ファイアーエムブレム 聖戦の系譜〜氷雪の融解者〜 作:Edward
雪原を、一頭の馬が駆けていた。
真白な大地を蹴り上げ、蹄が雪を散らす。
シレジアではあまり見かけない、骨格のしっかりとした栗毛の軍馬だった。
グランベルとの交易によって送られてきた馬の一頭である。
「……やっぱり、少し鈍ってるな」
手綱を握りながら、俺は小さく呟いた。
グランベルへ魔道留学していた頃、乗馬は一通り習っている。
騎士ほど巧みに扱えるわけではないが、移動手段として乗りこなす程度なら問題はない。
とはいえ、本格的に馬へ乗るのは久しぶりだ。
昔の感覚を取り戻すためにも、今は無理に速度を上げず、少し早足程度に留めていた。
「マリアン。大丈夫か?」
「はい」
背後から、小さな返事が聞こえる。
俺の腰へ腕を回しているのはマリアンだった。
彼女をシレジアへ連れ帰ってから、いくつか分かったことがある。
まず、天馬騎士としての適性はなかった。
シレジアで生きる以上、天馬に乗れるというのは大きな利点になる。そこで一度フュリーにも協力してもらい、天馬へ乗せてみたのだが――どうにも相性が悪かった。
本人もかなり頑張った。
だが、こればかりは努力だけではどうにもならない。
そこで次に試したのが剣だった。
そして、こちらは驚くほど適性があった。
長く満足な食事を取れなかった影響もあるのだろう。
マリアンの身体は同年代の少女と比べても小柄で、体重も軽い。
普通ならば、それは剣士として不利になる。
力比べになれば成人男性には到底敵わない。重い剣を振り回すこともできない。
だが――彼女はその弱点を、別の才能へ変えてみせた。
柔らかな身体。
軽い体重。
そして異様なほど優れた平衡感覚。
真正面から敵の剣を受けるのではなく、身体を滑らせるように躱す。
地を蹴り、時には相手の身体すら足場にして死角へ潜り込み、そこから斬る。
剣術というより、軽業に剣を組み合わせたような戦い方だった。
初めて見た時には俺も呆気に取られたものだ。
ならば無理に型へ押し込む必要はない。
俺はそう判断した。
俺自身、剣については達人というほどではない。
だから基本だけを教え、後はマリアン自身が持つ身体能力を殺さないようにした。
結果として彼女の剣は、既存の流派とは似ても似つかない独特なものへ変わりつつある。
もっとも――。
「剣を使えるからって、戦場に出してやる気はないからな」
「……分かっています」
「本当に分かってるか?」
「分かっています」
少しだけ不満そうな声だった。
俺は苦笑する。
まだ成人すらしていない少女だ。
いくら才能があろうと、今から戦場へ放り込むつもりはない。
当面は俺の小姓として働いてもらう。
身の回りの仕事を覚え、読み書きや算術を学び、必要なら護身のために剣を使う。
それで十分だ。
少なくとも――。
俺のように、子供の頃から権力争いへ巻き込まれる必要などない。
「……見えてきました」
「ああ」
マリアンの声で意識を前へ戻す。
雪原の向こう。
白い大地に、いくつもの黒い影が並んでいた。
兵だ。
そしてそのさらに奥には――。
俺がよく知る紋章の旗が翻っている。
トーヴェ。
父、マイオスの軍勢。
「とうとう来たか……」
国王が崩御して、一月経った途端に即挙兵。
喪が明けたと同時にマイオスとダッカーはシレジアに向けての軍事侵攻。
予想通りだった。
あまりにも予想通りで笑えてくる、通り越して泣けて来たくらいだった。
国葬の場では、あれほど神妙な顔をしていたというのに。
父の死を悼むレヴィンの前で頭を垂れ、国王の棺へ祈りまで捧げていた。
その舌の根も乾かぬうちに、これだ。
「マリアン」
「はい」
「ここから先は後方へ下がれ。絶対に俺から離れるな」
「……はい」
今度は素直な返事だった。
俺は馬を止めた。
そして――。
空を見上げる。
灰色の雲。
雪。
シレジア特有の、凍えるような風。
その風の流れが、不自然に変わった。
「来るぞ!」
叫んだ瞬間だった。
遠方に展開していたマイオス軍の魔道士達が、一斉に魔道書を掲げた。
魔力が膨れ上がる。
一人や二人ではない。
数十人。
それぞれの魔力が絡み合い、上空へ吸い込まれていく。
空気が震えた。
雲が渦を巻く。
その渦の中心だけ、まるで何かが息を潜めているように、雪が不自然に落ちてこなかった。
「《ブリザード》……!」
シレジアという土地だからこそ成立する、大規模遠距離魔法。
大気中の冷気を魔力によって増幅し、猛烈な吹雪として敵陣へ叩きつける。
他国で同じことをしても、これほどの威力は出ない。
だが、この国なら違う。
シレジアそのものが、巨大な魔法媒体となる。
「全員、詠唱開始!」
俺の命令に、後方へ展開していた魔道士達が動いた。
「敵の魔法へ正面からぶつける! 押し返せ!」
魔道書が開かれる。
風の魔力が集束する。
俺も馬から降り、魔道書を開いた。
指先が冷たい。
いや。
違う。
周囲の冷気が、俺へ集まっている。
風が俺を中心に渦を巻く。
血が騒ぐ。
俺の中に流れる、聖戦士の力。
風を司る血。
その渦の奥で、誰かが風の流れを撫でるような感覚があった。俺の魔力とは違う、古びた指先の気配だった。
「――俺も加わる」
「カルト様!?」
「合わせろ! 一人で撃つ魔法じゃない!」
杖を掲げる。
視界の先で、敵軍の吹雪が巨大な白壁となって迫ってくる。
ならば。
こちらも同じものをぶつけるだけだ。
「《ブリザード》!!」
轟音。
俺達の前方で、雪原そのものが爆発したかと思った。
二つの吹雪が激突する。
雪が舞い上がる。
氷片が飛び散る。
視界が白一色に染まった。
風と風。
魔力と魔力。
互いが互いを押し潰そうとする。
「押せぇぇっ!!」
魔道士達が魔力を注ぎ込む。
俺も全力で風を操る。
こちらが――押している。
少しずつ。
確実に。
白い壁が敵軍側へ動いていく。
「いける……!」
こちらの魔道士達の練度は高い。
何より、俺自身が加わっている。
風を操ることに関してだけなら、そう簡単に負けるつもりはない。
だが――。
「カルト様!」
兵士の声。
「上空です!」
「なに?」
吹雪の向こう。
雲の切れ間から、影が現れる。
一騎。
二騎。
十騎。
いや――もっとだ。
「天馬騎士……!」
白銀の翼。
雪の中を縫うように、天馬の一団がこちらへ迫ってくる。
先頭を飛ぶ女騎士。
見覚えがあった。
「ディートバ……!」
父に仕える天馬騎士。
地上の魔道士戦ではこちらが優勢。
ならば上空から崩す。
当然の判断だ。
「対空迎撃!」
弓兵が矢を番える。
だが遅い。
天馬隊は吹雪を遮蔽物として利用していた。
上空から急降下。
「散れ!」
槍が降る。
悲鳴。
魔道士達の隊列が崩れる。
「くそっ……!」
俺が風を撃ち上げる。
だがディートバは巧みに天馬を操り、旋回して回避した。
速い。
フュリーとはまた違う。
集団戦に慣れている。
こちらが魔道士部隊で地上を制圧しようとすれば、上空からディートバが崩す。
逆に天馬隊へ意識を向ければ、敵魔道士の《ブリザード》が押し返してくる。
よく考えられている。
父が考えたのか。
それとも――。
『――カルト様』
「……?」
頭の中へ直接、声が響いた。
伝心。
敵魔道士か。
『聞こえておりますか』
「ああ。聞こえている」
『私はクブリと申します』
クブリ。
聞き覚えのない名だった。
だが、その名を告げる声には、妙に古風な響きがあった。まるで長い年月を経ても変わらない呼び名を、確かめるように口にした声だった。
『マイオス公にお仕えする魔道士です』
「それで?」
『戦いをお止めください』
俺は眉を寄せた。
『貴方様はマイオス公の御子息。トーヴェへお戻りください』
「…………」
『マイオス公も、御子息と戦うことなど望んではおられません』
思わず笑った。
「よく言う」
『カルト様』
「国王陛下が亡くなった途端に兵を挙げておいて、俺には家へ帰れか?」
『……』
「レヴィンは俺の友だ」
吹雪が頬を打つ。
「そして、あいつはシレジアの正統な王だ」
魔道書を握る手へ力を込める。
「父が王位を狙うというのなら――俺はレヴィンの側につく」
『実の父君と戦うと?』
「ああ」
迷いなどない。
「マイオスに伝えろ」
一度だけ目を閉じる。
国葬の日。
レヴィンに言われた言葉を思い出す。
父親を殺すことになるかもしれないぞ。
俺は、あの時なんと答えた。
決まっている。
「――俺が止める」
『……』
「それでも止まらないなら、俺がこの手で討つ」
伝心の向こうで、沈黙が続いた。
やがて。
『……承知しました』
クブリの声から、何かが消えた。
説得する者の声ではない。
魔道士の声になった。
その切り替わりはあまりに滑らかで、感情を捨てたというより、最初から別の顔を隠していたように聞こえた。
『では――敵として参ります』
「ああ」
俺は杖を構えた。
「来い」
次の瞬間。
敵陣から凄まじい魔力が膨れ上がった。
「全員、構えろ!」
吹雪。
風刃。
氷塊。
無数の魔法が飛び交う。
こちらも撃ち返す。
雪原が、一瞬にして魔道士同士の戦場へ変わった。
爆発。
閃光。
悲鳴。
雪が焼け、凍り、再び吹き飛ばされる。
敵の魔道士達も弱くない。
だが――。
押している。
こちらが。
それでもクブリは巧みだった。
魔道士達をまとめ、こちらの攻撃を分散させている。
その指示は短く、正確だった。時折、魔道書を開く手を止め、風の音だけを聞くように顔を上げる。そのたび、次に飛ぶ魔法の軌道を先に知っているかのように、部隊が動いた。
このままでは時間がかかる。
上空にはディートバもいる。
長引けば不利だ。
「……仕方ない」
俺は魔道書を閉じた。
腰に提げていた、もう一冊へ手を伸ばす。
「カルト様?」
近くにいた魔道士が驚いたように俺を見る。
「ここで決める」
取り出した魔道書。
風ではない。
シレジアの魔法でもない。
俺自身ですら、まだ完全には理解していない力。
光。
あの日。
死の魔法を前にして目覚めたもの。
俺は静かに表紙を開いた。
紙面に刻まれた文字が、光を受ける前から淡く浮かび上がった。見覚えのない古い文字だったが、なぜか意味だけが胸の奥へ滑り込んでくる。
空気が変わった。
周囲の魔道士達が息を呑む。
吹雪の中。
俺の周囲だけが、淡く輝き始めた。
「……なんだ、あれは」
敵兵の声まで聞こえた。
光が集まる。
雪原へ反射する。
白とは違う。
暖かく、しかし圧倒的な輝き。
その光を見た瞬間、敵陣のどこかでクブリが息を呑んだ気がした。驚きではない。長く待ち続けたものを、ようやく目にした者の反応だった。
「《オーラ》」
光が奔った。
戦場から音が消えた。
そう錯覚するほどの閃光だった。
敵魔道士達が展開していた防御魔法を、光が次々と打ち破っていく。
「うわぁぁぁっ!」
隊列が崩れた。
魔道書を取り落とす者。
腰を抜かす者。
逃げる者。
それまで拮抗していた戦況が、一撃で傾いた。
「進め!」
俺の魔道士隊が前進する。
敵はもう《ブリザード》を維持できない。
空を覆っていた吹雪が消えていく。
視界が開けた。
その向こうに、一人の魔道士が立っていた。
黒い外套。
深く被ったフード。
クブリ。
俺には分かった。
「お前か」
「……はい」
伝心ではない。
今度は直接の声だった。
その声は、先ほどよりもわずかに低く、静かだった。戦場の騒音の中でも不思議なほど明瞭で、耳ではなく記憶へ届くように響いた。
俺は歩く。
クブリも魔道書を構える。
「まだやるか?」
「私にも……退けぬ理由があります」
「そうか」
ならば戦うだけだ。
クブリが詠唱する。
周囲へ薄い光の膜が広がった。
魔法防御。
俺の《オーラ》を見て、正面から受けるつもりか。
その防壁には、見慣れない細い紋様が幾重にも走っていた。文字にも魔法陣にも見えるのに、どこか生き物の鱗のように光を返している。
「やめておけ」
「参ります」
「――死ぬぞ」
返事はなかった。
ただ、クブリは魔道書を持つ手を一度だけ胸元へ引いた。祈りにも、何かを封じる仕草にも見えた。
俺は魔道書を開く。
「《オーラ》!」
光。
クブリの防壁へ直撃した。
「ぐっ……!」
魔法防御が軋む。
光が膜を削り取る。
それでもクブリは耐えた。
歯を食いしばり、魔力を注ぎ込み続ける。
「まだ……!」
「やめろ!」
「まだです!」
防壁が砕けた。
爆発。
クブリの身体が雪原へ吹き飛ばされる。
「……!」
俺は即座に魔法を止めた。
雪煙が晴れる。
クブリは倒れていた。
だが、生きている。
魔法防御のおかげで致命傷は避けたらしい。
「……見事、です」
クブリがゆっくりと身体を起こした。
「私の……負けです」
「降伏するか」
「……はい」
俺は魔道書を閉じた。
「なら武器を捨てろ。これ以上は攻撃しない」
クブリは魔道書を雪の上へ置いた。
両手を上げる。
その動作は負傷した者のものとは思えないほど静かで、まるで決められた手順をなぞっているようだった。
そして。
「……一つだけ、お願いがございます」
「なんだ」
「この姿のままでは……礼を欠きますゆえ」
クブリがフードへ手を掛けた。
俺は何気なく、その姿を見ていた。
フードが外れる。
隠されていた顔が露わになる。
「――――」
俺は言葉を失った。
魔道書を握っていた手から、力が抜ける。
見間違えるはずがない。
いや。
見間違いであってほしいとすら思った。
最後にその顔を見たのは、まだ二人とも何も失っていなかった頃だ。あの頃の声も、笑い方も、別れ際に交わした言葉も、凍りついた記憶の底から一度に蘇る。
「……お前……」
喉が震えた。
息がうまく吸えない。
吹雪が止んでいた。
戦場の喧騒さえ、遠く感じる。
クブリは静かに俺を見つめている。
その顔を。
俺は知っていた。
知っているはずだった。
なのに、目の前にいる現実だけが、どうしても受け入れられない。
クブリの瞳には、戦場に立つ者の緊張も、敗北した者の怯えもなかった。ただ、長い時間を越えてようやく果たされた約束を確かめるような、静かな光だけが宿っていた。
その静けさが、かえって俺を動揺させた。
俺だけが、過去に取り残されている。
「……どうして、お前がここにいる?」
答えはない。
ただ雪だけが、二人の間へ静かに降り積もっていた。