ファイアーエムブレム 聖戦の系譜〜氷雪の融解者〜   作:Edward

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三章 シレジア 帰郷編
018 崩御


 シレジア国王の容体が、いよいよ思わしくない。

 

 その知らせを耳にした瞬間、旅の途中で考えていたことも、グランベルで見聞きしたことも、すべて頭の隅へと押しやられた。

 

 帰らなければならない。

 

 王のために。

 

 そして今頃、衰弱していく父の傍らで何もできずにいるであろう、友のために。

 

 海路では間に合わないかもしれない。

 陸路なら、なおさらだ。

 

 俺は机の上に地図を広げ、グランベル北部へ指を置いた。

 

 フリージ。

 

 ここまで移動してから転移を行えば、シレジアまでの距離をいくらか縮められる。

 

 それでも――これまで俺が行ってきた転移とは、比較にならないほどの距離だった。

 

「私も、一緒に行きます」

 

 顔を上げるより先に、マリアンが言った。

 

「簡単な転移じゃない。失敗する可能性もある」

 

「はい」

 

「向こうへ着けたとしても、落ち着けるとは限らないぞ」

 

「それでも、行きます」

 

 迷いのない返事だった。

 

 だが、怖くないはずがない。

 荷物の紐を握る指は、わずかに震えていた。

 

 それでも彼女は荷物を置かなかった。

 

 俺はしばらくその姿を見つめ、地図を畳んだ。

 

「……わかった」

 

 杖を手に取る。

 

「必ず、二人で着こう」

 

「はい」

 

 マリアンは、ようやく小さく笑った。

 

     *

 

 フリージ近郊の森へ案内してくれたのは、ティルチュとリンダだった。

 

 城や街道の近くで転移の光を発生させれば、衛兵の詮索を招きかねない。

 事情を説明している時間さえ惜しかった。

 

「こっち。もう少し奥なら、人もほとんど来ないから」

 

 先頭を歩くティルチュが低い枝を持ち上げる。

 

 その後ろでは、リンダが何度も振り返り、慣れない山道を歩くマリアンに合わせて歩調を緩めてくれていた。

 

 湿った土。

 積もった落ち葉。

 風に揺れる木々。

 

 やがて、枝の隙間から見えていたフリージ城の尖塔も完全に姿を消した。

 

 小さな空き地へ出たところで、俺は足を止める。

 

 周囲に人の気配はない。

 杖を振るうだけの空間も十分にある。

 

「ここなら大丈夫そうだ」

 

「本当に、ここからシレジアまで飛ぶの?」

 

 ティルチュが北の空を見上げた。

 

「ああ」

 

「……遠いよ?」

 

「わかってる。だが、船を待っている時間がない」

 

「そっか……」

 

 いつものティルチュなら、ここで何か軽口を叩いただろう。

 

 けれど今日は、それ以上何も言わなかった。

 

「じゃあ……気をつけてね」

 

「ああ」

 

 リンダも俺とマリアンを見比べてから、一歩後ろへ下がった。

 

「無事に着いたら、知らせてください」

 

「必ず。二人とも、案内ありがとう」

 

 荷物の紐を締め直す。

 

「マリアン」

 

「はい」

 

 彼女を傍らへ呼び、俺は転移の杖を握った。

 

 目を閉じる。

 

 思い浮かべるのは、シレジア城。

 

 白い石で敷き詰められた中庭。

 風除けの回廊。

 雪が積もる尖塔。

 幼い頃から、何度となく走り回った場所。

 

 冬には雪が吹き込み、春になれば石の継ぎ目から名も知らぬ草が顔を出す。

 

 そこへ――帰る。

 

 意識を集中させる。

 

 だが距離を認識した瞬間、胸の奥が強張った。

 

 遠い。

 

 あまりにも遠い。

 

 本当に、この距離を越えられるのか。

 

 一人ならともかく、今はマリアンもいる。

 

 もし座標を誤れば。

 

 もし途中で魔力が尽きれば。

 

「カルト様」

 

 袖に触れる指の感触で、意識が引き戻された。

 

 目を開く。

 

 マリアンが、すぐ傍らに立っていた。

 

「ここにいます」

 

 その言葉に、思わず息を吐いた。

 

「ああ」

 

 俺は彼女の手を取った。

 

「途中で絶対に離すなよ」

 

「はい」

 

 もう一度、目を閉じる。

 

 今度は中庭に、一人ではなく二人の姿を置いた。

 

 俺と、マリアン。

 

 帰る場所は、そこだ。

 

 杖の先端に白い光が灯る。

 

 魔力を注ぎ込むにつれ、その輝きは急速に膨れ上がった。

 

 周囲の木々が白く染まる。

 

「くっ……!」

 

 腕が軋む。

 

 肩に巨大な岩を背負わされたような重圧がのしかかり、魔力が凄まじい勢いで奪われていく。

 

 それでも、行き先だけは手放さない。

 

 シレジア城。

 

 中庭。

 

 あの場所へ。

 

 森の音が消えた。

 

 風も、鳥の声も、何も聞こえない。

 

 ただ一つ。

 

 握ったマリアンの手だけが、はっきりと感じられた。

 

 白い光の向こうで、ティルチュが何かを叫んだ。

 

 聞き取るより早く――

 

 足元が消えた。

 

     *

 

 冷たい風が頬を打った。

 

「――っ!」

 

 靴の底が硬いものを踏む。

 

 土ではない。

 

 石だ。

 

 目を開く。

 

 白い石畳。

 

 その先に、見慣れた回廊があった。

 

「……シレジア」

 

 呟いた直後、全身から力が抜けた。

 

 近くの柱へ手をつく。

 

 だが支えきれず、そのまま膝をついた。

 

「カルト様!」

 

「……大丈夫だ」

 

 荒い息を吐きながら、手元を見る。

 

 マリアンの手を、まだ握っていた。

 

「着いたな」

 

「はい……!」

 

 その声を聞いて、ようやく実感した。

 

 帰ってきた。

 

 俺は、シレジアへ帰ってきたのだ。

 

「何者だ!」

 

 中庭に現れた光を見て、衛兵たちが駆け込んでくる。

 

 槍がこちらへ向けられ――先頭の一人が俺の顔を見て動きを止めた。

 

「……カルト様?」

 

「ああ」

 

 立ち上がろうとしたが、足に力が入らない。

 

「俺だ。レヴィンは城にいるか」

 

「は、はい! ですが、その髪は……」

 

 衛兵の視線が俺の頭へ向く。

 

 そこで初めて、自分の髪が銀色へ変わっていることを思い出した。

 

「それは……あとで説明する」

 

 喉がひどく乾いていた。

 

「殿下をお呼びいたします!」

 

 衛兵が走り去る。

 

 マリアンが俺の腕を自分の肩へ回し、柱の傍らへ座らせてくれた。

 

「少し休んでください」

 

「ああ……そうする」

 

 息を整えながら、苦笑する。

 

「さすがに、欲張りすぎたな」

 

 笑ったつもりだったが、漏れたのは乾いた息だけだった。

 

 城そのものは、旅立つ前と変わっていない。

 

 だが――静かだった。

 

 行き交う者たちの足音は控えめで、回廊の向こうから聞こえる話し声さえ押し殺されている。

 

 帰ってきたという安堵より先に、その静けさが胸へ迫った。

 

「カルト!」

 

 聞き慣れた声が響いた。

 

 顔を上げる。

 

 レヴィンが走ってきた。

 

「レヴィン」

 

 俺の前へ膝をつき、両肩を掴む。

 

「お前――」

 

 何かを言おうとしたレヴィンが、そのまま固まった。

 

「その髪……」

 

「いろいろあった」

 

「いろいろで済ませるな!」

 

 即座に怒鳴られた。

 

「怪我は!?」

 

「今はない。魔力を使いすぎただけだ」

 

「今は、ってなんだよ……」

 

 レヴィンは俺の顔をしばらく見つめていた。

 

 やがて、大きく息を吐く。

 

「帰ってくるなら、先に知らせろ」

 

「知らせを待っていたら、俺の方が先に着く」

 

「そういう意味じゃない!」

 

 再び声が荒くなった。

 

 だが、その先は続かなかった。

 

 肩を掴む手に力が入る。

 

「……心配したんだぞ」

 

 その一言で、何も言えなくなった。

 

「……すまない」

 

 レヴィンは俯いた。

 

 そこで初めて気づいた。

 

 目の下に、薄い隈がある。

 

「陛下は」

 

 尋ねると、肩を掴んでいた手が止まった。

 

「今日は、まだ……」

 

 レヴィンは言葉を選ぶように間を置いた。

 

「時々、目を開けられる」

 

 それ以上は聞けなかった。

 

 レヴィンも、言わなかった。

 

 俺は彼の手に自分の手を重ねた。

 

「帰ってきた」

 

 レヴィンが顔を上げる。

 

「もう、ここにいる」

 

 しばらくして――

 

「ああ」

 

 レヴィンは、一度だけ頷いた。

 

     *

 

 旅の報告を行ったのは、その日の夕刻だった。

 

 ラーナ王妃とレヴィンの前で、俺はまずマリアンを紹介した。

 

 イザークで出会ったこと。

 ダーナの地下施設で囚われていたこと。

 そして、共にここまで旅をしてきたこと。

 

 話を聞いたラーナ様は、マリアンを自分の傍らへ招いた。

 

「長い旅でしたね」

 

「……はい」

 

「もう大丈夫です。ここでは、安心して休みなさい」

 

 マリアンは深く頭を下げた。

 

「ありがとうございます」

 

 その肩から、ようやく少しだけ力が抜けたように見えた。

 

 それから俺は、自分の旅について語った。

 

 ダーナの闘技場でホリンと出会ったこと。

 

 リボーで起きていた騒乱。

 

 ダーナ近郊の砦、その地下に潜んでいたロプト教団の魔道士。

 

 死の淵で目覚めた光魔法。

 

 そして――銀色へ変わった髪。

 

 レヴィンは何度か質問を挟んだが、ラーナ様は黙ったまま最後まで話を聞いていた。

 

 フュリーを一人で帰した話をした時だけ、レヴィンの眉間に皺が寄った。

 

「あいつ、一人だけ戻されたことを気にしていたぞ」

 

「わかってる。あとで俺から話す」

 

「あとで、じゃない。ちゃんと話せ」

 

「……はい」

 

 思わず苦笑する。

 

 こうして叱られることすら、懐かしかった。

 

 帰ってきたからこそ、叱られることができる。

 

 そんな当たり前のことが、妙にありがたかった。

 

 ホリンやデューとの別れ。

 

 ヴェルトマーでのアゼルとの再会。

 

 アルヴィスとの戦い。

 

 そして、クルト王子との対面。

 

 そこまで話したところで、俺は言葉を止めた。

 

 暖炉の中で薪が爆ぜる。

 

「……もう一つ、お伝えしておかなければならないことがあります」

 

 ラーナ様の眼差しが俺へ向いた。

 

 俺は額にかかる銀髪を掻き上げた。

 

 聖痕を露わにする。

 

「――!」

 

 レヴィンが椅子から身を乗り出した。

 

「それは……」

 

「ナーガの聖痕だ」

 

 室内の空気が変わった。

 

「クルト王子も、同じ聖痕をお持ちだった」

 

 ラーナ様の手が、膝の上で止まる。

 

「では……あなたのお母様は」

 

「母は、セーラと名乗っていました」

 

 俺は髪を戻した。

 

「ですが、自分の生まれについて、俺には何も話していません」

 

 口にしてみて、改めて思う。

 

 俺は母のことを、あまりにも知らない。

 

「アズムール王にも、お会いしました」

 

「アズムール王に?」

 

「あの方は……母の出自をご存じでした」

 

 そして俺は、あの夜に聞いた話を伝えた。

 

 アズムール王の歳の離れた妹。

 

 故国グランベルを離れ、シレジアへ渡った一人の女性。

 

 その地で娘を産み――その娘が、やがて父マイオスと出会った。

 

 母セーラ。

 

 そして、その血が俺へと受け継がれた。

 

 ナーガの血。

 

 祖母が故国を去った理由について話す時、自然と声が低くなった。

 

 血を残すことに囚われた王家。

 

 そして、その過ちによって一人の女性が追い詰められたこと。

 

 アズムール王自身が、深い後悔と共に語った過去。

 

 あの時感じた苦しさは、まだ胸の奥に残っている。

 

「セーラは……」

 

 ラーナ様が静かに口を開いた。

 

「それを、誰にも告げずにいたのですね」

 

「……はい」

 

 母の名を知る者の声だった。

 

「母が何を考えていたのかは、今となってはわかりません。ただ――俺に施されていた封印も、この血と無関係ではなかったのでしょう」

 

 守られていた。

 

 きっと俺は、母に守られていたのだ。

 

 だが時々、考えてしまう。

 

 では――母は、誰に守られていたのだろう。

 

 その問いだけは、口にできなかった。

 

「カルト」

 

 ラーナ様が俺を見る。

 

「あなたは……グランベルへ戻るべきなのかもしれません」

 

 予想していた言葉だった。

 

 それでも、胸のどこかが痛んだ。

 

「ナーガの聖痕は、バーハラ王家にとって極めて大きな意味を持ちます。アズムール王があなたの存在を認めたのであれば、もはやシレジアの一公子というだけでは済まないでしょう」

 

 レヴィンが、ゆっくりと背を椅子へ預けた。

 

「……お前を必要とする場所が、向こうにもあるんだな」

 

 二人とも、俺を引き留めなかった。

 

 だからこそ。

 

 ここへ帰ってきた理由を、曖昧にしたくなかった。

 

「俺が旅に出たのは」

 

 レヴィンを見る。

 

「自分の家柄を探すためじゃない」

 

 レヴィンの目がわずかに動いた。

 

「この国で、お前を支えられるだけの力が欲しかった」

 

 旅立った日のことを思い出す。

 

「父上やダッカー叔父上を前にして、何もできない自分が嫌だった。シレジアが争いに巻き込まれていくのを、ただ見ているだけにはなりたくなかった」

 

 だから国を出た。

 

 力を求めた。

 

 知識を求めた。

 

 外の世界を見ようとした。

 

「ナーガの血が流れていると知った」

 

 額へ手を触れる。

 

「アズムール王とも繋がった。確かに、旅立った時には想像もしていなかったものを手に入れたよ」

 

 そして、手を下ろした。

 

「でも――目的は変わってない」

 

「カルト……」

 

「俺は、お前の従兄弟だろう」

 

 レヴィンが口を閉じた。

 

「ずっと一緒に修練してきた。お前の風魔法に何度も吹き飛ばされて、そのたびに悔しい思いをした」

 

「お前もオレを何度も燃やしただろ」

 

「それは忘れた」

 

「おい」

 

 ほんの一瞬。

 

 昔と同じやり取りが戻った。

 

 俺は笑った。

 

「母のことを知る前から、お前は俺をカルトとして見てくれた」

 

 ナーガの血など関係ない。

 

 王族だからでもない。

 

 聖痕があるからでもない。

 

「だから今さら、血筋がわかったから帰る場所を変えろと言われても……困る」

 

 レヴィンが俯いた。

 

 膝の上で固く握られていた拳が、ゆっくりと解かれていく。

 

 ラーナ様はそんな俺たちを見つめていた。

 

「あなたの意思はわかりました」

 

 やがて、静かな声が落ちる。

 

「ですが、友情だけで決めてよい問題ではありませんよ」

 

「承知しています」

 

 俺は椅子の傍らに置いていた荷物から地図を取り出した。

 

「グランベルとの繋がりを捨てるつもりはありません」

 

 机の上へ広げる。

 

 レヴィンも身を乗り出した。

 

「むしろ、今回できた縁はシレジアのために使えます」

 

 グランベルとシレジア。

 

 地図の上では近く見えても、その間には山と海、そして政治という巨大な壁がある。

 

「グランベルから食料を輸入できれば、冬の備蓄はかなり安定する。良質な騎馬も欲しい。逆にシレジアには鉱石がある。交易路を整備できれば、お互いに利益があるはずです」

 

 ラーナ様の視線が地図を辿る。

 

 雪に閉ざされるこの国では、食料の備蓄はそのまま国力に直結する。

 

「グランベルに身を置かなくとも、その血と縁を活かすことはできると?」

 

「はい」

 

 俺は頷いた。

 

「それに――」

 

 指を動かす。

 

 イザーク。

 

 ダーナ。

 

 そしてグランベル。

 

「向こうには、気になることがあります」

 

「気になること?」

 

「俺がダーナで見たものと、バーハラで語られていたものが違う」

 

 レヴィンの表情が変わった。

 

「同じ出来事のはずなのに、場所が変われば意味まで変わっている。誰かが嘘をついていると断定するつもりはない。だが――」

 

 リボーの街を歩いていた兵士たち。

 

 怯えていた人々。

 

 地下施設。

 

 ロプト教団。

 

 そして、バーハラで感じた得体の知れない息苦しさ。

 

「どの話を信じるかで、人は味方を決める」

 

 一呼吸置く。

 

「そして、敵も決める」

 

 ラーナ様が目を細めた。

 

「戦の前には、よくあることです」

 

「だからこそ、怖いのです」

 

 まだ証拠などない。

 

 誰が何を企んでいるのかもわからない。

 

 だが。

 

「今グランベルの中へ入ってしまえば、逆に見えなくなるものがある気がする」

 

 地図から手を離した。

 

「俺は、ここから見ていたい」

 

 シレジアから。

 

 国境の外から。

 

「何かがおかしいなら、シレジアまで巻き込まれる前に気づきたい」

 

 レヴィンが俺を見る。

 

「そのためにも、オレの傍にいるのか?」

 

「ああ」

 

 少しだけ笑う。

 

「迷惑か?」

 

「……今帰ってきたばかりの奴を追い出せるか」

 

 レヴィンの口元が、ようやく緩んだ。

 

 ラーナ様は俺たち二人を見て、小さく息を吐いた。

 

「では」

 

 地図を静かに畳む。

 

「あなたにも、働いてもらわなければなりませんね」

 

「そのつもりで帰りました」

 

「今日は休みなさい」

 

 ラーナ様は、ほんの少し笑った。

 

「これから――忙しくなります」

 

     *

 

 翌日から、城で過ごす日々が戻ってきた。

 

 だが――以前と同じ日は、一日としてなかった。

 

 医師が何度も王の寝所を出入りする。

 

 ラーナ様はそのたびに報告を聞き、レヴィンは呼ばれるたびに席を立った。

 

 戻ってきても、しばらく書類の文字が目に入っていない。

 

 そんな時は、俺が黙って書類を引き取った。

 

 冬の備蓄。

 

 街道の補修。

 

 各地から届いた収穫量。

 

 兵糧。

 

 商人からの陳情。

 

 旅先で地図を広げていた手で、今度は祖国の数字を追う。

 

 以前なら、ただの数字だった。

 

 だが今は違う。

 

 その向こうには、それを食べる人間がいる。

 

 運ぶ者がいる。

 

 家族がいる。

 

 国というものが、少しだけ違って見えるようになっていた。

 

 マリアンにも部屋が与えられた。

 

 慣れない城暮らしに戸惑いながらも、衣服や荷物を整え、俺が食事を忘れていれば呼びに来る。

 

「カルト様」

 

「ん?」

 

「食事です」

 

「あとで食べる」

 

「昨日もそう仰いました」

 

「……そうだったか?」

 

「ご自分が倒れてしまっては、お手伝いもできません」

 

 向かいに座っていたレヴィンが吹き出した。

 

「いいことを言う。こいつ昔からそこは変わらないんだ」

 

「お前も食べてないだろ」

 

「……」

 

 マリアンが無言で、もう一皿置いた。

 

 俺とレヴィンは顔を見合わせる。

 

「食うか」

 

「ああ」

 

 それ以上、二人とも逆らえなかった。

 

     *

 

 王の寝所へ入ることを許されたのは、その翌日だった。

 

 寝台の傍らへ進み、膝をつく。

 

 記憶にある国王は、もっと大きな人だった。

 

 広間の玉座に座り、幼い俺たちを見下ろしていた姿。

 

 レヴィンが何か悪さをするたびに眉をひそめ、俺まで一緒に叱られた。

 

 その人が今は――ひどく小さく見えた。

 

 胸が、ゆっくりと上下する。

 

 一度息を吐き、次に吸うまでが長い。

 

 その一呼吸を待つ間、こちらまで息を止めてしまう。

 

 やがて、王の瞼がわずかに開いた。

 

 俺を見ているのかは、わからなかった。

 

「陛下」

 

 声を絞り出す。

 

「カルトです」

 

 返事はない。

 

「戻りました」

 

 それだけ告げた。

 

 旅の話も。

 

 自分の出生も。

 

 ナーガの聖痕も。

 

 グランベルの王と会ったことも。

 

 伝えたいことはいくらでもあった。

 

 けれど、この場では何一つ言葉にならなかった。

 

 ラーナ様が、王の手を両手で包んでいる。

 

 その向こうでレヴィンが父の顔を見つめていた。

 

 俺は深く頭を下げた。

 

「……失礼いたします」

 

 静かに寝所を出た。

 

     *

 

 その夜。

 

 回廊を歩いていると、窓辺に人影があった。

 

「レヴィン」

 

 声をかける。

 

 振り返った彼は、すぐに窓の外へ視線を戻した。

 

 俺も隣に立つ。

 

 雪こそ降っていなかったが、夜のシレジアは冷える。

 

 眼下では、夜番の衛兵が交代していた。

 

「カルト」

 

「ん?」

 

「戻ってきてくれて、助かった」

 

「まだ大したことはしてないぞ」

 

「そうじゃない」

 

 短く返された。

 

 レヴィンは、しばらく衛兵たちを見ていた。

 

「みんな、オレを見ると頭を下げる」

 

「そりゃ王子だからな」

 

「違うんだ」

 

 声が、少し震えた。

 

「最近……誰も、いつものように話してくれない」

 

 俺は黙った。

 

「母上も、家臣も、みんなオレの顔を見ると……次の王を見るような顔をする」

 

 その意味を、理解した。

 

「まだ父上は生きているのに」

 

 俺は返す言葉を探した。

 

 だが――見つからなかった。

 

 だから。

 

 昔と同じように、その肩を軽く叩いた。

 

 レヴィンは避けなかった。

 

 二人で、何も言わず窓の外を見た。

 

 その夜は、それでよかった。

 

     *

 

 帰還して数日後。

 

 まだ夜の色が残る頃、部屋の扉が叩かれた。

 

 目を覚ます。

 

「カルト様」

 

 扉の向こうから聞こえた声だけで、胸騒ぎがした。

 

 開ける。

 

 立っていた使者の顔を見た瞬間――

 

 用件を尋ねることができなかった。

 

「……わかった」

 

 それだけ答えた。

 

 上着を掴み、部屋を出る。

 

 王の寝所へ続く回廊には、すでに何人もの侍従が立っていた。

 

 誰も喋らない。

 

 誰もこちらを見ない。

 

 ただ静かに、頭を垂れている。

 

 開かれた扉の向こうに、ラーナ様の姿が見えた。

 

 寝台の傍らに座り、王の手を握っている。

 

 その反対側には――レヴィン。

 

 俺は入口で足を止めた。

 

 王の胸は。

 

 もう、動いていなかった。

 

 部屋の中に、誰かのすすり泣く声が聞こえた。

 

 医師が静かに時刻を告げる。

 

 ラーナ様は顔を上げなかった。

 

 ただ一度。

 

 小さく頷いた。

 

 レヴィンは何も言わない。

 

 寝台の端に置かれた手だけが、白くなるほど強く握られていた。

 

 俺はゆっくりと歩み寄る。

 

 その時――

 

 鐘が鳴った。

 

 ――ゴォン。

 

 重く、低い音。

 

 シレジア城の石壁を震わせ、まだ眠る城下へと流れていく。

 

 一度。

 

 長い余韻。

 

 そして――

 

 二度目の鐘が鳴った。

 

 レヴィンが、目を閉じた。

 

 その横顔を見て、俺は昨日の言葉を思い出した。

 

 まだ父上は生きているのに。

 

 もう――違う。

 

 これから皆が、彼を見る。

 

 王を失った国の者たちが。

 

 次の王として。

 

 俺はレヴィンの傍らまで歩いた。

 

 何か言おうとした。

 

 だが、言葉は出なかった。

 

 慰めなど、今は必要ない。

 

 窓の外が、少しずつ白み始めていた。

 

 山々の向こうから昇った朝日が、雪の残るシレジアを照らしていく。

 

 いつもと変わらない朝だった。

 

 昨日と同じように、空は明るくなる。

 

 人が死んでも。

 

 王が死んでも。

 

 世界は何事もなかったように、次の日を迎える。

 

 差し込んだ朝の光が、寝台の白い布へ届いた。

 

 その光の中で、俺は深く頭を垂れた。

 

 シレジア国王が――崩御された。

 

 幼い頃から見上げていた王は、もういない。

 

 そして。

 

 隣に立つ友は、もうただの王子ではいられない。

 

 鐘が鳴る。

 

 シレジア全土へ、王の死を告げるために。

 

 もう一度。

 

 低く、長く。

 

 その音を聞きながら、俺は顔を上げた。

 

 泣くこともできず、ただ父を見つめ続けているレヴィンがいる。

 

 俺は何も言わず、その隣に立った。

 

 旅立った日と同じだった。

 

 あの日、俺はこの男を支えるためにシレジアを出た。

 

 力が欲しかった。

 

 知識が欲しかった。

 

 何もできない自分ではいたくなかった。

 

 遠い国を巡り。

 

 友と出会い。

 

 敵と戦い。

 

 母の秘密を知り。

 

 自分の中に流れる血の意味まで知った。

 

 それでも――

 

 帰ってきた場所は、ここだった。

 

 そして今。

 

 ようやくわかった。

 

 旅は、終わったのではない。

 

 ここから始まるのだ。

 

 王を失ったシレジアで。

 

 王となる友の隣で。

 

 俺がこの国のために何をするのか。

 

 その答えを探す、本当の旅が。

 

 夜が明ける。

 

 白い国に、新しい朝が訪れる。

 

 鐘は――

 

 いつまでも、鳴り続けていた。

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