疵痕ーきずあとー   作:月パイン

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出立

ルカが家に戻るとゼルダはいなかった。

 

今日は婦人会ではない。となると、エリクたちと会っているのか。

 

自分が出かけていた、このタイミングで——。

 

それは、何ら悪いことでないはずだった。

 

だが、なにかがルカの心にひっかかる。

 

 

 

ゼルダには、すでに春には沿海州へ行くと話している。

 

落馬の件や、今日イライアスと話したあとでは、もはやそれまで待てないような気がしてきた。

 

 

 

ゼルダの性格からして、自分が去るまでは、精いっぱいのことをしたい、と思っているのだろう。

 

どこまで彼女が、エリクたちの活動に関わっているのか、確認しなければならない。

 

他の娘たちが、これ以上売られないようにするための活動をしているだけなのか。

 

それとも、エリクとシヴァ同様に、自分を次の当主にしたい、と思っているのか。

 

 

 

自分が当主に絶対なりたくないと思っているのは、ゼルダはよく知っているはずだった。

 

そして、自分がどんなにカイに似ていることが嫌なのかも。

 

 

 

そのことを、はっきり口にできるのは、今のところシヴァに対してだけだった。 

 

エリクはかなり、客観的にカイを捉えている印象はあった。

 

だが、いまだにカイのことは英雄視しているようだった。

 

一族のほとんどの者たちが、そうであるように。

 

 

 

そして、いちばんの皮肉は。

ずっと、考えないようにしてきたことだった。

 

ゼルダの、夢見るように自分を見つめる目。 

 

それが、時として、自分ではない誰かを見ているように思えることがあった。

誰よりもいまだにカイを崇拝している者——それは、ゼルダなのではないか。

 

 

 

 

 

ルカが食卓に座って待っていると、ゼルダは夕食前の時間に帰ってきた。

 

 

 

「ただいま。遅くなってごめんなさい。今からすぐ、何か作るから」

 

 

 

すぐに台所に立って、夕食の支度をしようとする、ゼルダに、

 

 

 

「そんなに腹は減ってないから、ゆっくりでいい……エリクたちのところへ行ってたのか?」

 

 

 

「そうよ」

 

 

 

手を動かしながら、ゼルダは答える。

 

 

 

「ゼルダ……なるべく、早く出発したい。準備に何日、必要だ?」

 

 

 

ゼルダの手が、ぴたりと止まった。

 

 

 

「……出発って……沿海州に?」

 

 

 

「そうだ」

 

 

 

「……春に、って言ってなかった?」

 

 

 

「そのつもりだったが、状況が変わった。首領に借りを返してから、と思ったけれど、その必要もなくなった。祝言の立ち合いも頼まない。ブルナも返さなかった……だから、いつでも出発できる」

 

 

 

ゼルダは当惑した表情で、ルカに振り返った。

 

そこには、わずかな怖れのようなものが見え隠れしていた。

 

 

 

「……そうね、急だから……ちょっと、時間をもらえるかしら」

 

 

 

「どれぐらい?」

 

 

 

ゼルダは、一生懸命、考えているように、うつむく。

 

ルカは静かに、答えを待っていた。

 

 

 

「……できるなら、最初に言ってたように、春になってからじゃだめかしら? 離れる前に、やっておきたいことが、たくさんあって」

 

 

 

ルカは、しばらく黙っていた。青ざめるゼルダの顔を見ながら、口を開く。

 

 

 

「わかった。出発は、春にしよう。それで、祝言は今、あげてもいいか? エリクとシヴァに証人を頼もう」

 

 

 

ゼルダが、さらに怯えたような表情を見せた途端、ルカの奥から、暗く重いものが流れてくるのを感じた。

 

 

 

ルカは表情を硬くし、低い声で、ゼルダに続けてたずねる。

 

 

 

「春に、祝言をあげたいと言ってたけれど……本当に、そうなのか? なぜ、今じゃいけなかったんだ?」

 

 

 

——なぜ、なにも言わないんだ——

 

 

 

ゼルダの怯えた顔を見ながら、たとえようのない絶望感に押しつぶされそうになるのを感じる。

 

 

 

「春になったら……本当に、行くつもりだったのか? それとも、ただ時間を稼ぐつもりで……」

 

 

 

最後まで、言えなかった。全身の力が抜けていく。

 

——どうして……。

 

心の奥で、そうではないかという気がしていた。

 

だけれど、そうでないはずだ、と否定し続けてきた。

 

 

 

「ルカ、ごめんなさい……わたし、ここを離れることができない……」

 

 

 

蒼白になり、震える声で、ゼルダは絞り出すように、そう答えた。

 

 

 

ルカは聞くつもりはなかった——なのに、心の奥底にずっとしまっていた、問いが口から出ていた。

 

 

 

「俺じゃなくて……見ていたのは、ずっとあの人だったのか?」

 

 

 

ゼルダの目が大きく見開かれた。

 

そこに、瞬時、深い悲しみの表情がよぎったかのように見えたあと、ゼルダは顔を伏せた。

 

 

 

息をのむ音がきこえた。

 

はりつめたような、沈黙がしばらく流れる。

 

ゼルダの唇が、動いた。何か言おうとして、言葉にならなかった。

 

もう一度、動いた。同じところで、止まった。

 

息を吸う音が、聞こえた。

 

 

 

「……そうよ」

 

 

 

ゼルダは顔を伏せたままだった。

 

 

 

ルカは何も感じられず、考えることができないまま、家を出た。

 

 

 

どれくらい歩いたか、わからなかった。

気がつくと、村の外れまで来ていた。

 

 

 

その夜のうちに、村を出ようと思った。

 

ここに残って、考える時間を持ってはいけない気がした。

 

 

 

もう一度ゼルダの顔を見れば、今度こそ出ていけなくなるかもしれない。

 

ブルナに乗り、シヴァの家へ向かった。

 

 

 

夜も遅い時間に、ただならぬ様子で突然訪ねてきたルカを、シヴァは何も言わずに迎え入れた。

 

 

 

すぐには話せなかった。

シヴァも、訊かなかった。

 

 

 

しばらくして、ルカは途切れ途切れに事情を話した。

 

ゼルダと何を話したのか、すべてを口にすることはできなかったが、それでもシヴァには十分だったようだった。

 

 

 

引き止められると思っていた。

 

最後にはいつものように、この村に残れ、当主になれと、言われるのではないかとも。

 

 

 

けれど、シヴァは何も言わなかった。

ただルカの話を聞き、沿海州へ行きたいという言葉に頷いた。

 

 

 

そして、どうせ行くのなら従軍しろ、と言った。

お前ならやれる、と。

 

 

 

ひどく遠いところへ、ひとり放り出されたような気がしていた。

そんな中で、シヴァだけが、まだ自分のいる場所まで手を伸ばしてくれているように思えた。

 

 

 

最低限、旅に必要なものを手早く揃えてくれた。

 

足りないものは道すがら買えと、いくらかの金まで持たせてくれた。

 

 

 

「シヴァ……なんて礼を言えばいいかわからない。この借りは、必ず返す」

 

 

 

「ああ。従軍の褒賞で、たっぷり返してくれ」

 

 

 

沿海州から手紙を書くことを約束した。

 

偽名を使っても、自分からだとシヴァにはわかるようにすると。

 

 

 

別れ際、シヴァは言った。

 

 

 

「あとのことは、全部俺にまかせろ。なんとかしておく」

 

 

 

その言葉が何を意味するのか、ルカにはわかった。

 

けれど、今は考えなかった。

 

考えれば、またここに繋ぎ止められてしまう。

 

 

 

月の明るい夜だった。

 

ルカはただひとり、シヴァに見送られて、生まれ育った村を出た。

 

 

 

沿海州へ続く街道を、ルカはブルナの背に揺られながら進んでいた。

 

ほとんど着の身着のままだった。

持っているのは、身の回りのものがわずかと、剣。

 

それから、叔父から届いた手紙だけだった。

 

 

 

胸の片側では、自由になったという感覚が、確かに息をしていた。

 

もう、誰にも決められない。

どこへ行くのかも、何になるのかも、自分で決めていい。

 

見たことのない土地へ向かうことへの高揚もあった。

 

 

 

けれど、もう片側は、固く閉ざされていた。

 

そこを開けば、ゼルダの伏せた顔も、息を呑む音も、あの一言も、すべてが一度に流れ込んでくる。

 

 

 

——そうよ。

 

 

 

そうなれば、ブルナの手綱を握っていることさえ、できなくなりそうだった。

 

だから、閉じておくことにした。

 

何も思い出さない。

何も考えない。

 

少なくとも今は、半分だけの心で生きていくしかなかった。

 

 

 

出ていきたくて仕方のなかった村だった。

 

いつか本当に出ていく日が来たら、さぞ胸が躍るだろうと思っていた。

 

 

 

けれど、いざその時が来ても、喜びらしい喜びは湧かなかった。

 

振り返ろうとも思わなかった。

 

 

 

いつか遠い先で、あの村を思い出す日が来れば、そのとき初めて、自分が何を失い、何から逃れたのか、わかるのかもしれない。

 

 

 

ルカは、まだ見たことのない海を思い浮かべようとした。

 

淡い色をした、穏やかな波の海だと聞いている。

 

目を閉じても、像は結ばなかった。

 

 

 

海は、まだ見えなかった。

 

それでもルカは、見えない海へ向かって進み続けた。

 

(了)




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