ファイアーエムブレム 聖戦の系譜〜氷雪の融解者〜 作:Edward
025 開戦
イザークを旅していた頃は、昼夜の寒暖差があまりにも激しく、季節というものを感じる余裕すら失っていた。
あの頃は冬だった。
それから時は移ろい、世界は春を迎えている。
久方ぶりに訪れたグランベルの大地は、シレジアとはまるで違っていた。
街道の両脇に並ぶ木々は鮮やかな緑を湛え、吹き抜ける風にも雪国特有の刺すような冷たさはない。頭上から降り注ぐ陽射しは柔らかく、馬上にいるだけでも背中がじんわりと温められていく。
シレジアの春は遅い。
あの国では、まだ雪解けを待っている頃だ。
「…………」
知らず知らずのうちに、俺は周囲の景色を眺めていたらしい。
腰に回されていた腕が、ほんの少しだけ強くなった。
「どうした、マリアン?」
「いいえ」
後ろに乗る少女は、それだけ答えた。
だが、声が少し笑っている。
「カルト様、嬉しそうだったので」
「俺が?」
「はい」
そう言われて、初めて気付いた。
どうやら俺は、久しぶりに見る春の景色に心を緩ませていたらしい。
悪くない。
これから向かう先が戦場でなければ、もう少しゆっくり眺めていたかった。
そう思った、その時だった。
頭上から羽ばたきの音が聞こえた。
見上げるより早く、一騎の天馬が高度を落としてくる。
白い翼が大きく広がり、巻き起こされた風にマリアンが目を細めた。
天馬はそのまま俺たちの横につき、馬の速度にぴたりと合わせる。
騎乗しているのは、見慣れた緑髪の女性だった。
「カルト! 急ぐわよ!」
開口一番、それか。
「ここで出遅れてはシレジアの名折れよ。先行しているシアルフィ軍は、もうユングウィ周辺で交戦しているわ!」
山道に差しかかろうとしている街道で、天馬の手綱をほとんど意識することなく並走してくる。
相変わらず、とんでもない騎乗技術だ。
「却下だ」
「なっ!?」
「フュリー、焦るな」
俺は前を向いたまま答えた。
「海を越えてフリージに着いて、そこからほとんど休みなしで進んできたんだぞ。馬も人も疲れている。このまま戦場へ放り込んだら、勝てる戦いで死人が出る」
「しかし――」
「後続の徒歩部隊とも距離が開いている。一度休ませて合流を待つ。その後、騎馬と天馬を先行させる」
フュリーが不満そうに眉を寄せた。
気持ちは分かる。
シアルフィから正式に救援を求められ、シレジアの名を背負ってここまで来たのだ。
一刻も早く駆けつけたいのだろう。
だが、それと兵を無駄に疲弊させることは別だ。
「心配するな。残留部隊とはいえ、シアルフィの次期当主はかなりの御仁だと聞いている。数だけを頼みに攻め込んできた連中に、そう簡単に遅れは取らないだろう」
「……でも」
「それにな」
俺は少し笑った。
「救援に来たシレジア軍が全部片付けちまったら、シアルフィの面目まで潰すことになる」
「あ……」
「俺たちは勝手に戦争をしに来たんじゃない。シアルフィを助けに来たんだ。そこを間違えるなよ」
しばらくフュリーは黙っていた。
やがて、小さく息を吐く。
「……分かったわ」
それでも完全には納得していないらしい。
「でも、シアルフィ軍が劣勢だと分かったら、私たち天馬部隊が真っ先に行くからね!」
「ああ。その時は頼む」
「任せなさい!」
天馬が一声、高く嘶いた。
そして白い翼を大きく羽ばたかせ、一気に上昇していく。
上空を旋回していた天馬騎士たちの編隊へ戻ると、十数騎の白い影が再び南へ進路を取った。
青空を渡っていく天馬の群れ。
その姿は、何度見ても美しい。
舞い落ちる白い羽根が陽光を受け、まるで雪のように煌めいていた。
マリアンもずっと空を見上げている。
「乗ってみたかったか?」
尋ねると、彼女はすぐに首を横へ振った。
そして俺の腰に回している腕を強くし、背中へ顔を押しつけてくる。
「……こっちの方がいいです」
「そうか」
思わず苦笑した。
マリアンも一度、天馬に乗ろうとしたことがある。
天馬に乗ることができるのは、基本的に女性だけだ。
古い伝承では穢れを知らぬ乙女だけが天馬に認められるなどと言われているが、実際にはそんな制約はない。
むしろ幼い頃から天馬と触れ合い、互いの意思を通わせることの方が重要らしい。
その事実が長い年月の中で変質し、今の伝承になったのではないかとも言われている。
マリアンも年齢だけなら十分だった。
だが――駄目だった。
何度試しても天馬が彼女を受け入れない。
マリアン自身も最後には諦めてしまった。
「私はこれがありますから」
背中から身体を離したマリアンが、腰の剣を軽く叩いた。
「この剣で、カルト様のお役に立ってみせます。馬も天馬も必要ありません!」
「頼もしくなったな」
「はい!」
「でも、前には出るなよ」
「…………」
「そこで露骨に嫌そうな顔をするな」
「してません」
「してる」
振り返らなくても分かる。
「今の君に必要なのは敵を倒すことじゃない。戦場を知ることだ。経験を積んで、生きて帰る。それだけ考えてくれ」
「……はい」
「君を失えば悲しむ人間がいる。それを忘れないでくれよ」
背中越しに、マリアンの気配が止まった。
やがて小さな声が聞こえる。
「はい……カルト様」
それだけで、彼女には十分だったのだろう。
マリアンはかつて、イザークの小さな世界だけを生きていた。
未来など考えることもできなかった。
笑っていれば怒られない。
言われた通りに働けば殴られない。
食事を作っても、自分の分が残るとは限らない。
腹が減っても我慢する。
苦しくても笑う。
ただ、その日をやり過ごす。
それが彼女にとっての世界だった。
そんな閉ざされた世界から彼女を連れ出したのが、俺だった。
イード砂漠の遺跡で救出してから、マリアンは少しずつ笑うようになった。
だが同時に、俺への依存も強かった。
ヴェルトマーで彼女を預け、俺だけがバーハラへ向かった時など特に酷かったらしい。
戻った後、アゼルから聞かされた。
俺がいなくなってからしばらく、マリアンはほとんど部屋から出なかったそうだ。
不安になるたびに俺の名前を呼び、泣いていたという。
それを聞いた時には、胸が痛んだ。
やはり連れていくべきだったのではないか。
そんなことも考えた。
だが――。
アゼルは最後に、少しだけ嬉しそうに教えてくれた。
ある日、マリアンは自分から部屋を出た。
そして一人で鍛錬場へ向かい、俺が教えた剣を握ったのだという。
誰かに命じられたわけではない。
俺が戻ってきた時、守ってもらうだけの自分ではいたくない。
その一心だったらしい。
朝から何度も剣を振った。
手の皮が破れても続けた。
翌日も、その翌日も。
俺がヴェルトマーへ戻った時には、両手にいくつもの豆ができていた。
本人は何も言わなかった。
俺も聞かなかった。
ただ――以前とは目が違っていた。
シレジアへ戻ってからも鍛錬は続いた。
身体にも肉がついた。
顔色も良くなった。
剣を振れば汗をかき、腹が減れば食事をする。
眠くなれば眠る。
そんな当たり前の生活の中で、マリアンは少しずつ強くなっていった。
そして今回。
ヴェルダンがグランベルとの取り決めを破り、シアルフィ領へ侵攻したとの報が届いた時。
マリアンは自分から従軍を申し出た。
もちろん俺は反対した。
何度も反対した。
それでも彼女は引かなかった。
最後には俺が折れた。
絶対に俺の傍を離れないこと。
危険だと判断した場合は命令に従って後退すること。
その二つを条件に、同行を認めた。
守られるだけだった少女が、自分から戦場へ向かおうとしている。
それが正しいことなのか、俺にはまだ分からない。
だが。
彼女自身が選んだ道なら、その選択まで俺が奪ってはいけない。
そう思った。
フリージ領内の森林地帯で、俺は予定通り全軍に休息を命じた。
海路でグランベルへ到着してから、かなりの距離を進んでいる。
後続の徒歩部隊が到着するまで兵を休ませ、馬には水と飼料を与えた。
今回率いてきた騎馬の多くは、グランベルとの交易によってシレジアへ渡ってきたものだ。
寒冷なシレジアでは良質な軍馬の安定確保が難しい。
だからこそ、グランベルとの交易を始めた時、食料と並んで騎馬の輸入を重視した。
まさかこれほど早く、送り出した側の国を守るために使うことになるとは思わなかったが。
十分な休息を取らせた後、徒歩部隊を第二陣として残し、俺は騎馬部隊を率いて南下を開始した。
フュリーの天馬部隊が先行して上空から偵察する。
やがて伝令が降りてきた。
「ユングウィ周辺で複数の戦闘を確認! 大規模な会戦ではありません! ヴェルダン軍が分散しています!」
「シアルフィ軍は?」
「各地で交戦中! ユングウィ周辺が最も激しいと思われます!」
「分かった。フュリーにはそのまま偵察を継続させろ。村落を襲撃している部隊を発見した場合は排除して構わない!」
「はっ!」
俺たちは速度を上げた。
最初に敵と接触したのはフュリーだった。
街道から離れた村を襲っていた集団を発見。
ヴェルダン正規兵なのか、それとも混乱に乗じた賊なのか。
もはや判別すらつかない連中だった。
天馬部隊が急降下し、瞬く間に制圧へ入る。
俺たち騎馬隊はそのまま南下した。
そしてユングウィ北方。
ユン川の支流を背負う形で布陣していたヴェルダン軍一個部隊と接触した。
敵にとっては最悪の位置だった。
背後は川。
橋はあるが、一度に大人数が渡れるほど広くない。
逃げれば橋に兵が殺到して自滅する。
ならば迎え撃つしかない。
ヴェルダン兵たちが粗末な槍や斧を構え、怒声を上げた。
俺は手を上げる。
「陣形を崩すな!」
号令が伝わる。
シレジアの騎馬隊が横一列ではなく、幾つかの小隊へ分かれた。
俺が帰国してから編成した部隊だ。
グランベルから入ってきた良質な騎馬を、ただ移動手段として使うだけでは意味がない。
自分自身が乗馬を学び、兵にも繰り返し騎乗訓練を施した。
突撃する。
離脱する。
再び隊列を組む。
単純なようで、集団で行えば難しい。
それを何度も繰り返した。
そして今日が――初陣だ。
「行け!」
馬蹄が大地を揺らした。
シレジア騎馬隊が一斉に突撃する。
槍が並ぶ。
敵陣へ激突した。
「ぐあっ!」
「崩れるな! 抜けろ!」
一度で敵中に留まらせない。
突き抜けた部隊は距離を取り、次の小隊が入る。
敵が追えば、さらに別の部隊が側面から叩く。
訓練通りだ。
だが――。
「くっ!」
悲鳴が上がった。
槍を躱して懐へ潜り込んだヴェルダン兵が、騎士の脚へ斧を叩き込んだ。
馬上の人間は無敵ではない。
一度間合いの内側へ入られれば、長槍はかえって邪魔になる。
「負傷者を後ろへ!」
俺は馬から飛び降りた。
「カルト様!」
「マリアン、来い!」
「はい!」
俺は騎乗したまま魔法を扱うことができない。
アゼルならば、いつかそれすらやってのけるのかもしれないが――今の俺には無理だ。
馬を従者へ預ける。
魔道書を開いた。
「ウインド!」
風が弾けた。
敵兵数人がまとめて吹き飛ばされる。
さらに魔力を込める。
「ウインド!」
今度は鋭く絞った風を走らせた。
敵の槍が弾かれる。
そこへ味方の騎兵が突っ込んだ。
敵に魔道士はいない。
魔法そのものを見慣れていない兵も多いのだろう。
目に見えない力に身体を薙ぎ払われ、ヴェルダン兵の間に動揺が広がっていく。
風は三大魔法の中でも威力が低いと言われている。
だが、俺はそうは思わない。
炎ほどの破壊力はない。
雷ほどの一撃もない。
その代わり――自由だ。
押すこともできる。
切ることもできる。
冷却すれば氷を生み出せる。
空気を奪えば真空すら作れる。
使い手次第で、いくらでも姿を変える。
俺は風が好きだった。
「カルト様! 負傷者が!」
「分かった!」
攻撃を止め、聖杖へ持ち替える。
騎兵の一人が脇腹を深く斬られていた。
出血が多い。
「動くな」
杖をかざす。
柔らかな光が傷口を包み込んだ。
「……っ」
「大丈夫だ。命までは取らせない」
傷を塞ぎ、次の兵へ向かう。
「マリアン!」
「はい!」
「治療中は周囲が見えなくなる。俺の目になってくれ」
マリアンが剣を抜いた。
「お任せください!」
俺に背を向け、周囲を警戒する。
剣を握る手は震えている。
当然だ。
初めての戦場なのだから。
だが逃げない。
それでいい。
後方から敵が来ないということは、フュリーたちと第二陣が予定通り機能している証拠でもある。
俺は治療へ集中した。
一人。
二人。
三人。
重傷者を優先して回復させていく。
今日の戦いには戻れなくてもいい。
命さえあればいい。
生きて帰れば、また家族に会える。
やがて命に関わる者の処置を終え、俺は後方の弓騎兵隊まで移動した。
「状況は?」
「敵後方に新たな一個部隊! ただしヴェルダン軍ではありません! 旗印からシアルフィ騎士団と思われます!」
「来たか」
これで挟撃になる。
敵の逃げ場は完全になくなった。
長引かせる必要はない。
「一気に終わらせる。全隊に後退を命じろ」
「後退、ですか?」
「そうだ。合図と同時にアーチの陣へ移行」
「はっ!」
伝令が走る。
前線で戦っていた騎兵たちが一斉に距離を取り始めた。
中央が下がり、左右が残る。
弓のように湾曲した陣形。
普通なら守勢の陣だ。
敵の攻撃を受け止め、援軍を待つために使う。
だが――俺の部隊では意味が違う。
「マリアン。俺から離れるな」
「はい」
魔道書を開く。
大きく息を吸った。
身体の奥から魔力を引き上げる。
空気が震えた。
俺の周囲を半ば不可視の力が巡り始める。
それが徐々に色を帯びていく。
淡い金色。
さらに強く。
魔力が光へ変わっていく。
敵兵たちも異変に気付いた。
だが遅い。
味方はすでに射線から外れている。
俺は魔道書を胸元へ引き寄せた。
左手を振り下ろす。
「――オーラ!!」
天が輝いた。
一瞬遅れて、巨大な光柱が敵陣へ降り注いだ。
轟音。
悲鳴すら光に呑まれる。
大地が震えた。
光が消えた時――そこにあったヴェルダン軍の陣形は、完全に失われていた。
倒れた兵。
武器を捨てる者。
恐怖に駆られ、川へ向かって逃げ出す者。
「ひっ……!」
「逃げろ!」
「化け物だ!」
戦意は完全に折れた。
「追い込みすぎるな!」
俺はすぐに命令を飛ばした。
「武器を捨てた者は殺すな! 投降を呼びかけろ!」
騎兵たちが動き出す。
マリアンだけが、その場に立ち尽くしていた。
「……すごい……」
「ん?」
「一つの魔法で……」
「ああ」
さすがに身体が重い。
額の汗を拭う。
「威力が大きすぎるんだ。だから使い勝手は良くない」
「これで……ですか?」
「味方を巻き込んだら洒落にならないからな。敵味方の位置がはっきり分かれている時くらいしか使えない」
「…………」
「なんだ?」
「カルト様って、本当に凄い人だったんですね」
「今までなんだと思ってたんだよ」
マリアンが、くすっと笑った。
俺もつられて笑った。
この戦闘で、ヴェルダン軍の比較的大きな一個部隊が壊滅した。
各地に分散していた敵部隊も、シアルフィ救援へ集まった諸勢力によって次々と撃破されているとの報告が届いた。
俺は無理に追撃しなかった。
ユン川に架かる跳ね橋を確保し、エバンス方面から新たな敵が来ないか警戒させる。
その間にも、ユングウィ城ではシアルフィ軍による奪還戦が進んでいた。
シグルド公子のもとには、各地から救援が集まっているらしい。
俺もフュリーとマリアンを伴い、ユングウィへ向かった。
近付くにつれ、妙な空気を感じた。
兵は多い。
軍旗も多い。
だが――一つの軍ではない。
「カルト様」
「ん?」
「皆さん、シアルフィを助けに来たのですよね?」
「ああ」
「それなのに……なんだか怖いです」
マリアンも気付いたらしい。
「攻略前だからでしょうか?」
「いや」
俺は周囲を見渡した。
伝令だけが忙しく部隊間を行き交っている。
だが、それぞれの兵は必要以上に他軍へ近付こうとしない。
互いに距離を測っている。
「この軍を動かしているのは、善意だけじゃない」
「善意だけではない?」
「各国にそれぞれの思惑がある。政治的な優劣。国同士の関係。家同士の繋がり。昨日まで味方だった者が、明日も味方とは限らない」
「……同盟なのに?」
「同盟だからだよ」
マリアンが不思議そうに俺を見る。
「自分たちが何を持っているか、どれだけ戦えるか。余計なものを他国に見せたくないんだ。何か一つ掛け違えれば、今隣にいる軍が敵になる可能性だってある」
「カルト様も……ですか?」
真っ直ぐな目だった。
俺は答えに少し迷った。
「そうだな」
自分の手を見る。
「国を預かる立場だけを考えるなら、自国のためでもない戦争にここまで真剣になる必要はないのかもしれない」
「……そうですか」
マリアンが俯いた。
だから俺は、その頭へ手を置いた。
「でも、そんな賢い生き方、俺は知らないんだ」
「え?」
「困っている奴がいて、助けられる力がある。それなのに国が違うから知らないふりをする。そんなことをしたら、今まで君に言ってきたことまで嘘になるだろ?」
「カルト様……」
「だからマリアン」
俺は笑った。
「いつか俺がおかしなことを始めたら、君が止めてくれ」
彼女の目が大きくなる。
それから、力強く頷いた。
「はい!」
「頼んだ」
「私が必ず止めます。だから――」
マリアンが笑った。
「カルト様は、立ち止まらないでくださいね」
「……ああ」
周囲から奇異の視線を向けられている気がした。
まあ、いい。
俺たちはそのまま混成軍の中を進んだ。
ユングウィ城内へ入った頃には、戦闘はほぼ終わっていた。
孤立したヴェルダン兵たちは戦意を失い、各所で投降している。
そんな中、前方が騒がしくなった。
「道を開けろ!」
「駄目だ、血が止まらない!」
「誰か! 杖を使える者はいないのか!」
人垣を押し分ける。
一人の騎士が地面に横たわっていた。
重傷だ。
傍らで杖を握っている者が必死に治療しているが――間に合わない。
「代われ!」
「え?」
「それでは間に合わない!」
俺は駆け寄り、聖杖を取り出した。
「それは……リライブ?」
「話は後だ!」
魔力を流し込む。
強い光が騎士の身体を包み込んだ。
傷口が塞がっていく。
流れ続けていた血が止まる。
周囲からどよめきが起こった。
「…………よし」
脈を確かめる。
「血を失いすぎている。しばらく動かすな。だが命は助かった」
張り詰めていた空気が、一気に緩んだ。
安堵の声が上がる。
「ありがとうございます」
先ほどまで治療をしていた人物が、俺へ頭を下げた。
よく見れば女性だった。
それも、身なりからしてただの騎士ではない。
「あの……あなたは?」
「俺はカルト。シレジアから来た」
「シレジア……」
「グランベルからの救援要請を受けて参戦した。間に合ってよかった」
女性が目を見開く。
「私はエスリンと申します。兄に代わり、お礼申し上げます」
「兄?」
一瞬考える。
そして気付いた。
「……もしかして、シグルド公子の妹君か?」
「はい」
エスリンと名乗った女性は頷いた。
「今はレンスターへ嫁いだ身ですが、この度は夫のキュアンと共に兄の救援へ参りました」
「レンスターのキュアン王子……」
グランベルとレンスターの間に正式な軍事同盟はない。
だが、シアルフィとレンスターには婚姻関係がある。
それだけではない。
確かシグルド公子とキュアン王子は、士官学校時代から親交が深かったはずだ。
なるほど。
国ではなく、人を助けに来たのか。
俺たちと似ている。
「俺たちシレジアと同じだな」
「え?」
「いや、こっちの話だ」
俺は笑った。
「早速で悪いが、シグルド公子にお会いしたい。シレジア軍を率いる者として、正式に共闘の意を伝えたいんだ」
「分かりました」
エスリンは微笑んだ。
「あなたのような方が来てくださったと知れば、兄もきっと心強く思うでしょう。ご案内します」
俺たちは彼女について、ユングウィ城の奥へ向かった。
そこで――俺たちは戦争のもう一つの顔を見ることになった。
城下は酷い有様だった。
短い占領だったにもかかわらず、金目の物は奪われている。
扉を破壊された家。
焼けた荷車。
道端に捨てられた生活用品。
そして――戻ってこない人間を待つ者たち。
抵抗して殺された男。
連れ去られた女。
家族を失った子供。
すすり泣く声が、あちこちから聞こえていた。
「…………」
マリアンが俺のマントを掴んだ。
手が震えている。
「カルト様……」
俺は立ち止まった。
「見ておけ、マリアン」
酷な言葉だと思う。
それでも目を逸らさせてはいけない。
「これが戦争だ」
「…………」
「負けた側は、土地だけを奪われるんじゃない。命も、財産も、尊厳も――何もかも奪われることがある」
マリアンが唇を噛んだ。
「そして一番最初に犠牲になるのは、戦う力を持たない人たちだ」
俺は瓦礫の向こうを見る。
泣いている子供を、一人の女性が抱き締めていた。
「だから俺は、力や地位を持つ人間には、その人たちを守る義務があると思ってる」
「……はい」
「俺はレヴィンと、そういう国を作りたい」
マリアンが顔を上げた。
「君みたいな子が、もう二度とあんな目に遭わなくていい国を」
「カルト様……」
「だから」
俺は彼女へ向き直った。
「この戦争が終わったら、シレジアで暮らしてくれ」
マリアンの瞳が揺れた。
「そこを君の帰る場所にしたい」
しばらく返事はなかった。
やがて――。
「……はい」
頬を、一筋の涙が伝った。
それでも彼女は笑っていた。
「その時を、お待ちしております」
「ああ」
俺は頷いた。
春を迎えたグランベルの空は、あまりにも穏やかだった。
その空の下で、多くの者が泣いている。
この時の俺はまだ知らなかった。
この戦いで出会う者たちと共に、俺自身もまた――。
グランベルを覆い始めた巨大な戦乱へ、足を踏み入れようとしていることを。