ファイアーエムブレム 聖戦の系譜〜氷雪の融解者〜 作:Edward
侵攻
光の中で、俺は自分自身の変化をはっきりと感じ取っていた。
――いや。
変わった、という表現は正しくないのかもしれない。
これまでの俺こそが、何かに覆い隠された仮初めの姿だった。
身体の奥深く。
自分でも存在を知らなかった場所から、膨大な魔力が湧き上がってくる。
魔法の才覚は、血統によるところが大きい。
どれほど望み、どれほど修練を積もうとも、生まれ持った魔力の器がなければ魔法を扱うことはできない。
逆に、それまで魔法とは無縁だった者が、何らかのきっかけによって突然その力を目覚めさせることもある。
そして、その器には得意とする魔法の性質がある。
俺の場合は――風だった。
同じだけの魔力を込めても、《ファイアー》や《サンダー》より《ウインド》の方が遥かに威力が高い。
それは俺がセティの血を引いているからだ。
ずっと、そう思っていた。
もちろん修練を重ねれば、不得手な属性との差を縮めることはできる。
だが、自らの魔力の器そのものを理解し、その性質すら超える境地へ至った魔道士など、このユグドラル大陸全土を見渡しても十人といないだろう。
それほどまでに、魔力の器とはその者の生まれそのものに近い。
だというのに。
今――。
俺の中で、その器そのものが変わろうとしていた。
暖かい。
それでいて、力強い。
身体から溢れ出しそうなほどの魔力。
今までとは比較にならないほど高まった魔法への抵抗力。
そして何より――。
懐かしい。
初めて触れたはずの力なのに。
なぜか俺は、この光を知っているような気がした。
忘却の彼方へ追いやられていた何かが、暖かな陽光を浴びて輪郭を取り戻していく。
俺の中で眠っていたものが――
ようやく、目を覚ました。
「ぬううっ……! き、貴様……何者なのだ!」
老人の声に、もはや先ほどまでの威厳はなかった。
光の中から現れた俺を見て、一歩、また一歩と後退していく。
ホリンも言葉を失っていた。
くすんだ栗色だったカルトの髪は、光を溶かし込んだような銀色へと変わっている。
額には見覚えのないサークレット。
身に纏う魔道士の衣の上には、白銀の刺繍が施されたマント。
そして右手には――。
先ほどまで持っていた、あのくたびれた魔道書とは似ても似つかない、眩い光を放つ聖書が握られている。
あの魔道書を焼いた。
ただ、それだけだった。
それなのに、カルトという存在そのものが変貌している。
ホリンには理解できなかった。
そして――。
老人にも、理解できていないようだった。
いや。
違う。
老人の目に浮かんでいるものは、単なる驚愕ではない。
何かを恐れている。
俺自身さえ知らない――俺の中にある何かを。
「悪いな」
俺は聖書を開いた。
「俺自身、何が起きたのかよく分かっていない」
老人を睨み据える。
「だから説明してやることもできない」
光が集まる。
「ただ一つ分かるのは――」
老人の顔が引き攣った。
「貴様をここから生かして帰すわけにはいかないってことだ」
「若造が……言いおるわ!」
老人が杖を振り上げる。
「ヨツムンガント!!」
周囲に漂っていた瘴気が、一斉に集束した。
黒い蛇の群れのように蠢く邪気。
先ほどの俺なら、一撃で瀕死に追い込まれていた魔法。
だが――。
不思議なほど恐怖はなかった。
左手を静かに掲げる。
すると、知らないはずの魔法の名が自然と浮かんできた。
「――ライトニング」
閃光。
地下空間を昼へ変えたかのような純白の光が走った。
ヨツムンガントを構成していた邪気が、触れた瞬間から黒い霧となって消えていく。
「なにっ!?」
それだけでは終わらない。
光はそのまま老人へ届いた。
「ぐあああああっ!!」
老人が絶叫する。
身体から黒煙のような魔力が噴き上がり、光に触れた端から消えていく。
「や、やめろ! やめろおおおっ!」
老人は狂ったように杖を振るった。
暗黒魔法を発動しようとしている。
だが――何も起こらない。
「無駄だ」
俺は左手を下ろさなかった。
「今のお前じゃ、この光を抜けられない」
さらに魔力を込める。
「大人しく――闇へ帰れ」
「ぐ……ううううっ!」
その言葉に。
老人の表情が変わった。
「闇へ……帰れ、だと……?」
何がおかしいのか。
老人が苦痛に顔を歪めながら――笑った。
「小僧……何も知らぬくせに……!」
次の瞬間。
老人の身体から爆発するように黒い魔力が噴き出した。
「ようやく……!」
老人の周囲に小さな暗黒の結界が形成され、ライトニングの光が初めて押し止められる。
「ようやく、ここまで力を取り戻したのだ……!」
取り戻した?
俺はその言葉に引っ掛かった。
老人は歯を食いしばり、俺を睨む。
「完全に戻るまで……あと僅かだったというのに……!」
戻る?
何のことだ。
「またしても……!」
老人の声に、異様なほど深い憎悪が宿る。
「またしても我らの前に、光が立ちはだかるか……!」
意味は分からない。
だが――。
こいつは、ただのロプト教団の術者ではない。
本能がそう告げていた。
老人の魔力がさらに膨れ上がる。
「まだだ……まだ終われぬ!」
地下の祭壇に残っていた瘴気が、老人へ吸い寄せられていく。
「ようやく……ようやく始まろうとしているのだ……!」
「何がだ!」
「貴様が知る必要はない!」
老人の目に狂気が宿った。
「ここで貴様を消す! たとえ今得た力の全てを失おうともな!」
空気が震える。
老人が両腕を大きく広げた。
「――ヘル!」
空間が歪んだ。
「なっ……!」
俺は咄嗟にライトニングを解除し、防御へ魔力を回す。
視界が捻じ曲がる。
上下も左右も分からない。
身体には傷一つない。
だというのに――。
意識だけが、底のない沼へ沈んでいく。
そこで俺は気づいた。
これは肉体を破壊する魔法ではない。
《ヘル》。
人の精神を蝕み、心の奥底に隠された傷を抉り出す暗黒魔法。
恐怖。
憎悪。
悲嘆。
後悔。
それらを増幅させ、対象者自身の心によって精神を破壊する。
耐え切れず狂人となった者。
生きていながら二度と目覚めなかった者。
暗黒魔法の中でも極めて高位に位置し、扱える者はごく僅かしか存在しない。
「くくくく……!」
老人の笑い声が遠くから響く。
「いかに強大な光を持とうと、人である限り闇はある!」
景色が変わった。
シレジア。
幼い頃の俺。
そして――。
父。
マイオス。
胸の奥から、黒いものが溢れ出した。
母を死地へ送り、自らは権力と野心にしがみついた男。
母以外にも多くの女を囲い、その間に何人もの子を作った。
母を早くに失った俺は、その女たちや異母兄弟から疎まれた。
何度、毒を盛られた。
何度、殺されかけた。
食事を誰かと一緒に取ることすら怖くなった。
それでも父から手が差し伸べられることはなかった。
虐げられても。
侮辱されても。
怒れば、次に何をされるか分からない。
だから笑った。
何でもないふりをした。
そうやって――生き残った。
ダッカー叔父との争いでは、子供でありながら死地へ放り込まれた。
それでも生きた。
生き延びた。
そして俺に聖痕があると分かった途端――父の態度は変わった。
英才教育。
魔法。
政治。
軍学。
俺の魔力がシレジアでも有数と呼ばれるほど成長すると――。
今度は、父自身が俺を恐れた。
そして。
殺そうとした。
証拠はなかった。
計画も闇へ葬られた。
だが――俺には分かっていた。
あれは父だ。
あの男が、俺を殺そうとした。
憎い。
憎い。
憎い――!
親父。
兄弟。
あの女たち。
俺を利用した奴ら。
俺を殺そうとした奴ら。
全部――。
今すぐシレジアへ戻って。
この手で――!
『おやめなさい、カルト』
「――!」
時間が止まった。
聞き間違えるはずがない。
もう二度と聞けないと思っていた声。
「……母さん?」
『闇に飲まれてはいけません』
優しい声だった。
幼い頃。
眠れない夜。
俺の頭を撫でてくれた――あの声。
『あなたには、願いがあったはずです』
「願い……?」
『レヴィン王子を、シレジアの王に』
胸の奥に、小さな光が灯った。
『あなたが望んだのは、復讐ではありません』
そうだ。
『憎しみから始めれば、最後に残るものもまた憎しみです』
そうだった。
俺は――。
「俺は……レヴィンを王にしたい」
親父を殺したいからじゃない。
「シレジアを……救いたい」
俺を救ってくれた友。
「親父の手から俺を救ってくれたレヴィンと……ラーナ様に恩を返したい」
復讐じゃない。
俺が望んだ未来は――。
もっと先にある。
『ならば行きなさい、カルト』
母の声が遠ざかっていく。
『あなたには、正しき風と――人を導く光があります』
「母さん!」
『忘れないで』
優しい笑顔が見えた気がした。
『その力は、誰かを憎むためにあるのではありません』
――闇が砕けた。
◇
「カルト!」
ホリンは叫んだ。
返事はない。
カルトを覆う黒い魔力は、明らかにその光を弱らせている。
「くそっ!」
ホリンは大剣を振るった。
老人の胸を袈裟懸けに斬り裂く。
鮮血が飛び、老人が地面へ崩れ落ちた。
それでも――。
老人は笑っていた。
「く……くくく……無駄だ……」
「何だと?」
「《ヘル》は……儂を斬れば解けるような、生易しい術ではない……」
血を吐きながら笑う。
「一度心へ入り込んだ闇は……奴自身にしか払えぬ……!」
ホリンは剣を握り締めた。
もう、自分にできることはない。
「カルト……!」
その時だった。
カルトが目を開いた。
光が――爆発した。
黒い魔力が一瞬で吹き飛ぶ。
先ほどのライトニングとは比較にならない。
力強く。
それでいて、どこまでも優しい光。
カルトが聖書を開く。
まただ。
知っている。
使ったことなどないはずなのに。
この魔法を――俺は知っている。
「――オーラ!!」
光が地下空間を満たした。
「まさか……!」
老人の顔から、初めて完全に余裕が消えた。
「《ヘル》を……破った……?」
老人の目が見開かれる。
そしてカルトを包む光を見た瞬間――。
その表情に、僅かな恐怖が浮かんだ。
「その光……まさか……」
「何だ?」
「…………」
老人は答えなかった。
やがて、何かを悟ったように薄く笑う。
「いや……よい」
カルトは老人へ向かって歩く。
一歩。
また一歩。
「もう、お前に俺を倒す術はない」
「……そのようだ」
老人はよろめきながら立ち上がった。
魔力は尽きている。
転移する力さえ残っていないのだろう。
だが――。
その顔から恐怖が消えていた。
代わりに浮かんだものを、俺は理解できなかった。
諦め――ではない。
「いずれ……」
老人が呟いた。
「この世界は、再び我らのものとなる」
「終わりだ」
俺は聖書を構えた。
「ロプト教団に慈悲を与えるつもりはない」
光が集まる。
「本当なら情報を聞き出したい。だがお前たちは、何をしても口を割らないだろう」
老人を真っ直ぐ見据える。
「ここで終わらせる」
「……くくく」
老人が笑った。
「終わらせる、か」
何がおかしい。
「何が言いたい?」
「何も」
老人は目を閉じた。
「今の貴様には、まだ分かるまい」
オーラの光が老人を包み始める。
「だが覚えておけ、光の小僧」
その身体が、白い光へ溶けていく。
「闇を滅ぼしたと思ったその時こそ――」
老人が笑った。
「人は、最も深い闇を見る」
「……!」
「せいぜい抗うがいい」
身体が消えていく。
「我らも――」
最後に。
老人は、不思議な言葉を残した。
「待つことには……慣れている」
閃光。
老人の姿は完全に消えた。
後には何も残らなかった。
「…………」
俺はしばらく、その場所を見つめていた。
待つことには慣れている。
どういう意味だ。
分からない。
ただ――。
なぜだろう。
奴を倒したはずなのに。
これで終わったとは、どうしても思えなかった。
◇
静寂が戻った。
地下を満たしていた禍々しい空気は、オーラによって洗い流されたかのように消えている。
さらに魔法の余波で天井の一部が崩れ、そこから陽光が差し込んでいた。
暗闇に閉ざされていた祭壇を、太陽が照らしている。
その光の下で改めて周囲を調べ――。
俺たちは言葉を失った。
ここへ運び込まれた子供たちの多くは、すでにロプト教団の儀式の犠牲となっていた。
何のために。
奴らが何を得ようとしていたのか。
祭壇に残された術式を調べても、俺には理解できなかった。
ただ一つ。
奇妙なことだけは分かった。
この儀式は、ここにいる術者自身へ力を与えるためのものではない。
集められた魔力は――どこか別の場所へ流れるように術式が組まれていた。
その先がどこなのか。
何へ捧げられているのか。
今の俺には分からない。
幸いにも、一人の少女だけは無事に救出することができた。
今は意識を失い、ホリンの背中で眠っている。
必要と思われる遺物だけを回収した後、俺たちは祭壇へ火を放った。
そして地下への入口そのものを封印する。
二度と。
ここが使われることのないように。
一階へ戻ったところで、俺たちは休息を取ることにした。
少女を背負ったままではホリンも満足に戦えない。
少女が目を覚ませば、事情を聞くこともできる。
そして何より――俺自身の魔力がほとんど残っていなかった。
そんな時だった。
「……あれ?」
見覚えのある少年が姿を現した。
「お前」
俺は目を細める。
「確か、俺たちがイザークへ向かっていた時……ホリンの攻撃を避け続けていた盗賊だろ?」
少年は悪びれる様子もなく笑った。
「あはは。覚えてた?」
「仲間はどうした?」
「もう抜けたよ」
あっけらかんと答える。
「あいつらから取れるものは取ったしね」
「…………」
ホリンの眉が露骨に動いた。
少年は気にせず続ける。
「追っ手から逃げながら、しばらくほとぼりを冷まそうと思ってさ。前に見つけたこの遺跡を思い出したんだ」
そして焼け焦げた地下への入口を見る。
「そしたら、いつの間にか変な奴らが住み着いてるんだから驚いたよ」
「なるほど」
俺は薪を火へ放り込んだ。
「名前は?」
「僕?」
少年が自分を指差す。
「俺はカルト。あっちがホリンだ」
名前を呼ばれたホリンが、少女を休ませながら軽く会釈した。
少年はにっと笑った。
「僕はデュー。よろしく!」
そして、さらりと言った。
「しばらく一緒に行かせてくれると助かるんだけど」
「いいぞ」
「カルト!」
即答した俺に、ホリンが声を上げた。
「盗賊を同行させるなど正気か? 寝ている間に食料も金も全部持って逃げるかもしれんぞ」
まあ、そう言うと思った。
「確かにな」
俺は頷いた。
「だが今は、この少女を守りながら砂漠を越えなきゃならない。人数は多い方がいい」
デューを見る。
「それにこいつは、この辺りの地理を知っている」
そして笑った。
「リスクより、リターンの方が大きい」
「だが――」
「それに」
俺はデューへ視線を向ける。
「俺とホリンから盗んで、無事に逃げ切れると思うか?」
デューは少し考えた。
「盗むだけならできると思うよ」
「おい」
ホリンが大剣へ手を伸ばした。
「でもやらない」
デューは笑う。
「だって、あんたたち絶対どこまでも追いかけてくるでしょ?」
俺も笑った。
正解だ。
「それに――」
デューは俺たちの荷物を見る。
「そもそも、大して金目のもの持ってなさそうだし」
「…………」
「…………」
否定できなかった。
「はははっ!」
俺は思わず笑った。
「気に入った。本音を言ってくれて助かる」
「カルト……」
「どうだ、ホリン?」
ホリンはしばらくデューを見つめた。
やがて、大きくため息を吐く。
「……仕方あるまい」
「いいのか?」
「一度斬り合ったから分かる」
ホリンはデューを見る。
「こいつの剣にはイザークの型が混じっている。誰に教わったかは知らんがな」
デューの笑顔が、ほんの僅かに固まった。
「それを信用しよう」
「決まりだな」
俺は立ち上がった。
「デュー。この近くに安全に休める場所はあるか?」
「ダーナまで戻ると結構かかるけど、メンゲルなら半日もかからないよ」
「メンゲル?」
「ただし、イザークとは反対方向」
ホリンがこちらを見る。
本来なら、少しでも早くイザークへ向かうべきだ。
だが。
「構わない」
俺は即答した。
「今は魔力の回復を優先する」
右手の聖書を見る。
この力が何なのか。
なぜ俺が使えるのか。
そして――。
あの老人は、この光を見て何に気づいたのか。
何一つ分からない。
「魔力さえ戻れば、その後はいくらでも手は打てる」
「じゃ、決まりだね」
デューが歩き出す。
「案内するよ」
「ああ、頼む」
この時。
俺は知らなかった。
この判断が――。
俺たちだけではなく。
イザーク。
グランベル。
そしてユグドラル大陸そのものの運命へ繋がっていくことを。
もしデューを同行させなかったなら。
もし俺が魔力の回復を優先しなかったなら。
俺たちは、そのままイザークへ向かっていただろう。
そうなれば――。
運命は、まったく違う形へ分岐していたのかもしれない。
だが。
歴史は、待ってはくれなかった。
◇
「た、大変です!!」
イザーク王城。
定例会議へ出席していたリボー族長クラナドのもとへ、一人の兵士が飛び込んできた。
「何事だ!」
「我が軍が……ダーナへ侵攻しました!」
「……何?」
クラナドの顔から血の気が引いた。
兵士が続ける。
「指揮官は――クラウス様です!」
「なんだと!!」
椅子が倒れた。
クラナドは立ち上がる。
今日は定例会議のため、リボーを留守にしていた。
その間の守備については副官へ細かく指示してある。
何より――。
クラウスの言葉には決して従うなと、念を押していた。
それなのに。
「なぜだ……」
理解できない。
いや。
理解したくない。
「さらに!」
兵士の声が震えた。
「この侵攻を受け、グランベルのヴェルトマー公国――ロートリッターが動き出したとの情報が入っています!」
クラナドの身体が揺れた。
最悪だ。
ダーナへの侵攻だけでは終わらない。
グランベルが動けば――。
これは国家間の戦争になる。
「止めねば……」
クラナドが扉へ向かう。
「一刻も早く……こんな馬鹿げた真似を……!」
足元がおぼつかない。
長年、一族を率いてきた男とは思えないほどに。
その時。
扉が開いた。
「失礼する」
低く、よく通る声。
クラナドの足が止まった。
そこに立っていたのは――。
イザーク王、マナナン。
そして、その息子マリクルだった。
二人の表情を見ただけで分かった。
すでに。
全てを知っている。
「マナナン王!」
クラナドはその場へ膝をついた。
そして両手を床につける。
「申し訳……ありません!」
額が床へ触れる。
「クラウスの独断が……イザークを……!」
マナナンは何も言わなかった。
長い沈黙。
やがて。
「クラナド」
静かな声だった。
「貴公の人柄は知っている」
クラナドの肩が震えた。
「イザークへの忠義も疑っておらぬ」
マナナンの声にも、僅かな震えがあった。
「この事態を企てた者ならば、今日この場へ来るはずもない。それも分かっている」
クラナドがゆっくり顔を上げる。
「だが」
王は目を逸らさなかった。
「責は――取らねばならぬ」
「…………」
「意味は、分かるな」
クラナドは王を見た。
厳しい顔。
だが、その瞳には――深い悲しみがあった。
その瞬間。
先ほどまで取り乱していたクラナドの表情から、動揺が消えた。
リボーを長年率いてきた族長の顔へ戻る。
「……マナナン王」
静かに微笑んだ。
「これまで、あなたにお仕えできたこと」
一度、息を吸う。
「誇りに思っております」
マリクルが唇を噛んだ。
クラナドは目を閉じる。
「どうか――ご武運を」
マナナンは腰の剣へ手を掛けた。
神剣バルムンク。
抜刀。
銀光が一閃した。
あまりにも速い一撃だった。
クラナドが苦痛を感じる暇すらなかっただろう。
静かに。
その身体が崩れ落ちた。
誰も声を上げなかった。
マナナンは剣を下ろす。
その手が――震えていた。
長年、自分に仕えてくれた男。
臣下であり。
友でもあった男。
その命を。
自らの手で絶った。
「……クラナド」
誰にも聞こえないほど小さな声で、王は呟いた。
「俺も……すぐに行く」
そして。
「待っていてくれ」
神剣バルムンクの刀身に、一筋の赤が伝った。
それはまるで――。
これから始まる長い戦乱を予告するかのようだった。
ダーナ侵攻。
ロートリッター出陣。
クラナドの死。
それぞれは、まだ別々の出来事に見えていた。
だがその遥か深い場所では――。
誰にも見えない何かが、確かに動き始めていた。
百年前に終わったはずのもの。
歴史の闇へ葬られたはずのもの。
それが再び、この大陸へ手を伸ばそうとしていることを――。
この時。
まだ誰も知らなかった。