疵痕ーきずあとー   作:月パイン

1 / 13
帝国貴族のもとで心身に深い傷を負い、故郷へ戻ってきたゼルダ。

薬を求め、自らを傷つける彼女を、十六歳の従弟ルカはただ一人で支え続ける。閉ざされた生活のなかで、二人の関係は家族という言葉では呼べないものへ変わっていった。

やがてルカに、一族を破滅させた先代当主の面影と剣の才能が現れ始める。ルカを一族の未来として望む人々と、同じ犠牲を繰り返したくないゼルダ。

愛しているからこそ、一緒にはいられない。

傷ついた年上の女と、彼女のために少年時代を差し出した男の、救済と別離の物語。


従姉

母の記憶は、ほとんど残っていない。

 

 

 

5歳まで、確かに一緒にいたはずだった。自分を置いて、実家へ帰ってしまうまでは。

 

それなのに、どんな顔をしていたのか、髪や目の色がどうだったのか、輪郭のぼやけた絵のようにしか、思い出せない。

 

 

 

そのかわり、耳の奥にこびりついて離れないものがあった。

 

父と母が、自分の頭の上で言い争う声だ。

 

 

 

 『俺の子じゃない。だませると思ったのか』

 

 

 

それに何か言い返そうとする母の声を、父の怒鳴り声がかき消す。

 

続いて、母の、押し殺した泣き声。――けれど、その先を最後まで聞いた覚えは、あまりない。

 

たいてい父が声を荒げ始めると、どこからともなく、二人が現れたからだった。

 

 

 

伯母のシグリッドと、その娘で従姉のゼルダ。

 

燃えるような赤い髪に、榛はしばみ色の瞳をした母娘が、ルカの手を引いて、自分たちの家へ連れ出す。

 

 

 

『ルカ、こっちへおいで』

 

 

 

父と母が静まるまで、ルカはシグリッドの家にいた。

 

そして、とことん甘やかされた。

 

息子のいないシグリッドにとって、甥のルカは、目に入れても痛くない存在だった。

 

亡くした最愛の弟の面影を継ぐこの子を、彼女は愛さずにはいられなかった。――そして、まったく同じ理由で、ルカの父は疎んだ。

 

 

 

波打つ赤毛に縁どられた、優しい笑顔。膝にのせられたときの、少し高い体温。

 

料理のあいだ中、手元から離さず、振り返ってはこちらを見る、その目。――それだけは、今でも、目を閉じれば浮かべることができた。

 

 

 

その家が、ある年、暗くなった。

 

 

 

 

 

その年のことは、季節の匂いでしか覚えていない。

 

 

 

ある朝、母がいなくなった。荷物をまとめる音も、別れの言葉も、記憶にはない。

 

ただ、家の戸口から見えた、遠ざかっていく背中。一度も振り返らなかったこと。その姿だけが、断片として残っている。

 

故郷の、温かい海辺の村へ戻ったのだと、後にきいた。父は何も言わなかった。ルカも、何も聞かなかった。

 

 

 

母が去ったのと同じ季節に、シグリッドが流行り病で倒れた。

 

 

 

あっけなかった。数日、寝込んだだけだった。

 

最後に会ったとき、シグリッドはルカの髪を撫でて、何か言おうとして――言わなかった。

 

次にその家を訪ねたときには、かまどの火は落ち、あの匂いは、どこにもなかった。赤毛の優しい笑顔は、もう、いなかった。

 

 

 

5歳だった。二つの戸が、同じ季節に、音もなく閉じた。失われたものが何であったか、当時のルカには、言葉にできなかった。

 

ただ、それまで自分を包んでいた温かいものが、まとめて消えた――その感覚だけが、体の奥に残った。

 

 

 

暗くなった家に、一人だけ、残っていた。

 

 

 

ゼルダだった。

 

 

 

ゼルダは、母シグリッドの役目を、そっくりそのまま引き継いだ。

 

 

 

ゼルダの父は、彼女が幼い頃に戦で死に、兄弟もいなかった。

 

だから、家のことも、一族にまつわる務めも、年端もいかない娘の肩に、少しずつ落ちていった。それを誰も、不憫とも、無理とも思わなかった。

 

髪と目の色だけでなく、女傑と呼ばれた母の気性まで、そっくり受け継いでいたからだ。

 

 

 

同じ年頃の娘たちが、嫁入りの修練をし、身なりを整えることに心を砕くなか、ゼルダは違った。

 

まだ少女でありながら、一族の会合に顔を出し、村の差配にも口を挟んだ。男たちの稽古を、稽古場の縁から飽きずに眺め、ときに年長の剣士にも、臆さず的を射た助言をした。

 

一族の女は、剣を持たない。それでも彼女は、人目を盗んで剣を習っていた。一族随一の剣士の血である。おぼえは、誰よりも早かった。

 

 

 

ルカに、初めて剣を握らせたのも、ゼルダだった。

 

 

 

家事と務めに追われながら、それでもゼルダはルカを稽古場へ連れていき、傍らで見守った。

 

家に戻れば、自ら相手になって、打ち込みをさせた。

 

木剣の重さ。打ち合う乾いた音。汗の匂い。ゼルダの、笑いながらも逸らさない、鋭い目。――孤独を埋めるように、ルカは剣に夢中になった。

 

そうしているあいだだけ、あの季節に消えたものを、思い出さずにいられた。

 

 

 

そんなある日の夕方のことだった。

 

 

 

いつものように、ルカは夕飯を食べに、ゼルダの家へ寄った。

 

台所へ行くと、ゼルダが食卓に肘をつき、どこともつかぬ方を、ぼんやりと見ていた。

 

 

 

おかしい、と、まず体が気づいた。この時刻なら、とうに台所に立って、忙しく手を動かしている頃だった。

 

途中からルカが手伝い、二人で食べる。それが、毎日の決まりだった。

 

けれど今日は、支度を始めた気配すらない。かまどに火はなく、美味しそうな匂いも、しない。家全体が、静まり返っている。

 

 

 

「ゼルダ……どうしたの」

 

 

 

声をかけても、すぐには動かない。少しして、ようやくルカのほうを向く。

 

 

 

「……ああ、ごめんね。今日、ちょっと、作れなくて」

 

 

 

そう言ったゼルダの目に、うっすらと涙がにじむのを、ルカは見た。

 

息を吸う。気丈なゼルダの涙を見るのは、初めてに近かった。――何が、あったんだ。

 

 

 

「待ってて。これから、何か作るから」

 

 

 

立ち上がろうとするゼルダの腕を、ルカはとっさに掴んだ。

 

 

 

「ゼルダ。話して」

 

 

 

目をのぞき込もうとすると、ゼルダは視線を逸らし、ただ、涙を流した。

 

 

 

結局その夜、ゼルダはいつものように夕飯を作り、ルカに食べさせた。涙のわけは、一言も、口にしなかった。

 

 

 

 

 

理由を聞かされたのは、数日後だった。

 

 

 

すっかり落ち着いた様子で、今度はまっすぐルカと目を合わせて、ゼルダは話し始めた。

 

 

 

当主のイライアスが、話を持ってきたのだという。妻を亡くし、後添えを探している帝国の貴族から、ゼルダを、という申し出が来たという。

 

応じれば、一族が帝国に負っている負債を、すべて肩代わりしてくれる、と。

 

 

 

剣の名門であるルカの一族は、代々、優れた剣士を帝国軍へ送り出すことで、税を免れ、自治を許されてきた。

 

だが、先代の当主――シグリッドの弟であり、ルカとゼルダの叔父にあたるカイ――が起こした事件のために、従軍を禁じられた。

 

剣士ばかりで、畑を耕す者の少ない村に、戦のほかに稼ぐ術はない。税は払えず、負債だけが膨らんでいく。

 

このままでは、村の者全員が、奴隷に身を落とすかどうかの瀬戸際だった。

 

 

 

淡々と話すゼルダを見ながら、ルカは必死に、その意味をのみこもうとした。

 

けれど、言葉の半分は、輪郭を結ばずに、すり抜けていく。

 

わかったのは、ゼルダが、どこか遠くへ行ってしまう、ということだけだった。

 

 

 

「ルカ。お前も、だいぶ大きくなった。もう、一人でやっていける」

 

 

 

ゼルダは、静かに言った。

 

 

 

「どうか――剣の修練だけは、止めないでね」

 

 

 

そのとき、ゼルダは18、ルカは13になっていた。

 

 

 

 

 

ゼルダが正式に申し出を受けると、負債の半分が、その場で支払われた。

 

やがて、高価な衣装や宝飾品が、輿入れの世話をする侍女たちとともに、村に届いた。

 

 

 

輿入れの日。豪奢な帝国風のドレスをまとい、豊かな赤毛を結い上げたゼルダは、はっとするほど美しかった。

 

領地へ向かう馬車に乗り込む前、ゼルダはルカと目を合わせた。

 

榛色の瞳に、不安と悲しみが、一瞬だけ、よぎる。

 

だがすぐに、目を閉じ、意を決したように、馬車へ入っていった。

 

 

 

ルカは、馬車が去っていくほうを見たまま、しばらく動けなかった。

 

 

 

 ――また、一人になった。

 

 

 

ゼルダが去ってからしばらく、ルカは強烈な孤独に襲われた。

 

それでも、剣の修練を止めるな、というゼルダの言葉だけを胸に、ひたすら木剣を振った。打ち込むあいだだけは、空白を忘れていられた。

 

 

 

父は、母が去って以来、後添えを迎えることはなかった。

 

村の女を雇い、家事と身の回りの世話を任せていた。ルカもその女の世話になって、どうにか日々をしのいだ。

 

同じ屋根の下にいても、父と口をきくことも、顔を合わせることも、ほとんどなかった。

 

 

 

ゼルダから、便りは来なかった。こちらから、どう連絡を取ればいいのかも、わからなかった。

 

彼女を思い出すことは、去った直後に比べれば、減っていった。

 

それでも、折に触れて、ゼルダが今どうしているのか、考えずにはいられなかった。

 

 

 

噂は、断片で届いた。

 

 

 

井戸端で、稽古場の隅で、大人たちが声を落とす。ルカが近づくと、やむ。だから、一度に全部は聞けなかった。拾えたのは、別々の日の、別々の口からだった。

 

 

 

 ――あの貴族のところへ行った娘は。

 

 

 

最初に届いたのは、それだけだった。続きは、後から、少しずつ。

 

あの貴族は、もう老いている。これまでも、同じように何人もの娘を、侍女の名目で迎えていた。

 

北方の部族や、周辺国の少女たちを。そして、その娘たちは――数年で死ぬか、生きて帰っても、心を置いてくる。

 

だから、どの村も、どの部族も、娘を出さなくなった。

 

そこで、貴族は、やり方を変えた。侍女ではなく、後添えを、と。そのかわり、報酬を、莫大に。

 

 

 

――美しいだけでは、足りない。気丈で、心身ともに、強い娘を。

 

 

 

言葉の意味は、すぐに像を結んだわけではなかった。耳の奥に、小さな棘のように、刺さって残った。年月が、その棘を、ゆっくりと育てた。

 

 

 

そうして、ようやく繋がったとき――腹の底が、冷たくなった。

 

 

 

なぜ、そんな評判の貴族に、みすみすゼルダを送ったのだ。

 

 

 

 ――金のためだ。わかっている。ゼルダのおかげで、一族は負債から、ひと息ついた。

 

 

 

ルカが本当に許せなかったのは、そこではなかった。

 

ゼルダが、それほどの犠牲を払ったというのに――大人たちは、その後も、現状に甘んじているだけだった。

 

今後どうするのか、誰も、何も考えてはいないように見えた。

 

 

 

いつか。いつか自分が、ゼルダを迎えに行く。ルカは、そう決めた。

 

かつてシグリッドとゼルダが、両親の諍いから自分を連れ出してくれたように。今度は、自分が、ゼルダを連れ戻す番だと。

 

 

 

 

 

ゼルダが嫁いでから、三年ほどが過ぎた頃――。

 

 

 

ルカが迎えに行くより先に、ゼルダのほうが、村へ帰ってくることになった。

 

 

 

老いた貴族が、死んだのだという。

 

その報せを聞いてから、ルカは指を折って、彼女の帰りを待った。16になっていた。背は伸び、肩には、稽古でついた厚みがあった。

 

これなら、と思った。これなら、もう、自分は無力な子供ではない。

 

 

 

輿入れのときと同じように、領地から、馬車が着いた。

 

 

 

扉が開く。降りてきたのは――帝国の高価なドレスをまとった、赤毛の若い女。

 

 

 

ルカは、それが誰なのか、すぐにはわからなかった。

 

 

 

髪の色は、ゼルダだった。背格好も、ゼルダだった。

 

けれど、かつてそこに満ちていた生気は、どこにもない。

 

落ちくぼんだ、虚ろな目。何かに怯えるように、わずかに丸めた背。

 

――あの、稽古場の縁から男たちを射ていた、鋭い目が、どこを探しても、見つからない。

 

 

 

「ゼルダ……?」

 

 

 

呼んだ。声が、かすれた。

 

 

 

けれど、ゼルダは気づかない。ルカの、すぐ目の前を、素通りしていく。

 

視線は、こちらを向きさえしなかった。

 

知らない人を見るように――いや。何も、見ていない目だった。

 

 

 

ルカの心が、凍りついた。

 

 




TALES,Pixivにも投稿しています。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。