
珍しい。普段はやたら嫌がるくせに、なんて。
そう考えながら彼の足元に腰を下ろすと、ひょいと持ち上げられ抱えられた。座り込むノーチェにアンミーが背を向けてもたれかかるような形だ。戦ったばかりだからか、彼からは少し高めな体温が感じられた。
「最初あの魔物が現れた時、俺に声をかけなかったな。自分が逃げて囮になろうとしてた」
「そう、だね」
「すぐ起きなかったレンリは後で俺が張り倒すから安心していい。俺を起こそうとしなかったのは何でだ?」
息をのむ。数回ほど、呼吸をする間があったと思う。
「休んで欲しかったから」
ようやっと絞り出した回答は、まじりっけ無しの本音というわけにはいかなかった。
とてもではないが、休んですぐに起こされて、面倒くさいとか思われたくないんですなんて本人には伝えられない。アンミーはアンミーで自分のちっぽけなプライドを守るのに必死なのだ。
ノーチェの方はもちゃもちゃと口元を動かして、何やら言葉を探しているようだった。
「あ~。んん、そうだな。なんて言ったもんか」
「?」
「お前は面倒くさいな」
よりにもよって一番言われたくないことを、一番言ってほしくない人に。
「ッ? ご、ごめんなさい?」
「違くて。謝ってほしいわけじゃない。......ごめん、俺は話すのが得意じゃないから」
いきなり本質を突かれたのでひどく驚いた。
それから、ちょっとだけ目頭がきゅっと熱くなるのを下唇を噛んで堪えた。嫌だ。こんなところで泣いていたら余計面倒くさいやつだと思われてしまうのに。
そんな不安をよそにノーチェは語りだす。お前はさ、なんて切り出し方だった。
「普段は気をつかってないみたいにふるまうのに、肝心な時にはすごく気をつかうだろ」
「ん、」
「単に優しいのか、気をつかわれるのが居心地悪いのかはわからないけど。ただ言えるのは、どっちにせよ損する性格だってこと。自分は人に気をつかうくせに、相手が自分に気をつかうのを良しとしない。.....自分を大事にされないことに慣れてるやつは、みんなそうだ」
会話の最中にも、彼の左手は不器用にアンミーの頭を撫でてくる。
乱雑さからして慣れていないのがよくわかる。けれど温かくて、どこか胸の奥の方がじんわりと満たされるような心地がして。悪くないと、そう思う。
「なぁアンミー、俺をなめるな。そんな薄情な大人じゃない」
「ノーチェ?」
「お前が俺に気をつかえるのに、俺がお前に気をつかえないわけないだろ」
「......ッ」
「一人が好きなのに孤独が嫌いなのがお前だ。確かにわがままだけど、そのわがままを聞いてやることなんてわけはないんだよ。なんかあったら隠さず言っていい、できる限りは聞いてやれるから」
「......うん、」
頷きを返し、彼の右腕をするすると手繰る。
右手は既に再生していて、けれど少しだけ冷たいそれを両の手で握りしめた。指と指とを絡ませると、少しだけ熱が伝播して。彼と繋がっているような心地がするのだ。
同じ沈黙と、熱と、安心を共有して。寄りかかってもいいのだと慣れないながらも教えてくれた。
(隠さなくてもいいって、言ってくれた)
なら。なら、少しだけ、
「ねぇ、ノーチェ」
「ん?」
「私は嫌な夢を見ると、周りがめちゃくちゃになっちゃうよね。でもそれだけじゃなくて、その」
「ん」
拙い言葉を紡ぐ、彼はそれを急かさずにただ小さく相槌を返してくれる。
「多分、嫌な気持ちが抑えきれなくなっても、そうなるんだと思う。周りだけじゃなくて、色んなところがめちゃくちゃになっちゃう」
わがままだ。迷惑だと思う。
けれど自分だけで背負うには、どうにも重過ぎたから。少しだけ、もたれかかりたかったのだ。
「7年前、世界の三割が闇に包まれてしまったよね。今も少しずつ広がってる」
「ああ。知ってる」
唇が震えそうになったけれど、彼の手から伝わる温かみがそれを甘やかに溶かすのだ。
「――全部、私のせいなの」
そうして呟く言葉は、ひゅるりと夜風にさらわれ消えて。
「......そうかい」
背中越しに彼の体が強張った気がした。鼓動が少しだけ高鳴り、早打つのを感じた。
けれどノーチェはいつもの調子で、ただそれだけを返すのだった。