それから数日間、ルカはゼルダとほとんど口をきくことはなかった。
朝は、ゼルダが寝室から出てくる前に家を出た。
夜もなるべく遅く帰り、寝室には入らず、台所の長椅子で眠った。
最初の夜は、なかなか眠れなかった。
壁一枚向こうに、ゼルダがいる。物音はほとんどしなかった。
時折、寝返りを打ったのか、寝台がわずかに軋む音が聞こえる。
そのたびにルカは目を開けた。
泣いているのではないか。また眠れずにいるのではないか。
そう思っても、戸を開けることはできなかった。
怒っていた。
傷痕を、あれほど大勢の前に晒したことに。
自分には何も話さないまま、知らない男たちと関わり、何かを始めていたことに。
けれど、日が経つにつれ、その怒りは少しずつ輪郭を失っていった。
代わりに残ったのは、寝室までのわずかな距離だった。
同じ家にいるのに、ゼルダに触れない。声を聞かない。
朝起きても、夜帰っても、顔を見ない。
こんなことは、ゼルダが村へ戻ってきて以来、一度もなかった。
四年間、あの傷を知っていたのは自分だけだった。
それに触れ、薬を塗り、血を拭ったのも。
だからといって、自分のものになるわけではない。
そんなことは、わかっている。
それでも、あの傷とともに、自分だけが知っていたゼルダまで、知らないところへ行ってしまったような気がしていた。
腹立たしさよりも、そのことの方が、今は苦しかった。
数日ぶりに、日が落ちる前にルカは家に戻ってきた。
ゼルダは台所に立って、料理をしていた。
玄関の開く音がすると、振り向く。
その目には、涙が滲んでいた。
それを見た途端、ルカの胸は締め付けられ、これまでのわだかまりは吹き飛んだ。
気が付けば、ゼルダを抱き寄せていた。
ゼルダの涙が止まらない。
「……怒鳴ったりして、悪かった」
「ルカ、ごめんなさい」
口づけると、お互いを求めるのを止められなかった。
ゼルダの傷痕に指の動きが止められるたびに、ルカの心は鈍く疼く。
だが、愛おしさをとどめることはできなかった。
空白を埋めるように、愛し合ったあと——ルカは、自分の胸が濡れるのを感じた。
腕の中のゼルダを見ると、涙を流している。
「もう、泣かなくてもいいだろ?」
優しくルカはそう言い、指でそっとゼルダの涙を拭った。
「……離れられない……離れたくないの」
「離れない……でも、ここを離れよう」
ゼルダの動きが、ぴたりと止まる。
ルカはようやく、ゼルダに沿海州の叔父と連絡が取れたこと。
彼が自分たちを、歓迎してくれることを話した。
「俺はそこから従軍できるかもしれない。春になったら、一緒に行こう」
返事のかわりに、ゼルダはルカへいっそう強くしがみついた。
その日以来、ルカはなるべく多くの時間をゼルダと過ごした。
酒場での一件があってから、人目に触れるのも気が進まなかった。
また無意識で、ゼルダが自分と離れている時間をなるべく短くしたかったからかもしれない。
あたかも、数年前に逆戻りしたかのように、家に引きこもり、二人だけの時間を過ごしていた。
ゼルダの口数はいまだに少なく、沈みがちだった。
かつての快活なゼルダが戻ってくるのに、しばらくかかるかもしれない。
ここにいては、過去のこと、カリナのことなどの辛いことを思い出すのに、ことかかないだろう。
そのためにも、なるべく早く離れたいと思った。
その日は以前からの約束で、イライアスの家で、人手が必要な力仕事を手伝うことになっていた。
酒場でイライアスに近い男に絡まれ、その後、ゼルダの会合の件を聞いて以来、ルカはイライアスのところに行くのをなるべく避けていた。
だが今日は、以前からの約束であったし、自分の頭数をあてにされているだろうと思うと、行かざるをえなかった。
ブルナに乗ってイライアスの家へ向かっていたが、近いうちにブルナを返すことを考え始めていた。
こうなった以上、なるべく借りは作らない方がいい気がしたのだ。
とはいっても、ブルナもルカに懐いており、ルカもだいぶ愛着を持ってしまっている。
辛い別れになるだろうと、覚悟はした。
気は進まなかったが、いざついてみれば、作業場にはイライアスも例の男もいなかったので、ルカはほっとした。
仕事が終わって、厩舎の近くにとめてあったブルナに再び乗ろうとした。
普段なら、ルカが近づいてくるのに気づけば、嬉しがって近寄ってくるのに、今日は何か様子が違った。
緊張しているような様子で、ルカが首を軽く叩いてみても、体をじっとかたくしている。
ルカがまたがろうとすると、いつもはじっとしているのに、今日は動きまわる。
まるでルカを乗せるのを邪魔するかのようだった。
「おい……いったい、どうしたんだ?」
発進の合図を送っても、動こうとしない。
「ブルナ……どうした?」
ルカが再三、強く合図を送ったので、仕方ないとでもいうようにブルナは歩き始める。
そうしてからも、落ち着かなく蹄を蹴り上げたり、嘶いたりする。
おかしい……。
今朝、イライアスの家に向かうときは、いつも通りでこんな様子は、全くみせなかったのに。
速度をあげようとしたところ、ブルナの体が大きく傾いた。
ルカが自分の態勢を整えようとしたとき——体が滑るのを感じ、気が付く前に地面に叩きつけられる。
「ブルナ!」
驚いたブルナが、駆け去ってしまう。
自分で戻ってくればいいのだが……そうでなかったら、探しにいこう。
とっさのことだったので、体のどこを打ったのかがわからない。
腕も両方動く——折れてない。
足はどうだろうか——そう、思って立ち上がろうとしたとき、立ち眩みを 覚え、ルカは意識を失ってしまった。
話し声が聞こえて、目が覚めた。
見慣れた天井——自分の家、ベッドだ。
あれから、ブルナから落馬して——気を失ったのだろうか。
どれぐらい時間がたって——誰が見つけて、ここまで運んでくれたのか……。
「ゼルダ! 目を覚ましたぞ」
次々に、思いを巡らせていると、シヴァの声がした。
「ルカ、大丈夫か?」
シヴァが、心配そうに自分の顔を覗き込む。
「ルカ!」
続いて、張り詰めた表情のゼルダが、入ってくる。
「俺、どれぐらい気を失ってたんだ?」
「外に蹄の音が聞こえて、あなたが帰ってきたと思ったら——ブルナだけだった」
青ざめたゼルダは、ブルナに乗ろうとしたが、鞍がずれているのに気づいた。
ブルナを馬小屋につなぎ、イライアスの家の方へと向かうと、そのすぐそばで倒れているルカをみつけたという。
声をかけ、いったんは目をあけたものの、ルカは再び眠ってしまった。
その記憶が、ルカにはなかった。
ゼルダは、イライアスの家に助けを求めに行き、手伝いの人たちが馬車の荷台にルカを乗せて、運んでくれたという。
今から少し前に、シヴァがたまたま様子を見に立ち寄った。
落馬してから、それほど時間はたっていないだろう——せいぜい、半刻ぐらいではないか、とのことだった。
いろいろ聞きたいことはあったが、頭がぼんやりして、鈍い頭痛も感じる。
シヴァがルカの表情を見て、
「とにかく今は、休め。明日になったらまた話そう」
シヴァにそう言われると、意識が再び遠のいていき、ルカは眠りについた。
次に目覚めると、朝になっていたようだった。
足元に重さを感じてみてみると、ベッドの横に椅子を置いて座っていたゼルダが、頭をルカの足に預けて眠っていた。
夜通し、自分を看病していたようだった。
「ゼルダ」
呼びかけると、すぐに目覚め、起き上がろうとしたルカを、優しく抑える。
「もう少し、安静にしていた方がいいわ。何か食べられそう?」
落ち着かないルカに、
「たまには、わたしにあなたの世話をさせてちょうだい」
そう言って台所まで行き、飲み物とおかゆを持ってくる。
「自分で、できる」
おかゆをすくって、スプーンを口元にもってきたゼルダにそう言うと、
「こうさせて」
ゼルダがとても嬉しそうにしているので、ルカは観念して、されるがままにした。
数年前、自分がこうして、ゼルダを世話していた。
同じ二人だけの時間。だが、このように変化していくものなのかもしれない。
午後になると、シヴァが再び訪ねてきた。
ゼルダが席を外すと、シヴァが口を開く。
「鞍の帯に切り込みがつけられていた」
「……あいつ、一生懸命俺に知らせようとしてたんだな」
ルカもシヴァも、それを誰がやったのかについては口にしない。
それは、あまりにも明らかだったからだ。
イライアスの取り巻きの男たちで、間違いない。
「首領の指示だと思うか?」
「いや……それはないと思う……。殺すつもりだったと思うか?」
「……なんともいえんな。お前だったから、この程度ですんだ。だが、他の者だったり、もっと速度が出てたら、お前でも死んでたかもしれない」
自分の方から喧嘩をふっかけていたり、次の当主を狙っているなどと、公言しているならわかる——。
だが、一貫して、当主になりたくないと言っているし、イライアスもそれは充分わかっているはずだ。
それなのに、どうして……。
「しばらく稽古にも来ないし、どうしたものかと思って様子を見に来たら、こんなことになってて——なにか対策をたてなければならないだろう。とりあえずは、俺がゼルダを手伝うから、お前は休め」
対策と言っても、もうこの村を離れるより有効な策はないように思えるのだった。
翌日には、体の鈍い痛みも引きはじめ、ルカはベッドから出たくて仕方がなかった。
だが、ゼルダが猛烈に反対した。それでも押し切ろうとすると、今にも泣き出しそうな顔をされて、結局は折れた。
ここ数日、ルカの世話をするゼルダは、久しぶりに生気を取り戻したように見える。悲しい顔は、させたくなかった。
午後から婦人会の集まりがあり、ゼルダは出かけていった。絶対に大人しくしているように、と何度も言い残して。
そうは言っても、ベッドの上の時間は、持て余すばかりだった。
玄関を叩く音がした。
ベッドを出る口実ができた。ルカはさっそく立ち上がる。念のため剣を手にして、戸を開けた。
エリクが立っていた。
「一度会ったことがあるが……エリクだ。ルカ、中で話をしてもいいか」
ゼルダにではなく、最初から自分に用があったのか。婦人会のことも知っていて、二人で話せる時間を選んだのだろう。
断る理由はなかった。
ルカは、エリクを中へ通した。
「怪我の具合は、どうだ?」
「だいぶ、よくなって……もう、大丈夫だと思います」
ルカを本気で気遣っているのが伝わり、恩着せがましさも感じられず、エリクに悪い印象は抱けなかった。
シヴァとは違う感じで、エリクも、他の一族の男たちとは異なっていた。
落ち着いて、静かな中年の男性だが、イライアスやシヴァにも時々感じる、冷たさのようなものがない。
「先日の酒場の件について聞いた……そもそも、あの連中を相手なんかにするべきじゃなかった……そのせいで、君に嫌な思いをさせて、迷惑をかけて、申し訳なかった」
あの場に、エリクはいたのだろうか——ルカがそう思っていると、エリクがそれに答えるかのように、
「若い、俺の仲間だ。酒が入って、かっとなってしまったらしい。もう二度と、するなと、きつく注意しておいた」
ということは……エリクは、ルカを次の当主に推す一派の者ということなのか。
「イライアスは、最悪の当主ではない。彼なりに、どうやって税を納めるか、取り組んできたのだと思う。
だが……もう16年にもなる。新しい仕組みを整えるのには、確かに時間はかかる——だが、これだけ時間がたっても、有効な方法がないということは、やり方を間違っているということだ。
結局、彼がしてきたのは……。税を納めるために、娘たちを犠牲にしただけだ。俺にも、娘と姪がいる……あの子たちをそんな目にあわせたくない」
それで、別の当主に変えたいというのは、十分に理解できる。
だが、それが自分である必要はないはずだ。
「君が当主になりたくないということは、知っている。そして、先代のようにはなりたくないというのも……十分に、理解できる。
だが、この前の大会で、君の剣の実力が明らかになった。これまでは、ただ姿が似ているだけだと……だが、強さも受け継いでいると証明できた。
だが、それだけが君を推す理由ではない。君はとても冷静で、自分も……周囲の大人たちのことも理解している。いつも人をたてて、自分は一歩下がっている。それは、先代にはなかった資質だ。君は、先代と同じ轍は踏まないだろう」
「……どうして、そう言えるんですか」
エリクが、ルカを見る。
「あの人と同じ顔で、あの人と同じ剣を持っていて。同じにならないと、どうして言えるんですか」
エリクは、少し考えてから、静かに答えた。
「そんなことを気にする男は、あんな真似はしない」
ルカは、答えなかった。
この人は、間違っている。気にしているから、しないのではない。
気にしていても、してしまうかもしれないから、剣を置きたいのだ——だが、それを説明する言葉が、ルカにはなかった。
「俺も、これ以上、他の子たちがそんなめにあってほしくない……でも、他にできること……イライアスを止めたり、俺よりもっと年上の人が当主になればいい」
エリクは首を振る。
「イライアスにはずっと話してきた——だが、彼は頷いても、決して、行動に移さないし、変わらなかった……16年間だ。
挙句の果てに、既得のものを手放すつもりはなく、自分の息子を継がせようとしている。16年間、彼は周りにそうなってもいいと、巧みに信じ込ませた。
多くの者が、イライアスのやり方で構わないと、思っていた——ゼルダが、気づかせるまでは」
エリクは続ける。
「時間をかけて、あの男は自分の体制をしっかりと固めてきた。それを覆すには、誰もが納得する人物をたてなければならない——それが君だ」
ルカは答えられなかった。これが、自分でないのだったら——エリクの意見に全面的に、賛成していただろう。
「もちろん、君一人にすべてを担わせるつもりはない。俺も、シヴァもゼルダも全力で支える」
エリクの眼差しは、誠実で、狂信的なところは全くなかった。
それゆえ、ルカは視線をそらせたくなった。
「大きく、重い話だ……今日で、全てわかってくれとは言わない。ただ、どうか考えてくれ。怪我をしているときに、悪かった」
エリクはそう言い、去っていった。
戸が閉まってから、ルカはしばらく座っていた。
シヴァも、ゼルダも。
エリクは、そう言った。当たり前のことのように。
いつからだろう。
自分がいない場所で、自分のことが話されている。稽古のあいだか。
町へ行った三日か。あるいは、もっと前から。
考えても、わからなかった。
その翌日、体の痛みも治まり、村の医師に診てもらっても、問題はないと言われたので、ルカは久しぶりに家の外へと出た。
馬小屋のブルナを見に行く。ルカが近づくと、嬉しそうに顔を擦り付けてくる。かわいかった。こんなに自分に懐いてくれている……。
ルカは今日、ブルナをイライアスへ返そうと決めていた。
どれほど辛い別れになるだろうか、と思ったが、しばらく前に決断したことだ。
鞍の腹帯は、エリクの知り合いが補修してくれたが、ルカはブルナには乗らず、イライアスの家まで引いていくことにした。
事前に確認したわけではなかったが、イライアスは在宅で、ルカにも会ってくれるということになった。
もし会えなかった場合は、ブルナをイライアスの厩舎にとめ、手紙を残すつもりでいた。
イライアスの執務室に通されると、ルカは一礼した。
「ルカ、落馬したと聞いたが……もう、大丈夫なのか?」
「はい、幸い大きな怪我はなかったので。首領、これまでいろいろお世話になりました。あれから、ゼルダが会合で何を言ったかを、聞きました。その後で、今までのようにお世話になるのは、心苦しいです。ブルナもお返しします」
イライアスは眉を上げたあと、しばらく顔をそらし、黙っていた。
そして、ルカの方を穏やかな表情で向いた。
「いや……その必要はない。あれは、お前の馬だ。返さなくてもいい。それに——ゼルダと、会合のあと話した」
ルカは目を見開いた。その話を聞くのは初めてだった。
「謝りにきてくれた……だが、そうする必要はなかった。彼女の言ったことは、何一つ間違っていない。なので、お前が心苦しく思う必要はない」
ルカが何か言おうと、言葉を探していると、イライアスが話し始める。
「ゼルダの母上——お前の叔母上は、わたしにとって大切な女性だった。ゼルダがあそこまでひどく傷つけられたことが、申し訳なくてならない」
イライアスの話し方の何かが、ルカを落ち着かなくさせる。
「どうしても、カリナを行かせないでほしい、と頼まれたのだが……すでに、給金をもらっていて、税のあてにしてしまっていた。
なので、あの会合のすぐあと……予定を早めて送るしかなかった。万が一、誰かに妨害されるなどして、カリナを動揺させないように。
そのことで、ゼルダをとても動転させてしまったようで、申し訳ない」
——彼は頷いても、行動に移さない。
エリクの言葉が、ルカの脳裏をよぎった。
「わたし本人はゼルダに対して、ただすまなく思っている。彼女をこれ以上、傷つけたくない。ただ……」
ルカは、その言葉にはっとする。
「一部の分別のない者たち……こちらも気を付けているし、再三注意はしているが、何をするかわからない。お前に対してもだ……。
わたしは、お前自身は何ら野心もなく、むしろ煩わしく思っていることは、重々承知だ。
だが、それを信じない者が、どちらの側にもいる。お前を害したい者たちと、担ぎ上げたい者、両方にだ」
イライアスはすべてを把握している。
ゼルダを心配していると言っておきながら、何もしようとせず、ルカが落馬しても放っておくままだ。
「どうして、あのままにしておくのか、と言いたいのだろう?あの者たちは、誰もがわたしにそっぽを向いて、言うことをきかなかったとき——唯一、従ってくれた者たちだ。
切り捨てるわけにはいかない……なるべく、抑えるようにはしていても、完全にはできない。ちょうど、お前がゼルダの言動を止めることができなかったようにな」
ルカはこれ以上、イライアスに何と言っていいかもわからず、もう彼が話すことを聞きたいとも思えなかった。
ルカは一礼して、執務室を去った。
厩舎の前を通る。
ブルナが、ルカに気づいて、首を伸ばしてきた。
ルカは、立ち止まった。
この馬は、あの鞍を着けられていた。ここで。
手綱に、手が伸びていた。
考えるより先に、引いていた。
TALES, Pixivにも投稿しています。