ファイアーエムブレム 聖戦の系譜〜氷雪の融解者〜 作:Edward
イード砂漠
リューベックを越えて、さらに南へ数時間。
長かった夜が、ようやく終わろうとしていた。
東の地平線が白み始め、やがて昇り始めた太陽が、薄闇の中に沈んでいた大地を少しずつ照らしていく。
天馬の背から眼下を見下ろし、俺は思わず息を呑んだ。
つい昨日まで目にしていたのは、雪に閉ざされたシレジアの大地だった。
それが南へ下っただけで、景色はまるで別世界のように変わっている。
白銀の山々はとうに遠ざかり、代わって広がるのは、どこまでも続く乾いた大地。
さらに南には、朝日に照らされて赤く染まり始めた砂漠が見えていた。
――イード砂漠。
俺はとうとう、シレジアを出たのだ。
後方を振り返る。
追っ手の姿はない。
国境を越えてからも警戒を続けていたが、どうやら父上も叔父上も、今のところ俺を連れ戻すために兵を差し向けてはいないらしい。
「……とりあえずは、一安心か」
小さく息を吐く。
だが、本当に大変なのはここからだ。
これから俺が歩くのは、シレジアの王族という肩書きが何の助けにもならない他国の土地。
いや。
下手に身分が知られれば、むしろ面倒を呼び込む可能性すらある。
胸の奥には不安がある。
それ以上に――期待があった。
知らない土地。
知らない人間。
そして、まだ見たことのない剣技。
昂ぶってくる気持ちを抑えるように、俺は一度大きく頭を振った。
浮かれている場合じゃない。
俺がシレジアを飛び出した理由は、一つではない。
このまま何もせず国に留まっていれば、いずれ父上と叔父上はレヴィンと衝突する。
そうなれば待っているのは内戦だ。
内側から国力を削り、その隙を他国に突かれる。
そんな未来だけは避けなければならない。
だが――。
問題を抱えているのは、シレジアだけではなかった。
最近、大陸全体の空気がおかしい。
今はまだ、どの国も大規模な戦争を始めてはいない。
表面上は平和だ。
だが、その平和は薄氷のようなものに思えてならなかった。
どの国も、それぞれ火種を抱えている。
一つに火がつけば、それが隣国へ飛び火し、やがて大陸全土を巻き込む。
そんな危うさを感じる。
大陸最大の国家、グランベル王国。
聖者ヘイムの血を引くアズムール王が治め、その後継には優秀と名高いクルト王子がいる。
本来なら盤石と言っていい。
だが、諸侯すべてが王子を支持しているわけではない。
ドズル公ランゴバルト。
フリージ公レプトール。
彼らと、クルト王子から絶大な信頼を受けるシアルフィ公バイロンとの間には、決して小さくない対立があると聞く。
今は王家という蓋が押さえている。
だが、その蓋が外れた時――何が起きるのか。
南東のトラキア半島も危うい。
北のレンスター。
南のトラキア。
互いに半島統一を望みながら、どちらも決定打を欠いている。
騎兵を主力とするレンスターにとって、トラキアの険しい地形はあまりにも攻めにくい。
一方のトラキアは、慢性的な食糧不足と国力の乏しさを抱えている。
だからこそ均衡している。
だが逆に言えば――。
その均衡を誰かが意図的に崩せば、一気に戦乱へ転がり落ちるということだ。
アグストリアも同じ。
今は賢王イムカが、欲の強い諸侯をどうにかまとめ上げている。
だが、王がいなくなればどうなる?
ウェルダンも、バトゥ王が健在だからこそ国として形を保っている。
あの王の息子たちが好き勝手に動き始めれば、何をしでかすかわかったものではない。
そして――シレジア。
これは考えるまでもない。
俺自身が、その火種の一つなのだから。
そうして考えてみれば、比較的静かなのはイザークくらいだった。
もっとも、東方のイザークは独自の文化を持ち、他国へ流れてくる情報が少ない。
本当に平穏なのかはわからない。
それでも、俺にはイザークへ向かう理由があった。
剣だ。
イザークには、他国では見られない独自の剣技が存在するという。
秘伝とも呼ばれる技。
それを、この目で見たい。
できることなら学びたい。
国を変えるなどと大層なことを言ったところで、今の俺には何の力もない。
ならばまず――自分自身を鍛えるしかない。
「……よし」
進むべき道を改めて確認し、俺は顔を上げた。
そして、ふと気づく。
「……なあ、フュリー」
「はい?」
「日の出の位置から考えて、南に向かってるのはわかる」
「はい」
「で?」
「はい?」
「どこで俺を降ろすつもりだ?」
沈黙。
天馬の羽ばたく音だけが、妙に大きく聞こえた。
「…………」
「おい」
「…………」
「まさか」
フュリーの肩が、びくりと震えた。
「考えてなかったとか言わないよな?」
「えっ!?」
その反応だけで十分だった。
「お前ええええっ!?」
「ち、違います! ちゃんと考えていました!」
「今の間はなんだ!」
「確認していただけです!」
「何を!?」
「その……方角を……」
「迷ってるじゃねえか!」
出発早々、頭が痛くなってきた。
いや。
フュリーならやりかねないとは思っていた。
思っていたが、本当にやる奴があるか。
「レ、レヴィン王子からも、ちゃんと手筈は聞いています!」
そう言いながら、フュリーは必死に周囲を見回した。
やがて――。
「あっ!」
何かを見つけたらしい。
「あそこです! あの町! あそこで降りようと思っていました!」
「……本当か?」
「本当です!」
怪しい。
ものすごく怪しい。
だが、フュリーが指差した先を見て、俺は目を細めた。
砂漠の中に広がる大きなオアシス。
その周囲に築かれた町並みが、朝日に照らされている。
「……ダーナか」
偶然にしては上出来だった。
「いい。あそこで降ろしてくれ」
「偶然じゃありません!」
「はいはい」
「カルト様!」
頬を膨らませるフュリーを見て、俺は思わず笑った。
こいつは――本当にかわいい奴だ。
俺たちは高度を落とし、ダーナへ向かった。
ダーナ。
およそ百二十年前。
暗黒神ロプトウスが支配するロプト帝国に抗った反乱軍が、最後に立て籠もった地。
滅亡寸前まで追い詰められた彼らの前に十二の神々が降臨し、その力を授けた。
後に《十二聖戦士》と呼ばれる者たちの誕生。
そして、ロプト帝国滅亡へと繋がる反撃の始まり。
――聖戦の発祥地。
その舞台となったダーナ砦は、今も残されている。
その歴史ゆえに、ダーナはいずれの国にも属さない中立都市として扱われていた。
もっとも。
中立であることと、治安が良いことは別問題らしい。
国の干渉が弱いことを利用し、ならず者や奴隷商人まで出入りしているという。
中には、今なお暗黒神を信奉する者が潜んでいる――そんな噂さえあった。
だが、イザークへ向かう中継地点としては都合がいい。
ここから先はイード砂漠を越えることになる。
道そのものは古くから使われているため、準備さえ整えれば越えられない旅ではない。
問題は――。
「金だよなぁ……」
俺は自分の懐を確認し、小さくため息を吐いた。
町に入った俺たちは、人目を避けて外れの宿を取った。
天馬はシレジア以外では珍しい。
下手に町中へ連れて行けば目立つし、盗まれる可能性もある。
幸いダーナは巨大なオアシスを中心に発展した町で、周辺には小規模ながら森も存在する。
そこで天馬を休ませることにした。
宿に入った俺は、まず身体についた埃を落とした。
もっとも、水の貴重な砂漠地方だ。
シレジアのように湯を張った浴槽へ飛び込めるわけではない。
用意されたわずかな湯で身体を拭くだけ。
それでも、夜通し飛び続けた身体には十分ありがたかった。
先に階下へ降りた俺は、食事を頼んでフュリーを待つ。
明日の朝には、あいつをシレジアへ帰そう。
ここから先まで連れていくわけにはいかない。
フュリーのことだ。
「私も行きます」
などと言い出しかねないが、それは断る。
あいつに何かあれば、レヴィンに合わせる顔がない。
俺一人ならどうにでもなる。
だが、他人の命まで背負えるほど、俺はまだ強くない。
考えながら、卓上に置かれた水へ口をつけた。
「ぶっ!?」
思わず吹き出しかける。
砂っぽい。
というより、本当に細かな砂が混じっている。
「……酒!」
たまらず主人を呼ぶ。
「果実酒くれ! 水じゃないやつ!」
砂漠で水のありがたみを知る前に、水の恐ろしさを知るとは思わなかった。
しばらくして。
「カルト様、お待たせして申し訳ありません」
声に振り返る。
軽装のチュニックに着替えたフュリーが、階段を降りてきた。
「…………」
思わず視線を逸らす。
マーニャといいフュリーといい、シレジアの天馬騎士にはどうしてこう美人が多いんだ。
目のやり場に困る。
「……おう」
結局、そんな愛想のない返事しかできなかった。
しかも腹立たしいことに。
俺へ料理を出した時は、
「ほらよ」
くらいの態度だった宿の主人が、フュリーを見るなり別人になった。
「お嬢さん、お疲れでしょう。どうぞこちらへ」
……おい。
俺との差はなんだ。
露骨すぎるだろ。
食事を始めてしばらくすると、フュリーが尋ねてきた。
「カルト様は、ここからどのようにされるのですか?」
「ん?」
果実酒を置く。
「イザークへ行く」
「イザーク……」
「ああ。ただ、砂漠を越えるには準備がいる。水、食料、旅の道具。それに案内人もいた方がいい」
俺は懐を軽く叩いた。
「で、全部に金がかかる」
「……カルト様は王族ですよね?」
「一応な」
「旅費を持ってこられなかったのですか?」
俺は呆れてフュリーを見る。
「あのなぁ。俺は父上の許可なく国を出たんだぞ?」
「はい」
「その上、国庫から金まで持ち出してみろ。立派な持ち逃げだ」
「あ……」
「ただでさえレヴィンには迷惑かけてるんだ。これ以上、国内で揉める材料を増やせるかよ」
フュリーはしばらく俺を見つめた。
それから、ふっと柔らかく笑った。
「私には政治の難しいことはわかりません」
「そうかよ」
「でも」
彼女は続けた。
「レヴィン様が、カルト様を助けようとなさった理由は、少しわかった気がします」
「……は?」
「カルト様は、レヴィン様のことを大切に思っていらっしゃるのですね」
俺の動きが止まった。
「…………」
何を言い出すんだ、こいつは。
「大きな借りがあるだけだ」
「ふふっ」
「なんだよ」
「それなら、もっと素直にレヴィン様へお伝えになればいいのに」
「…………」
こういう奴は苦手だ。
裏もなく。
駆け引きもなく。
真正面から善意をぶつけてくる。
ひねくれ者の俺には、どうにも居心地が悪い。
「ば、馬鹿なこと言うな!」
言い返そうとして――やめた。
その代わり、少し意地悪なことを思いつく。
「……そうだな」
「え?」
「たまには素直になるのも悪くない」
俺は席を立ち、フュリーの手を取った。
「えっ?」
驚くフュリーを、そのまま引き寄せる。
「カ、カルト様?」
「素直な気持ちを伝えてみるか」
「レヴィン様に……?」
「いや」
顔を近づける。
「お前に」
「えっ!?」
フュリーの顔が一瞬で赤くなった。
目を見開き、完全に固まっている。
俺はさらに顔を近づける。
「え、あ……その……!」
とうとうフュリーは、ぎゅっと目を閉じた。
顔を真っ赤にしたまま、俯く。
俺はその頬を避け――。
耳元へ口を寄せた。
「実は俺――」
囁く。
「ここの宿代を払う金もなかったりして~♪」
「…………」
フュリーの顔から、さっと血の気が引いた。
赤から青へ。
そして数秒後。
再び――真っ赤になった。
「カルト様あああああああっ!!」
ダーナの宿に、天馬騎士の怒声が響き渡った。
その日の宿代と食事代を誰が支払ったのか。
改めて説明する必要はないだろう。
ただ一つ言えるのは――。
俺はその後、フュリーからもう一度、たっぷり説教を受けることになった。
こうして俺の国外での第一歩は始まった。
目指すはイザーク。
だが、その前に。
俺はこのダーナという町で――。
旅を続けるための金を、どうにかして稼がなければならなかった。