ファイアーエムブレム 聖戦の系譜〜氷雪の融解者〜 作:Edward
脱出
シレジアを発ってから、一週間が過ぎた。
俺は夜だけを選んで南へ進んでいた。
昼間は森の奥深くに身を潜め、夜になると雪を踏み締める。
ザクソン領を抜けるまでは、それでどうにかなった。
問題は――ここからだ。
「……リューベックか」
木々の隙間から、遠くに霞む城塞を見つめる。
あそこを越えなければ、シレジアを脱出したことにはならない。
ましてリューベックを治めるのは、叔父ダッカー。
国境に近いこともあって、街道には監視塔が点在し、巡回する兵士の数もザクソンとは比較にならなかった。
今までは森を利用できた。
だが、ここから南へ行くほど森は疎らになる。
隠れる場所がない。
見つかれば――終わりだ。
俺は雪の積もった木の幹に背を預け、小さく息を吐いた。
白い息が闇へ消えていく。
空を見上げる。
新月。
月明かりはない。
条件としては悪くない。
あとは吹雪さえ来てくれれば――。
「……来ねえな」
皮肉なくらい、今夜は静かだった。
いつもなら鬱陶しいほど吹き荒れる雪が、こんな時に限って降らない。
この一週間、火らしい火はほとんど使っていない。
煙を見つけられれば、それだけで居場所を知らせることになる。
暖を取るために使ってきたのは、小さなアルコールランプだけだった。
だが、その燃料ももうほとんど残っていない。
食料も底をつきかけていた。
手袋の中で指を動かす。
感覚が鈍い。
足先も同じだった。
シレジア育ちとはいえ、人間であることに変わりはない。
これ以上こんな生活を続ければ、本当に指の一本や二本を失いかねない。
「……今夜しかないか」
俺は立ち上がった。
肩には、この旅の途中で襲ってきた雪熊の毛皮を羽織っている。
命を狙ってきた相手だったが、今ではそいつの毛皮に命を救われている。
世の中とは妙なものだ。
「頼むから、見つかるなよ……」
誰に頼むでもなく呟き、歩き始める。
リューベック城の手前には小さな村がある。
本音を言えば、そこで暖かい食事にありつきたかった。
暖炉。
スープ。
柔らかいパン。
……駄目だ。
想像しただけで腹が鳴る。
「くそ……」
だが村には兵がいるかもしれない。
いや、この状況ならいると考えるべきだ。
俺は村を避け、森の縁をなぞるように南へ向かった。
何かあればすぐ森へ飛び込める距離を維持する。
真っ直ぐ行けば、深夜には国境へ着く。
迂回すれば夜明けに間に合わない。
焦るな。
だが、急げ。
相反する二つの言葉を頭の中で繰り返しながら、俺は雪を踏んだ。
◇
旅に出た理由は、もちろんレヴィンのためだ。
親父マイオスと叔父ダッカー。
あの二人がこのまま勢力を拡大すれば、いずれシレジアは割れる。
そして、その中心に立たされるのはレヴィンだ。
俺にはそれが分かっていた。
だが――今の俺には、何もできない。
だから力が欲しかった。
知識も。
経験も。
そして、戦う力も。
特に俺が欲しかったのは――剣術だった。
俺は魔道士だ。
シレジアでは、それが普通だった。
軍に入るなら魔道士。
あるいは天馬騎士。
もっとも天馬騎士団は女性だけで構成され、幼い頃から天馬と心を通わせる訓練を積んだ者でなければ務まらない。
男の俺には最初から選択肢にない。
そもそもシレジアという国そのものが、剣士を必要としていなかった。
山岳と森林。
そして厳しい寒さ。
地上から侵攻する軍勢に対して、森と山を利用しながら魔道士が遠距離から攻撃し、その頭上を天馬騎士が襲う。
理にかなっている。
だから剣術を本格的に教えられる者など、ほとんどいない。
だが俺は、シレジアの外へ出る。
なら話は別だ。
魔法は強い。
だが、万能じゃない。
精神が乱れれば術式は崩れる。
疲労すれば威力は落ちる。
集中できなければ、そもそも発動しない。
懐へ潜り込まれれば、それだけで致命傷になることもある。
なら――。
魔法を使えない状況でも戦えるようになればいい。
剣と魔法。
両方を使えれば、俺はもっと強くなれる。
……というのが、建前である。
本音を言えば。
「剣で敵を薙ぎ倒す方が格好いいだろ……」
以前、レヴィンにそれを言った。
あいつはしばらく俺を見つめたあと、深々とため息をついた。
『お前さ』
『なんだよ』
『本物の馬鹿だな』
「うるせえ」
思い出しただけで腹が立つ。
見てろよ、レヴィン。
絶対に覚えて帰ってやる。
剣も。
魔法も。
政治も。
戦争も。
俺が外で見つけられるものを、全部持って帰ってやる。
お前がシレジア王になる時。
俺が隣に立ってやる。
親父だろうが叔父だろうが――。
お前の邪魔をする奴は、俺がどうにかする。
「だから待ってろよ……」
その時だった。
頬を、微かな風が撫でた。
「――?」
足を止める。
風?
違う。
森を抜けてきた自然の風ではない。
一定の間隔を持っている。
羽ばたき。
そして微かに混じる、獣の臭い。
「……しまった!」
反射的に空を見上げた。
暗い夜空。
その中を、白い影が旋回している。
天馬。
「上か……!」
迂闊だった。
地上の兵ばかり警戒していた。
ここはシレジアなのだ。
父マイオスも、叔父ダッカーも天馬騎士を抱えている。
その一騎が、俺の頭上を旋回していた。
こちらを見ている。
間違いない。
見つかった。
俺は腰の鉄剣へ手を伸ばした。
だが、すぐに止める。
剣はまだまともに扱えない。
魔法なら戦える。
しかし相手は天馬騎士だ。
天馬は魔法への抵抗力が高い。
ましてあの騎手――。
「……上手いな」
風が強い。
にもかかわらず、天馬の位置がほとんどぶれない。
空中で静止しているようにさえ見える。
並の騎士ではない。
奥の手を使えば、撃ち落とせるかもしれない。
だが、それで終わりではない。
魔力を消耗する。
俺の存在が知られる。
国境は封鎖される。
次に見つかった時は――捕縛では済まないかもしれない。
「……仕方ねえ」
俺は剣から手を離した。
そして両手を上げる。
降伏。
少なくとも、そう見えるように。
天馬が旋回をやめた。
ゆっくりと高度を落としてくる。
俺は顔を伏せた。
従順な脱走者を演じながら、視線だけを動かす。
――近づいてこい。
降りてこい。
できれば油断して。
そのまま俺の間合いまで来い。
人質にする。
そして天馬に乗せてもらう。
イード砂漠まで一直線だ。
完璧。
……いや。
「無茶苦茶だな、俺……」
自分でもそう思う。
だが、他に手がない。
やがて天馬が雪原へ降り立った。
騎士は女性だった。
若い。
細身の槍を持っている。
顔まではよく見えない。
しかし驚いたことに、彼女は槍を天馬の鞍へ収納した。
「……は?」
武器を置いた?
こちらへ歩いてくる。
一歩。
二歩。
三歩。
俺は息を殺した。
あと少し。
もう少し。
間合いへ――。
入った。
俺は動いた。
「――っ!」
伏せていた身体を一気に起こす。
あらかじめ《ウインド》で足元の雪を吹き固めていた。
踏み込みの瞬間だけ、足場を作るためだ。
雪を蹴る。
一息で距離を詰める。
少女の手首を掴み、そのまま背後へ回った。
短剣を抜く。
刃を首筋へ。
「動くな」
少女の身体が硬直した。
成功した。
……俺、本当に魔道士より暗殺者の方が向いているんじゃないか?
「俺の言うことを聞けば危害は加えない」
できる限り低い声を作る。
「イード砂漠まで乗せてくれ」
沈黙。
少女は抵抗しなかった。
やがて――。
「……はい」
妙に穏やかな声が返ってきた。
「?」
「そのように、レヴィン様から仰せつかっておりますので」
「…………は?」
雪原を吹く冷たい風まで止まったような気がした。
俺はゆっくり短剣を下ろす。
少女が振り返った。
見覚えのある顔だった。
「フュリー!?」
そこにいたのは、マーニャの妹。
天馬騎士――フュリーだった。
「はい」
いつもと変わらない顔で答える。
「お前……まさか、俺を探してたのか?」
「はい。とても苦労しました」
「…………」
「ようやく見つけたと思いましたら、突然襲われました」
フュリーは少しだけ首を傾げる。
「何をなさっているのですか?」
「いや、それはこっちの台詞だ!」
思わず頭を抱えた。
マーニャは苦手だ。
あの人は俺を見るたびに「また何か企んでいるのではありませんか」という目をする。
そして妹のフュリーは別の意味で苦手だった。
天然。
あまりにも天然。
こちらが必死になればなるほど調子が狂う。
「つまり……レヴィンがお前を寄越したのか?」
「はい」
「俺を国外まで?」
「はい」
「最初から?」
「はい」
「…………」
この一週間は何だったんだ。
「レヴィン様からは、カルト様は話を聞けばすぐ行動するだろうから、部屋を監視するように、と」
「あいつ……」
読まれていた。
完全に。
「ですが、私がお部屋へ伺った時には、もういらっしゃいませんでした」
「…………」
「ですので、一週間ほど探していました」
「一週間!?」
思わず声が裏返った。
「はい。カルト様が立ち寄りそうな村にも聞いて回ったのですが――」
嫌な予感がした。
「待て」
「はい?」
「何て聞いた?」
「カルト様のような方を見ませんでしたか、と」
「俺の名前を出したのか!?」
「はい」
「何やってんだお前ぇぇぇっ!!」
雪原に俺の叫びが響いた。
慌てて口を塞ぐ。
遅い。
フュリーは不思議そうに俺を見ている。
「……何か、いけないことをしましたか?」
「全部だよ!」
一週間。
俺がどれだけ苦労したと思っている。
煙を出さず。
昼は隠れ。
夜だけ歩き。
雪熊に襲われ。
凍傷寸前になりながら。
その裏でこいつは――。
『カルト様を見ませんでしたか?』
と聞いて回っていたわけだ。
「そりゃ警備も厳しくなるわ!」
もう駄目だ。
地上から抜ける計画は完全に破綻している。
「フュリー!」
「はい」
「今すぐ出るぞ!」
「どちらへ?」
「南だ! とにかく南! 国境を越えろ!」
俺は天馬へ駆け寄った。
「ちょ、カルト様?」
「夜が明ける! 早くしろ!」
半ば強引に天馬へ飛び乗る。
フュリーも慌てる様子もなく、その後ろへ乗った。
「では、参りますね」
「頼む!」
天馬が翼を広げる。
雪が舞った。
次の瞬間、身体がふわりと浮き上がった。
地面が離れていく。
森が小さくなる。
リューベック城の灯火が遠ざかっていく。
そして――。
俺は生まれて初めて、故郷シレジアを空から見下ろした。
雪に覆われた大地。
深い森。
白い山々。
俺が守りたい国。
俺が変えたい国。
その景色を目に焼き付ける。
「……待ってろよ、レヴィン」
必ず帰る。
今より強くなって。
お前の力になれる男になって。
その時――。
今日のことを笑って話してやる。
いや。
その前に一発殴る。
絶対に殴る。
「レヴィンの野郎……絶対、フュリーを寄越したらこうなるって分かってたな……」
「何か仰いましたか?」
「何でもねえ!」
「そうですか」
フュリーは何事もなかったように手綱を操る。
白い天馬は暗い空を南へ翔けていく。
目指すはイード砂漠。
そして、その先にある――俺の知らない世界。
こうして俺は。
随分と締まらない形ではあったが――。
生まれ故郷シレジアを脱出した。