疵痕ーきずあとー   作:月パイン

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深淵

――痛い。ずっと、止まらない。いつから始まったのかも、わからない。

 

体じゅう、どこもかしこもが、きつく締めつけられている。

 

骨が砕け、筋肉が裂けてしまいそうだ。

 

痛い。お願い。何でも言うことをきくから、この痛みを止めてほしい。

 

 

 

「お願い……『薬』を、くすりを、ちょうだい……」

 

 

 

うわごとのように、繰り返している。ここはどこだろう。 

 

誰かが、そばにいる。どうか、頼むから。

 

 

 

「痛い……お願いします。どうか、ください……」

 

 

 

『いい子だ、ゼルダ。ちゃんと、ほしがるようになったな』

 

 

 

頬に触れる、皺の寄った指。――ああ、あの部屋だ。

 

窓のない、暗闇の、屋敷の奥のあの部屋。誰も、助けには来ない。

 

 

 

『おいで、ゼルダ』

 

 

 

父さんは、死んでしまった。母さんは、今日は迎えに来てくれない。

 

ほかの子の父さんは、みんな迎えに来ているのに、わたしだけ、ひとり。

 

 

 

『ほら、おいで、さくらんぼ』

 

 

 

ふいに、抱き上げられた。見上げると、いたずらっぽく笑う、黒い瞳。

 

 

 

『カイ叔父さま……! どうして、さくらんぼなの』

 

 

 

『お前の母さんみたいに、真っ赤な髪だからだ。お前のじいさんが、そう呼んでいた』

 

 

 

叔父の胸に、顔を寄せる。ほかの女の子たちが、みんな、こちらを見ている。

 

 

 

『いいか。俺がここにいるあいだは、お前の父さんのかわりだ』

 

 

 

父さんのことは、愛していた。

 

それでも、大好きなカイ叔父さまが、父さんのかわりをしてくれるのは、たまらなく嬉しかった。

 

カイ叔父さまは、誰よりも強くて、とても素敵だ。笑うカイを見ると、胸が、きゅっと締めつけられる。

 

 

 

鋭い痛みが、太ももを走る。

 

温かいものが、ふくらはぎへ、すねへと伝っていく。

 

荒い息が、すぐ近くで聞こえる。

 

 

 

『ゼルダ……とても、きれいだ。白い肌に、髪と血が、よく映える』

 

 

 

嫁いだばかりの頃は、優しく、大事にされた。

 

 

 

美しいドレス。身のまわりのすべてを世話する侍女たち。

 

豪奢な、自分だけの部屋。毎日の、美味しい食事。

 

年老いた夫を相手に、妻のつとめと引き換えに、それらが与えられた。

 

 

 

何より、これで一族のみなが救われた。

 

なら、思っていたほど悪くない。――そのはずだった。

 

 

 

しばらくして、屋敷の奥の、光の射さない部屋に、連れていかれるようになった。

 

 

 

そこで、あらゆる苦痛を与えられた。

 

最初は、歯を食いしばって耐えた。けれど、それこそが、夫の望むものだった。

 

 

 

『赤毛は痛みに敏感だというが……お前は、よく耐える。これまでで、いちばんの妻だ』

 

 

 

褒められ、与えられる苦痛は、増えていった。

 

やがて夫は、ゼルダの苦しむ顔を見るだけでは、満たされなくなっていった。

 

 

 

――痛い。体の奥から湧き上がる、鈍い、けれど強烈な痛み。

 

体が、焼けるように熱い。喉が、ひりつく。

 

水と、『薬』が、どうにもならないほど欲しい。

 

 

 

「……お願い、水を。どうか『薬』を、のませて……」

 

 

 

「ゼルダ。さあ、飲んで」

 

 

 

気がかりそうに、こちらを見つめる、黒い瞳がある。

 

 

 

――誰。……叔父さま、なの。

 

 

 

水を、飲ませてくれる。焼けた喉に、しみとおっていく。

 

けれど胃に達した途端、戻してしまう。

 

背を、やさしく叩かれる。温かい体温が、伝わる。

 

体を拭かれる。冷たい、濡れた布の感触。

 

 

 

黒い髪。真剣な顔で、着替えさせてくれている。――ルカ。

 

 

 

カイが、兵役から戻ってきたとき。ゼルダは、待ちかまえて迎えた。けれど、様子がおかしかった。

 

 

 

はじけるような笑顔を予想していたのに、らしくもなく沈んだ顔で、涙に濡れた、見知らぬ美しい女の人を腕に抱いていた。

 

 

 

続いて、母の、半狂乱の叫び。

 

何を考えているの。婚約者はどうするの。その女性ひとにも、決まった人がいるというのに。

 

そんな言葉が、切れ切れに届いた。

 

 

 

ほどなく、その女の人の兄だという剣士が来た。カイと斬り合い、二人とも、死んでしまった。

 

 

 

 

 

光が、射している。午後の光だ。

 

 

 

ルカは、出かけている。だいぶ、足がしっかりしてきた。久しぶりに、ベッドから立ち上がる。

 

 

 

ここは、自分が生まれ育った家。よく知っているはずなのに、どこか切り離されたように、釈然としない。

 

 

 

あの男は、もうこの世にいない。わかっている。

 

なのに、今この瞬間にも、またあの暗い部屋へ取り戻されるのではないか――そう、思えてならない。

 

 

 

夫は、あらゆる苦痛のなかでも、肌を切ることをいちばん好んだ。

 

白い肌を流れる赤い血が、彼を、この上なく昂らせた。

 

苦痛を紛らわすためにと、その頃から、『薬』とともに、さまざまな薬物を与えられるようになった。

 

 

 

『薬』は、痛みを覆い隠すと同時に、味わったことのない多幸感を運んできた。

 

やがて、痛みのなかに快感を見いだすようになり――みずから、痛みを求めるようになった。

 

 

 

体の奥から、熱が生じる。それが、広がっていく。

 

 

 

台所へ向かい、調理用の小刀を手に取る。冷えた刃の感触。寝室へ運ぶ。

 

自分が、何をしているのか、わからない。止められない。

 

 

 

胸元に、刃をあてる。

 

ゆっくりと、すべらせる。

 

かすかな痛みと、押し寄せる、圧倒的な快感。

 

吐息が、漏れる。

 

 

 

止めなければ。ルカが、もうすぐ帰ってくる。

 

それでも、やめられない。

 

もう一度、刃を沈める。

 

声が、漏れてしまう。

 

 

 

――そのとき、戸の動く音がした。 

 

 

 

顔を上げると、目を見開いて、固まっているルカがいた。

 

 

 

手から、小刀が落ちる。

 

 

 

――見られた。

 

 

 

強烈な動揺が、襲ってくる。

 

何か、叫んでいる。自分が何を言っているのか、わからない。

 

恥ずかしさに耐えられず、身を丸める。

 

汚い。わたしは、汚い。

 

見られてしまった。この、いちばん知られたくない、壊れた配線を。

 

 

 

ルカの手が、肩に置かれる。

 

振り払う。それでも、離れない。

 

 

 

その手の、温かさ。ふいに、香りがした。

 

 

 

桃だ。甘い、熟れた桃の香り。ど

 

こかに、転がっているのだろう。誰かが、持ってきたのだ。

 

むかし、好きだった果実。さくらんぼ、と呼ばれた、遠い昔の――。

 

 

 

ルカの手は、まだ、離れない。

 

わたしを切る手ではない。苦痛を与える手でもない。

 

ただ、置かれているだけの手。震える肩を、鎮めようとしている手。

 

 

 

――この子は、何も知らない。

 

 

 

あの部屋のことも、薬のことも、わたしの体に書きこまれたものも、何も。だから、こわくない。だから、見抜かれない。

 

 

 

体が、熱を持つ。その熱が、どこから来るのか、わからなかった。

 

あの男が植えつけた、痛みと快感の、壊れた配線からなのか。

 

それとも、この子の手の温かさに、ただ応えたいだけなのか。

 

すがりたいのか、求めているのか。区別が、つかない。

 

二つは溶けあって、ひとつの、名づけようのない渇きになっている。

 

 

 

わかっているのは、この手を、離したくない、ということだけ。

 

 

 

震えながら、ルカの背に腕をまわす。

 

胸に、顔を寄せる。どうしようもない感覚が、押し寄せる。

 

 

 

「ゼルダ……大丈夫だよ」

 

 

 

「ルカ……ルカ」

 

 

 

無我夢中で、従弟の名を呼ぶ。

 

止めたい。止めたいのに、奥から湧き上がってくるものを、どうしても抑えられない。

 

 

 

顔を上げる。黒い瞳が、すぐそこにある。

 

 

 

――叔父さま。ルカ。どちらの顔なのか、もう、わからなかった。

 

 

 

「……ルカ、お願い……」




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