薬を求め、自らを傷つける彼女を、十六歳の従弟ルカはただ一人で支え続ける。閉ざされた生活のなかで、二人の関係は家族という言葉では呼べないものへ変わっていった。
やがてルカに、一族を破滅させた先代当主の面影と剣の才能が現れ始める。ルカを一族の未来として望む人々と、同じ犠牲を繰り返したくないゼルダ。
愛しているからこそ、一緒にはいられない。
傷ついた年上の女と、彼女のために少年時代を差し出した男の、救済と別離の物語。
母の記憶は、ほとんど残っていない。
5歳まで、確かに一緒にいたはずだった。自分を置いて、実家へ帰ってしまうまでは。
それなのに、どんな顔をしていたのか、髪や目の色がどうだったのか、輪郭のぼやけた絵のようにしか、思い出せない。
そのかわり、耳の奥にこびりついて離れないものがあった。
父と母が、自分の頭の上で言い争う声だ。
『俺の子じゃない。だませると思ったのか』
それに何か言い返そうとする母の声を、父の怒鳴り声がかき消す。
続いて、母の、押し殺した泣き声。――けれど、その先を最後まで聞いた覚えは、あまりない。
たいてい父が声を荒げ始めると、どこからともなく、二人が現れたからだった。
伯母のシグリッドと、その娘で従姉のゼルダ。
燃えるような赤い髪に、榛はしばみ色の瞳をした母娘が、ルカの手を引いて、自分たちの家へ連れ出す。
『ルカ、こっちへおいで』
父と母が静まるまで、ルカはシグリッドの家にいた。
そして、とことん甘やかされた。
息子のいないシグリッドにとって、甥のルカは、目に入れても痛くない存在だった。
亡くした最愛の弟の面影を継ぐこの子を、彼女は愛さずにはいられなかった。――そして、まったく同じ理由で、ルカの父は疎んだ。
波打つ赤毛に縁どられた、優しい笑顔。膝にのせられたときの、少し高い体温。
料理のあいだ中、手元から離さず、振り返ってはこちらを見る、その目。――それだけは、今でも、目を閉じれば浮かべることができた。
その家が、ある年、暗くなった。
その年のことは、季節の匂いでしか覚えていない。
ある朝、母がいなくなった。荷物をまとめる音も、別れの言葉も、記憶にはない。
ただ、家の戸口から見えた、遠ざかっていく背中。一度も振り返らなかったこと。その姿だけが、断片として残っている。
故郷の、温かい海辺の村へ戻ったのだと、後にきいた。父は何も言わなかった。ルカも、何も聞かなかった。
母が去ったのと同じ季節に、シグリッドが流行り病で倒れた。
あっけなかった。数日、寝込んだだけだった。
最後に会ったとき、シグリッドはルカの髪を撫でて、何か言おうとして――言わなかった。
次にその家を訪ねたときには、かまどの火は落ち、あの匂いは、どこにもなかった。赤毛の優しい笑顔は、もう、いなかった。
5歳だった。二つの戸が、同じ季節に、音もなく閉じた。失われたものが何であったか、当時のルカには、言葉にできなかった。
ただ、それまで自分を包んでいた温かいものが、まとめて消えた――その感覚だけが、体の奥に残った。
暗くなった家に、一人だけ、残っていた。
ゼルダだった。
ゼルダは、母シグリッドの役目を、そっくりそのまま引き継いだ。
ゼルダの父は、彼女が幼い頃に戦で死に、兄弟もいなかった。
だから、家のことも、一族にまつわる務めも、年端もいかない娘の肩に、少しずつ落ちていった。それを誰も、不憫とも、無理とも思わなかった。
髪と目の色だけでなく、女傑と呼ばれた母の気性まで、そっくり受け継いでいたからだ。
同じ年頃の娘たちが、嫁入りの修練をし、身なりを整えることに心を砕くなか、ゼルダは違った。
まだ少女でありながら、一族の会合に顔を出し、村の差配にも口を挟んだ。男たちの稽古を、稽古場の縁から飽きずに眺め、ときに年長の剣士にも、臆さず的を射た助言をした。
一族の女は、剣を持たない。それでも彼女は、人目を盗んで剣を習っていた。一族随一の剣士の血である。おぼえは、誰よりも早かった。
ルカに、初めて剣を握らせたのも、ゼルダだった。
家事と務めに追われながら、それでもゼルダはルカを稽古場へ連れていき、傍らで見守った。
家に戻れば、自ら相手になって、打ち込みをさせた。
木剣の重さ。打ち合う乾いた音。汗の匂い。ゼルダの、笑いながらも逸らさない、鋭い目。――孤独を埋めるように、ルカは剣に夢中になった。
そうしているあいだだけ、あの季節に消えたものを、思い出さずにいられた。
そんなある日の夕方のことだった。
いつものように、ルカは夕飯を食べに、ゼルダの家へ寄った。
台所へ行くと、ゼルダが食卓に肘をつき、どこともつかぬ方を、ぼんやりと見ていた。
おかしい、と、まず体が気づいた。この時刻なら、とうに台所に立って、忙しく手を動かしている頃だった。
途中からルカが手伝い、二人で食べる。それが、毎日の決まりだった。
けれど今日は、支度を始めた気配すらない。かまどに火はなく、美味しそうな匂いも、しない。家全体が、静まり返っている。
「ゼルダ……どうしたの」
声をかけても、すぐには動かない。少しして、ようやくルカのほうを向く。
「……ああ、ごめんね。今日、ちょっと、作れなくて」
そう言ったゼルダの目に、うっすらと涙がにじむのを、ルカは見た。
息を吸う。気丈なゼルダの涙を見るのは、初めてに近かった。――何が、あったんだ。
「待ってて。これから、何か作るから」
立ち上がろうとするゼルダの腕を、ルカはとっさに掴んだ。
「ゼルダ。話して」
目をのぞき込もうとすると、ゼルダは視線を逸らし、ただ、涙を流した。
結局その夜、ゼルダはいつものように夕飯を作り、ルカに食べさせた。涙のわけは、一言も、口にしなかった。
理由を聞かされたのは、数日後だった。
すっかり落ち着いた様子で、今度はまっすぐルカと目を合わせて、ゼルダは話し始めた。
当主のイライアスが、話を持ってきたのだという。妻を亡くし、後添えを探している帝国の貴族から、ゼルダを、という申し出が来たという。
応じれば、一族が帝国に負っている負債を、すべて肩代わりしてくれる、と。
剣の名門であるルカの一族は、代々、優れた剣士を帝国軍へ送り出すことで、税を免れ、自治を許されてきた。
だが、先代の当主――シグリッドの弟であり、ルカとゼルダの叔父にあたるカイ――が起こした事件のために、従軍を禁じられた。
剣士ばかりで、畑を耕す者の少ない村に、戦のほかに稼ぐ術はない。税は払えず、負債だけが膨らんでいく。
このままでは、村の者全員が、奴隷に身を落とすかどうかの瀬戸際だった。
淡々と話すゼルダを見ながら、ルカは必死に、その意味をのみこもうとした。
けれど、言葉の半分は、輪郭を結ばずに、すり抜けていく。
わかったのは、ゼルダが、どこか遠くへ行ってしまう、ということだけだった。
「ルカ。お前も、だいぶ大きくなった。もう、一人でやっていける」
ゼルダは、静かに言った。
「どうか――剣の修練だけは、止めないでね」
そのとき、ゼルダは18、ルカは13になっていた。
ゼルダが正式に申し出を受けると、負債の半分が、その場で支払われた。
やがて、高価な衣装や宝飾品が、輿入れの世話をする侍女たちとともに、村に届いた。
輿入れの日。豪奢な帝国風のドレスをまとい、豊かな赤毛を結い上げたゼルダは、はっとするほど美しかった。
領地へ向かう馬車に乗り込む前、ゼルダはルカと目を合わせた。
榛色の瞳に、不安と悲しみが、一瞬だけ、よぎる。
だがすぐに、目を閉じ、意を決したように、馬車へ入っていった。
ルカは、馬車が去っていくほうを見たまま、しばらく動けなかった。
――また、一人になった。
ゼルダが去ってからしばらく、ルカは強烈な孤独に襲われた。
それでも、剣の修練を止めるな、というゼルダの言葉だけを胸に、ひたすら木剣を振った。打ち込むあいだだけは、空白を忘れていられた。
父は、母が去って以来、後添えを迎えることはなかった。
村の女を雇い、家事と身の回りの世話を任せていた。ルカもその女の世話になって、どうにか日々をしのいだ。
同じ屋根の下にいても、父と口をきくことも、顔を合わせることも、ほとんどなかった。
ゼルダから、便りは来なかった。こちらから、どう連絡を取ればいいのかも、わからなかった。
彼女を思い出すことは、去った直後に比べれば、減っていった。
それでも、折に触れて、ゼルダが今どうしているのか、考えずにはいられなかった。
噂は、断片で届いた。
井戸端で、稽古場の隅で、大人たちが声を落とす。ルカが近づくと、やむ。だから、一度に全部は聞けなかった。拾えたのは、別々の日の、別々の口からだった。
――あの貴族のところへ行った娘は。
最初に届いたのは、それだけだった。続きは、後から、少しずつ。
あの貴族は、もう老いている。これまでも、同じように何人もの娘を、侍女の名目で迎えていた。
北方の部族や、周辺国の少女たちを。そして、その娘たちは――数年で死ぬか、生きて帰っても、心を置いてくる。
だから、どの村も、どの部族も、娘を出さなくなった。
そこで、貴族は、やり方を変えた。侍女ではなく、後添えを、と。そのかわり、報酬を、莫大に。
――美しいだけでは、足りない。気丈で、心身ともに、強い娘を。
言葉の意味は、すぐに像を結んだわけではなかった。耳の奥に、小さな棘のように、刺さって残った。年月が、その棘を、ゆっくりと育てた。
そうして、ようやく繋がったとき――腹の底が、冷たくなった。
なぜ、そんな評判の貴族に、みすみすゼルダを送ったのだ。
――金のためだ。わかっている。ゼルダのおかげで、一族は負債から、ひと息ついた。
ルカが本当に許せなかったのは、そこではなかった。
ゼルダが、それほどの犠牲を払ったというのに――大人たちは、その後も、現状に甘んじているだけだった。
今後どうするのか、誰も、何も考えてはいないように見えた。
いつか。いつか自分が、ゼルダを迎えに行く。ルカは、そう決めた。
かつてシグリッドとゼルダが、両親の諍いから自分を連れ出してくれたように。今度は、自分が、ゼルダを連れ戻す番だと。
ゼルダが嫁いでから、三年ほどが過ぎた頃――。
ルカが迎えに行くより先に、ゼルダのほうが、村へ帰ってくることになった。
老いた貴族が、死んだのだという。
その報せを聞いてから、ルカは指を折って、彼女の帰りを待った。16になっていた。背は伸び、肩には、稽古でついた厚みがあった。
これなら、と思った。これなら、もう、自分は無力な子供ではない。
輿入れのときと同じように、領地から、馬車が着いた。
扉が開く。降りてきたのは――帝国の高価なドレスをまとった、赤毛の若い女。
ルカは、それが誰なのか、すぐにはわからなかった。
髪の色は、ゼルダだった。背格好も、ゼルダだった。
けれど、かつてそこに満ちていた生気は、どこにもない。
落ちくぼんだ、虚ろな目。何かに怯えるように、わずかに丸めた背。
――あの、稽古場の縁から男たちを射ていた、鋭い目が、どこを探しても、見つからない。
「ゼルダ……?」
呼んだ。声が、かすれた。
けれど、ゼルダは気づかない。ルカの、すぐ目の前を、素通りしていく。
視線は、こちらを向きさえしなかった。
知らない人を見るように――いや。何も、見ていない目だった。
ルカの心が、凍りついた。
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