ファイアーエムブレム 聖戦の系譜〜氷雪の融解者〜   作:Edward

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016 聖痕

翌朝。

 

夜が明けきるよりも早く、まだ衛兵たちさえ本格的に動き始めていない時刻。

 

バーハラ城内の魔道鍛練場に、四人の姿があった。

 

カルト、アゼル、ティルテュ、そしてエスニャ。

 

だが、彼らが到着した時には、すでに一人の男が中央に立っていた。

 

アルヴィス。

 

静かに目を閉じ、呼吸を整えている。

 

何もしていないように見えるというのに、その周囲だけ空気が違った。

 

眠っていた炎を呼び覚ますかのように、内側から少しずつ魔力が解放されていく。

 

「よう。準備は出来てるみたいだな」

 

カルトが声を掛ける。

 

アルヴィスはゆっくり目を開いた。

 

「ふ……カルト公子もな」

 

昨日までの二人の間にあった立場も、身分も、思惑も。

 

今だけは必要なかった。

 

かつて出会った頃のように。

 

一人の魔道士と、一人の魔道士として。

 

カルトはアルヴィスから距離を取り、構える。

 

対するアルヴィスは構えない。

 

ただ静かに、正面からカルトを見据えていた。

 

次の瞬間。

 

空気が変わった。

 

アルヴィスを中心に熱気が膨れ上がり、対するカルトの周囲には白い冷気が漂い始める。

 

炎に風をぶつける。

 

以前のカルトなら、それだけを考えていただろう。

 

だが、あれから何度も考えた。

 

炎に対して、風は本当に有効なのか。

 

風は炎を押し返すこともできる。

 

だが使い方を誤れば、酸素を送り込み、逆に勢いを増す。

 

ならば――。

 

風で熱を奪えばいい。

 

急激な冷却によって氷雪を生み、それを風に乗せる。

 

炎を押し返すのではない。

 

熱そのものを奪う。

 

「ファイアー」

 

アルヴィスが右手を掲げた。

 

下位魔法。

 

本来ならば、魔道を学ぶ者が最初に扱う程度の術。

 

――のはずだった。

 

轟音。

 

放たれた炎は巨大な奔流となってカルトへ襲い掛かる。

 

「冗談だろ……!」

 

カルトも即座に魔力を解放した。

 

「ウインド!」

 

暴風が巻き起こる。

 

ただの風ではない。

 

無数の氷雪を巻き込んだ冷気の奔流。

 

炎と風。

 

熱と冷気。

 

二つの魔法が鍛練場の中央で激突した。

 

氷が蒸発し、白い蒸気となる。

 

風が炎を引き裂き、炎が再び膨れ上がる。

 

凄まじい魔力の余波が壁を震わせ、離れて見守っていた三人の衣服まで激しくはためいた。

 

「これ……ファイアーとウインドなの?」

 

ティルテュが呆然と呟く。

 

アゼルは答えなかった。

 

いや、答える余裕がなかった。

 

拮抗している。

 

そう見えたのは、ほんの僅かな時間だった。

 

「ぐっ……!」

 

カルトの身体が押され始める。

 

足が床を滑る。

 

額に汗が浮かぶ。

 

対するアルヴィスの表情は変わらない。

 

少しずつ。

 

本当に少しずつ魔力を上乗せしているだけだ。

 

それだけでカルトの風が押し戻されていく。

 

――やっぱり、正面からじゃ勝てねえ。

 

神器によって引き上げられたアルヴィスの力。

 

魔力だけではない。

 

耐久力も、防御力も、常人とは比較にならない。

 

なら――正面から戦わなければいい。

 

「エルウインド!」

 

カルトは突然、別の魔法を下方から叩き込んだ。

 

「なにっ!?」

 

炎と氷雪がぶつかり合う中心へ、さらに強烈な風が突き上げる。

 

均衡していた二つの魔法は強引に上空へ弾き飛ばされた。

 

轟音。

 

大量の蒸気が爆発するように広がり、鍛練場全体が白く染まる。

 

アルヴィスは即座に魔力探知を広げた。

 

視界が戻る。

 

だが――。

 

「……いない?」

 

カルトの姿が消えていた。

 

その瞬間。

 

「ウインド!」

 

上。

 

アルヴィスが顔を上げる。

 

圧縮された空気の塊が襲い掛かった。

 

「ファイアー!」

 

炎が空気を急激に膨張させ、圧縮を破壊する。

 

だが。

 

「ウインド!」

 

二発目。

 

「くっ!」

 

さらに三発目。

 

四発目。

 

五発目。

 

アルヴィスの顔から、初めて余裕が消えた。

 

カルトは先ほど発生させた蒸気を目眩ましにし、その間に風を足場として上空へ移動していた。

 

天井を支える梁。

 

そこへ身を隠し、アルヴィスが視認のために意識を散らした瞬間を狙ったのだ。

 

一撃の威力では勝てない。

 

ならば、撃つ。

 

相手が一発撃つ間に二発。

 

二発なら三発。

 

魔法の発動速度。

 

身体能力。

 

その二つなら、カルトが上回っている。

 

「ウインド!」

 

ついにアルヴィスの迎撃が遅れた。

 

圧縮された風が直撃する。

 

「ぐっ!」

 

アルヴィスの身体が後方へ吹き飛ぶ。

 

だがカルトは止めない。

 

「まだだ!」

 

追撃。

 

二発。

 

三発。

 

吹き飛ばされたアルヴィスが壁へ激突する。

 

石壁が砕け、瓦礫が舞った。

 

カルトは風を操り、梁から地上へ降り立つ。

 

息が荒い。

 

それでも視線は、崩れた壁から離さなかった。

 

「……これで終わるわけねえよな」

 

瓦礫が動く。

 

やがて、その中からアルヴィスがゆっくりと立ち上がった。

 

衣服には埃が付いている。

 

だが――立っている。

 

カルトは思わず舌打ちした。

 

アゼルの言葉が脳裏をよぎる。

 

――兄上には、誰も勝てていない。

 

今になって、その意味が骨身に染みた。

 

アルヴィスは衣服についた埃を払いながら言った。

 

「神器がなければ、今ので公子の勝ちだっただろう」

 

そして、僅かに笑う。

 

「だが、武具の力もまた強さの一つだ」

 

「ああ。気にしてねえよ」

 

カルトも笑った。

 

――くそったれ。

 

内心では盛大に悪態をついていた。

 

「ねえ……これ、カルトに勝ち目あるの?」

 

ティルテュがアゼルの袖を掴む。

 

「このまま正面から撃ち合えばない」

 

アゼルは兄から目を離さず答えた。

 

「でも、魔法の発動速度と身体能力ならカルトが上だ。兄上の防御を突破できるだけの魔法があれば……」

 

そこで言葉を止める。

 

そんな魔法があるのか。

 

少なくとも、アゼルは知らない。

 

「カルトさん……」

 

エスニャは胸の前で両手を組んでいた。

 

勝ってほしい。

 

だが、それ以上に。

 

無事でいてほしい。

 

その願いだけを込めて、カルトを見つめていた。

 

「素晴らしい」

 

アルヴィスが言った。

 

「公子ほどの潜在能力を持ちながら、聖戦士ではないというのが不思議なほどだ」

 

カルトは黙って構える。

 

「しかし――」

 

アルヴィスの目が細くなった。

 

「私が聖戦士である以上、聖戦士でない者に負けるわけにはいかぬ」

 

ぞくり。

 

カルトの背筋を悪寒が走った。

 

直後。

 

アルヴィスの周囲から、炎が立ち上った。

 

赤ではない。

 

橙でもない。

 

それはまるで、地平線から昇る朝日のような――黄金に近い山吹色。

 

早朝の冷えた空気が、一瞬にして熱を帯びる。

 

炎はアルヴィスの掌へ収束していった。

 

アゼルの顔色が変わった。

 

「兄上!!」

 

叫びながら二人の間へ駆け込む。

 

「お止めください! カルト公子を殺すつもりですか!」

 

炎の最大顕現。

 

聖戦士の血と神器によって放たれる、ヴェルトマーの炎。

 

――ファラフレイム。

 

ひとたび解き放たれれば、並の魔道士など跡形も残らない。

 

「カルト公子」

 

炎を掌に宿したまま、アルヴィスが問い掛ける。

 

「どうだ。ここでやめておくか?」

 

カルトは炎を見つめた。

 

分かる。

 

魔道士だからこそ分かってしまう。

 

あれをまともに受ければ死ぬ。

 

防御魔法一枚でどうにかなる代物ではない。

 

それでも。

 

カルトは笑った。

 

「まさか」

 

懐から一本の杖を取り出す。

 

聖杖。

 

「そいつを防いだら――お前に一発叩き込んでやる」

 

「カルト!」

 

エスニャの悲鳴が響いた。

 

「やめて! アルヴィス様! カルト!!」

 

アゼルも動こうとする。

 

だが。

 

アルヴィスが足元へ小さな炎を放った。

 

「うわっ!」

 

爆風。

 

アゼルの身体が強引に横へ弾かれる。

 

そして。

 

アルヴィスの掌から太陽が放たれた。

 

「ファラフレイム!」

 

世界が炎に染まった。

 

「マジックシールド!!」

 

聖杖が強烈な光を放つ。

 

透明な魔力障壁がカルトの前に展開された。

 

一枚。

 

二枚。

 

三枚。

 

違う。

 

それだけではない。

 

破壊される。

 

なら作る。

 

壊される。

 

なら、また作る。

 

カルトは全魔力を聖杖へ注ぎ込み、常識外れの速度で防御魔法を重ね続けた。

 

ファラフレイムが一枚を焼き砕く。

 

その奥に、もう一枚。

 

それも砕く。

 

さらに一枚。

 

「なに……!?」

 

アルヴィスの表情に初めて明確な驚愕が浮かんだ。

 

一つの強大な盾ではない。

 

壊されることを前提として、盾そのものを無数に作り続けている。

 

だが。

 

永遠には続かない。

 

「ぐ……あ……!」

 

カルトの魔力が底をつく。

 

障壁の生成速度が落ちた。

 

十あったものが八へ。

 

八が五へ。

 

三へ。

 

一へ。

 

最後の障壁に亀裂が走る。

 

そして――砕けた。

 

「――っ!!」

 

炎がカルトを呑み込んだ。

 

身体が宙を舞う。

 

床へ叩き付けられる寸前、ファラフレイムが消えた。

 

「カルト!!」

 

エスニャが駆け出す。

 

アルヴィスもすぐに魔法を止め、倒れたカルトへ治療の聖杖を向けた。

 

勝敗は決した。

 

アルヴィスの勝利だった。

 

◇

 

「……う……」

 

意識が戻る。

 

最初に見えたのは、心配そうに覗き込んでいるエスニャ。

 

その隣にアゼルがいた。

 

「……アゼルか」

 

カルトは天井を見つめた。

 

「俺、負けたんだな」

 

「ああ」

 

アゼルは笑った。

 

「負けた。でも善戦だったよ」

 

「慰めはよしてくれ」

 

カルトはゆっくり身体を起こす。

 

まだ全身が痛む。

 

「アルヴィスは全力じゃなかった」

 

アゼルが黙る。

 

「最後のファラフレイムも、直撃する寸前に軌道を足元へずらしてた。殺すつもりなら、俺は今ここにいない」

 

そして自分の身体を見る。

 

火傷もすでにかなり癒えていた。

 

「おまけに治療までしてくれたんだろ?」

 

小さく息を吐く。

 

「完敗だよ」

 

本心だった。

 

光魔法。

 

オーラ。

 

まだ誰にも明かしていない、自分のもう一つの切り札。

 

だが――。

 

あれを使っていたとしても。

 

勝てたとは思えない。

 

だからこそ、使わなかった。

 

まだ秘匿しておくべき力だ。

 

「さて」

 

カルトは無理矢理笑った。

 

「言い訳はここまでだ。ヴェルトマーへ帰るか。魔力を使い過ぎたから転移は無理だけどな」

 

立ち上がろうとして、傍らにあった聖杖を掴む。

 

杖代わりに体重を預けた瞬間。

 

――ぱきん。

 

「……え?」

 

聖杖が折れた。

 

「うおっ!?」

 

そのまま床へ転がる。

 

ごつん。

 

「いってええええ!!」

 

「カルト!?」

 

アゼルが慌てて駆け寄った。

 

だが。

 

違う。

 

頭を打った痛みではない。

 

床に顔を伏せたカルトの目から、大粒の涙が零れていた。

 

「……くそ」

 

拳を握る。

 

「くそっ……!」

 

悔しい。

 

ただ、それだけだった。

 

神器だから。

 

聖戦士だから。

 

そんな理由を並べれば、いくらでも自分を慰められる。

 

だが、カルトにはできなかった。

 

届かなかった。

 

自分の魔法が。

 

自分が積み重ねてきたものが。

 

アルヴィスに届かなかった。

 

だから悔しい。

 

もっと強くなりたい。

 

もっと知りたい。

 

もっと魔道の先へ行きたい。

 

アゼルは、そんなカルトを黙って見つめていた。

 

兄上には勝てない。

 

ずっとそう思ってきた。

 

だから比較することをやめた。

 

諦める理由を探した。

 

兄は特別なのだと。

 

自分とは違うのだと。

 

だが。

 

目の前の男は違う。

 

負けると分かっていて挑み。

 

実際に負け。

 

それでもなお、届かなかったことを悔しがっている。

 

――僕には、この涙がない。

 

アゼルは初めて気付いた。

 

兄への劣等感を理由に、自分自身で魔道の道を閉ざしていたことに。

 

いつか。

 

自分も負けたことを、これほど悔しがれる魔道士になろう。

 

その日。

 

アゼルの中に、小さな決意が生まれた。

 

◇

 

しばらくして、アゼルはヴェルトマーへ戻るための馬車を手配しに鍛練場を離れた。

 

ティルテュとエスニャも、バーハラを訪れているレプトール卿のもとへ向かった。

 

一人になったカルトは、用意されていた部屋へ戻ろうと城内を歩いていた。

 

――負けたか。

 

考えているのは先ほどの戦いばかり。

 

あそこで別の魔法を使えば。

 

いや、ファラフレイムの発動前に。

 

そんなことばかり考えながら歩いていたため――。

 

「君。そこの君」

 

声を掛けられた。

 

「そちらは王家の居住区だよ」

 

「あ?」

 

顔を上げる。

 

見覚えのない廊下。

 

「ああ……すまない。どうやら迷ったらしい」

 

頭を下げ、引き返そうとする。

 

「待ちたまえ」

 

再び呼び止められた。

 

「君はグランベルの人間ではないね」

 

男は興味深そうにカルトを見る。

 

「もしかして、昨日騒ぎになった渦中の人物かい?」

 

「ああ。転移魔法の失敗でな。騒がせて申し訳ない」

 

「それは嘘だね」

 

カルトの足が止まった。

 

「……なに?」

 

「転移魔法の失敗で、あれほど都合よく城内へ現れるものではないだろう」

 

そこで初めて。

 

カルトはまともに男の顔を見た。

 

そして、息を呑んだ。

 

一度だけ見たことがある。

 

まっすぐ伸びた金色の髪。

 

整った顔立ち。

 

穏やかさの中にも、生まれながらの品格を感じさせる佇まい。

 

グランベル国王アズムールの一子。

 

――クルト王子。

 

「……殿下」

 

言葉が止まった。

 

会いたかった人物が。

 

探していた人物が。

 

なぜか向こうから目の前にいる。

 

「君には、何か目的があってバーハラへ来たのだろう?」

 

クルトは穏やかに微笑んだ。

 

「私で良ければ話を聞こう」

 

一瞬。

 

カルトの心が揺れた。

 

だが、すぐに頭を下げる。

 

「先ほどの非礼をお詫びいたします」

 

そして姿勢を正した。

 

「私はシレジア、マイオス公の長子、カルトと申します」

 

クルトの目が僅かに動く。

 

「殿下のおっしゃる通り、邪な思惑がありました。友人の伝手を使い、強引に城内へ侵入したのです」

 

誤魔化さない。

 

「ですが、その企みはアルヴィス公に看破されました。私は彼との勝負に敗れ、このままバーハラを去る約束をしております」

 

深く頭を下げる。

 

「ですので、殿下にお話を聞いていただく資格はありません。どうか、このまま静かにお見送りいただければ幸いです」

 

しばし沈黙。

 

そして。

 

「あっはっはっはっ!」

 

突然、クルトが笑い出した。

 

「……?」

 

「すまない。いや、君たちは本当に頑固者だな」

 

君たち。

 

その言葉にカルトが顔を上げる。

 

「カルト公子」

 

クルトは笑みを残したまま告げた。

 

「実は、君と話をするよう私に頼んだのはアルヴィス公なのだよ」

 

「……は?」

 

思考が止まった。

 

――アルヴィスが?

 

「彼は普段、私に個人的な頼み事などほとんどしない。それが今朝、突然やって来てね」

 

クルトは少し可笑しそうに続ける。

 

「『一人、会っていただきたい者がいる』と」

 

カルトは何も言えなかった。

 

勝ったら会わせる。

 

負けたら帰れ。

 

そういう話だったはずだ。

 

だが。

 

――違ったのか?

 

あの勝負は。

 

勝敗を見るためではなく。

 

自分がどこまで本気なのか。

 

何を賭けて、ここまで来たのか。

 

それをアルヴィスは見ていたのではないか。

 

思い返す。

 

ファラフレイムを放つ直前。

 

アルヴィスは確かに尋ねた。

 

――ここでやめておくか?

 

あれは降伏勧告ではなかった。

 

最後の確認だったのかもしれない。

 

「だから」

 

クルトが言う。

 

「少しの時間で申し訳ないが、君が何を話したかったのか聞かせてもらえるかい?」

 

「……ありがとうございます」

 

カルトは深く頭を下げた。

 

アルヴィス。

 

心の中で、その名を呼ぶ。

 

「では、私の部屋で話そう」

 

クルトは踵を返した。

 

王族以外が立ち入ることを許されない廊下へ進んでいく。

 

カルトは黙って、その背中を追った。

 

◇

 

同じ頃。

 

魔道鍛練場では、別の会話が交わされていた。

 

「アルヴィス様」

 

女がアルヴィスへ治療魔法を施している。

 

フレイヤ。

 

「よろしいのですか? あのような者をクルト王子に会わせて。我らの計画に支障は?」

 

「問題ない」

 

アルヴィスは短く答えた。

 

「奴がどのような情報を持って面会を求めているのかは知らぬ。だが、こちらの動きを嗅ぎつけている様子はなかった」

 

「会話を傍受いたしましょうか?」

 

「不要だ」

 

アルヴィスは即答する。

 

「クルト王子ほどの魔力を持つ者だ。下手に術を使えば感知される」

 

「ですので、私も控えております」

 

「それでよい」

 

アルヴィスは立ち上がった。

 

そして、窓の外へ視線を向ける。

 

「どうせクルト王子は、本日中にもダーナへ向かわれる」

 

口元に薄い笑みが浮かぶ。

 

「……そうでございましたね」

 

フレイヤも微笑む。

 

「余計な心配をいたしました」

 

「構わぬ。それよりフレイヤ」

 

アルヴィスの声が低くなる。

 

「イザークへの手配は?」

 

「抜かりなく」

 

女は妖艶に笑った。

 

「足止めには、活きのいい餌を用意しておりますわ」

 

「そうか」

 

「クルト王子がバーハラを離れれば、こちらも動きやすくなります」

 

「ああ」

 

アルヴィスは静かに頷く。

 

「汚れ仕事は任せたぞ」

 

「仰せのままに」

 

フレイヤの姿が魔力の光に包まれる。

 

次の瞬間。

 

その姿は鍛練場から消えていた。

 

◇

 

クルト王子の私室。

 

勧められるまま、カルトは椅子へ腰掛けた。

 

室内には豪華な調度品が並んでいる。

 

だが、それ以上に目を引くのは本だった。

 

歴史。

 

魔道。

 

地理。

 

神話。

 

古代語。

 

棚という棚に、さまざまな文献が収められている。

 

クルト王子は王族であると同時に、優れた学者でもある。

 

父アズムール王に匹敵する幅広い知識を持ち、古文書の解析にも秀でているという。

 

魔法の能力も非常に高いと聞く。

 

だが、公の場でその力を披露したことはほとんどない。

 

カルトは僅かに意識を集中した。

 

魔力探知。

 

そして――。

 

すぐに止めた。

 

分からない。

 

いや。

 

大きすぎる。

 

まるで岸辺から大海を覗き込んでいるようだった。

 

底が見えない。

 

それなのに、不思議と恐怖はなかった。

 

むしろ。

 

――暖かい。

 

奇妙な安堵感。

 

初対面のはずなのに。

 

どこか懐かしい。

 

「さて」

 

クルトが向かいの椅子へ座る。

 

「君の話を聞きたいところなのだが……」

 

じっとカルトを見る。

 

「その前に一つ、私から聞いてもいいかな?」

 

「はい」

 

「君は一体、何者なんだい?」

 

カルトの表情が僅かに強張った。

 

「不思議なんだ」

 

クルトは続ける。

 

「初めて会ったはずなのに、君から妙な親近感を感じる」

 

そして微笑んだ。

 

「おそらく、その答えが君の知りたいことにも繋がっている。そんな気がするよ」

 

カルトはしばらく黙っていた。

 

やがて。

 

「……お察しいただき、ありがとうございます」

 

額へ手を伸ばす。

 

銀髪を押さえていたサークレット。

 

そこへ魔力を流す。

 

母の残した封印術。

 

その一部を解除しながら、ゆっくりとサークレットを外した。

 

額が露わになる。

 

そこに浮かんだ紋様。

 

セティのものとは違う。

 

カルト自身も、その意味を知らない聖痕。

 

クルトの目が見開かれた。

 

「――!!」

 

立ち上がる。

 

反射的に、自らの額へ手を伸ばしていた。

 

「それは……」

 

声が震える。

 

「なぜ……君が……?」

 

同じだった。

 

自分の身体に刻まれているものと。

 

全く同じ。

 

ナーガの聖痕。

 

カルトは再びサークレットを装着する。

 

「私自身、これがあることを知ったのは最近です」

 

クルトは言葉を失ったまま聞いている。

 

「母の魔法によって封印されていました。暗黒教団との戦いで封印が破れ、その時初めて存在を知りました」

 

「……まさか」

 

クルトの口から、無意識に言葉が漏れた。

 

「君は――シギュンの子なのか?」

 

「……?」

 

カルトは眉を寄せる。

 

「いえ」

 

クルトの顔を見ながら答えた。

 

「私は先ほど名乗った通り、マイオス公の子です」

 

そして。

 

「母の名は――セーラと申します」

 

その瞬間。

 

クルトの顔色が変わった。

 

「……そうか」

 

短い沈黙。

 

「失礼した」

 

椅子へ座り直す。

 

「今の言葉は忘れてくれ」

 

「……はい」

 

カルトは答えた。

 

だが。

 

――シギュン?

 

知らない名だった。

 

なぜクルト王子が、あれほど動揺した?

 

疑問は残った。

 

しかし今は追及すべきではない。

 

カルトは本来の目的へ話を戻した。

 

「私は知りたいのです」

 

自らの胸へ手を当てる。

 

「なぜ私が、この力を持っているのか」

 

母から受け継いだもの。

 

封じられていた聖痕。

 

そして、覚醒とともに変わった銀色の髪。

 

「この力はどこから来たのか」

 

クルトは静かに聞いている。

 

「そして――」

 

カルトは拳を握った。

 

「私は、何者なのか」

 

怖かった。

 

もし。

 

自分がまた誰かの都合によって生み出された存在だったら。

 

この血さえ、誰かの思惑の結果だったなら。

 

それでも。

 

知らなければならない。

 

「その答えを求めて、私はバーハラへ来ました」

 

クルトは長い間、何も言わなかった。

 

やがて。

 

静かに息を吐く。

 

「君のことは……おそらく父上が知っている」

 

「アズムール王が?」

 

「ああ」

 

クルトは頷いた。

 

「私にも推測はある。だが、今ここで断定するべきではない」

 

そして立ち上がった。

 

「父上に、君と会っていただけるよう取り計らおう」

 

カルトも立ち上がる。

 

「ありがとうございます!」

 

深々と頭を下げた。

 

クルトはそんなカルトを見つめていた。

 

「それにしても……」

 

自らの額へ、そっと触れる。

 

「君と私が親族とはな」

 

カルトが顔を上げる。

 

「先ほど初めて会った時、なぜか他人とは思えなかった」

 

困ったように笑う。

 

「まさか、こんなことがあるとは……」

 

だが。

 

その瞳には笑みだけではないものがあった。

 

疑問。

 

困惑。

 

そして、僅かな恐れ。

 

ナーガ直系ではないはずの人間に。

 

なぜ、これほど明瞭な聖痕が現れているのか。

 

偶然なのか。

 

それとも――。

 

そこに人の手が介在しているのか。

 

クルト自身もまた、その答えを求め始めていた。

 

カルト以上に。

 

父アズムールへ問いただしたいのは、むしろ彼の方なのかもしれない。

 

カルトは再びサークレットへ触れた。

 

その下に刻まれた聖痕。

 

長い間、母によって隠されていた自分自身の証。

 

その意味を。

 

その血に秘められた真実を。

 

今度こそ知る時が来た。

 

だが二人は、まだ知らない。

 

この出会いが。

 

クルト王子にとって、バーハラを発つ前の――

 

最後の邂逅の一つになることを。

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