ファイアーエムブレム 聖戦の系譜〜氷雪の融解者〜   作:Edward

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009 ダーナの古戦場跡

カルトたちは、再びイード砂漠へ足を踏み入れていた。

 

つい先日、ようやく踏破したばかりの灼熱の大地である。

 

照りつける陽光。

足を取る砂。

容赦なく体力と水分を奪っていく乾いた風。

 

人命が懸かっているとはいえ、あの劣悪な環境へ自ら戻ることに躊躇がなかったと言えば嘘になる。

 

それでもカルトは、その迷いを意志の力で押し殺した。

 

リボーを発って、すでに三日。

 

自身の魔力探査によれば、反応はダーナよりさらに南――アルスターに近い地点から発せられている。

 

その感覚だけを頼りに、三人はほとんど言葉を交わすことなく先を急いでいた。

 

上空から周辺を警戒するフュリー。

 

地上ではホリンが、魔力探査に集中するカルトの死角を補う。

 

夜になれば、カルトの魔力を少しでも回復させるため、夜番はフュリーとホリンが交代で引き受けた。

 

その甲斐あって三日目の昼過ぎ。

 

ついに三人は、目的地と思われる場所へ辿り着いた。

 

「……ここか」

 

砂の向こうに現れたのは、一つの砦だった。

 

いや――。

 

それを砦と呼んでよいものか、カルトには判断がつかなかった。

 

かつての聖戦で使用された拠点なのだろう。

 

外壁は崩れ、石材は風砂に削られ、ところどころ原形すら失っている。

 

砂漠という過酷な環境を差し引いても、異常なほど荒廃していた。

 

人が住んでいるようには到底見えない。

 

ましてや、イザークの警戒網を掻い潜り続けてきた者たちの拠点とは思えなかった。

 

「カルト、本当にここなの?」

 

フュリーが不安そうに尋ねる。

 

カルトは朽ちた砦を見つめたまま、小さく頷いた。

 

「ああ。反応は間違いなくここからだ。それに……」

 

目を細める。

 

「建物の見た目はともかく、この奥からかなり禍々しい魔力を感じる」

 

フュリーの表情が強張った。

 

イザークの警戒網をすり抜け、送り込まれた偵察隊をホリン一人を除いて全滅させた相手である。

 

その本拠地へ、これから僅か三人で踏み込もうとしている。

 

全員が無事に帰還できる保証など、どこにもない。

 

「フュリー」

 

カルトが振り返る。

 

「やはり、お前はここから引き返せ」

 

「どうして!」

 

「中では天馬を使えない。天馬の加護を失えば、お前の魔法防御は人並みになる。危険すぎる」

 

「それならホリンさんだって同じでしょう!?」

 

フュリーの声が砂漠に響く。

 

「私だけここで諦めるなんて……そんなの、自分自身が許せない!」

 

「ホリンは一度、奴らと戦っている。危険性も対処法も知っている。俺は魔道士として奴らの魔法に対抗できる。だが、フュリーにはそのどちらもない」

 

「でも……!」

 

「引き返せないというなら――せめて、ここで待っていてくれないか」

 

それは命令ではなかった。

 

懇願だった。

 

普段のカルトからは想像できない言葉に、フュリーは息を呑んだ。

 

――この人は。

 

もしかすると。

 

本当に、命を懸けるつもりなのではないか。

 

フュリーには、カルトへ伝えていないことがある。

 

レヴィン王子から受けた本当の命令。

 

彼女の任務は、単にカルトの国外脱出を手引きすることではない。

 

――カルトを護衛せよ。

 

それがレヴィンから密かに与えられた使命だった。

 

本人には可能な限り伏せるようにとも命じられている。

 

もしカルトが知れば、自分を危険から遠ざけるため、あえてフュリーを撒こうとする。

 

レヴィンはそこまで見抜いていたのだろう。

 

そして今。

 

まさにその通りになろうとしていた。

 

「……わかったわ」

 

長い沈黙の末、フュリーは頷いた。

 

「ここで待ってる。だから……カルト。ホリンさん。絶対に帰ってきてね」

 

精一杯の笑顔だった。

 

カルトも笑みを返し、差し出された手を握る。

 

その瞬間。

 

二人の視線が重なった。

 

「ああ。必ず帰る」

 

カルトは静かに答えた。

 

「だから――シレジアで待っていてくれ」

 

「え……?」

 

フュリーの瞳が見開かれる。

 

「カルト――」

 

ドスッ。

 

「――っ……!」

 

腹部に衝撃が走った。

 

何が起きたのか理解するより早く、フュリーの膝から力が抜ける。

 

カルトの拳が、正確に鳩尾へ叩き込まれていた。

 

「カ……ルト……」

 

倒れかけた身体を、カルトが抱き止める。

 

傍らのホリンですら、さすがに目を見開いた。

 

「すまない、フュリー」

 

カルトは腕の中の彼女へ囁いた。

 

「君は、ここで万が一にも死んではいけない」

 

「…………」

 

「レヴィンのそばで、あいつを支えてやってくれ」

 

薄れていく意識の中。

 

フュリーの瞳から、一筋の涙が零れた。

 

「俺に何かあっても――シレジアを頼んだぞ」

 

唇が何かを紡いだ。

 

だが、その言葉をカルトが聞き取ることはできなかった。

 

フュリーは静かに目を閉じた。

 

◇

 

カルトはフュリーを天馬の背へ乗せ、鐙と帯で身体を固定した。

 

主人を心配しているのだろう。

 

天馬は何度も振り返り、眠るフュリーへ鼻先を寄せている。

 

「すまない。シレジアまで連れて帰ってくれ」

 

カルトはその首筋を撫でた。

 

「途中で目を覚まして、ここへ戻ると言っても聞くな。必ずレヴィンのところまで送り届けてくれ」

 

言葉を理解したのかどうか。

 

天馬は一度、カルトの肩へ首を預けるようにして、小さく嘶いた。

 

そして翼を広げる。

 

砂塵が舞い上がった。

 

白い翼はみるみる高度を上げ、北の空へと小さくなっていく。

 

その姿が見えなくなるまで、カルトは空を見上げていた。

 

「まさか、本当にシレジアまで帰してしまうとはな」

 

ホリンが呆れ半分に呟く。

 

「フュリーにはシレジアで、もっと大切な役目がある。それを優先しただけだ」

 

「ふっ」

 

ホリンが笑う。

 

「そういうことにしておこう」

 

「何が言いたい」

 

「いや。鈍感なのは戦場では長所になることもあると思ってな」

 

「……?」

 

カルトが眉をひそめる。

 

ホリンはそれ以上何も言わなかった。

 

ただ背負った大剣の柄を確かめ、砦へ視線を戻す。

 

笑みは、もう消えていた。

 

◇

 

――フュリーは目を覚ました。

 

見慣れた天井。

 

毎朝のように目にしていたはずの光景なのに、今はひどく違和感がある。

 

「……ここ……?」

 

まだ霞む頭で身体を起こす。

 

水差しからカップへ水を注ぎ、一息に飲み干した。

 

ひどく喉が渇いていて、冷たい水が喉を通ると心地よかった。

 

そして。

 

記憶が、一気に蘇った。

 

「――カルト!」

 

腹部に手を当てる。

 

そうだ。

 

自分はカルトに殴られ――。

 

「気分はどう?」

 

扉から聞こえた声に振り向く。

 

「ね、姉さん!」

 

「無理に起きなくていいわ」

 

「私……私は……!」

 

「落ち着いて。私たちは全部わかっているから」

 

「私たち……?」

 

その複数形の意味を理解し、フュリーは慌ててベッドから降りた。

 

マーニャの視線の先。

 

開いた扉から、一人の青年が姿を現す。

 

「レヴィン様……!」

 

フュリーは反射的に敬礼した。

 

「フュリー。身体は大丈夫か?」

 

「はい! しかし私は――」

 

「しばらく休養しろ」

 

「ですが、レヴィン様!」

 

「マーニャが言っただろう? 俺たちはわかっている」

 

レヴィンは一通の手紙を取り出した。

 

「昨夜、気を失ったお前を天馬が背中に乗せて帰ってきた。これを持ってな」

 

フュリーは震える手で受け取った。

 

封を開く。

 

見慣れた文字が並んでいた。

 

そこにはカルトの決意。

 

フュリーへの感謝。

 

そして彼女が任務を放棄したのではなく、むしろ十分に役目を果たしたのだという擁護が、彼らしい不器用な言葉で綴られていた。

 

「……カルト……」

 

文字が滲む。

 

涙が止まらなかった。

 

「フュリー」

 

レヴィンが静かに告げる。

 

「君の国外初任務は成功だ」

 

「そんな……!」

 

フュリーは顔を上げた。

 

「私は最後まで任務を果たしていません! カルト様の温情で、こんな――」

 

「違う」

 

レヴィンは即座に否定した。

 

「カルトは人情家だ。だが、だからといって他人を過大評価する男じゃない。もちろん過小評価もしない」

 

「…………」

 

「ここに書いてあることは、あいつの本心だよ。だから胸を張れ」

 

レヴィンは少しだけ笑った。

 

「休養が明けたら、天馬騎士部隊長として働いてもらうぞ」

 

「……はい」

 

「それにな」

 

手紙の一節を指す。

 

「あいつは『必ず救出して戻る』と書いている」

 

「…………!」

 

「カルトの実力を知っているお前なら、ここにいる誰よりも信じてやれるんじゃないか?」

 

フュリーは返事ができなかった。

 

ただ、手紙を胸へ抱き締める。

 

もう、向こうでは結果が出ているのかもしれない。

 

救出か。

 

それとも――死か。

 

祈ることさえ許されなかった自分に、今できることは一つしかない。

 

信じること。

 

「フュリー……」

 

マーニャが妹の肩へ優しく手を置いた。

 

初めての国外任務を終え、一回り成長した妹。

 

そして、その任務の対象であったカルト。

 

二人が無事に再会できることを、姉もまた信じていた。

 

その時だった。

 

「た、大変です!」

 

天馬騎士の一人が勢いよく部屋へ飛び込んできた。

 

国境警備を担当するマーニャの部下だった。

 

「どうした?」

 

「こ、これはレヴィン様! 申し訳ありません!」

 

「構わない。それより、火急の報せなんだろう?」

 

「はっ!」

 

騎士は息を整える。

 

そして告げた。

 

「イザークが――」

 

その報告に。

 

レヴィン、マーニャ、フュリー。

 

三人の表情が凍りついた。

 

「……なんだって?」

 

今はただ。

 

遠い砂漠にいるカルトの無事を祈るしかなかった。

 

◇

 

その頃。

 

カルトとホリンは、砦の周囲を慎重に調べていた。

 

出入口らしき場所は正面の一箇所のみ。

 

一見すると無人だが、カルトが感応魔法を使った結果、入口には侵入者を感知する魔法が仕掛けられていることがわかった。

 

正面突破は危険すぎる。

 

二人は夜を待ち、崩れた側壁から内部へ侵入した。

 

外観とは違い、砦の内部には明らかに人の手が入っていた。

 

崩落しそうな箇所は補修され、通路も最低限ではあるが整備されている。

 

だが。

 

人の気配がない。

 

生活の痕跡すら、ほとんど存在しなかった。

 

「妙だな」

 

「ああ」

 

偶然迷い込んだ者に存在を悟られないよう、生活区画そのものを隠しているのかもしれない。

 

ならば隠し通路がある。

 

そう判断した二人は、音を立てずに捜索を続けた。

 

しかし夜闇の中での探索は思うように進まない。

 

「カルト。どうする? 朝まで待つか?」

 

「いや、これ以上は待てない。できれば向こうから出てきてくれれば――」

 

その時。

 

カルトの表情が変わった。

 

「……!」

 

ホリンの腕を掴み、近くの部屋へ引き込む。

 

「どうした?」

 

「入口の探知魔法が反応した」

 

「誰か来たのか?」

 

「ああ」

 

二人は息を潜める。

 

やがて――。

 

「う~ん。この辺にお宝がありそうな気がしたんだけどなぁ。なんにもないな。最近ついてないなー」

 

間の抜けた少年の声が響いた。

 

「…………」

 

「…………」

 

カルトとホリンは顔を見合わせた。

 

侵入者。

 

しかも、どうやら盗賊らしい。

 

(最悪だ……)

 

隠密行動が台無しである。

 

だが同時に、これは好機でもあった。

 

少年を察知した敵が姿を現せば、その経路から隠し通路を割り出せる。

 

攫われた少女の髪飾りから感じる魔力反応は、明らかに地下から来ている。

 

どこかに地下へ続く入口があるはずだ。

 

「あっ!」

 

少年の声。

 

「ここ隠し階段だ! お宝、お宝~♪」

 

カルトの思考が止まった。

 

「…………」

 

「見つけたらしいな」

 

「嘘だろ……」

 

あれだけ探して見つからなかったものを。

 

あの盗賊は、あっさり見つけてしまった。

 

二人が声の方向へ向かうと、確かに隠し階段があった。

 

貯蔵庫に置かれた巨大な水瓶。

 

その底が蓋になっており、外すと地下へ続く階段が現れる仕組みだった。

 

外された底板が横に転がっている。

 

「……恐ろしい奴だ」

 

「別の意味でな」

 

ホリンが苦笑する。

 

「どうする? このまま行けば、あの盗賊は確実に殺されるぞ」

 

「……わかってる」

 

声から察するに、まだ若い。

 

見捨てて囮にするほど、カルトは割り切れなかった。

 

だが正面から戦えば、敵の数次第では自分たちまで全滅する。

 

「とりあえず後を追う。敵が多ければ一度退いて奇襲する。少ないなら――」

 

「一気に叩く」

 

「ああ」

 

二人は階段を降りた。

 

地下は簡素な石畳が敷かれているだけで、ほとんど洞窟に近かった。

 

ところどころに小さな部屋が設けられている。

 

その先を、少年は何の警戒もなく進んでいた。

 

「おっ!」

 

「…………」

 

「おおっ、これは売れそう!」

 

「…………」

 

時折、宝を見つけたらしい嬉しそうな声まで聞こえてくる。

 

カルトは頭を抱えたくなった。

 

途中の部屋を覗く。

 

そこには最低限の寝具や食器が残されていた。

 

だが、人が生活しているというより――。

 

「……監禁場所か」

 

攫われた者を、一時的に閉じ込めておく場所。

 

そう考えれば辻褄が合う。

 

こんな場所へ人を攫い、閉じ込める。

 

カルトの胸に怒りが込み上げた。

 

その時。

 

「わああああっ!」

 

少年の悲鳴が響いた。

 

「行くぞ!」

 

「ああ!」

 

二人は音を殺しながら、それでも可能な限り急いだ。

 

魔力反応も同じ方向から来ている。

 

いる。

 

この先に。

 

リボー郊外で死者を操っていた――あの術者が。

 

◇

 

「神聖な儀式の間にまで入り込むとは! 汚らわしい盗賊め! ここで始末してくれる!」

 

「びっくりしたー。こんなところで何やってるの?」

 

少年は一歩ずつ後退する。

 

天然なのか。

 

それとも相手の虚を突くためなのか。

 

この状況で出てくる言葉としては、あまりにも場違いだった。

 

「盗賊風情に我が儀式を説明したところで無意味! 死ね!」

 

少年が部屋から飛び出した。

 

逃げ足だけは相当なものらしい。

 

カルトとホリンは近くの部屋へ身を隠し、追ってくる者を確認する。

 

一人。

 

現れたのは、一人だけだった。

 

(好機だ)

 

他の者が出払っているのか。

 

それとも最初から、この施設には一人しかいないのか。

 

どちらでもいい。

 

一人ならば――二人で仕留める。

 

そして、あの盗賊もこのままでは殺される。

 

カルトはホリンへ目配せすると、物陰から飛び出した。

 

「ウインド!」

 

風が一直線に放たれる。

 

だが。

 

老人は即座に魔法を展開し、それを相殺した。

 

黒いローブ。

 

禍々しい杖。

 

そして胸元に抱えられた、黒い魔道書。

 

「貴様は……」

 

老人の口元が歪んだ。

 

「くくく……あの時の小僧か。わざわざ殺されに来たか」

 

「攫った人たちを返してもらおう」

 

「あの娘なら奥で眠っておる」

 

老人は何でもないことのように言った。

 

「それ以外は――もう儀式に使わせてもらった」

 

「……っ!」

 

予想していた。

 

それでも。

 

実際に聞かされれば、怒りは抑えられなかった。

 

かつてロプト教団は、人々に絶望を与え、その恐怖を支配の糧としていた。

 

子供すら生贄にしたという記録も残っている。

 

そして今。

 

ロプトウスの血が失われた時代に、この老人は別の方法で暗黒の力を維持しようとしている。

 

人の命を使って。

 

「前は事情があって退かざるを得なかったが……」

 

老人の周囲に黒い魔力が立ち上る。

 

「ここを知られた以上、生かして帰すわけにはいかぬ」

 

「…………」

 

「貴様が風の使い手なら、なおさら勝ち目はない。抵抗せずおとなしくしておれば、一思いに殺してやろう」

 

「確かに」

 

カルトは静かに答えた。

 

「暗黒魔法と風魔法じゃ、相性が悪い」

 

老人が笑った。

 

その瞬間。

 

「――だが」

 

側面から影が飛び出した。

 

「魔法だけが戦いじゃない」

 

ホリン。

 

大剣の切っ先が老人の身体を貫いた。

 

「ぐはあああっ!!」

 

鮮血が飛び散る。

 

老人の身体が大きく仰け反った。

 

「物理攻撃なら効くだろ」

 

ホリンは即座に剣を引き抜き、距離を取った。

 

油断はしない。

 

この相手が普通の人間ではないことを、彼は一度戦って知っている。

 

そして。

 

黒い靄が老人を包んだ。

 

「……なに?」

 

開いた傷が。

 

塞がっていく。

 

見る間に肉が再生し、流れていた血さえ止まった。

 

「やはり一筋縄じゃいかないか!」

 

カルトが魔道書を開く。

 

「エルウインド!!」

 

猛烈な風が老人を宙へ巻き上げる。

 

無数の風刃が身体を切り裂いた。

 

だが。

 

「無駄だ!」

 

黒い魔力が膨れ上がる。

 

風が消える。

 

刻まれた傷さえ、次々と塞がっていった。

 

「ふ……ふはははは!」

 

老人が嗤う。

 

「儀式を終える前なら、まだ殺せたであろうな!」

 

「…………!」

 

「少し遅かったようだ。今のものが貴様の最大魔法なら――」

 

闇が膨張する。

 

「もはや儂を殺す術はない!」

 

老人が黒い魔道書を開いた。

 

「ヨツムンガンド!」

 

世界が、黒く染まった。

 

無数の亡霊。

 

呻き。

 

悲鳴。

 

恨み。

 

形のない負の感情が、巨大な奔流となって襲いかかる。

 

まるで老人がこれまで奪ってきた命、そのすべての絶望を取り込み、他者へ叩きつけているかのようだった。

 

「ホリン!」

 

カルトは咄嗟にホリンへ体当たりした。

 

直後。

 

闇がカルトを呑み込んだ。

 

「ああああああっ!!」

 

身体から生気そのものを引き抜かれる。

 

皮膚を。

 

肉を。

 

骨を。

 

魂ごと削ぎ落とされていくような激痛。

 

魔道士として高い魔法防御を持つカルトですら耐えきれず、その場へ崩れ落ちた。

 

「カルト!」

 

老人が再び魔道書を構える。

 

「次で終わりだ」

 

ホリンと少年が同時に老人へ斬りかかった。

 

剣が刺さる。

 

血が飛ぶ。

 

だが。

 

効かない。

 

傷つけても。

 

傷つけても。

 

黒い魔力が老人の肉体を修復していく。

 

(まずい……)

 

カルトは地面に手をついた。

 

身体が動かない。

 

次のヨツムンガンドを受ければ。

 

魔法防御を持たないホリンと少年は、おそらく即死する。

 

(立て……)

 

指に力を込める。

 

(立て、カルト……!)

 

自分はここで終わっていい男ではない。

 

ホリンもそうだ。

 

レヴィンを王にする。

 

シレジアを変える。

 

そのために国を出たのだ。

 

こんな場所で――。

 

こんなところで。

 

終われるものか。

 

「ぐ……っ!」

 

カルトは立ち上がった。

 

その時。

 

一つの記憶が脳裏を過った。

 

――魔道書。

 

ずっと持っていた。

 

母から渡された、あの魔道書。

 

そして。

 

その背表紙に隠されていた――手紙。

 

「ええい! 邪魔をするな!」

 

老人が魔力を爆発させた。

 

少年が吹き飛ばされる。

 

「うわああっ!」

 

「ぐっ……!」

 

ホリンだけは剣へしがみつき、さらに刃を捻り込んだ。

 

「貴様……!」

 

「カルト!」

 

ホリンが叫ぶ。

 

その一瞬。

 

ホリンが命懸けで作った時間。

 

無駄にはできない。

 

カルトは懐から魔道書を取り出した。

 

背表紙へ指を差し込み。

 

そこに隠されていた手紙を抜き取る。

 

そして。

 

「――ファイアー」

 

炎が灯った。

 

魔道書が燃える。

 

「な……!」

 

老人の表情が変わった。

 

「貴様……何をしている!?」

 

炎は瞬く間に表紙へ広がり、ページを呑み込んでいく。

 

長い間、カルトと共にあった魔道書。

 

母から託された、唯一とも言える形見。

 

それが。

 

灰へ変わっていく。

 

次の瞬間。

 

――光。

 

「なっ……!」

 

ホリンが目を覆った。

 

燃え尽きるはずだった魔道書から、凄まじい光が溢れ出した。

 

地下室を満たしていた闇を押し退け。

 

老人の黒い魔力を吹き飛ばし。

 

そして。

 

カルト自身を包み込む。

 

「ぐああああああっ!!」

 

老人が初めて。

 

苦痛の声を上げた。

 

「あ……あの光は……!」

 

恐怖。

 

先ほどまで圧倒的な余裕を見せていた老人の顔に、明確な恐怖が浮かぶ。

 

「やめろ!!」

 

老人が叫んだ。

 

「それを解き放つな!!」

 

だが。

 

もう遅かった。

 

光はさらに強くなる。

 

カルトの姿が見えなくなるほどに。

 

「カルト……」

 

ホリンは大剣を握ったまま、ただその光景を見つめていた。

 

まるで。

 

一冊の魔道書が燃え尽きる代わりに――。

 

そこに封じられていた何かが。

 

長い眠りから目覚めようとしているかのように。

 

「君は……一体……」

 

その問いに答える者はいない。

 

地下を満たした神々しい光の中。

 

カルトの運命を縛り続けていた最初の封印が――

 

今。

 

静かに、解けようとしていた。

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