ファイアーエムブレム 聖戦の系譜〜氷雪の融解者〜 作:Edward
カルトの魔道書
剣闘士ホリンと合流した俺たちは、ダーナを発ち、街道に沿って北西――イザークへと向かっていた。
行き先が決まった以上、フュリーにはシレジアへ戻ってもらうつもりだった。
だが――。
「嫌よ。私も行くわ」
何度説得しても、答えは同じだった。
正直、困った。
フュリーはシレジア天馬騎士団でも指折りの騎士だ。
そんな人材を俺の珍道中に付き合わせるわけにはいかない。
それだけではない。
寒冷なシレジアで育った人間に、イード砂漠の暑さはあまりにも過酷だ。
まして天馬への負担を考えれば、なおさらだった。
そのことを何度も説明し、ようやく――本当にようやく、ソファラへ到着したら帰国するという約束を取り付けた。
……本当に帰ってくれるんだろうな?
少々不安だったので、レヴィンには現状を知らせる手紙を送っておいた。
もちろん本名ではない。
昔、二人で城下町へ忍び出す時に使っていた偽名だ。
これなら途中で臣下に検閲されたところで、俺からの手紙だとは気づかれないだろう。
そんなこんなで、ダーナを出て二日。
――景色が変わらない。
右を見ても砂。
左を見ても砂。
前を見ても、やっぱり砂。
吹きつける風には大量の砂塵が混じり、汗ばんだ肌にまとわりつく。
暑い。
鬱陶しい。
そして何より――。
「ホリン。あとどれくらいでイザーク領に入れるんだ? もう砂漠は飽きたぜ」
前を歩くホリンが足を止め、周囲を見渡した。
「……今日中には抜けたかったが、ここで野営した方がいいな」
「ん? まだ日没まで時間があるぜ」
西へ傾き始めた太陽を見上げる。
まだ二時間ほどは明るいだろう。
切り上げるには少し早い気がした。
「あそこを見ろ」
ホリンが街道から外れた先を指した。
砂の向こうに、小さな林が見える。
「天馬を休ませるなら、あそこがいい。明朝早く出れば、明日の昼過ぎには国境へ着ける。無理をする必要はない」
「そっか」
俺は上空を飛ぶフュリーと天馬を見上げた。
「ありがとな。相棒のことまで気にしてくれて」
ホリンは何も言わず、わずかに笑った。
……こいつ。
口数は少ないけど、いい奴だな。
◆
林へ着くと、すぐに野営の準備へ入った。
水場はない。
ただ、地下の浅いところまで水脈が通っているらしく、そのおかげで砂漠の中でも植物が根を張ることができるらしい。
こうした小さな林がイード砂漠には点在しており、旅人や行商人にとって貴重な休息地になっている――と、ホリンが教えてくれた。
フュリーから預かった笛を吹く。
旋回していた天馬がゆっくり高度を落とし、砂を巻き上げながら着地した。
そこからのホリンは早かった。
薪をまとめ、風を避ける位置を選び、寝床を整えていく。
「慣れてるな……」
思わず感心する。
ソファラの嫡男だと聞いているが、本人には放浪癖があるらしい。
旅慣れしているというのは本当のようで、俺より遥かに手際がいい。
この辺りでは飲み水が何より重要だった。
ダーナから持ってきた水を皮袋に分け、天馬とホリンがそれぞれ運んでいる。
食料は俺の担当だ。
硬焼きパン。
干し肉。
ドライフルーツ。
ナッツ。
チーズ。
ホリンの助言で四日分を用意していた。
今のところ予定に遅れはない。
配分さえ間違えなければ問題ないだろう。
気になったのは天馬だった。
俺たちの食料はあるが、さすがに天馬用の飼料まで大量に持ち歩く余裕はない。
だがフュリーによれば、出発前に十分な食事と水を与えておけば、数日程度なら最低限の補給でも耐えられるという。
彼女は竹筒に入れた水を飲ませ、シレジアから持ってきた乾燥ベリーを与えていた。
それを確認してから、俺も火を起こす。
少量のアルコールを薪へ垂らし、初歩の炎魔法を使った。
小さな火が生まれ――やがて薪へ燃え移る。
俺はナイフで硬いパンを切り分けた。
三人で焚き火を囲む。
食事中、会話は少なかった。
昼間の暑さが嘘のように消え、日が傾くにつれて砂漠の空気は急速に冷え始めている。
俺たちはコートを羽織り、火へ身体を寄せた。
「フュリー。降りる前、周囲に人影はなかったか?」
「大丈夫。見渡す限り、誰もいなかったわ」
それを聞いたホリンが頷く。
「なら、夜襲の可能性は低い。この時間から砂漠を移動する者は少ないからな。……もっとも、警戒を解いていい理由にはならんが」
「了解」
少しだけ肩の力が抜けた。
そのまま三人は、黙々と食事を続けた。
◆
日が完全に沈むと、砂漠は別の顔を見せた。
昼間、あれほど大地を焼いていた熱が急速に失われ、冷たい空気が林へ流れ込んでくる。
フュリーは毛布にくるまり、天馬のそばで横になった。
一日中飛び続けていたのだ。
本人も天馬も疲労が大きかったのだろう。
「ごめん……先に休むわね」
そう言った直後には、もう眠りに落ちていた。
残された俺とホリンは、焚き火を挟んで向かい合う。
ぱちっ、と薪が爆ぜる。
「カルト殿」
ホリンが荷物から革袋を取り出した。
「どうだ? いける口か?」
漂ってきた香りに、俺は思わず笑った。
「いいねえ! ……と言いたいところだけど、飲みすぎると魔法の集中が鈍る。一杯だけでいいか?」
「ここではカルト殿は客人だ。夜番は俺が引き受けよう」
「いや、それは駄目だ」
差し出された木杯を受け取りながら首を振る。
「二時間交代にしよう。昼間にホリンが倒れたら、俺たちは砂漠で仲良く迷子だ」
「……違いない」
軽く杯を合わせる。
口に含むと、葡萄の香りがふわりと広がった。
乾いた砂漠を二日も歩いた身体には、その一杯が妙に染みる。
対するホリンは豪快だった。
一気に飲み干す。
「カルト殿は、不思議な男だな」
「ん?」
「あれほど型破りな戦い方は、蛮族と罵られる我らイザークでも見たことがない。それでいて素性を聞けばシレジアの貴族だという。世の中は広い」
「それ、褒めてるのか? 呆れてるのか?」
「無論、褒めている」
即答だった。
「グランベルの貴族や王族と折衝したことはあるが、カルト殿のような男は見たことがない。まして闘技場で、あれほど不利な状況から向かってくる者などな」
「諦めが悪いだけだよ」
俺は苦笑した。
「それに――ホリンほどの腕なら、そう簡単には死なないと思ってたところもある」
「買い被られたものだ」
「そうかな?」
俺は残った葡萄酒を口へ運び――ふと思い出したように言った。
「あとさ」
「何だ?」
「カルト殿ってのは、もういいよ」
ホリンが眉を上げる。
「初対面ならともかく、これから一緒に旅するんだ。カルトでいい」
しばらく俺を見ていたホリンは、ふっと笑った。
そして自分の杯を俺の杯へ軽く当てる。
乾いた音が、夜の砂漠に響いた。
それが返事だった。
◆
それからしばらく話した後、予定通り二時間交代で夜番に入った。
イード砂漠で警戒すべきものは盗賊だけではない。
夜間の急激な冷え込みも危険だ。
つまり敵への警戒と、火を絶やさないための番――その両方が必要になる。
最初はホリンが引き受けた。
もっとも、あいつの性格なら二時間経っても俺を起こさない気がしたので、俺は自分で時間を見計らって起きた。
案の定だった。
「交代だ」
「まだ寝ていて構わんぞ」
「ほらな。そう言うと思った」
半ば強引にホリンを休ませ、俺が焚き火の前へ座る。
静かな夜だった。
時折、風が木々を揺らす。
俺は炎を見つめながら、懐から一冊の魔道書を取り出した。
昨日の闘技場で俺の血を浴び、ページが張り付いてしまった本。
ずっと持ち歩いているくせに、ここ数年まともに開いた記憶はない。
なのに今夜は――なぜか無性に読み返したくなった。
慎重にページをめくる。
そこには魔法の術式だけではなく、たくさんの落書きが残っていた。
子供の頃の俺が描いた、意味のない絵。
読めない文字。
魔法がうまく発動しなくて、癇癪を起こした時の殴り書き。
「……ひどいな、これ」
思わず笑ってしまった。
そして。
あるページで、指が止まった。
――母さんの字だ。
懐かしさに気を取られた。
血糊でページが張り付いていることを、一瞬忘れた。
そのまま本を開く。
びりっ――!
「……あっ!」
乾いた音とともに、背表紙が裂けた。
紙束がばらけ、慌てて拾い集める。
その時だった。
一枚の紙が、ひらりと宙を舞った。
「なんだ……?」
本のページではない。
血も付いていない。
剣で傷ついた跡もない。
背表紙の奥に隠されていたのだ。
細かく折り畳まれた紙を開く。
そこにあった文字を見た瞬間、俺の呼吸が止まった。
『カルトへ。
この手紙は、あなたが持っている魔道書が損傷した時に読めるよう細工してあります。
私の言いつけ通り、ずっと持っていてくれたのですね。
この本を持ち続けることで、あなたが魔法を学び始めた頃の気持ちを忘れないでいてほしい。
そう願っていました。
約束を守ってくれて、ありがとう。
壊れてしまった魔道書を、火にかけなさい。
母親として、私はあなたに何もしてあげられませんでした。
だからせめて――魔法を教えた導師として、あなたに贈ります。
幼いあなたを残して逝くことを、許してね』
「…………母さん」
炎が揺れた。
記憶が、九年前へ戻っていく。
◆
俺が八歳の頃。
シレジア沿岸では、海賊による襲撃が相次いでいた。
母さんは兵を率い、その防衛に当たっていた。
海賊との戦いそのものなら、母さんが後れを取ることはなかった。
だが――親父は違った。
海賊が略奪によって蓄えた財宝に目を付けたのだ。
防衛だけではなく、こちらから船を出して本拠地を叩く。
母さんは反対した。
何度も諫めた。
海の上は彼らの領域だ、と。
潮の流れも。
風向きも。
暗礁の位置も。
海賊たちは知り尽くしている。
陸で戦うのとは訳が違う。
だが、親父は聞かなかった。
そしてついに――母さんへ出陣を命じた。
結果は、母さんの予想通りだった。
海賊たちはシレジア船団の接近を早々に察知した。
潮流を利用して船団を分断し、誘い込み、罠へ落とした。
一隻。
また一隻。
シレジアの船が海へ沈んでいった。
最後まで生き残ったのは――母さんの船だけだった。
それでも。
帰還した母さんを待っていたのは、労いではなかった。
親父から浴びせられたのは、敗戦への非難だった。
もともとの心労に加え、母さんは肺を患った。
そこからは――あっという間だった。
そういえば。
母さんとゆっくり話せたのは、病床に伏してからだった。
皮肉な話だ。
元気だった頃より、死が近づいてからの方が、母さんと過ごした時間をよく覚えている。
◆
「……あの頃に、これを仕込んだのか」
手紙を持つ指に、自然と力が入った。
――魔道書を火にかけなさい。
目の前には焚き火がある。
今、この本を投げ込めばいい。
母さんは、そう書いている。
けれど。
俺は魔道書を炎へ近づけ――。
止めた。
「……今じゃない」
この本を持つ意味さえ、俺はいつの間にか忘れていた。
そんな俺に、母さんの最後の贈り物を受け取る資格があるのか。
少なくとも今は、そう思えなかった。
火にかけるのは――俺自身が納得した時。
あるいは。
本当に命の危険が迫り、母さんの力が必要になった時。
それまでは持っていよう。
ボロボロになっても。
壊れてしまっても。
この本には、母さんと過ごした短い時間が残っている。
俺は手紙を丁寧に折り畳み、裂けた背表紙の奥へ戻した。
そして魔道書を胸元へしまう。
焚き火の炎が、静かに揺れていた。
◆
その後、もう一度ホリンと番を交代し、何事もなく朝を迎えた。
多少寝不足ではある。
だが、頭が回らないほどじゃない。
本当なら顔でも洗ってすっきりしたいところだが、砂漠でそんな贅沢はできない。
水は命そのものだ。
軽く身体を伸ばし、眠気を追い払う。
まだ太陽が昇りきる前に食事を済ませ、俺たちはすぐ出発した。
再び灼熱地獄になる前に、少しでも距離を稼ぎたい。
それについては三人とも同意見だった。
誰に言われるでもなく準備を整え、歩き出す。
そして昼過ぎ――。
「おお……!」
ついに砂の世界が終わった。
砂に埋もれていた街道も、今では石畳がはっきり見える。
少しずつ緑が増えていく。
それだけで体感温度まで下がったように思えた。
「見ろ」
ホリンが前方を指す。
「あの峠を越えればイザーク領だ」
珍しく、少し笑っていた。
「やっとか……! 早く湯を使いたいぜ。もう全身砂だらけだ」
「……ああ」
ホリンの笑みが消えた。
「たっぷり用意させるさ」
そして。
背中の鋼の大剣を抜き放つ。
「――この局面を乗り切ってからになるがな」
「……!」
俺も表情を変えた。
前方を見る。
何も見えない。
上空のフュリーを確認する。
敵襲の合図は――ない。
まさか。
ホリンは、空から警戒しているフュリーより先に気づいたのか?
俺は笛を取り出し、鋭く吹いた。
上空の天馬が旋回する。
フュリーも即座に槍を構え、警戒態勢へ入った。
「ホリン」
俺は魔道書へ手を伸ばす。
「分かっていることを全部教えてくれ」
「前方に十ほど」
ホリンは大剣を構えた。
「後方に五。装備と動きから見て正規兵ではない。おそらく賊だ」
前後を挟まれた。
なら――。
「了解」
俺は魔道書を左手に。
ショートソードを右手に抜く。
意識を研ぎ澄ませる。
さっきまでの疲労が嘘のように消えていった。
そして、隣に立つ剣士へ笑いかける。
「じゃあ――」
風が吹く。
木々の葉が揺れた。
「シレジアの戦い方ってやつを、ホリンに見せてやるよ」
俺は魔道書を開いた。