ファイアーエムブレム 聖戦の系譜〜氷雪の融解者〜 作:Edward
グランベルを発った船は、北へ向かって静かに海を進んでいた。
季節は冬。
とはいえ、甲板を吹き抜ける風に身を晒していても、シレジア育ちの俺にとっては秋の終わり程度にしか感じられない。
吐く息こそ白いが、雪はない。
海も凍っていない。
これを冬と呼ぶのだから、グランベルの人間は随分と温暖な土地に暮らしているものだ。
「……暖かいな」
俺が呟くと、隣に立っていた男が怪訝そうな顔をした。
「これで、ですか?」
「ああ。シレジアなら、この時期に甲板で突っ立っていたら馬鹿扱いされる」
「……帰りたくなくなってきました」
「安心しろ。もうすぐ嫌でも寒くなる」
「安心できる要素がありません」
ムーサーが露骨に嫌そうな顔をする。
つい先日まで他人だった男。
そして今では――俺の異母弟。
人生とは何が起こるか分からない。
少なくとも、グランベルへ向かう前の俺に「帰りには弟が一人増えているぞ」と教えても、絶対に信じなかっただろう。
アズムール王から託されたムーサー。
血筋だけを考えるなら、彼をシレジアへ連れ帰ること自体に問題はない。
問題なのは俺の立場だった。
内乱が終結したばかりのシレジアでは、レヴィンが王位に就いたとはいえ、宮廷内部の勢力図はまだ完全には固まっていない。
ザクソンとトーヴェの勢力が削がれたことで、結果としてセイレーン公爵家の発言力は大きく増している。
その当主である俺が突然、
『実はフリージ家縁の弟を連れてきました。』
などと言い出したらどうなるか。
しかも俺自身にもグランベル王家との血縁がある。
いらぬ憶測を呼ぶには十分すぎた。
セイレーン公はグランベル王家と繋がりを持ち、さらにその血族まで自領へ迎え入れた。
王位を狙っているのではないか。
グランベルを後ろ盾にシレジアを牛耳るつもりではないか。
そんな噂が流れれば、せっかく終わった内乱の火種を再び作りかねない。
だからムーサーとは話し合った。
少なくとも今は、兄弟であることを伏せる。
ムーサーという名前も使わない。
フリージ地方出身の魔道士。
俺がグランベル滞在中に知り合い、その能力を買って連れ帰った男。
名は――。
「クブリ」
「……はい」
「返事が遅い」
「まだ慣れていないんですよ」
「これからお前はクブリだ。呼ばれたら即座に反応しろ」
「分かりました」
「あと敬語」
「兄上に?」
「その兄上をやめろと言っている」
「……分かりました、カルト様」
「よろしい」
腕を組んで頷く。
そのやり取りを少し離れたところで聞いていたレヴィンが、心底哀れそうな目でクブリを見た。
「不憫な奴だ」
「何がだ」
「よりにもよって、カルトの弟なんて誰もやりたがらない役を押しつけられるとは」
「おい」
クブリは少し考えた後、真顔でレヴィンへ向き直った。
「レヴィン様」
「なんだ?」
「今からそちらへ鞍替えしてもよろしいでしょうか」
「歓迎するぞ」
「尻の軽い男だな、お前は」
「兄上――」
俺が睨む。
「……カルト様に言われたくありません」
「よし。敬語は合格だ」
「そこですか?」
レヴィンが吹き出した。
船員たちも遠巻きに笑っている。
俺も結局、堪えきれずに笑った。
悪くない。
血を分けた弟だからといって、今さら兄らしく振る舞えるとも思えない。
それなら、こういう関係から始めればいい。
ムーサーも――いや、クブリもそれでいいと思っているらしい。
やがて海を渡る風が急激に冷たくなった。
頬を刺すような冷気。
見慣れた灰色の空。
遠くの水平線には、白く霞む山々が見え始める。
「……寒っ」
思わず身体が震えた。
クブリがこちらを見る。
「さっき暖かいと言っていませんでしたか?」
「ここはもうシレジア領海だ」
「そんな急に変わります?」
「変わるんだよ」
「理不尽な国ですね」
「住めば都だ」
「それ、住んでいる人が言う言葉でしょうか」
その日の夕刻。
俺たちは無事、シレジアへ帰還した。
◇
セイレーンへ戻ると、留守中に溜まっていた仕事が俺を待ち構えていた。
いや。
待ち構えていた、などという可愛らしい量ではない。
執務室の机に積み上げられた書類を見た瞬間、グランベルへ引き返したくなった。
「……これ、全部?」
「全部です」
マリアンがにっこり笑った。
「俺がいなくても処理できるものは?」
「処理しました」
「じゃあこれは?」
「公爵本人の決裁が必要なものです」
「……レヴィンに渡していい?」
「駄目です」
「国王だぞ」
「セイレーン公爵ではありません」
「正論って時々、人を傷つけるよな」
「仕事をしてください」
冷たい。
シレジアの冬より冷たい。
しかし逃げるわけにもいかない。
交易品の確認。
港湾整備。
グランベルとの新規交易路に関する調整。
冬季に不足する食料の備蓄量。
鉱石の輸出量。
船舶の修繕費。
さらには沿岸部に出没する海賊への対応まである。
公爵とはもっと優雅なものだと思っていた。
実際には机に座って書類へ署名し、問題が起きれば現場へ飛び、帰ってくればさらに書類が増えている。
何かがおかしい。
その忙しさの中で、クブリにはセイレーンの魔道士として働いてもらうことにした。
フリージ出身という設定は嘘ではない。
雷魔法に精通していることも事実だ。
幸い、セイレーンには他国出身者も珍しくない。
港町という土地柄もあって、多少訛りが違おうが、見慣れない人間が増えようが、それほど詮索されない。
数日もすれば、
「公爵様がグランベルから連れてきた魔道士」
程度の認識に落ち着いた。
本人も馴染むのは早かった。
俺に対する敬語だけは時々忘れた。
そのたびに睨むと、
「申し訳ありません、カルト様」
と棒読みで言う。
こいつ、絶対に楽しんでいる。
◇
そんな日々の中、デューから手紙が届いた。
懐かしい名前を見つけ、仕事の手を止める。
封を切ると、相変わらず妙に明るい文章が並んでいた。
ミレトスに隠れ家を確保したこと。
自分は盗賊や裏社会の人間が集まるギルドへ潜り込み、情報収集を続けていること。
そして――。
「……まだ合流できてないのか」
思わず笑ってしまった。
ホリンは未だにアイラとシャナンを見つけられていないらしい。
それどころか、ようやくミレトスに潜伏拠点を用意して二人を迎える準備を整えた直後、当のアイラたちはグランベルを横断し、ヴェルダン方面へ向かったという。
なんという擦れ違いだ。
デューの所属するギルドが掴んだ情報では、二人は各地の闘技場で賞金を稼ぎながら移動しているらしい。
もちろん偽名を使っている。
しかしイザーク人特有の黒髪。
さらに、あの剣技だ。
アイラほどの腕前なら、どれほど名前を隠しても噂までは隠せない。
黒髪の女剣士。
恐ろしく速い。
連撃を受けた相手が何もできないまま倒された。
そんな噂を拾い集めれば、おおよその足取りは掴める。
問題は――。
『ホリンの兄ちゃん、毎日頭抱えてるぜ。
せっかく隠れ家まで用意したのに、なんで反対方向に行くんだー!って。
最近じゃ地図を見るだけでため息ついてる。
面白いからしばらく放っとこうと思う』
「……助けてやれよ」
口ではそう言いながら笑ってしまった。
目に浮かぶ。
真面目な顔で大陸地図を広げ、
『なぜだ……』
と頭を抱えているホリンの姿が。
しかしアイラもアイラだ。
グランベル領内を横断してヴェルダンまで向かうとは。
現在、グランベル軍の主力はイザーク遠征へ向かっている。
平時より国内の兵力が薄い以上、見つかる危険は確かに少ない。
だが、それを差し引いても大胆すぎる。
「堂々とした王女様だな……」
俺は苦笑しながら手紙を畳んだ。
元気なら、それでいい。
ホリンには悪いが、そのうち追いつくだろう。
そう思っていた。
この時はまだ。
◇
帰国から一月。
俺は再びセイレーン公爵としての日常に埋没していた。
港へ入った交易船の積荷を確認し、海賊討伐へ出て、帰還すればグランベルから輸入された馬の状態を見る。
さらにアグストリアから運ばれてきた穀物の価格を確認し、輸送中の損耗率について商人たちと話し合う。
朝から晩まで働いているのに仕事が減らない。
「公爵ってなんなんだろうな」
執務机で呟く。
「偉い人では?」
書類を運んできたクブリが答えた。
「偉い人って、もっとこう……椅子に座って『うむ』とか言っていればいいんじゃないのか?」
「それをやったら領地が滅びるのでは?」
「お前、最近遠慮がなくなったな」
「カルト様に似たのでしょう」
「誰が兄だ」
「私は一言も兄とは言っていませんが」
「……成長したな」
「ありがとうございます」
皮肉まで覚えやがった。
そんな平穏とも多忙とも言える日々を破ったのは、一通の伝心だった。
アズムール王から。
しかも火急。
嫌な予感がした。
内容を確認した瞬間、その予感は現実となった。
「……ヴェルダンが?」
椅子から立ち上がる。
イザーク遠征によってグランベル軍の主力が東へ移動している隙を突き、ヴェルダン王国軍が国境を越えた。
ユン川を突破。
グランベル領内へ侵攻。
国境付近ではすでに戦闘が始まっている。
アズムール王からの伝心には、可能であればシレジアから援軍を送ってほしいと記されていた。
俺の頭に最初に浮かんだのは、グランベルでもアズムール王でもなかった。
「……まずい」
「どうしました?」
マリアンが俺を見る。
「アイラたちだ」
デューから届いた手紙を思い出す。
アイラとシャナンはヴェルダン方面へ向かった。
ホリンも二人を追っている。
デューも近辺で情報を集めている可能性が高い。
ヴェルダン軍が国境を越えたのなら、あいつらが巻き込まれる可能性がある。
「マリアン。準備しろ」
「はい」
「クブリもだ」
「私も?」
「グランベルの地理は俺より詳しいだろ」
「分かりました」
迷っている時間はなかった。
俺たちはその日のうちにセイレーンを発ち、転移の杖でシレジア城へ飛んだ。
◇
「ヴェルダンが動いた?」
報告を聞いたレヴィンの顔から笑みが消えた。
「ああ。ユン川を越えたらしい」
「グランベル軍は?」
「主力はイザークだ。国内に残っている兵だけで対応することになる」
レヴィンは腕を組んだ。
シレジアにとって、グランベル国内の戦争へ軍を送ることは簡単な判断ではない。
本来なら他国の戦争だ。
しかし今回は事情が違う。
先日の交易協定。
そしてアズムール王から正式に送られた援軍要請。
これを無視すれば、築き始めたばかりの両国関係に傷が入る。
「……何人欲しい」
「フュリーの天馬隊を借りたい」
「お前、自分で言っていて結構無茶だって分かってるか?」
「分かってる」
シレジアの天馬騎士は貴重な戦力だ。
ましてフュリーの部隊なら、現在のシレジア軍でも屈指の精鋭になる。
レヴィンはしばらく黙っていた。
やがて息を吐く。
「貸す」
「いいのか?」
「アズムール王から正式な要請が来ているんだろ。なら断る理由も薄い。それに――」
レヴィンが俺を見る。
「お前一人で行かせたら、どうせ勝手に何かやらかす」
「信用ないな」
「自覚がないのが一番怖いんだよ」
反論できない。
「ただし条件がある」
「なんだ?」
「無茶はするな」
「善処する」
「今ので貸すのやめようかな」
「冗談だ」
「お前の場合、冗談に聞こえないんだよ!」
こうしてシレジアからの援軍派遣が決まった。
速度を優先し、先発隊はフュリー率いる天馬騎士団。
俺とマリアン、クブリも同行する。
食料や予備装備を積んだ輸送部隊は船で海を渡り、後からフリージへ入る。
陸路では遅すぎる。
天馬なら海を直接越えられる。
翌朝。
まだ陽が昇り切らないうちに、シレジア城の上空へ天馬たちが舞い上がった。
翼が風を叩く音が重なる。
眼下には白銀の大地。
その向こうに広がる海。
「カルト!」
先頭を飛ぶフュリーが振り返った。
「海を越えたら一度休憩を入れます! 天馬でも一気にフリージまでは無理です!」
「任せる!」
風に声を乗せて答える。
俺は振り返った。
遠ざかっていくシレジア。
ほんの少し前まで、あそこが俺の世界のすべてだった。
それが今では、アグストリアと交易し、グランベルと手を結び、海を越えて援軍を送ろうとしている。
世界が動いている。
そんな感覚があった。
◇
シレジアの天馬騎士団がフリージ領へ入ったという知らせは、当然ながら現地にも伝わった。
その中に、
銀髪の魔道士。
セイレーン公爵カルト。
その名前があると知った少女がいた。
「……カルト?」
リンダは届けられた報告書をもう一度読み返した。
間違いない。
シレジアから派遣された援軍。
ヴェルダン軍迎撃のため南下。
指揮官の一人としてカルトの名前が記されている。
「ちょっと待って!」
椅子を蹴るように立ち上がった。
「聞いてない!」
当然である。
カルトは知らせていない。
そもそも知らせる時間がなかった。
だが、そんな事情はリンダには関係ない。
彼女は慌てて部屋を飛び出した。
「馬を用意して!」
「リ、リンダ様!?」
「急いで!」
「どちらへ!?」
「南!」
「南のどちらですか!?」
「カルトがいるところ!」
「それでは分かりません!」
廊下に声が響いた。
こうして、カルトの知らないところで一人の少女まで動き始めた。
◇
季節は、早春。
長い冬が終わろうとしていた。
凍りついていた大地から雪が消え、川の氷が割れ、南から少しずつ暖かな風が吹き始める。
しかし、その春風とともに訪れたものは平穏ではなかった。
ヴェルダン王国。
グランベル王国。
ユン川。
そして――シアルフィ。
まだ誰も知らない。
この小さな国境紛争が、やがて大陸全土を巻き込む戦乱へ変わっていくことを。
俺も知らなかった。
アズムール王から届いた一通の伝心。
ただそれに応えようとしただけだった。
友人たちが巻き込まれているかもしれない。
それなら助けに行く。
理由など、その程度だった。
だが運命というものは、人間の都合など聞いてくれない。
この頃。
シアルフィ公国でもまた、一人の騎士が剣を取ろうとしていた。
その名は――シグルド。
後に大陸の歴史を大きく揺るがすことになる男。
そして俺にとって、決して忘れることのできない友。
俺たちはまだ知らない。
この早春。
それぞれ別の場所から踏み出した一歩が――
同じ戦場へと繋がっていることを。