ファイアーエムブレム 聖戦の系譜〜氷雪の融解者〜 作:Edward
第12話 離別
ダーナで起きた紛争によって街道は封鎖されていた。
だが、転移の杖によってそのすべてを飛び越え、リボーへ帰還した四人は、それぞれの目的地へと散っていった。
マリアンは実家へ。
デューはガネーシャへ。
そしてホリンとカルトは、リボーの館へと急いだ。
以前訪れた時のリボーは、交易商や旅人たちが行き交う活気に満ちた街だった。
今も人の姿そのものは多い。
だが、雰囲気がまるで違っていた。
街路の各所にはイザークから派遣された兵士が立ち、行き交う者へ厳しい視線を向けている。
荷馬車は止められ、積み荷を改められ、街へ入る者も出る者も身元を確認されていた。
もはや、自治都市としてのリボーの姿ではない。
「……やはり、こうなったか」
ホリンが低く呟いた。
リボー族長の一族が引き起こした他国への侵攻。
ダーナでリボー軍が壊滅しただけでは、この一件が終わらなかったことを街の光景そのものが物語っていた。
ホリンは歩きながら、クラナドの無事を祈った。
そして同時に、どうしてこんなことになったのか、その真相を知りたかった。
クラナドの息子クラウス。
短気で、結果を急ぎ、自分の力を証明したがる男ではあった。
だが逆に言えば、口ほど行動力のある男でもない。
あれほど大規模な軍事行動を、自らの意思だけで起こせるとはホリンには思えなかった。
――カルトの言った通り、裏で誰かが焚きつけたのか。
そう考えれば、クラウスが父クラナドの制止を振り切って暴走したことには説明がつく。
だが、それでも疑問が残る。
リボー軍にはクラナドが最も信頼する副長がいた。
族長不在、あるいは命令系統に混乱が生じた場合、軍の指揮権を預かる人物だ。
クラウス一人の命令で、軍全体が動くはずがない。
考えれば考えるほど、何かが噛み合わなかった。
やがて二人はリボーの館へ到着した。
しかし門前には、リボー兵ではなくイザーク王国軍の兵士が立っていた。
二人が近づくと、槍を持つ兵士たちの間にわずかな緊張が走る。
それでもホリンは歩調を変えなかった。
「私はソファラのホリンだ」
兵士の前で立ち止まり、堂々と名乗る。
「ここの前領主、クラナド様より受けた依頼について報告に参った。中へ通してもらいたい」
兵士は一瞬、仲間と視線を交わした。
やがて一人が静かに首を振った。
「現在、リボーの自治権は停止され、イザーク王家の直接管理下に置かれている」
「……そうか」
「事情は察する。だが、許可のない者を館へ入れることはできない」
ホリンは何も言わなかった。
兵士も敵意があるわけではないのだろう。
少し声を落として続けた。
「旧リボー軍の兵士たちなら、街の東にある旧館へ移されている。詳しい事情を知りたいのであれば、そちらへ行くといい」
「……かたじけない」
ホリンは頭を下げた。
そして踵を返す。
その足取りは速かった。
カルトは黙って後を追った。
ダーナでの戦いから、まだそれほど時間は経っていない。
魔力も完全には戻っていない。
精神的な疲労も残っている。
それでも今のホリンを止める気にはなれなかった。
◇
教えられた場所へ着いた二人は、言葉を失った。
そこは旧市街の外れにある、使われなくなった館だった。
建物は傷み、十分な生活物資もない。
衛生環境も決して良いとは言えなかった。
そして何より――。
そこにいる兵士たちの目から、生気が失われていた。
以前リボーを訪れた際、気さくに話しかけてきた兵士の姿をホリンが見つけた。
「おい」
呼びかける。
男はゆっくりと顔を上げた。
「俺だ。ホリンだ」
反応がない。
「俺がダーナへ行っている間に、何があった」
その言葉を聞いて、ようやく男の瞳が揺れた。
やがて、その目に涙が溜まっていく。
「……ホリン様」
掠れた声だった。
「クラウス様が……副長を殺しました」
「何……?」
ホリンの顔色が変わる。
「止めようとした副長を殺して……自分に従う兵を集めて、ダーナへ向かったんです」
男は拳を震わせた。
「子供たちを攫った組織を炙り出すと言って……街に火まで放ったと聞きました」
カルトは目を伏せた。
あの炎を思い出す。
燃え上がる街。
逃げ惑う人々。
そして、暴走する兵士たち。
「その後、ダーナに駐留していたグランベル軍に鎮圧されました。ですが……」
男の声が詰まった。
ホリンが先を促すことはなかった。
嫌な予感がしていた。
「その責任を問われて……クラナド様が、イザークで処刑されました」
「――クラナド様が……!」
ホリンの身体が揺れた。
その場に片膝をつく。
目を閉じた。
覚悟していなかったわけではない。
それでも、実際にその死を聞かされることとは別だった。
クラナドはホリンを信じた。
軍を動かすのではなく、一人の剣士であるホリンに子供たちの行方を託した。
そして――。
その判断は間違っていなかった。
子供たちは救出された。
それなのに。
本人はもう、その報告を聞くことすらできない。
「……すまない」
カルトが口を開いた。
「話の途中なのはわかっている。だが、一つ確認させてくれ」
兵士がカルトを見る。
「クラナド殿を処刑し、リボーの自治権まで停止した。それでもイザーク軍がこれほど厳重に街を管理しているということは……まだ終わっていないんだな?」
「……はい」
「イザークは、クラナド殿一人の首で済ませるつもりじゃない」
兵士は静かに頷いた。
「マナナン王が、まもなくリボーへ到着されます。こちらで一泊された後、バーハラへ向かわれる予定です」
「やはりか……」
カルトは街で見た警備を思い返した。
国王自らが他国へ赴き、正式に謝罪する。
今回の一件をイザーク王国による侵攻ではなく、一地方勢力の暴走として収めるためだろう。
ダーナへの賠償。
グランベルへの謝罪。
そして再発防止。
そのすべてをマナナン王自身が背負うつもりなのだ。
だから街中が、あれほど物々しかったのか。
だが兵士は、まだ何かを言いたそうにしていた。
「それと……ホリン様」
「なんだ」
「マナナン王と共に、グランベルへ向かわれる方がいます」
「誰だ?」
男は一度言葉を飲み込んだ。
「……ソファラ城主様です」
ホリンの顔から血の気が引いた。
「な……父上が?」
「はい。自ら同行を申し出られたと聞いております」
「父上……」
その一言だけを残し、ホリンは俯いた。
カルトも何も言えなかった。
その意味がわかってしまったからだ。
マナナン王はイザークという国そのものの象徴。
外交交渉の場で簡単に処刑できる人物ではない。
だが、クラナドを処刑しただけでグランベルが納得する保証もない。
ならば。
さらに責任を負う者が必要になる。
リボーと深い関係を持つソファラ。
その城主。
――自ら、その役目を買って出たのだ。
理屈はわかる。
外交としても理解できる。
だが。
カルトには、その理屈が吐き気がするほど嫌いだった。
国の威信。
体裁。
責任。
落とし所。
そんな言葉を並べ、人の命を天秤に乗せる。
けれど――。
同時に思う。
その役目を誰かに押しつけるのではなく、自ら引き受けたホリンの父。
その生き方を、カルトは否定できなかった。
むしろ、ホリンという男がなぜこれほど己の正義に忠実なのか。
少しだけわかった気がした。
「ホリン様」
兵士が言った。
「お父上は、まもなくリボーの館へ到着されるはずです」
ホリンが顔を上げる。
「……そうか」
「お会いになられた方がよろしいかと」
「ああ」
短く答える。
そしてホリンは、先ほど来た道を戻り始めた。
カルトはその背中をしばらく見送った。
追いかけようとは思わなかった。
これは親子の時間だ。
自分が立ち入る場所ではない。
「ホリン」
呼びかけると、ホリンが足を止めた。
「……またな」
ホリンは振り返らなかった。
ただ片手を上げた。
それだけで十分だった。
カルトも背を向けた。
それぞれが、それぞれの道へ進む。
それが、この旅で初めて訪れた――離別だった。
◇
市場まで戻ると、先ほどまでの物々しさが少し薄れていた。
兵士の姿こそあるものの、人々は日々の生活を続けている。
野菜を売る声。
値段を交渉する声。
走り回る子供たち。
カルトはその光景に、わずかに安堵した。
「……腹減ったな」
ようやく自分の身体が空腹を訴えていることに気づく。
宿へ戻る前に何か食べるか。
そう思って店を探していた時だった。
見覚えのある少女を見つけた。
「……マリアン?」
間違いない。
数時間前に別れたばかりの少女だった。
手には買い物のメモ。
店をいくつも回り、大量の荷物を抱えている。
だが。
カルトは足を止めた。
――何だ、あの顔。
故郷へ帰った。
家族のもとへ帰った。
ならば、もっと嬉しそうな顔をしていてもいいはずだった。
しかしマリアンの表情には、喜びがない。
むしろ――怯えている。
カルトの胸の奥で、何かがざわついた。
嫌な感覚だった。
知っている。
あの顔を。
「…………」
気づけば、カルトはマリアンの後を追っていた。
自分でも趣味が悪いと思う。
だが、放っておけなかった。
少女は市場を何軒も回った。
その動きには迷いがない。
子供が初めて任された買い物ではない。
何度も、何度も。
同じことを繰り返してきた者の動きだった。
やがてマリアンは、街外れにある一軒の家へ入っていった。
藁葺き屋根の小さな家。
質素なのは構わない。
だが、荒れ果てていた。
窓は汚れ、家の周囲にはゴミが散らばっている。
カルトの胸騒ぎが、確信に近づいていく。
――違ってくれ。
そう願いながら、そっと中を覗いた。
生活用品が散乱していた。
床には埃が積もり、酒瓶が転がっている。
ベッドには腹の突き出た大柄な男が寝転び、その横には妖艶な女が横になっていた。
「マリアン!」
男の怒声が響いた。
少女の肩が跳ねる。
「買い物が終わったんなら、さっさと酒とつまみを出せ! お前がいなくなってから仕事が溜まってるんだ!」
「は、はい! ただいま!」
マリアンは笑った。
いや。
笑おうとした。
その瞬間。
カルトの中で、何かが凍りついた。
――知っている。
あの笑い方を。
殴られないための笑顔。
怒らせないための声。
相手の機嫌を損ねないよう、必死で自分を小さくする仕草。
全部。
知っている。
忘れたことなど、一度もない。
幼い頃。
母を失った自分に、居場所はなかった。
義母から疎まれた。
理由など、子供にはわからない。
自国の者でもない女が、マイオスの長男を産んだ。
ただ、それだけ。
大人たちにとっては、それだけで十分だったらしい。
毒を盛られたこともある。
意識が朦朧としているのに、医者を呼ぶことすら許されなかった。
三日間。
生死の境を彷徨った。
それでも生き延びた。
床を這い、ようやく立ち上がって奴らの前へ姿を見せた時。
驚くと思った。
少しくらい、悪びれると思った。
違った。
その日のうちに暗殺者が来た。
幼い自分にはわからなかった。
逃げるということも。
戦うということも。
助けを求めるということすら。
知らなかった。
ただ大人の機嫌を窺った。
殴られたら笑った。
命令されたら従った。
そうすれば、今日は生きられる。
明日まで生きられる。
それしか知らなかった。
――だから。
わかってしまう。
マリアンの笑顔が。
少女の腕に残っていた傷。
暗黒教団に捕らえられた時についたものだと思っていた。
違う。
もっと前からだ。
宿で温かい食事を口にした時の、あの幸せそうな顔。
清潔なベッドへ入った時の、安心しきった表情。
あれは旅の疲れが取れたからではない。
あの少女にとって。
温かい食事も。
安心して眠れる場所も。
当たり前ではなかったのだ。
「…………っ」
気づけば、カルトの頬を涙が伝っていた。
――言ってくれれば。
そう思う。
言ってくれれば、俺もホリンも助けた。
だが。
すぐに、その考えを否定した。
違う。
言えないんだ。
子供には。
助けを求めたことが親に知られたら。
もっと酷いことをされるかもしれない。
見捨てられるかもしれない。
そして何より――。
助けを求めて。
拒絶されたら。
もう何も残らない。
それが怖い。
「……くそ」
カルトは拳を握った。
今すぐ扉を蹴破りたかった。
あの男を殴り飛ばし、マリアンを連れ出したかった。
だが。
それでは駄目だ。
事情を知らない第三者から見れば、自分がやろうとしていることも、暗黒教団の人攫いと何も変わらない。
マリアンが水桶を持って家を出た。
水汲みだろう。
カルトは動かなかった。
もう少しだけ。
そう自分に言い聞かせる。
その時だった。
「ねえ!」
女の声がした。
「どうしてあの子、帰ってきたのよ!」
カルトの呼吸が止まった。
「あんた、ちゃんとあの子を売ったんでしょうね!」
――売った?
「売ったさ! 金だってここにあるだろ!」
男が吐き捨てる。
「じゃあ何で戻ってくるのよ!」
「俺が知るか! だが……まずいな。あいつらに見つかって、俺たちが騙したと思われたら殺される」
「どうすんのよ! 私、まだ死にたくないよ!」
「さっき別の仲介人に話をつけた」
男が笑った。
「見つかる前に別のところへ売ればいい。また金も入る」
カルトは。
しばらく動けなかった。
誘拐されたのではなかった。
売られた。
実の親に。
そして。
帰ってきた娘を。
もう一度、売る。
頭の奥で、何かが切れた。
自分も親族に殺されかけた。
だが。
それ以上に。
これは――。
「……ふざけるな」
声が震えた。
怒りなのか。
悲しみなのか。
自分でもわからない。
ただ、一つだけ決めた。
――もう、あの子をここへ戻さない。
◇
家から少し離れた場所に、共同井戸がある。
私は水桶に縄を結び、井戸の中へ落とした。
ずっと昔からやっている仕事。
イザークの井戸は深い。
水をいっぱいに含んだ桶を引き上げるのは、子供には大変な仕事だった。
昔は何度も失敗した。
時間がかかると、お母さんに叩かれた。
それでも。
私はお母さんとの生活を耐えられた。
怖かったけれど。
お母さんしか、いなかったから。
そのうち、大きな男の人が家へ来るようになった。
最初は優しかった。
私にも笑ってくれた。
お母さんも少し穏やかになった。
だから。
この人がお父さんになるなら。
これから幸せになるのかなって。
そう思った。
ほんの少しだけ。
でも。
すぐに全部変わった。
男の人は働かなくなった。
毎日お酒を飲んで怒鳴った。
お母さんも働かなくなって、その人の言うことばかり聞くようになった。
私は家事をした。
買い物をした。
水を汲んだ。
料理をした。
怒られないように。
叩かれないように。
ある日。
住み込みの働き口が見つかったと言われた。
悲しかった。
私はいらないんだと思った。
家を飛び出した。
行く場所なんてなかった。
ただ町を歩いた。
その時。
一人の旅人を見つけた。
武器屋のおじさんと話をしていた。
値段を下げろと言っている。
武器屋のおじさんも負けていない。
なのに旅人さんは楽しそうだった。
私は思わず聞き入った。
すごいなって思った。
知らない町で。
知らない人と。
あんなふうに話せる。
私はお母さんとすら、ちゃんと話せないのに。
それなのに。
なぜか。
その人を見ていると。
私と似ているような気がした。
どうしてなのかは、わからなかった。
ただ。
優しかった。
その人は私と話してくれた。
髪飾りをくれた。
初めてだった。
誰かから。
私のために何かをもらったのは。
嬉しかった。
本当に。
嬉しかった。
だから。
その帰り道。
住み込み先の主人だと名乗った人が迎えに来ても。
疑わなかった。
その後の記憶はない。
目を覚ましたら。
窓のない部屋にいた。
子供たちがたくさんいた。
一人。
また一人。
いなくなっていった。
私は最初。
仕事が決まったんだと思った。
そう思いたかった。
最後に。
私だけになった。
怖かった。
誰か助けて。
何度も心の中で叫んだ。
誰に向かってなのかもわからない。
私を見てくれる人なんていない。
助けてくれる人なんていない。
お腹が空いて。
力がなくなって。
意識が遠くなった。
真っ暗な中で。
あの旅人さんを思い出した。
――もし。
誰かが助けに来てくれるなら。
あの人がいいな。
あの髪飾りをつけてくれた手で。
私の手を掴んでほしい。
私を見つけてほしい。
抱きしめてほしい。
話を聞いてほしい。
そして。
本当に。
来てくれた。
温かいご飯を食べさせてくれた。
綺麗なベッドで眠らせてくれた。
故郷まで送ってくれた。
だから。
言いたかった。
――助けて。
でも。
言えなかった。
カルトさんを困らせるかもしれない。
もし。
嫌だと言われたら。
それが怖かった。
だから私は家に帰った。
お母さんが心配してくれているかもしれない。
少しくらい。
私がいなくなって寂しかったと思ってくれているかもしれない。
ほんの少し。
そう期待した。
でも。
何も変わっていなかった。
◇
気がつくと、手が止まっていた。
頬が濡れている。
マリアンは慌てて涙を拭った。
「……よいしょ」
縄を引く。
だが。
上がらない。
「っ……!」
もう一度。
力を込める。
駄目だった。
今日はほとんど食べていない。
それに。
家へ戻ってから、身体に力が入らなかった。
「……っ、う……!」
それでも引かなければ。
遅くなれば怒られる。
また叩かれる。
だから。
引かなきゃ。
その時。
誰かの手が、マリアンの小さな手を包んだ。
そして――。
ぐいっ、と縄が引き上げられる。
「え……?」
顔を上げた。
「よう、マリアン」
そこに。
ずっと会いたかった人がいた。
「カルト……さん?」
「大変そうだな。手伝うぜ」
何事もなかったように笑っている。
カルトは水を満たした桶を軽々と引き上げ、大きな桶へ移した。
もう一度。
さらにもう一度。
あっという間に水が満たされる。
「……ありがとうございます」
「いいって」
カルトは手を払った。
「それより、マリアンを探してたんだ」
「私を……?」
少女が首を傾げる。
髪飾りが陽光を受け、小さく輝いた。
カルトはそれを見つめた。
初めて会った日に、自分が何気なく渡したもの。
あの小さな贈り物が。
この少女と自分をもう一度繋いだ。
「俺さ」
カルトは言った。
「また、イザークを発つことになりそうなんだ」
マリアンの顔から、表情が消えた。
胸の奥を。
何かに強く掴まれたような気がした。
この人がいなくなる。
もう。
助けてくれる人はいなくなる。
それでも。
困らせちゃいけない。
マリアンは必死に笑った。
「そう……ですか」
声が震えそうになる。
「寂しくなります」
笑わなきゃ。
「また……」
喉が痛い。
「またイザークに、来てくださいね」
精一杯の笑顔だった。
その顔を見て。
カルトはしゃがんだ。
少女と同じ高さまで。
マリアンが驚いたように彼を見る。
カルトは、真正面からその瞳を見つめた。
「マリアン」
「はい」
「一緒に来るか?」
「…………え?」
理解できなかった。
「俺と一緒に来るか」
もう一度。
ゆっくりと言う。
「いろんな国を見て、いろんな人と会って、いろんなことを知ればいい」
マリアンの瞳が揺れた。
「そしていつか、自分がどう生きたいのか、自分で決めればいい」
「あ……」
「君の家にも行ってきた」
マリアンの身体が強張った。
だが、カルトは続ける。
「話はつけた」
細かいことを、少女に聞かせる必要はない。
あの家で何を聞いたのかも。
どんな言葉を交わしたのかも。
「家を出るなら好きにすればいい。そう言っていた」
マリアンは俯いた。
悲しいはずだった。
実の母親から。
そんな言葉を向けられたのだから。
でも。
同時に。
身体を縛っていた何かが。
少しずつ。
解けていく。
「だから」
カルトは言った。
「ここから先は、俺が決めることじゃない」
マリアンが顔を上げる。
「君が決めろ」
「私が……?」
「ああ」
カルトは笑った。
「残りたいなら残ればいい」
「…………」
「俺と来たいなら、来ればいい」
少女の瞳から。
涙が溢れた。
「誰かに言われたからじゃない」
カルトは、まっすぐ少女を見つめる。
「お母さんでもない。あの男でもない。俺でもない」
そして。
静かに言った。
「これからは、自分で決めろ」
マリアンの唇が震えた。
生まれて初めてだった。
何をしろ。
あれをしろ。
早くしろ。
黙れ。
働け。
ずっと。
誰かの命令を聞いて生きてきた。
自分で決めていいと言われたことなど、一度もなかった。
「わ……私は……」
声にならない。
でも。
今度は。
言わなきゃ。
あの暗い部屋で、ずっと叫んでいた言葉を。
「私……!」
マリアンはカルトへ飛び込んだ。
小さな身体で。
力いっぱい。
抱きついた。
「一緒に……行きたいです……!」
カルトは何も言わず。
その身体を受け止めた。
「カルトさんと……一緒に行きたい……!」
「ああ」
少女の頭に手を置く。
あの日。
髪飾りをつけた時と同じ手だった。
「行こう」
たった一言。
それだけだった。
けれど。
マリアンにとって。
それは初めて、自分で選んだ道だった。
カルトは少女の頭を撫でながら、遠い昔の自分を思い出していた。
殴られても笑っていた少年。
誰にも助けを求められなかった少年。
逃げることさえ知らなかった少年。
もし。
あの頃。
誰かが手を差し伸べてくれていたなら。
もし。
誰かが言ってくれていたなら。
――お前が決めていい、と。
人生は少し違っていただろうか。
わからない。
過去は変えられない。
だが。
今。
腕の中にいる少女の未来は。
まだ変えられる。
いや。
違う。
カルトは小さく笑った。
変えるのは、俺じゃない。
この子自身だ。
俺がすることは。
その日が来るまで。
この子が自分の足で立てるようになるまで。
傍にいることだけだ。
この日。
ホリンは父のもとへ向かい。
デューはガネーシャへ帰り。
マリアンは、生まれ育った家を捨てた。
そしてカルトもまた。
遠い昔。
何もできず、ただ大人の顔色を窺っていた幼い自分へ。
ほんの少しだけ。
別れを告げた。
それぞれの離別は。
やがて再び彼らを巡り合わせる未来へと。
静かに続いていた。