ファイアーエムブレム 聖戦の系譜〜氷雪の融解者〜   作:Edward

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010 侵攻

侵攻

 

光の中で、俺は自分自身の変化をはっきりと感じ取っていた。

 

――いや。

 

変わった、という表現は正しくないのかもしれない。

 

これまでの俺こそが、何かに覆い隠された仮初めの姿だった。

 

身体の奥深く。

 

自分でも存在を知らなかった場所から、膨大な魔力が湧き上がってくる。

 

魔法の才覚は、血統によるところが大きい。

 

どれほど望み、どれほど修練を積もうとも、生まれ持った魔力の器がなければ魔法を扱うことはできない。

 

逆に、それまで魔法とは無縁だった者が、何らかのきっかけによって突然その力を目覚めさせることもある。

 

そして、その器には得意とする魔法の性質がある。

 

俺の場合は――風だった。

 

同じだけの魔力を込めても、《ファイアー》や《サンダー》より《ウインド》の方が遥かに威力が高い。

 

それは俺がセティの血を引いているからだ。

 

ずっと、そう思っていた。

 

もちろん修練を重ねれば、不得手な属性との差を縮めることはできる。

 

だが、自らの魔力の器そのものを理解し、その性質すら超える境地へ至った魔道士など、このユグドラル大陸全土を見渡しても十人といないだろう。

 

それほどまでに、魔力の器とはその者の生まれそのものに近い。

 

だというのに。

 

今――。

 

俺の中で、その器そのものが変わろうとしていた。

 

暖かい。

 

それでいて、力強い。

 

身体から溢れ出しそうなほどの魔力。

 

今までとは比較にならないほど高まった魔法への抵抗力。

 

そして何より――。

 

懐かしい。

 

初めて触れたはずの力なのに。

 

なぜか俺は、この光を知っているような気がした。

 

忘却の彼方へ追いやられていた何かが、暖かな陽光を浴びて輪郭を取り戻していく。

 

俺の中で眠っていたものが――

 

ようやく、目を覚ました。

 

「ぬううっ……! き、貴様……何者なのだ!」

 

老人の声に、もはや先ほどまでの威厳はなかった。

 

光の中から現れた俺を見て、一歩、また一歩と後退していく。

 

ホリンも言葉を失っていた。

 

くすんだ栗色だったカルトの髪は、光を溶かし込んだような銀色へと変わっている。

 

額には見覚えのないサークレット。

 

身に纏う魔道士の衣の上には、白銀の刺繍が施されたマント。

 

そして右手には――。

 

先ほどまで持っていた、あのくたびれた魔道書とは似ても似つかない、眩い光を放つ聖書が握られている。

 

あの魔道書を焼いた。

 

ただ、それだけだった。

 

それなのに、カルトという存在そのものが変貌している。

 

ホリンには理解できなかった。

 

そして――。

 

老人にも、理解できていないようだった。

 

いや。

 

違う。

 

老人の目に浮かんでいるものは、単なる驚愕ではない。

 

何かを恐れている。

 

俺自身さえ知らない――俺の中にある何かを。

 

「悪いな」

 

俺は聖書を開いた。

 

「俺自身、何が起きたのかよく分かっていない」

 

老人を睨み据える。

 

「だから説明してやることもできない」

 

光が集まる。

 

「ただ一つ分かるのは――」

 

老人の顔が引き攣った。

 

「貴様をここから生かして帰すわけにはいかないってことだ」

 

「若造が……言いおるわ!」

 

老人が杖を振り上げる。

 

「ヨツムンガント!!」

 

周囲に漂っていた瘴気が、一斉に集束した。

 

黒い蛇の群れのように蠢く邪気。

 

先ほどの俺なら、一撃で瀕死に追い込まれていた魔法。

 

だが――。

 

不思議なほど恐怖はなかった。

 

左手を静かに掲げる。

 

すると、知らないはずの魔法の名が自然と浮かんできた。

 

「――ライトニング」

 

閃光。

 

地下空間を昼へ変えたかのような純白の光が走った。

 

ヨツムンガントを構成していた邪気が、触れた瞬間から黒い霧となって消えていく。

 

「なにっ!?」

 

それだけでは終わらない。

 

光はそのまま老人へ届いた。

 

「ぐあああああっ!!」

 

老人が絶叫する。

 

身体から黒煙のような魔力が噴き上がり、光に触れた端から消えていく。

 

「や、やめろ! やめろおおおっ!」

 

老人は狂ったように杖を振るった。

 

暗黒魔法を発動しようとしている。

 

だが――何も起こらない。

 

「無駄だ」

 

俺は左手を下ろさなかった。

 

「今のお前じゃ、この光を抜けられない」

 

さらに魔力を込める。

 

「大人しく――闇へ帰れ」

 

「ぐ……ううううっ!」

 

その言葉に。

 

老人の表情が変わった。

 

「闇へ……帰れ、だと……?」

 

何がおかしいのか。

 

老人が苦痛に顔を歪めながら――笑った。

 

「小僧……何も知らぬくせに……!」

 

次の瞬間。

 

老人の身体から爆発するように黒い魔力が噴き出した。

 

「ようやく……!」

 

老人の周囲に小さな暗黒の結界が形成され、ライトニングの光が初めて押し止められる。

 

「ようやく、ここまで力を取り戻したのだ……!」

 

取り戻した?

 

俺はその言葉に引っ掛かった。

 

老人は歯を食いしばり、俺を睨む。

 

「完全に戻るまで……あと僅かだったというのに……!」

 

戻る?

 

何のことだ。

 

「またしても……!」

 

老人の声に、異様なほど深い憎悪が宿る。

 

「またしても我らの前に、光が立ちはだかるか……!」

 

意味は分からない。

 

だが――。

 

こいつは、ただのロプト教団の術者ではない。

 

本能がそう告げていた。

 

老人の魔力がさらに膨れ上がる。

 

「まだだ……まだ終われぬ!」

 

地下の祭壇に残っていた瘴気が、老人へ吸い寄せられていく。

 

「ようやく……ようやく始まろうとしているのだ……!」

 

「何がだ!」

 

「貴様が知る必要はない!」

 

老人の目に狂気が宿った。

 

「ここで貴様を消す! たとえ今得た力の全てを失おうともな!」

 

空気が震える。

 

老人が両腕を大きく広げた。

 

「――ヘル!」

 

空間が歪んだ。

 

「なっ……!」

 

俺は咄嗟にライトニングを解除し、防御へ魔力を回す。

 

視界が捻じ曲がる。

 

上下も左右も分からない。

 

身体には傷一つない。

 

だというのに――。

 

意識だけが、底のない沼へ沈んでいく。

 

そこで俺は気づいた。

 

これは肉体を破壊する魔法ではない。

 

《ヘル》。

 

人の精神を蝕み、心の奥底に隠された傷を抉り出す暗黒魔法。

 

恐怖。

 

憎悪。

 

悲嘆。

 

後悔。

 

それらを増幅させ、対象者自身の心によって精神を破壊する。

 

耐え切れず狂人となった者。

 

生きていながら二度と目覚めなかった者。

 

暗黒魔法の中でも極めて高位に位置し、扱える者はごく僅かしか存在しない。

 

「くくくく……!」

 

老人の笑い声が遠くから響く。

 

「いかに強大な光を持とうと、人である限り闇はある!」

 

景色が変わった。

 

シレジア。

 

幼い頃の俺。

 

そして――。

 

父。

 

マイオス。

 

胸の奥から、黒いものが溢れ出した。

 

母を死地へ送り、自らは権力と野心にしがみついた男。

 

母以外にも多くの女を囲い、その間に何人もの子を作った。

 

母を早くに失った俺は、その女たちや異母兄弟から疎まれた。

 

何度、毒を盛られた。

 

何度、殺されかけた。

 

食事を誰かと一緒に取ることすら怖くなった。

 

それでも父から手が差し伸べられることはなかった。

 

虐げられても。

 

侮辱されても。

 

怒れば、次に何をされるか分からない。

 

だから笑った。

 

何でもないふりをした。

 

そうやって――生き残った。

 

ダッカー叔父との争いでは、子供でありながら死地へ放り込まれた。

 

それでも生きた。

 

生き延びた。

 

そして俺に聖痕があると分かった途端――父の態度は変わった。

 

英才教育。

 

魔法。

 

政治。

 

軍学。

 

俺の魔力がシレジアでも有数と呼ばれるほど成長すると――。

 

今度は、父自身が俺を恐れた。

 

そして。

 

殺そうとした。

 

証拠はなかった。

 

計画も闇へ葬られた。

 

だが――俺には分かっていた。

 

あれは父だ。

 

あの男が、俺を殺そうとした。

 

憎い。

 

憎い。

 

憎い――!

 

親父。

 

兄弟。

 

あの女たち。

 

俺を利用した奴ら。

 

俺を殺そうとした奴ら。

 

全部――。

 

今すぐシレジアへ戻って。

 

この手で――!

 

『おやめなさい、カルト』

 

「――!」

 

時間が止まった。

 

聞き間違えるはずがない。

 

もう二度と聞けないと思っていた声。

 

「……母さん?」

 

『闇に飲まれてはいけません』

 

優しい声だった。

 

幼い頃。

 

眠れない夜。

 

俺の頭を撫でてくれた――あの声。

 

『あなたには、願いがあったはずです』

 

「願い……?」

 

『レヴィン王子を、シレジアの王に』

 

胸の奥に、小さな光が灯った。

 

『あなたが望んだのは、復讐ではありません』

 

そうだ。

 

『憎しみから始めれば、最後に残るものもまた憎しみです』

 

そうだった。

 

俺は――。

 

「俺は……レヴィンを王にしたい」

 

親父を殺したいからじゃない。

 

「シレジアを……救いたい」

 

俺を救ってくれた友。

 

「親父の手から俺を救ってくれたレヴィンと……ラーナ様に恩を返したい」

 

復讐じゃない。

 

俺が望んだ未来は――。

 

もっと先にある。

 

『ならば行きなさい、カルト』

 

母の声が遠ざかっていく。

 

『あなたには、正しき風と――人を導く光があります』

 

「母さん!」

 

『忘れないで』

 

優しい笑顔が見えた気がした。

 

『その力は、誰かを憎むためにあるのではありません』

 

――闇が砕けた。

 

◇

 

「カルト!」

 

ホリンは叫んだ。

 

返事はない。

 

カルトを覆う黒い魔力は、明らかにその光を弱らせている。

 

「くそっ!」

 

ホリンは大剣を振るった。

 

老人の胸を袈裟懸けに斬り裂く。

 

鮮血が飛び、老人が地面へ崩れ落ちた。

 

それでも――。

 

老人は笑っていた。

 

「く……くくく……無駄だ……」

 

「何だと?」

 

「《ヘル》は……儂を斬れば解けるような、生易しい術ではない……」

 

血を吐きながら笑う。

 

「一度心へ入り込んだ闇は……奴自身にしか払えぬ……!」

 

ホリンは剣を握り締めた。

 

もう、自分にできることはない。

 

「カルト……!」

 

その時だった。

 

カルトが目を開いた。

 

光が――爆発した。

 

黒い魔力が一瞬で吹き飛ぶ。

 

先ほどのライトニングとは比較にならない。

 

力強く。

 

それでいて、どこまでも優しい光。

 

カルトが聖書を開く。

 

まただ。

 

知っている。

 

使ったことなどないはずなのに。

 

この魔法を――俺は知っている。

 

「――オーラ!!」

 

光が地下空間を満たした。

 

「まさか……!」

 

老人の顔から、初めて完全に余裕が消えた。

 

「《ヘル》を……破った……?」

 

老人の目が見開かれる。

 

そしてカルトを包む光を見た瞬間――。

 

その表情に、僅かな恐怖が浮かんだ。

 

「その光……まさか……」

 

「何だ?」

 

「…………」

 

老人は答えなかった。

 

やがて、何かを悟ったように薄く笑う。

 

「いや……よい」

 

カルトは老人へ向かって歩く。

 

一歩。

 

また一歩。

 

「もう、お前に俺を倒す術はない」

 

「……そのようだ」

 

老人はよろめきながら立ち上がった。

 

魔力は尽きている。

 

転移する力さえ残っていないのだろう。

 

だが――。

 

その顔から恐怖が消えていた。

 

代わりに浮かんだものを、俺は理解できなかった。

 

諦め――ではない。

 

「いずれ……」

 

老人が呟いた。

 

「この世界は、再び我らのものとなる」

 

「終わりだ」

 

俺は聖書を構えた。

 

「ロプト教団に慈悲を与えるつもりはない」

 

光が集まる。

 

「本当なら情報を聞き出したい。だがお前たちは、何をしても口を割らないだろう」

 

老人を真っ直ぐ見据える。

 

「ここで終わらせる」

 

「……くくく」

 

老人が笑った。

 

「終わらせる、か」

 

何がおかしい。

 

「何が言いたい?」

 

「何も」

 

老人は目を閉じた。

 

「今の貴様には、まだ分かるまい」

 

オーラの光が老人を包み始める。

 

「だが覚えておけ、光の小僧」

 

その身体が、白い光へ溶けていく。

 

「闇を滅ぼしたと思ったその時こそ――」

 

老人が笑った。

 

「人は、最も深い闇を見る」

 

「……!」

 

「せいぜい抗うがいい」

 

身体が消えていく。

 

「我らも――」

 

最後に。

 

老人は、不思議な言葉を残した。

 

「待つことには……慣れている」

 

閃光。

 

老人の姿は完全に消えた。

 

後には何も残らなかった。

 

「…………」

 

俺はしばらく、その場所を見つめていた。

 

待つことには慣れている。

 

どういう意味だ。

 

分からない。

 

ただ――。

 

なぜだろう。

 

奴を倒したはずなのに。

 

これで終わったとは、どうしても思えなかった。

 

◇

 

静寂が戻った。

 

地下を満たしていた禍々しい空気は、オーラによって洗い流されたかのように消えている。

 

さらに魔法の余波で天井の一部が崩れ、そこから陽光が差し込んでいた。

 

暗闇に閉ざされていた祭壇を、太陽が照らしている。

 

その光の下で改めて周囲を調べ――。

 

俺たちは言葉を失った。

 

ここへ運び込まれた子供たちの多くは、すでにロプト教団の儀式の犠牲となっていた。

 

何のために。

 

奴らが何を得ようとしていたのか。

 

祭壇に残された術式を調べても、俺には理解できなかった。

 

ただ一つ。

 

奇妙なことだけは分かった。

 

この儀式は、ここにいる術者自身へ力を与えるためのものではない。

 

集められた魔力は――どこか別の場所へ流れるように術式が組まれていた。

 

その先がどこなのか。

 

何へ捧げられているのか。

 

今の俺には分からない。

 

幸いにも、一人の少女だけは無事に救出することができた。

 

今は意識を失い、ホリンの背中で眠っている。

 

必要と思われる遺物だけを回収した後、俺たちは祭壇へ火を放った。

 

そして地下への入口そのものを封印する。

 

二度と。

 

ここが使われることのないように。

 

一階へ戻ったところで、俺たちは休息を取ることにした。

 

少女を背負ったままではホリンも満足に戦えない。

 

少女が目を覚ませば、事情を聞くこともできる。

 

そして何より――俺自身の魔力がほとんど残っていなかった。

 

そんな時だった。

 

「……あれ?」

 

見覚えのある少年が姿を現した。

 

「お前」

 

俺は目を細める。

 

「確か、俺たちがイザークへ向かっていた時……ホリンの攻撃を避け続けていた盗賊だろ?」

 

少年は悪びれる様子もなく笑った。

 

「あはは。覚えてた?」

 

「仲間はどうした?」

 

「もう抜けたよ」

 

あっけらかんと答える。

 

「あいつらから取れるものは取ったしね」

 

「…………」

 

ホリンの眉が露骨に動いた。

 

少年は気にせず続ける。

 

「追っ手から逃げながら、しばらくほとぼりを冷まそうと思ってさ。前に見つけたこの遺跡を思い出したんだ」

 

そして焼け焦げた地下への入口を見る。

 

「そしたら、いつの間にか変な奴らが住み着いてるんだから驚いたよ」

 

「なるほど」

 

俺は薪を火へ放り込んだ。

 

「名前は?」

 

「僕?」

 

少年が自分を指差す。

 

「俺はカルト。あっちがホリンだ」

 

名前を呼ばれたホリンが、少女を休ませながら軽く会釈した。

 

少年はにっと笑った。

 

「僕はデュー。よろしく!」

 

そして、さらりと言った。

 

「しばらく一緒に行かせてくれると助かるんだけど」

 

「いいぞ」

 

「カルト!」

 

即答した俺に、ホリンが声を上げた。

 

「盗賊を同行させるなど正気か? 寝ている間に食料も金も全部持って逃げるかもしれんぞ」

 

まあ、そう言うと思った。

 

「確かにな」

 

俺は頷いた。

 

「だが今は、この少女を守りながら砂漠を越えなきゃならない。人数は多い方がいい」

 

デューを見る。

 

「それにこいつは、この辺りの地理を知っている」

 

そして笑った。

 

「リスクより、リターンの方が大きい」

 

「だが――」

 

「それに」

 

俺はデューへ視線を向ける。

 

「俺とホリンから盗んで、無事に逃げ切れると思うか?」

 

デューは少し考えた。

 

「盗むだけならできると思うよ」

 

「おい」

 

ホリンが大剣へ手を伸ばした。

 

「でもやらない」

 

デューは笑う。

 

「だって、あんたたち絶対どこまでも追いかけてくるでしょ?」

 

俺も笑った。

 

正解だ。

 

「それに――」

 

デューは俺たちの荷物を見る。

 

「そもそも、大して金目のもの持ってなさそうだし」

 

「…………」

 

「…………」

 

否定できなかった。

 

「はははっ!」

 

俺は思わず笑った。

 

「気に入った。本音を言ってくれて助かる」

 

「カルト……」

 

「どうだ、ホリン?」

 

ホリンはしばらくデューを見つめた。

 

やがて、大きくため息を吐く。

 

「……仕方あるまい」

 

「いいのか?」

 

「一度斬り合ったから分かる」

 

ホリンはデューを見る。

 

「こいつの剣にはイザークの型が混じっている。誰に教わったかは知らんがな」

 

デューの笑顔が、ほんの僅かに固まった。

 

「それを信用しよう」

 

「決まりだな」

 

俺は立ち上がった。

 

「デュー。この近くに安全に休める場所はあるか?」

 

「ダーナまで戻ると結構かかるけど、メンゲルなら半日もかからないよ」

 

「メンゲル?」

 

「ただし、イザークとは反対方向」

 

ホリンがこちらを見る。

 

本来なら、少しでも早くイザークへ向かうべきだ。

 

だが。

 

「構わない」

 

俺は即答した。

 

「今は魔力の回復を優先する」

 

右手の聖書を見る。

 

この力が何なのか。

 

なぜ俺が使えるのか。

 

そして――。

 

あの老人は、この光を見て何に気づいたのか。

 

何一つ分からない。

 

「魔力さえ戻れば、その後はいくらでも手は打てる」

 

「じゃ、決まりだね」

 

デューが歩き出す。

 

「案内するよ」

 

「ああ、頼む」

 

この時。

 

俺は知らなかった。

 

この判断が――。

 

俺たちだけではなく。

 

イザーク。

 

グランベル。

 

そしてユグドラル大陸そのものの運命へ繋がっていくことを。

 

もしデューを同行させなかったなら。

 

もし俺が魔力の回復を優先しなかったなら。

 

俺たちは、そのままイザークへ向かっていただろう。

 

そうなれば――。

 

運命は、まったく違う形へ分岐していたのかもしれない。

 

だが。

 

歴史は、待ってはくれなかった。

 

◇

 

「た、大変です!!」

 

イザーク王城。

 

定例会議へ出席していたリボー族長クラナドのもとへ、一人の兵士が飛び込んできた。

 

「何事だ!」

 

「我が軍が……ダーナへ侵攻しました!」

 

「……何?」

 

クラナドの顔から血の気が引いた。

 

兵士が続ける。

 

「指揮官は――クラウス様です!」

 

「なんだと!!」

 

椅子が倒れた。

 

クラナドは立ち上がる。

 

今日は定例会議のため、リボーを留守にしていた。

 

その間の守備については副官へ細かく指示してある。

 

何より――。

 

クラウスの言葉には決して従うなと、念を押していた。

 

それなのに。

 

「なぜだ……」

 

理解できない。

 

いや。

 

理解したくない。

 

「さらに!」

 

兵士の声が震えた。

 

「この侵攻を受け、グランベルのヴェルトマー公国――ロートリッターが動き出したとの情報が入っています!」

 

クラナドの身体が揺れた。

 

最悪だ。

 

ダーナへの侵攻だけでは終わらない。

 

グランベルが動けば――。

 

これは国家間の戦争になる。

 

「止めねば……」

 

クラナドが扉へ向かう。

 

「一刻も早く……こんな馬鹿げた真似を……!」

 

足元がおぼつかない。

 

長年、一族を率いてきた男とは思えないほどに。

 

その時。

 

扉が開いた。

 

「失礼する」

 

低く、よく通る声。

 

クラナドの足が止まった。

 

そこに立っていたのは――。

 

イザーク王、マナナン。

 

そして、その息子マリクルだった。

 

二人の表情を見ただけで分かった。

 

すでに。

 

全てを知っている。

 

「マナナン王!」

 

クラナドはその場へ膝をついた。

 

そして両手を床につける。

 

「申し訳……ありません!」

 

額が床へ触れる。

 

「クラウスの独断が……イザークを……!」

 

マナナンは何も言わなかった。

 

長い沈黙。

 

やがて。

 

「クラナド」

 

静かな声だった。

 

「貴公の人柄は知っている」

 

クラナドの肩が震えた。

 

「イザークへの忠義も疑っておらぬ」

 

マナナンの声にも、僅かな震えがあった。

 

「この事態を企てた者ならば、今日この場へ来るはずもない。それも分かっている」

 

クラナドがゆっくり顔を上げる。

 

「だが」

 

王は目を逸らさなかった。

 

「責は――取らねばならぬ」

 

「…………」

 

「意味は、分かるな」

 

クラナドは王を見た。

 

厳しい顔。

 

だが、その瞳には――深い悲しみがあった。

 

その瞬間。

 

先ほどまで取り乱していたクラナドの表情から、動揺が消えた。

 

リボーを長年率いてきた族長の顔へ戻る。

 

「……マナナン王」

 

静かに微笑んだ。

 

「これまで、あなたにお仕えできたこと」

 

一度、息を吸う。

 

「誇りに思っております」

 

マリクルが唇を噛んだ。

 

クラナドは目を閉じる。

 

「どうか――ご武運を」

 

マナナンは腰の剣へ手を掛けた。

 

神剣バルムンク。

 

抜刀。

 

銀光が一閃した。

 

あまりにも速い一撃だった。

 

クラナドが苦痛を感じる暇すらなかっただろう。

 

静かに。

 

その身体が崩れ落ちた。

 

誰も声を上げなかった。

 

マナナンは剣を下ろす。

 

その手が――震えていた。

 

長年、自分に仕えてくれた男。

 

臣下であり。

 

友でもあった男。

 

その命を。

 

自らの手で絶った。

 

「……クラナド」

 

誰にも聞こえないほど小さな声で、王は呟いた。

 

「俺も……すぐに行く」

 

そして。

 

「待っていてくれ」

 

神剣バルムンクの刀身に、一筋の赤が伝った。

 

それはまるで――。

 

これから始まる長い戦乱を予告するかのようだった。

 

ダーナ侵攻。

 

ロートリッター出陣。

 

クラナドの死。

 

それぞれは、まだ別々の出来事に見えていた。

 

だがその遥か深い場所では――。

 

誰にも見えない何かが、確かに動き始めていた。

 

百年前に終わったはずのもの。

 

歴史の闇へ葬られたはずのもの。

 

それが再び、この大陸へ手を伸ばそうとしていることを――。

 

この時。

 

まだ誰も知らなかった。

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