夜になると、ゼルダは変わった。
昼のうちは、それなりに落ち着いている。だから、快方に向かっているのだと、思いたかった。けれど、夜の帳が落ちるなり、症状が次々と牙を剝いた。
まず、震えが始まる。熱と、おびただしい汗。全身を駆け巡る苦痛に、体をよじる。
やがて吐き気が止まらなくなり、空っぽの腑から黄色い液が上がって、胸元を汚す。のたうちまわりながら、ゼルダはただ『薬』を求めた。
「お願い、お願いっ。薬、持ってきて……痛い、痛ーいっ」
ベッドの上で体を揺すり、壁に頭を打ちつけようとする。押さえようと手を伸ばすと、
「いやぁっ」
触れた途端、絶叫する。これがおさまるのは、ゼルダが限界まで疲れ果てて、力尽きるのを待つしかなかった。
ゼルダが帰ってきた日のことを、ルカは何度も思い返した。
自分に気づかず、目の前を素通りしていった彼女に呆然としながら、ルカはそのあとを追った。
背筋を伸ばして颯爽と歩いていた、かつての姿はどこにもない。
弱々しく前かがみになり、まるで氷の上を渡るような、おぼつかない足取りだった。
――この人は、本当にゼルダなのか。
ほとんど反射のように、ゼルダはかつて住んでいた家へ入っていく。
うつろな表情のまま、心はここにない。体の記憶だけが、足を運ばせているようだった。
玄関から台所へまっすぐ向かい、食卓の椅子に腰を下ろす。そして、何もない壁のほうを、ぼんやりと見ている。
ルカはしばらくその姿を見ていた。それから、意を決して近づく。
「ゼルダ」
今度は、気づいた。ゼルダがルカのほうを向く。だが、その目には、ルカが誰なのか映っていない。
やるせなさが、また込み上げる。
「……ゼルダ。俺だよ。わからないの」
ゼルダが目を凝らす。生気のない顔に、わずかな動きが戻る。
「……ルカ。お前なの……」
ルカは、黙ってうなずいた。
ゼルダはしげしげとルカの全身を眺め、息をつく。
「……大きくなったわね。声も、変わって……ごめん、わからなかった」
その声、その話し方に、かつての面影が、ほんの少しだけ滲んだ。
「叔父さま、みたい……」
ルカの背を、冷たいものが滑り落ちた。
ゼルダは、一度も、それを言ったことがなかった。
ルカがカイに似ているのは、誰もが知っている。ゼルダも知っていた。
知っていて、言わなかった。それが、彼女だった。
まだ、自分が誰だか掴めていないのか。それとも――。問いの続きは、形にならなかった。
ゼルダはもう、壁のほうへ向き直り、虚ろな顔に戻っている。
こんな彼女を、一人にはできなかった。だが、それがどれほど長く続くものになるか、このときのルカには、わからなかった。
ようやくゼルダの動きがおさまり、叫びが止む。
ルカは桶の水に布を浸し、固く絞る。吐瀉物で汚れた服を脱がせ、汗にまみれた体を拭いていく。
最初の夜は、ただ必死だった。
吐いたものを喉に詰まらせ、危うく窒息しかけたゼルダ。
ルカ自身もパニックに陥りながら、顔を横に向け、背を叩き、どうにかつかえを取り除いた。
その夜が明けるのを待って、村の医師を呼びに行った。
ゼルダを診た医師は、阿片が切れた禁断症状だろうと言った。
長いあいだ、相当な量を、常に与えられていたのだろう、と。
村には、症状を和らげる薬草もなければ、急場をしのぐための少量の阿片もない。
とにかく水を飲ませ、時間にまかせるよりほかにない、と。
そして――これだけ症状が激しいと、命を落とすこともありえる、と言われた。
ルカの心臓が、止まりそうになった。
――そうは、絶対にさせない。
そう決めても、手を貸してくれる者は、誰もいなかった。
ゼルダの世話をするのは、ルカひとりだった。服を替えるのも、体を拭くのも、すべて。
無我夢中だった最初を過ぎ、ある程度慣れてくると――今度は、罪悪感と気恥ずかしさで、いっぱいになった。
それでも、何も考えないようにして、手だけを動かした。
決して慣れることができなかったのは、ゼルダの体に刻まれた、無数の傷跡だった。
だいぶ古いものから、つい最近のものまで。さまざまな傷があった。
共通していたのは、どれも、外からは見えない場所にあったということだ。服に隠れるところに、皆、刻まれていた。
最初は、ただぞっとした。
次に、それを受けたときのゼルダの痛みと恐怖を思って、やるせなくなった。
そして、時がたち、そこにこめられた歪んだ意味を、なんとなく察するようになると――抑えようのない嫌悪が、込み上げてくるのだった。
誰がつけたのか、とは、まだ考えていなかった。
体を拭き終え、清潔な服を着せる。
今夜は吐いただけだったが、ときには、下のほうも汚れた。その始末を、ルカは厭わなかった。
ただ、回復したときのゼルダを思うと、胸が痛んだ。
あれほど誇り高い彼女が、それを知ったら、どれほど自分を恥じるだろう、と。
帰ってきてからの1週間、ルカは1日中、付きっきりで看た。
それを過ぎると、いちばんひどかった頃より、だいぶ落ち着いてきた。
昼のあいだは、ある程度、1人にしておけるようになった。
ただ、夜の発作は、相変わらず激しかった。
阿片を求め、痛みに悶えて暴れるゼルダを、押さえつける。
体力的な大変さは、若いルカにとって、なんでもなかった。
耐えがたかったのは、ゼルダが泣きながら床を這い、ルカに手をついて、『薬』を乞う姿だった。
また吐いてしまった彼女を着替えさせているとき、気づいた。
胸元に、見覚えのない、まだ新しい傷がある。
古い傷を引っ掻いたか、床に転がり、壁にぶつかったときにでも、できたのだろうか。
ルカは薬草の汁を絞り、塗って手当てをした。
さらに1週間がたつ頃には、発作もより和らぎ、ゼルダの精神も、しっかりしてきた。
ルカと話せるようになり、食事も、少しずつ取れるようになった。
ただ、ルカ以外の人間に会うことは嫌がり、家の外へは、出ようとしなかった。
そして、不意に触れてしまうと、いまだに叫び、パニックに陥って、おさまるまでに時間を要した。
そんなゼルダを、一族の大人たちは、腫れ物のように扱った。
たまに様子を尋ねてくる者はいても、手を貸すでもなく、訪ねてくるでもなかった。
夜はつきっきりでいなければならないぶん、ルカは昼のうちに出かけ、用事を片づける必要があった。
ある日の午後遅く、村に来た行商人から、桃を手に入れた。
新鮮で、よく香った。何より、ゼルダの好物だった。
早く届けてやりたくて、いつもより早い時間に、家へ戻った。
「ゼルダ?」
台所に、姿がない。今朝、出るときにはもう起きていたし、最近はこの時刻、たいてい食卓で本を開いている。
寝室へ向かうと、ドアが半開きになっていた。覗き込む。
ベッドの上で、ゼルダが膝をついていた。
小刀を手にし、それを胸元へとあてていく。
刃が、ゆっくりと皮膚を滑る。
薄い赤い線が浮かび、血がにじむ。
その瞬間、ゼルダの表情が――。
ルカは、息をのんだ。
潤んだ目。わずかに開いた唇。上気した頬。
それは、痛みに耐える顔ではなかった。
甘く、溶けるような、恍惚の表情だった。
ルカの体が、凍りつく。動けない。
刃が、もう一度、皮膚を裂く。
ゼルダの喉から、吐息が漏れた。
痛みと快楽の混じり合った、甘い声。
ルカの頭が、理解を拒んでいた。
なぜ、痛みの中に、あんな顔が浮かぶのか。
なぜ、自分を傷つけて、あんな声を漏らすのか。
無意識に、体が動いた。
肩がドアにあたり、半開きの戸が、開く。
その途端、ゼルダの視線が、ルカに向いた。
短い静寂のあと、彼女の顔が崩れた。
瞳が見開かれ、小刀が手から落ちる。
「見ないで……っ」
声が、喉を引き裂くように響いた。ゼルダは体を丸め、ベッドに崩れ落ち、両手で頭を抱える。
「見ないで……ルカ、見ないで……っ」
叫びは、やがて嗚咽に変わった。肩が、激しく震える。
――いつもと、違う。
不意に触れたときの、あの拒絶の悲鳴ではなかった。
もっと奥から、抑えようもなく溢れてくるもの。ゼルダが、自分の前で、崩れていく。
ルカは、ゆっくりと近づいた。震える肩に、そっと手を置く。
ゼルダは体をよじり、その手を振りほどこうとする。
「触らないで。汚い……わたしは、汚い……っ」
それでも、ルカは手を離さなかった。理解できないまま、ただ、彼女を抱き寄せる。
ゼルダの腕が、やがてルカの背に回り、すがりつく。
震えが、少しずつ、ルカの体に移ってくる。
いつ手から落としたのか、ルカは覚えていなかった。
床に、転がったままの桃が、ひとつ。
部屋に満ちた惨状のなかで、それだけが、甘く香っていた。
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