ファイアーエムブレム 聖戦の系譜〜氷雪の融解者〜 作:Edward
018 崩御
シレジア国王の容体が、いよいよ思わしくない。
その知らせを耳にした瞬間、旅の途中で考えていたことも、グランベルで見聞きしたことも、すべて頭の隅へと押しやられた。
帰らなければならない。
王のために。
そして今頃、衰弱していく父の傍らで何もできずにいるであろう、友のために。
海路では間に合わないかもしれない。
陸路なら、なおさらだ。
俺は机の上に地図を広げ、グランベル北部へ指を置いた。
フリージ。
ここまで移動してから転移を行えば、シレジアまでの距離をいくらか縮められる。
それでも――これまで俺が行ってきた転移とは、比較にならないほどの距離だった。
「私も、一緒に行きます」
顔を上げるより先に、マリアンが言った。
「簡単な転移じゃない。失敗する可能性もある」
「はい」
「向こうへ着けたとしても、落ち着けるとは限らないぞ」
「それでも、行きます」
迷いのない返事だった。
だが、怖くないはずがない。
荷物の紐を握る指は、わずかに震えていた。
それでも彼女は荷物を置かなかった。
俺はしばらくその姿を見つめ、地図を畳んだ。
「……わかった」
杖を手に取る。
「必ず、二人で着こう」
「はい」
マリアンは、ようやく小さく笑った。
*
フリージ近郊の森へ案内してくれたのは、ティルチュとリンダだった。
城や街道の近くで転移の光を発生させれば、衛兵の詮索を招きかねない。
事情を説明している時間さえ惜しかった。
「こっち。もう少し奥なら、人もほとんど来ないから」
先頭を歩くティルチュが低い枝を持ち上げる。
その後ろでは、リンダが何度も振り返り、慣れない山道を歩くマリアンに合わせて歩調を緩めてくれていた。
湿った土。
積もった落ち葉。
風に揺れる木々。
やがて、枝の隙間から見えていたフリージ城の尖塔も完全に姿を消した。
小さな空き地へ出たところで、俺は足を止める。
周囲に人の気配はない。
杖を振るうだけの空間も十分にある。
「ここなら大丈夫そうだ」
「本当に、ここからシレジアまで飛ぶの?」
ティルチュが北の空を見上げた。
「ああ」
「……遠いよ?」
「わかってる。だが、船を待っている時間がない」
「そっか……」
いつものティルチュなら、ここで何か軽口を叩いただろう。
けれど今日は、それ以上何も言わなかった。
「じゃあ……気をつけてね」
「ああ」
リンダも俺とマリアンを見比べてから、一歩後ろへ下がった。
「無事に着いたら、知らせてください」
「必ず。二人とも、案内ありがとう」
荷物の紐を締め直す。
「マリアン」
「はい」
彼女を傍らへ呼び、俺は転移の杖を握った。
目を閉じる。
思い浮かべるのは、シレジア城。
白い石で敷き詰められた中庭。
風除けの回廊。
雪が積もる尖塔。
幼い頃から、何度となく走り回った場所。
冬には雪が吹き込み、春になれば石の継ぎ目から名も知らぬ草が顔を出す。
そこへ――帰る。
意識を集中させる。
だが距離を認識した瞬間、胸の奥が強張った。
遠い。
あまりにも遠い。
本当に、この距離を越えられるのか。
一人ならともかく、今はマリアンもいる。
もし座標を誤れば。
もし途中で魔力が尽きれば。
「カルト様」
袖に触れる指の感触で、意識が引き戻された。
目を開く。
マリアンが、すぐ傍らに立っていた。
「ここにいます」
その言葉に、思わず息を吐いた。
「ああ」
俺は彼女の手を取った。
「途中で絶対に離すなよ」
「はい」
もう一度、目を閉じる。
今度は中庭に、一人ではなく二人の姿を置いた。
俺と、マリアン。
帰る場所は、そこだ。
杖の先端に白い光が灯る。
魔力を注ぎ込むにつれ、その輝きは急速に膨れ上がった。
周囲の木々が白く染まる。
「くっ……!」
腕が軋む。
肩に巨大な岩を背負わされたような重圧がのしかかり、魔力が凄まじい勢いで奪われていく。
それでも、行き先だけは手放さない。
シレジア城。
中庭。
あの場所へ。
森の音が消えた。
風も、鳥の声も、何も聞こえない。
ただ一つ。
握ったマリアンの手だけが、はっきりと感じられた。
白い光の向こうで、ティルチュが何かを叫んだ。
聞き取るより早く――
足元が消えた。
*
冷たい風が頬を打った。
「――っ!」
靴の底が硬いものを踏む。
土ではない。
石だ。
目を開く。
白い石畳。
その先に、見慣れた回廊があった。
「……シレジア」
呟いた直後、全身から力が抜けた。
近くの柱へ手をつく。
だが支えきれず、そのまま膝をついた。
「カルト様!」
「……大丈夫だ」
荒い息を吐きながら、手元を見る。
マリアンの手を、まだ握っていた。
「着いたな」
「はい……!」
その声を聞いて、ようやく実感した。
帰ってきた。
俺は、シレジアへ帰ってきたのだ。
「何者だ!」
中庭に現れた光を見て、衛兵たちが駆け込んでくる。
槍がこちらへ向けられ――先頭の一人が俺の顔を見て動きを止めた。
「……カルト様?」
「ああ」
立ち上がろうとしたが、足に力が入らない。
「俺だ。レヴィンは城にいるか」
「は、はい! ですが、その髪は……」
衛兵の視線が俺の頭へ向く。
そこで初めて、自分の髪が銀色へ変わっていることを思い出した。
「それは……あとで説明する」
喉がひどく乾いていた。
「殿下をお呼びいたします!」
衛兵が走り去る。
マリアンが俺の腕を自分の肩へ回し、柱の傍らへ座らせてくれた。
「少し休んでください」
「ああ……そうする」
息を整えながら、苦笑する。
「さすがに、欲張りすぎたな」
笑ったつもりだったが、漏れたのは乾いた息だけだった。
城そのものは、旅立つ前と変わっていない。
だが――静かだった。
行き交う者たちの足音は控えめで、回廊の向こうから聞こえる話し声さえ押し殺されている。
帰ってきたという安堵より先に、その静けさが胸へ迫った。
「カルト!」
聞き慣れた声が響いた。
顔を上げる。
レヴィンが走ってきた。
「レヴィン」
俺の前へ膝をつき、両肩を掴む。
「お前――」
何かを言おうとしたレヴィンが、そのまま固まった。
「その髪……」
「いろいろあった」
「いろいろで済ませるな!」
即座に怒鳴られた。
「怪我は!?」
「今はない。魔力を使いすぎただけだ」
「今は、ってなんだよ……」
レヴィンは俺の顔をしばらく見つめていた。
やがて、大きく息を吐く。
「帰ってくるなら、先に知らせろ」
「知らせを待っていたら、俺の方が先に着く」
「そういう意味じゃない!」
再び声が荒くなった。
だが、その先は続かなかった。
肩を掴む手に力が入る。
「……心配したんだぞ」
その一言で、何も言えなくなった。
「……すまない」
レヴィンは俯いた。
そこで初めて気づいた。
目の下に、薄い隈がある。
「陛下は」
尋ねると、肩を掴んでいた手が止まった。
「今日は、まだ……」
レヴィンは言葉を選ぶように間を置いた。
「時々、目を開けられる」
それ以上は聞けなかった。
レヴィンも、言わなかった。
俺は彼の手に自分の手を重ねた。
「帰ってきた」
レヴィンが顔を上げる。
「もう、ここにいる」
しばらくして――
「ああ」
レヴィンは、一度だけ頷いた。
*
旅の報告を行ったのは、その日の夕刻だった。
ラーナ王妃とレヴィンの前で、俺はまずマリアンを紹介した。
イザークで出会ったこと。
ダーナの地下施設で囚われていたこと。
そして、共にここまで旅をしてきたこと。
話を聞いたラーナ様は、マリアンを自分の傍らへ招いた。
「長い旅でしたね」
「……はい」
「もう大丈夫です。ここでは、安心して休みなさい」
マリアンは深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
その肩から、ようやく少しだけ力が抜けたように見えた。
それから俺は、自分の旅について語った。
ダーナの闘技場でホリンと出会ったこと。
リボーで起きていた騒乱。
ダーナ近郊の砦、その地下に潜んでいたロプト教団の魔道士。
死の淵で目覚めた光魔法。
そして――銀色へ変わった髪。
レヴィンは何度か質問を挟んだが、ラーナ様は黙ったまま最後まで話を聞いていた。
フュリーを一人で帰した話をした時だけ、レヴィンの眉間に皺が寄った。
「あいつ、一人だけ戻されたことを気にしていたぞ」
「わかってる。あとで俺から話す」
「あとで、じゃない。ちゃんと話せ」
「……はい」
思わず苦笑する。
こうして叱られることすら、懐かしかった。
帰ってきたからこそ、叱られることができる。
そんな当たり前のことが、妙にありがたかった。
ホリンやデューとの別れ。
ヴェルトマーでのアゼルとの再会。
アルヴィスとの戦い。
そして、クルト王子との対面。
そこまで話したところで、俺は言葉を止めた。
暖炉の中で薪が爆ぜる。
「……もう一つ、お伝えしておかなければならないことがあります」
ラーナ様の眼差しが俺へ向いた。
俺は額にかかる銀髪を掻き上げた。
聖痕を露わにする。
「――!」
レヴィンが椅子から身を乗り出した。
「それは……」
「ナーガの聖痕だ」
室内の空気が変わった。
「クルト王子も、同じ聖痕をお持ちだった」
ラーナ様の手が、膝の上で止まる。
「では……あなたのお母様は」
「母は、セーラと名乗っていました」
俺は髪を戻した。
「ですが、自分の生まれについて、俺には何も話していません」
口にしてみて、改めて思う。
俺は母のことを、あまりにも知らない。
「アズムール王にも、お会いしました」
「アズムール王に?」
「あの方は……母の出自をご存じでした」
そして俺は、あの夜に聞いた話を伝えた。
アズムール王の歳の離れた妹。
故国グランベルを離れ、シレジアへ渡った一人の女性。
その地で娘を産み――その娘が、やがて父マイオスと出会った。
母セーラ。
そして、その血が俺へと受け継がれた。
ナーガの血。
祖母が故国を去った理由について話す時、自然と声が低くなった。
血を残すことに囚われた王家。
そして、その過ちによって一人の女性が追い詰められたこと。
アズムール王自身が、深い後悔と共に語った過去。
あの時感じた苦しさは、まだ胸の奥に残っている。
「セーラは……」
ラーナ様が静かに口を開いた。
「それを、誰にも告げずにいたのですね」
「……はい」
母の名を知る者の声だった。
「母が何を考えていたのかは、今となってはわかりません。ただ――俺に施されていた封印も、この血と無関係ではなかったのでしょう」
守られていた。
きっと俺は、母に守られていたのだ。
だが時々、考えてしまう。
では――母は、誰に守られていたのだろう。
その問いだけは、口にできなかった。
「カルト」
ラーナ様が俺を見る。
「あなたは……グランベルへ戻るべきなのかもしれません」
予想していた言葉だった。
それでも、胸のどこかが痛んだ。
「ナーガの聖痕は、バーハラ王家にとって極めて大きな意味を持ちます。アズムール王があなたの存在を認めたのであれば、もはやシレジアの一公子というだけでは済まないでしょう」
レヴィンが、ゆっくりと背を椅子へ預けた。
「……お前を必要とする場所が、向こうにもあるんだな」
二人とも、俺を引き留めなかった。
だからこそ。
ここへ帰ってきた理由を、曖昧にしたくなかった。
「俺が旅に出たのは」
レヴィンを見る。
「自分の家柄を探すためじゃない」
レヴィンの目がわずかに動いた。
「この国で、お前を支えられるだけの力が欲しかった」
旅立った日のことを思い出す。
「父上やダッカー叔父上を前にして、何もできない自分が嫌だった。シレジアが争いに巻き込まれていくのを、ただ見ているだけにはなりたくなかった」
だから国を出た。
力を求めた。
知識を求めた。
外の世界を見ようとした。
「ナーガの血が流れていると知った」
額へ手を触れる。
「アズムール王とも繋がった。確かに、旅立った時には想像もしていなかったものを手に入れたよ」
そして、手を下ろした。
「でも――目的は変わってない」
「カルト……」
「俺は、お前の従兄弟だろう」
レヴィンが口を閉じた。
「ずっと一緒に修練してきた。お前の風魔法に何度も吹き飛ばされて、そのたびに悔しい思いをした」
「お前もオレを何度も燃やしただろ」
「それは忘れた」
「おい」
ほんの一瞬。
昔と同じやり取りが戻った。
俺は笑った。
「母のことを知る前から、お前は俺をカルトとして見てくれた」
ナーガの血など関係ない。
王族だからでもない。
聖痕があるからでもない。
「だから今さら、血筋がわかったから帰る場所を変えろと言われても……困る」
レヴィンが俯いた。
膝の上で固く握られていた拳が、ゆっくりと解かれていく。
ラーナ様はそんな俺たちを見つめていた。
「あなたの意思はわかりました」
やがて、静かな声が落ちる。
「ですが、友情だけで決めてよい問題ではありませんよ」
「承知しています」
俺は椅子の傍らに置いていた荷物から地図を取り出した。
「グランベルとの繋がりを捨てるつもりはありません」
机の上へ広げる。
レヴィンも身を乗り出した。
「むしろ、今回できた縁はシレジアのために使えます」
グランベルとシレジア。
地図の上では近く見えても、その間には山と海、そして政治という巨大な壁がある。
「グランベルから食料を輸入できれば、冬の備蓄はかなり安定する。良質な騎馬も欲しい。逆にシレジアには鉱石がある。交易路を整備できれば、お互いに利益があるはずです」
ラーナ様の視線が地図を辿る。
雪に閉ざされるこの国では、食料の備蓄はそのまま国力に直結する。
「グランベルに身を置かなくとも、その血と縁を活かすことはできると?」
「はい」
俺は頷いた。
「それに――」
指を動かす。
イザーク。
ダーナ。
そしてグランベル。
「向こうには、気になることがあります」
「気になること?」
「俺がダーナで見たものと、バーハラで語られていたものが違う」
レヴィンの表情が変わった。
「同じ出来事のはずなのに、場所が変われば意味まで変わっている。誰かが嘘をついていると断定するつもりはない。だが――」
リボーの街を歩いていた兵士たち。
怯えていた人々。
地下施設。
ロプト教団。
そして、バーハラで感じた得体の知れない息苦しさ。
「どの話を信じるかで、人は味方を決める」
一呼吸置く。
「そして、敵も決める」
ラーナ様が目を細めた。
「戦の前には、よくあることです」
「だからこそ、怖いのです」
まだ証拠などない。
誰が何を企んでいるのかもわからない。
だが。
「今グランベルの中へ入ってしまえば、逆に見えなくなるものがある気がする」
地図から手を離した。
「俺は、ここから見ていたい」
シレジアから。
国境の外から。
「何かがおかしいなら、シレジアまで巻き込まれる前に気づきたい」
レヴィンが俺を見る。
「そのためにも、オレの傍にいるのか?」
「ああ」
少しだけ笑う。
「迷惑か?」
「……今帰ってきたばかりの奴を追い出せるか」
レヴィンの口元が、ようやく緩んだ。
ラーナ様は俺たち二人を見て、小さく息を吐いた。
「では」
地図を静かに畳む。
「あなたにも、働いてもらわなければなりませんね」
「そのつもりで帰りました」
「今日は休みなさい」
ラーナ様は、ほんの少し笑った。
「これから――忙しくなります」
*
翌日から、城で過ごす日々が戻ってきた。
だが――以前と同じ日は、一日としてなかった。
医師が何度も王の寝所を出入りする。
ラーナ様はそのたびに報告を聞き、レヴィンは呼ばれるたびに席を立った。
戻ってきても、しばらく書類の文字が目に入っていない。
そんな時は、俺が黙って書類を引き取った。
冬の備蓄。
街道の補修。
各地から届いた収穫量。
兵糧。
商人からの陳情。
旅先で地図を広げていた手で、今度は祖国の数字を追う。
以前なら、ただの数字だった。
だが今は違う。
その向こうには、それを食べる人間がいる。
運ぶ者がいる。
家族がいる。
国というものが、少しだけ違って見えるようになっていた。
マリアンにも部屋が与えられた。
慣れない城暮らしに戸惑いながらも、衣服や荷物を整え、俺が食事を忘れていれば呼びに来る。
「カルト様」
「ん?」
「食事です」
「あとで食べる」
「昨日もそう仰いました」
「……そうだったか?」
「ご自分が倒れてしまっては、お手伝いもできません」
向かいに座っていたレヴィンが吹き出した。
「いいことを言う。こいつ昔からそこは変わらないんだ」
「お前も食べてないだろ」
「……」
マリアンが無言で、もう一皿置いた。
俺とレヴィンは顔を見合わせる。
「食うか」
「ああ」
それ以上、二人とも逆らえなかった。
*
王の寝所へ入ることを許されたのは、その翌日だった。
寝台の傍らへ進み、膝をつく。
記憶にある国王は、もっと大きな人だった。
広間の玉座に座り、幼い俺たちを見下ろしていた姿。
レヴィンが何か悪さをするたびに眉をひそめ、俺まで一緒に叱られた。
その人が今は――ひどく小さく見えた。
胸が、ゆっくりと上下する。
一度息を吐き、次に吸うまでが長い。
その一呼吸を待つ間、こちらまで息を止めてしまう。
やがて、王の瞼がわずかに開いた。
俺を見ているのかは、わからなかった。
「陛下」
声を絞り出す。
「カルトです」
返事はない。
「戻りました」
それだけ告げた。
旅の話も。
自分の出生も。
ナーガの聖痕も。
グランベルの王と会ったことも。
伝えたいことはいくらでもあった。
けれど、この場では何一つ言葉にならなかった。
ラーナ様が、王の手を両手で包んでいる。
その向こうでレヴィンが父の顔を見つめていた。
俺は深く頭を下げた。
「……失礼いたします」
静かに寝所を出た。
*
その夜。
回廊を歩いていると、窓辺に人影があった。
「レヴィン」
声をかける。
振り返った彼は、すぐに窓の外へ視線を戻した。
俺も隣に立つ。
雪こそ降っていなかったが、夜のシレジアは冷える。
眼下では、夜番の衛兵が交代していた。
「カルト」
「ん?」
「戻ってきてくれて、助かった」
「まだ大したことはしてないぞ」
「そうじゃない」
短く返された。
レヴィンは、しばらく衛兵たちを見ていた。
「みんな、オレを見ると頭を下げる」
「そりゃ王子だからな」
「違うんだ」
声が、少し震えた。
「最近……誰も、いつものように話してくれない」
俺は黙った。
「母上も、家臣も、みんなオレの顔を見ると……次の王を見るような顔をする」
その意味を、理解した。
「まだ父上は生きているのに」
俺は返す言葉を探した。
だが――見つからなかった。
だから。
昔と同じように、その肩を軽く叩いた。
レヴィンは避けなかった。
二人で、何も言わず窓の外を見た。
その夜は、それでよかった。
*
帰還して数日後。
まだ夜の色が残る頃、部屋の扉が叩かれた。
目を覚ます。
「カルト様」
扉の向こうから聞こえた声だけで、胸騒ぎがした。
開ける。
立っていた使者の顔を見た瞬間――
用件を尋ねることができなかった。
「……わかった」
それだけ答えた。
上着を掴み、部屋を出る。
王の寝所へ続く回廊には、すでに何人もの侍従が立っていた。
誰も喋らない。
誰もこちらを見ない。
ただ静かに、頭を垂れている。
開かれた扉の向こうに、ラーナ様の姿が見えた。
寝台の傍らに座り、王の手を握っている。
その反対側には――レヴィン。
俺は入口で足を止めた。
王の胸は。
もう、動いていなかった。
部屋の中に、誰かのすすり泣く声が聞こえた。
医師が静かに時刻を告げる。
ラーナ様は顔を上げなかった。
ただ一度。
小さく頷いた。
レヴィンは何も言わない。
寝台の端に置かれた手だけが、白くなるほど強く握られていた。
俺はゆっくりと歩み寄る。
その時――
鐘が鳴った。
――ゴォン。
重く、低い音。
シレジア城の石壁を震わせ、まだ眠る城下へと流れていく。
一度。
長い余韻。
そして――
二度目の鐘が鳴った。
レヴィンが、目を閉じた。
その横顔を見て、俺は昨日の言葉を思い出した。
まだ父上は生きているのに。
もう――違う。
これから皆が、彼を見る。
王を失った国の者たちが。
次の王として。
俺はレヴィンの傍らまで歩いた。
何か言おうとした。
だが、言葉は出なかった。
慰めなど、今は必要ない。
窓の外が、少しずつ白み始めていた。
山々の向こうから昇った朝日が、雪の残るシレジアを照らしていく。
いつもと変わらない朝だった。
昨日と同じように、空は明るくなる。
人が死んでも。
王が死んでも。
世界は何事もなかったように、次の日を迎える。
差し込んだ朝の光が、寝台の白い布へ届いた。
その光の中で、俺は深く頭を垂れた。
シレジア国王が――崩御された。
幼い頃から見上げていた王は、もういない。
そして。
隣に立つ友は、もうただの王子ではいられない。
鐘が鳴る。
シレジア全土へ、王の死を告げるために。
もう一度。
低く、長く。
その音を聞きながら、俺は顔を上げた。
泣くこともできず、ただ父を見つめ続けているレヴィンがいる。
俺は何も言わず、その隣に立った。
旅立った日と同じだった。
あの日、俺はこの男を支えるためにシレジアを出た。
力が欲しかった。
知識が欲しかった。
何もできない自分ではいたくなかった。
遠い国を巡り。
友と出会い。
敵と戦い。
母の秘密を知り。
自分の中に流れる血の意味まで知った。
それでも――
帰ってきた場所は、ここだった。
そして今。
ようやくわかった。
旅は、終わったのではない。
ここから始まるのだ。
王を失ったシレジアで。
王となる友の隣で。
俺がこの国のために何をするのか。
その答えを探す、本当の旅が。
夜が明ける。
白い国に、新しい朝が訪れる。
鐘は――
いつまでも、鳴り続けていた。